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何が実在するのか、唯一実在すると明らかにできる「認識主体」に関する報告

アブストラク

前段の報告結果を前提に、何が実在するのかという、存在基盤の根拠となる問題に対して、「認識主体」という解答を提供します。また、この「認識主体」の性質に関する分析を報告します。

 

一      明らかにすることが出来る唯一の実在は「私」であるところの「認識主体」だけである。
一・0一   このような立場を我々は実在論的唯我論と呼ぶ。
一・0二   この立場だけが厳密に物事の存在基盤を提供することの出来る唯一の形而上学的立場である。
一・0二一  形而上学を軽視するどのような思想も物事の存在基盤を提供しない。
一・0二二  また多くの既存の形而上学的立場もその厳密さは怪しい。厳密さを維持しようと努めるならば、パルメニデスの提示した論理的に真である存在理解を無視することは許されない。
一・一    つまり、「私」であるところの「認識主体」は、実体性と現実性を有している。
一・二    これが実体性を有していることは、認識の根源的システムから導かれる。
一・二一   認識の根源的システムの最も基本な構造は、視るー視られる(認識するー認識される)という関係によって成り立つ。
一・二一一  視る側は主体、視られる側は客体である。
一・二一二  客体は認識される対象であるから<認識対象>と言える。
一・二一二一 <認識対象>は存在者であるとは限らない。
一・二一三  視るという行為は視点によって支えられる。
一・二一三一 行為にはその行為を実施する存在者を必要とする。
一・二一三二 この存在者こそが主体であり、認識する主体であるから「認識主体」と言える。
一・二一三三 「認識主体」は視点と一致する。
一・二二   「認識主体」は視界を成立させる。
一・二二一  視界では諸現象が生起する。
一・二二二  全ての諸現象は視界の内側でのみ成立する。
一・二二二一 なぜならば、視界の外で生起する現象について考えようとする時には、その現象は視界の外にあるという初期設定に反して、視界の中に写り込むことになるためである。
一・二二二二 視界の外にあることに関して、我々は考えることすら出来ない。
一・二二三  この事実を示す思考実験は、方法的懐疑と呼ばれるものである。
一・二二三一 方法的懐疑はデカルトによって提唱された。
一・二二三二 その結論は、「我思う、ゆえに我あり(コギトエルゴスム)」である。
一・二三   「認識主体」は常に在り続ける。
一・二三一  このことは方法的懐疑から帰納的に証明される。
一・二三一一 方法的懐疑から、視界に写り込むものは在り続けるとは言い難く、生成変化の影響を被ることが分かる。
一・二三一二 しかし、方法的懐疑を実行する間も、常に視界は成立することとなる。
一・二三一三 ここから、視点としての「認識主体」が常に在り続けることが分かる。
一・二四   「認識主体」は実体性があるとはっきり断言することの出来る唯一の存在者である。
一・三    これが現実性を有していることは、自らの視点が絶対化されることに由来する。
一・三一   視界は常に同じ視点によって開かれる。
一・三一一  視界に描像されるものが異なるとしても、どのような時もそれを支える視点は同じであることは、経験的に明らかである。
一・三一二  我々は自分のものではない他の視点から世界を覗き見ることは出来ない。
一・三一三  自分のものではない他の視点を想定し、そこから物事を覗くことを考えていくと、実際に成立していることは、あくまでもある種の空間的位置取りを変えることに留まり、認識システムの根幹としての自らの視点を手放すことでは無い。
一・三二   このような事態を、視点の絶対化と言う。
一・三二一  絶対化される視点は、常に自らの視点だけである。
一・三二一一 これは自らの視点が他の視点になることは絶対にできないということ意味する。
一・三二一二 仮に他の視点であるつもりであっても、目の前に見えているものを誰が見ているのかと言うことを問い詰めるならば、それは常に「私」であるとしか形容出来ない。
一・三二二  絶対化されていないどのような視点、すなわち他者も視点としての機能を備えていることは確定的な事項としては取り扱えない。
一・三二二一 そのように取り扱うためには、いくつかの類推と信仰を必要とする。
一・三二二二 必要な類推は、自らと同じように他者もまた視点と視界を有していると考えること、つまり自らと他者を同様な存在であると考える事である。このような類推の為には、もう少し議論を待つ必要がある。
一・三二二三 必要な信仰は、他者と私が同じ世界を見ていると考えること、すなわち外界実在の信仰である。このような信仰は、存在一般の基礎を確立するためには、不用意に持ち込まれてはならない。
一・三三   自らの視点が絶対化されることによって、それは代替不可能性を獲得する。
一・三三一  「認識主体」は「私」でしかありえない。
一・三三二  故に「認識主体」=「私」と言える。
一・三四   自らの視点は、内世界的な事象に影響する。
一・三四一  なぜならば、全ての内世界的な事象は、自らの視点によって成立する視界の内に収められるからである。
一・三四二  これこそが、「認識主体」が「私」であると目される最大の理由である。
一・三五    唯一実体性を持つと言える「認識主体」は「私」と等しく、それ故に現実性をも持つ。すなわち、「認識主体」のみが実在すると言える。
一・四    「認識主体」は内的構造を有するとは言えない。

一・四0一  「認識主体」はゼロ次元的な点として理解される。
一・四一   内的構造を有すると言うためには「認識主体」は「認識主体」を覗き見なくてはならない。
一・四一一  しかしながら、そのような事態が生じることは、極めて不可解なことが成立することを意味する。
一・四一二  つまり、「認識主体」によって「認識主体」が見られている時、見ている「認識主体」と見られている「認識主体」は異なるものとなる。
一・四一二一 この時、見ている「認識主体」は誰であるか、これは「私」である。
一・四一二二 この時、見られている「認識主体」は誰であるか、これは「私」ではない。また、そもそも「認識主体」としての要件すら満たさなくなるので、これは「認識主体」ですらない。
一・四一二三 この事態を、無理やり成立するものとして理解しようと試みるならば、それは次のように記述されなくてはならない。
一・四一二四 曰く、「「認識主体」が<認識主体>を覗き見る」
一・四一三  よって、「認識主体」は「認識主体」を覗き見ることが出来ず、内的構造を有するとは言えない。
一・四二   「認識主体」は視界の内側に写り込まない。
一・四二一  瞳が視野に属することは無いように。
一・四三   「認識主体」は外世界的である。
一・四三一  「認識主体」は視界の内側では成立しないのであるから、これは内世界的な事象では無い。
一・四三二  全ての内世界的な事象は視界の内側で生起するのだから、視界は内世界と等しい。
一・四三三  瞳が視野に属さないように、「認識主体」は視界の内側に写り込まないのであるから、「認識主体」は内世界に対して外部に位置づけられる。この様相は、外世界的と形容される。
一・四四   我々が「認識主体」についてはっきりと言えることは、それが実在するということと、認識という行為をしたということである。
一・四四一  これが実在することは前述した通りである。
一・四四二  認識(recognize)は(再)発見("re"cognize)では無い。
一・四四二一 recognizeという語にも表れているように、我々の素朴な認識行為の理解は、「既にある何か」の(再)発見として理解される。
一・四四二二 しかし、このような理解は、他者も視点を有すると考えた時と同じような信仰、すなわち外界実在信仰に基づいて、初めて言い及ぶことの出来るものである。
一・四四二三 このような信仰を排し、存在一般の基礎を確立しようと試みるならば、認識行為は、"無"を"有"にする能力のことであると言える。
一・四四二四 「認識主体」が何かを新しく認識した時には、その<認識対象>は、その瞬間に初めて忽然と視界に現れたのだとしか言えない。
一・四四二五 すなわち、「認識主体」は<認識対象>に先立つ。

 

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