美味しく喰らう

天才とは様々なものを「美味しく喰らう」存在

我が変化を見る 第四巻

目次

第一巻

第二巻

第三巻

第五巻

第六巻

第七巻

第八巻

第九巻

第十巻

第十一巻

第十二巻

第十三巻+第十四巻

 

第四巻

 

4-1(彼こそ虚無の王)

ある人は言った
死は醜い と。
死は呪われ、我々を幸から遠ざける と。
死を封じ込め、彼の呪いを打ち破れ と。
しかし、彼は言う。
死者を辱めるな
死者に対してこそ最大の尊敬を払え
死は哀れで
これほどまでに美しいのだから と。
彼は亡骸の上に立ち
人々を虚無の深淵へと誘う
そう、彼こそ虚無の王
総ての意味を闇へと突き落とす
しかし、虚無は、薄く、脆く、砕け散る
その先に溢れる光の
なんと暖かいことか!
嗚呼、麗しき
哀れ!人の魂よ!(11月15日)

 

4-2(偽善者、政治の限界)

私は偽善者であろうか?
私は幸せを求めている。
誰の幸せを求めるのか?
私は社会の幸せと答える。
しかしそれは本当であるか?
自問する。そして自答する。
私は自分の幸せを求め、
君の幸せを求め、
彼女の幸せを求めていると。
それはたしかに社会だ。
しかし私の社会であって
君の社会でも、彼女の社会でもない。
私は偽善者である。
私は知っている。
政治の統治の執政の限界を。
私は哲学を持ち出し初めて幸せを教える。
それでもなお私の本望は自分の幸せであり
未だ無我は遠い。
私は私の幸福をこれほど望んでいる。
そのあいだ私はいつまでも偽善者なのだ。(11月16日)

 

4-3(皆の幸せを望む男)

ある男があった。
彼は常に言う。
私は皆の幸せを望むのだ。
だから私の言うことを聞いてくれ と。
そして彼は彼の言葉に刃向かう人を
縄で縛り、木に括り、火を着けて
その顔に恍惚とした表情を浮かべる。
彼は彼の妻を愛し、
彼の子供を憎み、
いつまでも愚かな民を嘲笑う。
彼は民や子供こそ賢者であり、
彼の妻こそ天使であり、
彼自身が神であることを知らなかった。(11月16日)

 

4-4(私のさいわい/神は悪魔だ)

眼前に
瞬く星は
惑わせる
私のさいわい
私のわざわい
世界の平穏
人々の安寧
いつもの日々
鳴り止まない
私は何を望む
幸福か自由か
自分か社会か
正しさは何処か
神は悪魔だ!
私は叫ぶ。(11月16日)

 

4-5(愛憎)

私は自分を捨てようともがき
私を心の底から抱きしめる
嗚呼気持ち悪い
私は好きだが
大嫌いなのだ
アレが アレらが
嗚呼心地よい
心の底から愛憎を
私自身に打ちつけて
自らの怒りで
自らを焼き尽くそう
私は私を十字架に
縛らなくては!(11月16日)

 

4-6(社会、幸福)

あぁそうか、私は自分が人間であることが本当に嫌な訳だ。というか、同種がいて、社会を創らないといけない事が嫌なんだ。それでも社会を創らないといけないから、その中で「名誉ある地位を占めたいと思ふ」わけだ。そしてなにより、自分の目の前にいる人にはせめて笑って欲しいと思っているんだ。
自分を知れば知るほど、自分が嫌いになる。せめて我が無くなればマシだろうか?
幸せ。関係ないあの他人の幸せほど幸せなものはあるだろうか?
幸せ。自分の幸せを自分で知ることは出来るのだろうか?
出来るのだろう。むしろ他人の幸せは想像の産物だ。
幸福。何をもってわたしたちは幸福を感じ取るのだろうか?
私はヒトの社会から抜け出したいと望みながら自分の社会を愛している。
愛と幸福に関係はあるだろうか?
君には愛する人がいるか?
いるのであればその人と一緒にいる時に感じるソレは愛だろうか?幸福だろうか?
それともそのどちらもなのか?
その時のソレと他人の幸せを見た時に感じるアレが私にはどうにも同じに感じるのだ。
だから私はそれらに幸せという名前を与えた。
この判断は間違っていないだろうか?(11月16日)

 

4-7(2-2の後日談、不可視的な悪魔)

これは後日談らしいのだが
私の聞いた話によると
ヴァンズムは死んだそうだ
彼はソレを感染させ
伝染させ
世界に満たした
しかし!
この世界には
悪魔がいる
不可視的なあの悪魔に
彼は殺された
彼に彼にされたものもまた
ヴァナンフトへと還っていった
世界は再び小さくなった
ヴァナンフトはヴァナンフトと
とてもとても仲良くする
彼らは幸福だ
決して崩れない幸福
しかし私はその世界に
再びヴァンズムが顕れることを
切に願うのだ(11月19日)

 

4-8(愛と幸福、仄かな熱を帯びた斜光)

愛と幸福
これには深く根強く
そして醜美
関係があるだろう。
それはあの禍々しい感情と
あの仄かな熱を帯びた斜光とが
隔てられた壁の下で
その根を
まるで恋人同士が手を繋ぐのごとく
絡ませている言うことだ。
愛。
これを知らずに幸福を論じるのは
歴史を知らずに過去を学ぶようなもので
あまりにも馬鹿げている。
さぁ幸福のために
愛を考えよう。(11月19日)

 

4-9(禍々しい「感情」)

私たちは愛について考えるのであれば
あの禍々しい「感情」というものから
逃れることはできない。
「感情」は理想と現実のギャップであると
以前どこかで論じたが
それ以外にも特に恋愛においては要素または要因があるのではないか
しかし私は瞬間を変えることを望み
常に妄想と現実とを行き来し
理想を作り
それを壊されて
また作り
を繰り返して来たために
もはや感情をギャップとして
発生させている。
ならば私はむしろ
さいわいとともに訪れる
あの仄かな熱を帯びた斜光について
観測すべきだろうか?(11月19日)

 

4-10(怒り:感情の代弁者、対話)

私が最もよく知る「感情」は怒りで、
それは業火で
燃えていて
無味乾燥な
激しさを持つ
私はそれが本当に嫌いで、でも愛しているのだ。
彼が感情の代表者として私の前にたってくれる唯一の存在だから。
私は時に彼と対話する。
私はそこから感情を見る。
では、私は同じ手法を用いてあの斜光と対話してみようじゃないか!
仄かな熱が顕れた時、その光にものを置き影を見よう。
何が見えるのだろうか!(11月19日)

 

4-11(より激しい熱)

この喜び
燃えるもの
なんだと言うのか
仄かな熱が
より熱く
斜光はますます
輝きを増し
強く真っ直ぐ
心に射し込む
幸福も怒りも
共に熱を持つのか
この激しい熱だけを
私は知ることが出来るのか!(11月19日)

 

4-12(その〇を見よ/君のさいわいはどこにある)

闇夜に揺れる
人の命は
儚く刹那で愛おしい
これは神の造りたもうたものであるか?
そんなバカな
そうでははい
私たち自身が築いたのだ
さいわいなるはその暖かみ
心に燃える炎を見よ
君のあらゆる経験を薪として
燃えさかる感情を見よ
その熱を見よ
その光を見よ
その音を見よ
さぁ君のさいわいはどこにある
その香りを見よ
その味を見よ
さぁ君のさいわいはどこにある
何たる虚無か
この矛盾
さいわいも愛も美も
全て私の中にあり
私の外を映し出す
それはただのレンズに過ぎない
ピントのずれた眼球を
捨てることはできようか?(11月19日)

 

4-13(マイクロ波背景放射/愛は熱を与える)

では愛とさいわいについて
考えて見よう

君は彼女を知っているだろうか?
私はたぶん知っている
それは禍々しく
また
多種多様な想い
の結晶である。
故にそれは熱を持つ
今私たちはこれらを観測出来る
つまりこの熱は私たちからの距離によって熱さが変わる。
マイクロ波背景放射というものを知っているだろうか?
それは宇宙の熱である。
それも誕生の
私たちにも誕生の瞬間の
生への渇望が
マイクロ波のごとく私たち自身を満たしていはしないか?
そう熱はさいわいなのだ
私たちは自らに宿るその熱を知ったとき
さいわいを知る
愛は熱を与える
だからさいわいなのだ
ならばあの禍々しい感情たちは?
あれは私のさいわいにならない
しかしたしかに熱を持つ
太陽の熱はさいわいだ
しかし原爆の熱もまたさいわいだろうか(11月20日)

 

4-14(さいわい──愛、仄かな熱──、快楽──一瞬の恋──)

君は恋を諦める
いや、ただ一瞬の恋に生きる
さいわいと
快楽の
大きな違いは
時間の変化であろう
苦痛もまた
時の移ろいと共に
さいわいになる
憎悪さえ
さいわいなのだ
さいわいは苦痛を拒まない
だからこそ理解されないのだ
試しに他者のさいわいに心を通わせてみるといい
君の心は仄かな熱を帯びないか
冬の陽光に包まれるような
母の腕の中のまどろみのような
それこそさいわいである
そこには寒さや寂しさや苦痛もまた
隣接する
隣人を愛せ
それは
隣人のさいわいに心を通わせ
共にそれを守るということだ
宗教や哲学の教える小さな行動は
君の社会に力を与える
それは政治のように大きな社会を変える
華やかさはないが
道端に咲くタンポポのような
力強さを持つ
愛の中の苦痛
それすら包み込むこの仄かな熱と優しい陽光
これをさいわいと呼ばないのなら
それは何が違うのか!(11月20日)

 

4-15(愛、思考、「意味」)

愛する人を抱きしめ
また抱きしめられる時
そこに思考はあるだろうか?
思考も分析もそれは結局後付けで
基準は私が定めている
これは無意味か?
否意味はある
否「意味」はない
それは私たち自身の問題で
意味はあっても「意味」はない
ナマのものなど人に与えることは出来ない
それは君自身で勝ち取る他無いのだから(11月20日)

 

4-16(英語、私を研究しろ)

Can you understand me?
Please solve me
Why can I know that who I am?
Where is my happy?and your happy?
Come on My Mystery Area
My change
See My change
and
Research me
Dissect me
Cut me into small pieces
Cut my ideas into small pieces
And
Systematize my ideas and me
You should name for me(But I don't hope it yet)
Everything your work
Fight,good luck(11月20日)

 

4-17(社会の生贄、より大きな善のため、さいわい)

より大きな善のために
私たちは時に社会の生贄にならなくてはならない
しかしそれは
嘆くことだろうか?
いや違う
むしろ至上の喜びであろう。
いや、喜びにはなるまい
それはさいわいである
隣人愛を持つもののさいわいである
人類愛を持つもののさいわいである
しかし
自己しか愛さないもの
自己と他者の間に高く深い壁のあるもの
そういった人々には理解出来まい
未だいない自らの子を抱いてみよ
より大きな善のため
その子の命を守るため
自らの命が終わることを嘆く親がいるだろうか!
子への愛は
なにも先人に向けられないことはない
しかし彼らは既にそれを私たちに向けている
若い力
新たな息吹だ
より大きな善のため
私たちのさいわいのため
恐れることはあるだろうか?(11月20日)

 

4-18(さいわい、無我、孤独)

さいわいは
私を無我から遠ざける

無我におけることはなにもかも
人に伝えることが出来ない
しかし、その地は孤独じゃない
さいわいである。
さいわい。そう、さいわいなのだ。(11月20日)

 

4-19(さいわいの意味のズレ、仕事の先延ばし)

君はもう気づいているだろう
私の中で
さいわいの意味が
ズレつつあることに
しかし、まとめ、体系化するのは
君の仕事だ
愛とさいわい
旧い話も含め
君の知りたいことを
教えられるだけ教えよう(11月20日)

 

4-20(小さな構造、私は世界が愛おしい)

小さな幸福は
君自身で造り出し
そして勝ち取るものだ
君のさいわいを
私は愛おしく思う
私は世界が愛おしい
人々の
否、生きとし生けるものの
さいわいが
愛おしい。
愛。
これを愛だと言うなら
あぁその通りだろう。(11月20日)

 

4-21(人の精神に宿る神秘的な熱)

大いなる
そしてまた
深遠で
かつ
神秘的な
人の精神に宿る
この熱を
私たちはどのように感じているのだろうか?
自らの熱を私たちが
どのように肉体を用いて
知るのか
それと同様の方法は使えないものか?(11月20日)

 

4-22(異質さの再考)

さて仮に前述が真であるならば
さいわいは平熱となるべきであろう。
恋や愛や感情は熱を発している状態であるから
君の精神に異物が入り込んでいると
推察出来る。
はて?では異物とはなんだろうか?
異質さの考察は
不完全に終了している。
自己の定義と異質さを
再び見つめる必要があるだろう。(11月20日)

 

4-23(さいわいは血液/異質さ)

ひどく同じ地点を行き来しているように感じるのは
私だけだろうか?
さいわいは血液なのだ。
血を無くせば人ではなくなるように
さいわいが無ければ
人を越えられるだろうか?
否、それは堕ちているだろう。
異質さ。
自分とは別の構造はことごとく異質であろう
ならばさいわいは
どの構造にも普遍的にあるのだろうか?(11月20日)

 

4-24(さいわいは不変的?)

不変なものはあるだろうか?
数学的帰納法の範囲において
そんなものは存在しえない。
しかしさいわいが平熱であるならば
それは不変なものとして担保されてしかるべきではないか?
それとさいわいは基本数(つまり数でいえば1、単位系であれば㍍や秒やkgのような)ものだろうか?
全てはさいわいの倍数なのだろうか?(11月20日)

 

4-25(視点の消却、視点の絶対視、不動な視点)

やはり私はこの問題に対して
視点の消却という新たな方法をもって
解決のプロセスとすることを考えている。
しかしこの考えすら視点を絶対視しているのだ。
不動な視点
これは幸福ではあるが
それ自体を知ることが出来なくなるという点で
さいわいではない。
しかし変化は確実に私自身を変えているだろう。(11月20日)

 

4-26(我が変化総集編・一)

我が変化
過去もまた変わっている
そして今に投影されている
さいわい

異質さ
変化
私は未だ気づいていない
何か一貫した所を
君はその分析によって
見つけられないだろうか?
君は美しさを話した
私はその言葉を自覚したことがないが
この変化の中に不変な地はあるだろうか?
もしその不変がさいわい以外の名を付けることができるなら
何か新しいものが見えるかもしれない
私はそれを拒むだろう
名付けの儀式はステレオタイプの中にそれを落とし込むことに他ならないのだから
しかし名前を与え、これらを明確にすることで見えることもある
不変なものには名前を付けよう
そうすることでそこを抜け出し変化の源にすることが出来るかもしれないのだから(11月20日)

 

4-27(さいわいよ、「生」という名の生き物よ)

人為の黒く硬い土
その裂け目を喰らう
さいわいよ
凛と生きる
さいわいよ
私はあなたになれはしないか?
さいわいよ
私はあなたになれはしないか?
愛おしき我が君よ
嗚呼 生きる美しさ
さいわいに根づき
虚無を喰らい
仄かな熱を有する
「生」という名の生き物よ
そこにあるものに
名前を付けてよいものか!(11月20日)

 

4-28(さいわい、無我)

さいわいはもしや微熱か?
あぁやはり外と内との境目があやふやである
さいわいそのものの視点に立つことは
無我ということは出来ないだろうか?(11月20日)

 

4-29(ファウスト主義)

ファウスト主義
私はファウスト的衝動によって生きる
ファウスト主義者である。
しかし名前は人の構造を固定化してしまう
だから私は結果としてファウスト主義者では無くなるかもしれない。
それとも一つの一貫した私の思想的哲学的思考の不変を表すにすぎないのか?(11月20日)

 

4-30(さいわい、懺悔、ファウスト的衝動)

さいわいのためには
時に多くの苦痛さえ受け入れなくてはならない
労苦を惜しむことなく
さいわいを手にすることは出来ない
私の感じるあの憎悪は
さいわいを掴めなかったことへの
懺悔であり
贖罪なのだ
さいわいを与えられなかったことに対する
懺悔であり
虚しさなのだ
私はさいわいを得て
また
さいわいを与えたいのだ
ファウスト的衝動の末にある
神そのものになる欲望は
自己とそして他者への
さいわいを
この手に納め
守りたいからこそなのだ(11月20日)

 

4-31(学びの道を極めよう、メフィストフェレス)

あぁそうか
分かった。私は本当にファウストにならなくてはならないのだ。
そうか、そうか…
全てを得たいのであれば何かを極め絶望しなくてはならないのか!
分かった、ならば極めよう。
学びの道を私は極めよう。
なぞろうじゃないか!ファウストの道を!
グリンデルバルドの道を!
あらゆる悪的な見方をされようと私の望みがさいわいであることは変わらないのだから!
より大きな善のために!
全てのもののさいわいのために!
不可視的悪魔よ、我が周囲から消え去るが良い。
偉大なる悪魔よ、メフィストフェレス。我と賭けをしようじゃないか!
さぁ、極めよう。
ファウストそのものに化けようじゃないか!(11月20日)

 

4-32(究極点)

なぁ君
あらゆる物事の究極点に座したときに
絶対だったり不変だったりが見えると思うか?
私はもしかしたら見えてしまうんじゃないかと思って興奮半分不安半分と言ったところだ。
さて、究極点にたって見ないことには分からない。
立ちたいものだ、その地点に。(11月20日)

 

4-33(不都合な真実、空気、火を消すのは……)

私はまた
眼の前に不都合な真実
見出してしまったのかも
知れない
不都合なものの構造を
今までの自分の構造を
擦り合わせる(つまり消化)活動は
常に時間のかかるものだ。
それは解釈の変更を求め
自己の中の価値体系の再構築を行わなくては
ならないのだ。
小さな共産化だろうか?
しかし人は価値を見出すのだ。
超越の精神は核兵器を産み
その精神までもが制限されるものとなった。
不可視的悪魔によって!
それは特に日本においてこう呼ばれる
「空気」
と。
つまりは世論だ。
情動的で短絡的な無思考の中で
意思を持たず目立たないように
操られる。
そして操られていることにすら気づかない。
そして他者を制限しようと必死になって
他人が思い通りにならないことは当然にも関わらず
それに憤慨しているのだ。
火を消すのは簡単だ。目を瞑ればいい。
だがそれを知る人は少ない。(11月21日)

 

4-34(メフィスト的な美、グレートヒェン的な美)

拝啓
寒風吹きすさぶ中元気にお過ごしでしょうか?
この前君の話した美しさについて考えてみているが、メフィストフェレスこそ私にとっての美なのではないかと思う。
グレートヒェンではなく。
私はどうも特殊に対して美を見出すようだ。
いや、確かにグレートヒェンも美ではある。
それは愛おしさを含む美で、
他者に「向けられる」美だと思う。
私は「見出す」美を考えていたのだろうか?
むしろ私の考えた美とさいわいの共通項としての
「愛」
はグレートヒェン的な美に現れるのではないだろうか?
メフィストフェレス的な美に関しては君の方が詳しいように思う。(11月21日)

 

4-35(人の歴史は繰り返し?)

思考が記憶の海に溶けそうだ。
融かしすぎたのだろうか?
さて人の歴史は
超越と制限
成長と停滞
苦痛と快楽
の繰り返しではないか
そして世界は後者に向かう中で
私は前者に留まっているのか?
しかし全体としてみれば前者は一貫してはいないだろうか?
ならば私のこれは
次の前者のための種まきにならないものか?(11月21日)

 

4-36(私は彼にグレートヒェンを見た)

彼の優しさは
本当に愛に満ちている
私には無いものだ
いや、私は自分ではあると思っているのだが、
しかし間違いなく
私の愛や優しさは
彼よりも冷たいのだろう。
それは私が私の周りの誰か一人でも傷つけてしまうことが怖いからか?
私はどこにもいない1人を愛しすぎたからか?
どちらにせよ彼がその人に向ける愛よりも強い愛を私は持っていないし、決して持つことは出来ないだろう。
彼自身もそれを超える愛を知らないのだろう。
そして彼は気づいていないのだろう。
私は彼にグレートヒェンを見た。
無意識に1人をそれほど愛せるのか!
私の愛は
本当に冷たい
それは私自身を守るためか?
それともヤハウェと同じになりうるのか?
1人を愛する美しさと
全てを愛する美しさと
それを並べて弄ぶことは赦されるだろうか?(11月21日)

 

4-37(家族愛)

愛に満ち溢れたさいわい
それは家族の中に容易に見出せる。
家族愛が最も最小の隣人愛であり人類愛であり、社会である。
そこにこそさいわいを見出すことが出来るだろう。
親は子を愛し
子は親を敬う
そして
夫婦は愛し合い
兄弟は愛憎する
あぁそのような家族の形をさいわいと呼ばないのなら、君は何をさいわいというのか!
家族は元初のさいわいである。
そしてこれが欠けてもなお私たちは家族を作らなくては生き延びられない。
だから家族は、元初のさいわいは、常に形作られる。
さいわいは家族から始まり、社会に広がるのだ。
自己に落ちるさいわいの光はむしろ影だったのかもしれない。(11月21日)

 

4-38(元初のさいわいを彼女・世界に与える)

結局私の変化は堂々巡りの中に落ち込んだようだ
対象を様々に変えて行き着く先は
さいわいで
それは死とともに訪れる
収束点があるのかもしれない
それは現象の終了の事だ
私は自ら死ぬことが出来ないからこそ
君にそれを成し遂げてもらおうと思っていたのだが、君は最後のトドメを自分で刺せという
私は虚偽と欺瞞の中で
より大きな善のために
と叫んで自らの幸福を求めていた
私のその小さなさいわいは簡単で
愛を全て彼女に捧げることで
そしてそこにさいわいを見出し
元初のさいわいを
与えられたものではなく
与えるものとして
作ることなのだろう
そして私はそれをやはりあらゆる社会に波及させたいのだ
世界に元初のさいわいを与えるものとなりたかったのだ(11月21日)

 

4-39(恋)

恋、あれはいいものだ。
甘く溶けてその中に入り込みたいほどだ。
しかし一方で、
それは自分の気持ちを一方的に押し付けることになるわけでかえって自己嫌悪を生み出す。
自分の好きな人だからこそ、
一方的に押し付けられない。
それでも押し付けなければ、
その恋が叶うことはない。
ひたすら見つめるしかない。
そしてツラくなる。
でも、そう、見つめている間は
ものすごく幸せなのだ。
恋はガラス工芸だ。
繊細で脆く壊れやすい。
でも正しい使い方をすれば
それは人を幸せにするのだ。(11月24日)

 

4-40(オーストラリア)

世界最小の大陸〈オーストラリア〉より
世界は広い。
しかし私たちの動きはとても狭い。
この地と日の出る地とは電子を介して一瞬で繋がる。
つまらないことこの上ない。
しかし日常の継続が垣間見えることのなんと安心することか!
何処にでもコカ・コーラは売っているのだ。
何かこの地の特別を感じとることが出来るなら!
私のさいわいは満ちはしないか!
しかし違うのだ。
何かが違うのだ。
今までいたあの地とここは!
同じなのだ、でも違うのだ。
空気だろうか?
景色だろうか?
それらは確かに違うのだ!
にも関わらず
そこにあるものは
アレもコレもどこかで見たことがあるのだ!(11月27日)

 

4-41(世界の単一化)

結局その差は自然に由来しているのだ。
それすら打ち破る人の恒常性こそ世界を単一化する要因に他ならない。
私たちは一つの収束点に向かうだろう。
多くのバックグラウンドは全てが一つのバックグラウンドに
多くのカルチャーが一つのカルチャーとして
世界を覆う日が。
自然やら神に対して人類が打ち勝ち
私たちが神の玉座に座る時が来るのを
共にこの目で見ようじゃないか!(12月1日)

 

4-42(カメラ)

私は私のカメラで
全世界のあらゆるさいわいを
切り取ったなら
切り取りきったのなら
私は全世界に対して満足するだろう
その時こそ私は
「留まれ、お前はいかにも美しい」と
叫んでもよいだろう
私はさいわいを切り取りたかったのだ
私はさいわいを製造し、収集して、ラッピングしてみたいのだ。(12月1日)

 

4-43(意味は汚い/綺麗な美しさが欲しい)

美しいという言葉は汚い
そもそも言葉は汚い
文字は汚い
人が世界に与える意味なんて汚いことこの上ない
名前は汚い
光も色も音すら汚い
ならば静寂は不動は綺麗なのか
いや、汚い
綺麗なものもまた汚い
私たちが意味を与えるから
意味を与えるから私たちは罪深い
だが、罪深いからこそ出来ることもある
意味は私たちを成長させる
美しさは成長だ
しかし汚い
穢らわしい
私は綺麗な美しさが欲しい(12月3日)