美味しく喰らう

天才とは様々なものを「美味しく喰らう」存在

我が変化を見る 第一巻

序 今、過去を公開することについて


これは17年9月23日〜18年10月16日までの間に書き連ねられた、私自身の哲学・思想上の変遷を克明に記したものである。

これは私の10年代の思想的課題の克服の瞬間の描写であり、また現在私の持つ思想の萌芽であるとともに最も根深い問題を数多く抱えている。

私自身の思想の更なる飛躍は、この短編集の自己批判によってしか成し遂げられず、今後当ブログでは細かな自己批判を展開していこうと思う。その事業を始めるにあたり、読者の皆様には、批判対象である、この短編集にいつでもアクセスできるよう、今回、ここにその全文を記載したいと思う。

短編集は膨大な量[1]であり、また、細かな解説等々は今後進めていくので、本文全体を一気に読む必要は必ずしもない。しかしながら、興味のある方は多少目を通してもらえればとは思う。

21年4月 Rize Faustus

 

[1]試算によると、岩波文庫にして200ページ近くに及ぶ

 

目次

第二巻

第三巻

第四巻

第五巻

第六巻

第七巻

第八巻

第九巻

第十巻

第十一巻

第十二巻

第十三巻+第十四巻

 

第一巻


1-1(社会、サイクル、弱者、変化を恐れる)

我が変化を見る。
思想的哲学的思考の過程及び成果をどこかに記したくなったのでここにポツポツと書き連ねてみよう。
万世は無常で私たちの拠り所は儚い。
私たちは変わるしかないのに変わりたくないと願う。
世界の広さに慄いて自らの殻に閉じこもる。
本質的に人間は引き篭もりのニートだ。
それでも世界は無情だ。まるで社会がニートを無視するように世界は人を無視する。
世の流れはいよいよ早く、より多くを消費することを求める。
では問う。
消し、費やしたものは何処か?と。
生産し消費しそのサイクルをどんどん早めた先に何があるというのか!
しかしそのサイクルの速度も限界を迎えつつあるような気がする。
しかし結局このサイクルの中にいる限り何か特別な力が加わらなければ富の格差は拡大する。
この格差が限界まで拡大した時それはどうなると言うのか?
富を持つものが少ないとこのサイクルは崩壊する。それは富を持つものにとって不利益だ。
逆に皆同じ程度の富を持っていてもこのサイクルは崩壊する。
またその時はこのサイクルの本来の目的も果たされていない。
故に故人はこのサイクルを保つために既に多くの力を有していた国家やそれに類するものを利用した。
その目的はサイクルが壊れないように格差を広げることだと言うなら、この世界に弱者にとっての希望とはあるのだろうか!
あるものは革命を求めるのか?あるものは改革を求めるのか?
では聞こう。
なぜそれは成功していないのか?と。
弱者が本質を理解していないからか?啓蒙が足りないからか?
いや、そうではない。
誰もがこのサイクルの中にいたがっているのだ。
そしてこのサイクルの中にいながら他より優れていたいだけなのだ。努力なしで。それは不可能だ。
自然の摂理から外れる。あるものが持つことの出来るものはそのもの自身の成果に比例するからだ。
しかし確かにスタートラインが同一ではないという問題を否定できるわけでもない。
結局スタートラインを徹底的に同一にしようとすると今度はサイクルそのものが壊れる。
あぁなんと惨めか!だとすればそもそもこのサイクルそれ自体が問題を作り出しているというのに!
変化を恐れる人々がいかに変化を受容できるようになるのだろうか!その術を私は知らない。(9月23日)

 

1-2(変化、恐れ、異質)

私自身も変化を恐れているのかも知れない。
だが、それ以上に変化を思考することに楽しみを感じている。
そしていざ変化をした時には変化そのものを楽しんですらいるというのだ。
変わること。変化すること。怖いこと。でも必ず訪れるもの。
変化を楽しむことが出来るなら世の何が怖いのか?
生きることの何が怖いのか?
生きることは変わることだ。
だからそこには苦しみが恐怖が犇めく。そして絶望を見る。それは変化に対する恐怖なのだ。
変化を恐れるからこそ見えるのだ。
変化は世の定めだ。
だから受け入れろと釈迦は説く。
死後は不変だとそしてそれは生きている間の行いによって決まるとイエスは説く。
だが、私は聞く。
変化をなぜ恐れ、また、それに怯えなくてはならないのか?と。
変化を恐れることは確かにある。
だが、聞く。
人は常に変化を恐れるのか?と。
怖いことを克服できないことは多い。
だが、聞く。
それは永遠なのか?と。
答えは否否否。
変化を思考し、体感することで、私たちはそれを会得する。
変化を我がものとすることができた時それはもはや変化したものになる。
だが、この時、私たちは異質なものを取り込まなくてはならない。それが怖いのだ。
だが、聞く。
その異質はなぜ異質なのか?と。(9月24日)

 

1-3(真実、虚無、矮小)

果たして異質さとはどこから来るのか?
そもそも異なるものを受け入れることがなぜ怖いのだろうか?
異なるもの。違うもの。おおよそ自分ではないと思われるものでこの世は溢れている。
むしろ世界の中で自分は矮小だ。周りには異なるものしかない。
そしてそれは私たちを虚無の深淵に喰わんとする。
世界は矮小な自分自身を虚無に叩き落とすのでは無いだろうか?
だとすれば異なるものを受け入れることに対する恐怖は説明できるかもしれない。
だが、それは果たして本当に世界そのものなのだろうか?
虚無の深淵の入り口に立たせるのだろうか?(9月25日)

 

1-4(恋愛、哲学)

さて、ここまでほとんど一直線的に話してきたが、話を変えてはならないなんて決まりは存在しない。
ここまでの内容は今考えるには大変すぎるから、話を変えるのは自然な事だとは思わないだろうか?
最近私のみじかに起きたある出来事は自分自身を語りかけてくる。まぁこう言った考え方があまりにも構造主義的であることは言語というものを使用してこれを書いている以上仕方がない事のような気がする。
人を愛するということは、あまりにも人を活動的且つ誇大妄想的ロマンチストへと変化させる。(また変化という言葉が出てきた。しかし今は考えない。これは思考の放棄かもしれない。しかし今はもっと別の問題を考えたいのだ。)
愛する人とは話したくなるものだし、逢いたくてたまらなくなるものだ。
心がキュウと縮み、感情が自分自身を鷲掴む。
相手のことをすべて知っているわけでもない。
むしろ知らないことの方が多いし、それを知りたいとも思う。
好きという気持ちを言語化することは容易いことではないし、体感することで理解出来ることの方が多いだろう。
だから誰かを好きになったことのある人はそこにある哲学の入り口を見つけているはずなのだ。
だが、その入り口をくぐり抜けるよりは甘い甘い関係の中で精神の平穏を求めて漂う方がよほど簡単なのだ。(9月26日)

 

1-5(生きる)

なぜ私たちは生きることに対して苦しみを覚えるのだろうか?
そもそも生きることになんの価値があって意味があるというのだろうか?
それらに対する答えは古今東西様々なものがある。
だが、私は思うのだ。
そもそも生きる意味など無く、その価値は自分自身でしか創出されないと。
私たちが生きる理由はただ一つ、「死ねないから」を除いて何があるのだろうか?
死ねないから生きる。この単純にして簡潔な結論の上でしか人が生きるということを考えることは出来ないのだ。(9月26日)

 

1-6(感情)

さぁ、私は常に避け続けてきたある問題に取り組みたくなっている。
そう、「感情」である。
私の心に蠢くなにか見えない大きなもの。
時々垣間見えるこれはもう怖くて怖くて私は避け続けてきた。逃げ続けている。
感情を知り自らが変わることを恐れている。
感情を知ることが怖いのだ。
君に分かるだろうか?君は見たことがあるか?君自身の感情を!
感情が強くその姿を表す事例を私は二つほど知っている。もしかしたら三つだ。
嫉妬、怒り、そして悲しみ。
君自身に必ず芽生えたことがあるだろう?感じないか?あの怖さを。
感情自身が自らを飲み込もうとするあの感情自身の動きを!
さて私はここで大いに感情と私自身を分離させているが、それすら実はもはや間違いなのだ。
感情だって私の1部だというのだ!
もはや意味がわからない。
感情が見えているのに、それは私自身だというのだ!
嫉妬や怒りを私自身冷笑している。
にも関わらずに冷笑しているのは自分自身なのだ。
これはむしろ鏡に映る自分を暗闇の中で見ていると怖いと感じるのと何が違うのだろうか?
だとすれば感情は世界に映る自分自身なのではないか?
自己への恐怖なのではないか?(9月26日)

 

1-7(恐怖、異質)

だが、私は前に言ったではないか!
異質さこそ恐怖の根源だと!
では自己への恐怖とは自己に対する異質さを認めるからなのか?
さぁ、避けてきた異質さそのもののことを考えなくてはならない。
自己も他者も恐怖対象であり異質だと言うなら異質でないものとはなんなのか?
それは変化なのか?もはやわからない。
分かるだろうか?
考えれば突き詰めれば分かるだろう。
なぜか?なぜ私はいまそれを突き詰められないのだろうか?
それは恐怖という邪魔があるからだろうか?
否。私は考えたくないのだ。
異質さを知ることでもはや異質が異質でなくなることを恐れているのだ。
さぁ私たちの恐怖を解き明かす時が来たようだ。
世界の深淵を覗き込むなら避けては通れない所へ今歩を進めるのだ。(9月26日)

 

1-8(恐怖、理解)

恐怖。異質から来る恐怖にこそ私たちは最も怯える。
そしてその恐怖は語りかけてくる。私たちに。
理解してみろ。と。
その声を私たちは拒む。
聴きたくない。嫌だ嫌だ。と。
なぜ我々は声を拒むのか?
声を拒み得られるのは一瞬の平穏だ。
もし君が平穏を望むならここから先の真実は苦痛だろう。
ここから先、私は拒み続けてきた声を聴こうとする。
恐怖の激痛が私自身を襲うとしてもだ。
恐怖の真因がわかった時私たちから恐怖は取り除かれ、永遠の平穏を手に入れられるだろう。
だが、その道は細く長く険しく行き着くことができる保証はない。
注意書きばかり垂れて先を見ようとしない自分自身が馬鹿馬鹿しくなったので話をしよう。(9月26日)

 

1-9(感情、観察)

君は聞く。
私も聞く。
自らの感情が叫び訴えるものを。
嫉妬は私にある人を好きであることを教えてくれる。
でも同時にそれは醜い。気持ち悪い。
あまりにも一方的に他者に向けているからだと私は思っていた。
だけど、違う。
その醜く気持ち悪い感情こそ自らの本質であることをうすうす感じているのだ。
自分に対して都合が悪いことなのだ。自らの本質は。
私は理想を主軸にものを考えていたのだ。
私は自分の本質から目を背けていたのだ。
何ということだろうか!私は嘘つきだ。自分自身にすら嘘をついていたというのだ!(9月26日)

 

1-10(真実、理想)

私は嘘の中で真実を誤魔化しながら生きていたことを知ったと思っている。
だが、今はどうなのか?
感情に対する恐怖は若干取り除かれたような気がする。
これはそれが自分自身そのものであるということに気づいたからだろうか?
では翻って今までの理想が気持ち悪いものになっているだろうか?
否、なっていない。
つまり私は理想にも感情にも同質を見出したということになるだろうか?
では先ほど理想だと感じたそれはほんとに理想だったのだろうか?
それともまだ私はなにかを誤魔化してそれに対して嘘をついて真実に蓋をしているだろうか?
自分自身とは分かったと思った瞬間に消え去るものなのかもしれない。
私は私の中に無理やり異質さを作り出すことで私を感じていたのだろうか?
そうとは思えない。今はやはり書き綴ることが難しいのかも知れない。
自らの見つけたと思われる真実の断片は断片でしかないのにこれ程重いとは...(9月26日)

 

1-11(落差、嘘)

いや、結局私は今まで思っていたことが真実とかけ離れていて、真実だと思っていたことよりももっとずっと小さなものであったことに目を背けていたのだ。
私が私の1部として知覚した感情は私ではなく、ただの落差なのだ。理想と現実の。
私は自らに多くを課すと思っていたが、むしろ他者に多くを課していたのだ。
期待や服従してほしいという願望を持っていたのだ。
そしてそれが果たされないことに怒り狂っていただけなのだ。
だとすればそもそも私は私を見ることなど出来ていないのだ。
私が私であり、また、感情だと思っていたものは、実際感情だし、それはただただ世界が自分の思い通りにならないことに対する怒りでしか無く、無益で無意味なものだったのだ。
そして無益で無意味なものであるという現実から目を背け、誤魔化して、思い通りにならなくてムカつくなんて言えないが故に、めちゃくちゃを述べていたのだ。
まるでそれがなにか自分には分からないものの断片であるようなフリをしていたのだ。(9月26日)

 

1-12(本質的な私、差異)

さて、ここまでくると、私は私自身だと思っていたものがただの一つの現象であった事が判明する。
では本質的な私自身とは?
恐怖対象である異質さ以外の何かはどこにあるのか?
この二つの問題が生じるのだ。
この二つは同時に扱えるようで扱えない。
なぜなら人は変化を経験することによって異質さを受け入れているからである。
つまり前者はもはや異質である可能性すらあるのだ。
さて、私はまず前者の問題を扱いたい。
なぜなら、今まで考えてきたことによって自分自身が蒸殺しにされている感覚があるからだ。
あまりにも多くのものを身にまとい、動きづらいのだ。私は今服を脱ぎ丸裸になってみようと思う。(あくまでも比喩だ。)(9月26日)

 

1-13(矮小、自己)

私は考えれば考えるほど自らの存在が矮小であることに気付かされる。
一体自分はどれほどの理想や願望や固定観念に囚われているのだろうか?
それを考えさせられる。
さっきも言ったが、私自身は変化を積み重ねることで今の私を形成している。
だとすればこの気付かされる矮小さとは生まれた時の自分自身になってしまうのではないだろうか?
そしてそれは本当に本質的な私自身だと言えるのだろうか?(9月27日)

 

1-14(歴史、自己の本質)

世界はその歴史によって構築されているように自分自身もまた自分の歴史の上になされている。
自分の歴史とはなんだろうか?
自分の所属する社会に影響されていることを否定できるものはいないだろう。
しかし、同じ時代同じ国同じ場所に生きていても所属する社会が変わることもまた多々である。
結局個々人は決して同じ歴史を歩むことはできない。
そして私たちは私たちの歩んできた道に縛られるのだ。
私たちの未来は結局自分がどのような選択肢を選ぶかでしかない。
だが、その選択肢は間違いなく過去から、つまり自分自身の歴史から、来るものなのだ。
そして自分の歴史は社会的な束縛を受ける。だから人は社会に縛られているという人たちもいる。
だが、自己の本質が自己の歴史から来るのであり、社会に縛られるのであればそこには同一の人間しか現れない。
しかしそのような事はない。
つまり自己の歴史は人それぞれであり、その形成状況こそ自己の本質と言えるのではないだろうか?(9月27日)