美味しく喰らう

天才とは様々なものを「美味しく喰らう」存在

我が変化を見る 第十一巻

目次

第一巻

第二巻

第三巻

第四巻

第五巻

第六巻

第七巻

第八巻

第九巻

第十巻

第十二巻

第十三巻+第十四巻

 

第十一巻

 

11-1(責任の集約、人類という共同体)

私の中にあるひとつの理想的な観念として、責任の所在の一点集中というものが考えられる。責任は権利や義務とともに小グループ事に集約され、それが中グループ、大グループと規模をまして集約された上で人類というひとつの共同体を構築しようと考えている。
それはつまり擬似的に神を呼び起こす行為に他ならず、その点において、退歩的ですらある。
しかし思うに、多くの人は(私も含め)自分自身に対する責任すらまともに負えたものでは無い。ましてや全人類になど。
だから私は集団化という人類の行為に期待し、そこに責任の集約を考えるのだ。全て個人は確かに全人類を構成してはいるが、人類という共同体を構成する主体は各集団(現在では国家など)であって、個人が直接、人類という共同体を構築している訳では無いのだ。
集団化という過程をふむことで各人が負うべき責任はより小さくなる。家族、血族、地域社会、そういった段階的な集団を構成することで私たちは責任の所在までもを集約化しているのである。(3月19日)

 

11-2(人類という共同体を包括する集団の形成)

各個人は大抵の場合、全人類に対する責任というものを負うことが出来ない。
しかし個人主義が台頭し加速している現代社会において、各個人はより直接的に人類という共同体に属することとなる。
そこは未だに集団化がされていないために、各個人は全人類への責任を負わなくてはならないだろう。
しかし、それは限りなく不可能であり、実際、彼らは自らにおいてのみ責任を負う。
この現象が極まれば、当然、極めて危険な状態になることはお分かりいただけるだろう。
これは人類という種族を破壊することになりかねない危険な状態である。
そのプロセスを求める人は少なくないだろうからここでは省略せずに話を進めよう。
つまり、各個人が自分自身に対する責任だけを持つということは、彼らは際限なく、自らの幸福のために行動するということである。けれども、幸福の拡大は多くの場合、他者の幸福との間で軋轢を産むことになる。集団化されることで、これらの軋轢を人類は解消してきたが、個人主義社会においてはそれがなされない。結果として、「万人の万人に対する戦い」が引き起こされることとなる。
ホッブズの理論に従うことが出来るのならば、つまり、社会契約を結ぶことが出来るのならば、ここに置いて万人の消滅を避けることが出来る。しかし、それはつまり、集団化をするということに他ならない。
全人類、人類という共同体を包括する集団が必要となるのだ。
各個人は集団に対する責任を負うことしか出来ない。しかしながら現在、グローバリズムが進む中で、個人主義が台頭し、各個人は集団に属することなく全人類と対峙する必要に迫られている。
そこで私が考える解決策は、人類という共同体を包括する集団の形成である。
これが、今の社会に対する肯定的な回答である。(3月19日)

 

11-3(集団の有無と責任の所在の相関)

集団の有無と責任の所在の相関に関して、それはあるだろう。
その所作が有効な影響を及ぼす範囲でしか、その責任は考えられない。
だとすれば有効な影響を及ぼす範囲の規模がどれくらいか考えれば、それは集団の範囲と合致しうる。
人は決してひとつの集団に属しているわけではない。複数の集団に属し、それぞれにおいて仮面を使い分ける。そして、属するある集団での効果を期待して行動(action)を起こす。となれば、彼の行動が責任を伴うのはその効果を期待する集団の中ではないだろうか?(3月19日)

 

11-4(神と裏切られた王)

かつて王は神を産み、神が王を選んだ。
王は神と共にその力を民のために使うことを誓った。
2人は協力して民に幸福を与えた。
民は歌を歌い喜んだ。

我らが主、我らが巫子よ
2人の力は強大で
私たちに幸福を下さる
ある時2人は誓い合った
以来私たちの巫子は
天を仰ぎこれを敬い
我らに幸を与えてくださる
以来神の恩恵
人々余すとこなく
これを受け
我らが主は偉大なり

その治世は
穏やかに過ぎていった
誰もが食べるものに困ることも
住むことに困ることも
着るものに困ることもなく、
誰もが自分の居場所を見出し
自分の存在の意味を見出し
泣くことはなかった。
人は死ぬし、病気にもなる。
悲しいことが無いわけではなかったが
人々は不幸だとは思わなかった。
誰も。

しかし、その治世も流れ
王は突然裏切られた。
人々は堕落し、治安は乱れ、血の匂いが街に漂っていた。
神は力を拒むようになった。
何故か
神は幸福なる日々の中で突然こう言い放った。
「人々は堕落した。誰もが私に甘えている。」と。
王は人々を庇いこう言った。
「彼らはよく働いているし、君をよく敬っている。何が問題があるのだ?」と。
神は
「ならば私の力が無くなったとしても問題はない。契約はもう終わりだ。」
と王に告げ、消えた。
人々の幸福は崩れた。
街には血が滲む。
争いが起きて、食べ物はなくなり、王は次第に力を失っていった。
人々は王がもう一度神の力で私たちを導いてくれることを望んでいた。
王にその力はなかった。
乱世へとその国は流れていった。
争いが争いを引き起こし、些細なことで血が流れた。
ある日、王は夕陽を見ながら、城へと入ってくる民衆を見ていた。

彼らは王を殺した。(3月30日)

 

11-5(活動における形式美)

活動における形式美は非常に重要であるということはますます明らかになっているだろう。
例えばデモ活動はお祭りの形式美を取り入れることでよりその影響力を与えうる。
さて、影響力だ。
活動における形式美が重要なのはその活動が影響力を持つために必要となる。
形式美、それは言わばかっこよさとも言える。
かっこよさがいるのは何故か?
それが人を動かす心的象徴となるからこそであるというのが私の意見である。
故に、いかなる活動もそこに形式美を必要とするだろう。
形式美なき活動に活力は生まれず、それはただの自己満足へと霧散してしまうだろう。
人はかっこよさに惹かれるのだ。60年代の安保闘争はそこに反体制の形式美、またはソ連の形式美があったからこそ、それがあそこまでの活動として活力を生み出した原因だろう。
ひとつのかっこよさが今の日本の活動に必要なのだ。いや、それは日本だけに限らないだろうが。(4月15日)

 

11-6(成長の価値観はもう古い)

目標として、最近の私たちは常に成長を掲げている。
より良くなることを求めている。
より高みを目指している。
それがむしろ私たちにいき苦しさを与えている。
成長の価値観はもう古いものだ。
今の私たちに必要なのはもっと違う価値観で、成長を第一義に掲げる必要は全くない。
私たちは高みを目指して走らないといけないわけではないのだ。
(4月15日)

 

11-7「針」

鋭い針はおもむろに
柔肌を貫いて
その衝撃は
瞳に水晶を与える
白に映える暗赤色の半球
仄かに顔が浮かぶ
絆創膏を渡してくれた
ポニーテールの彼女は
今も永遠に眠る
(4月29日)

 

11-8「声」

耳は拒絶した
心は歓迎した
私の体は避けるように進み
私の心は強く惹かれる
闇を照らすようなその声は
私を見つけようとするようで
見つけたら最後
冷たい音になる
私は逃げる
その声から
愛されることが
愛することを求めるから
(4月29日)

 

11-9「本」

紙と紙との隙間
咲き乱れるのは
在りし日の恋と花
活字は踊り
挿絵が舞う
乱れた文字は
淡いあの日の
忘れた記憶を
僅かに思い出せるのは
笑顔と髪と街の音
文字が掘り起こす
酸っぱいなにかは
いつも胸の中で
芳香を放つ
記憶いっぱいに広がる
アルコホール
記憶に酔って
昨日を忘れた
(4月29日)

 

11-10(議論:価値の解体と再構築)

議論とは何なのか?
その答えは完結で、変化すること、と言える。
つまり、自己とは異なる構造と対峙することで、自分にはなかった視点、価値観等と触れることが議論なのだ。私たちはそれらに触れてしまったが最後、どうなろうと変化する。より良い変化にしていくために大切なのは、そもそも自分がこだわっていた価値観が本当に価値があるのか?なぜ、そこに価値があるのか、ということを考えることでできる。双方がそのように考え始めれば、互いにどこに価値を置くのかが明白になり、そのうち同じところに価値を置くようになることもあるだろう。
議論はまず価値観を解体させる。そして、議論者たちはその議論を深める中で価値を再構築する。そういった議論で絶対に必要なのは、どこに価値を見出しているのか、自分自身に問いただすことである。そして、相手がどこに価値を見出しているのかを知れば、私たちはそれらが本当に価値があるのか論じることができる。
議論においては勝ち負けなどは関係ないし、個別の事象がどうなるかは関係ない。個別の事象の未来は理論にでも頼れば良いわけで、議論では、その理論を作り出す方が求められる。
議論はその過程がすなわち結果であることを意識しなくてはならないだろう。(5月2日)

 

11-11(人はさいわいのために生きている)

人は生きる時、どこへ向かって生きているのだろうか?
私はこれについて昔も話しただろうか?
とにかく、生きる時、あなたはどういう状態であろうとするだろうか?
私が思うに君はより幸福な方向に向かおうとしてはいないだろうか?
幸福…?私は、これを幸福と呼ぶべきではないと思うし、呼びたくない。それは快楽と真逆ですらあるのだから。私は、これをさいわいと呼ぶことにしよう。
君はさいわいを求めるだろうか?
求めないならば、私は、間違えたのだろう。
しかし、たぶんあなたが求めるあらゆるものはあなた自身のさいわいへとあなたを導いている。
多くのさいわいは、苦痛すらもを包括する。
さいわいを求めることが生きることとも言えるのだろうか?
生きることはさいわいではない。いや、さいわいである。生きることそのものが既にさいわいなのだ!
ならば、人が生きているうちはとにかくさいわいへ向かっていくんだ!
さいわいから快楽や幸福へ転じて、あらゆる苦痛を排除しようとすれば、君は必ず死ななければならないのだろう。
さいわいは苦痛とともにありながら、苦痛を苦痛とは捉えないのだろう。
人はさいわいのために生きているのだ。(5月3日)

 

11-12「血」

紅い月
沸き立つ飢え!
溢れ出る凶暴性!
風が来る…!
嵐が来る…!
私の中に吹雪が来た!
月の銀を浴びる女神をその目で見れるなら!
この命をかなぐり捨てることをなぜ厭うだろうか!
人の命を蝕むことをなぜ躊躇おうか!
この狂暴な精神を否定する理由があるだろうか!
そう!女神を見ることが出来るなら!

溢れる血
腹に刺さる銀の矢
血の海が広がる
都会の砂漠に
失われた凶暴性が
私の血を吸い尽くす
血に映る銀
そこに私は女神を見たからもう良いのだ
救われたのだから
叶ったのだから
そう血が全てを咲かせたのだから!
(5月3日)

 

11-13「真実と認識」

唯物論はたしかに真実である。
形を持つものはたった三種類の素粒子でしかない。つまり、アップクォークダウンクォーク、そして、エレクトロン(電子)である。これらが原子を構成して、その原子がこの世界のあらゆるものを作っている。そう、認識も脳内の電子の動きなのだ。
しかし、認識は同時に価値の問題でもある。ある認識に価値を見出すかどうかの基準は決して真実であるかないかの判断ではない。
自身にとって無価値な認識論に意味は無い。そういう点においては、私は、唯物論ニヒリズムも認識論としては有効ではないように思う。
認識論としてはそれこそコギト・エルゴ・スムの方が価値のあるものになるだろう。
つまり、私たちは真実と認識を混同してはならないのであって、真実が認識として真実である訳では無いことには留意しなくてはならない。
認識的な真実として神は存在する。認識的な真実として精神は肉体に優越するのだ。
そして、認識的な真実として、我々は我々自身のもので、我々は我々の選択によって我々を作ってきたのだ。(5月3日)

 

11-14(最初の問への回帰)

古い自分の言葉が最も今の私に響くのだ。
1.生きることはなぜ苦しいのか?
2.人はなぜその上で生きるのか?
3.そして人はその上で何を望んでいるのか?
私は一番最初の問いに答えた記憶がない。
そう、異質の話だ。
生きることは変化することであり、人は変化を恐れているために、生きることが苦しいと感じる。
ではなぜ、変化を恐れるのか?
それは変化することが異質さを取り込むことだからである。
では異質さとはなんだろうか?
これに対する本質的な答えを私は出していない。
私は2番目の質問にこう答えた。
人は死ねないからこそ生きるのだ、と。
それは人が生死を自らの意思で選択する局面に立った時、そこに現れる選択肢が「生きる」か「死ぬ」か、ではなく、「死ねる」か「死ねない」か、だからである。
しかし、君は「なぜ死ねないのか」までを答えなくてはならないという。
だがよく考えてみてくれ。今生きてる人はそもそも生きていることに疑問を感じていないか、死ぬるか死ねないかの選択で死ねなかった人ばかりなのだ。
少なくとも生者にとって必要な生きる理由は「死ねないから」で十分ではないだろうか?それ以上に私たち生者には3番目の質問の答えの方がよほど大切なのだから。
3番目の質問の答えに関して私は口頭ではよく説明してきたが、この変化の中でそれを記していなかったことに、ついこないだ気づいた。
急いで書いたものの、幸福またはさいわいと言ったものそのものについての考察はあやふやで不十分な状態で終わっている。
私は異質さと幸福またはさいわいについて、再び哲学の峻しい流れに翻弄されることになるだろう。(5月4日)

 

11-15(反省、一本の細い線)

そして大切なのは私の様々な思想や意見が根本的にこれらの哲学に基づくものであるということだろう。私の中にある漠然とした哲学が、私の政治思想を作り、生き様を描くのだ。
しかし、私はやはり、生きる苦しみからは目を逸らしていたようにも思う。なぜ、生きるのか?という問の生まれる所を見定めなくては、どう生きるのか、という答えはかえって、なぜ、生きるのか?という問を生み出してしまうだろう。
私の中にある1本の細い線を、私自身を支える柱へと「変化」させなくては!(5月4日)

 

11-16(異質、恐怖)

はたして、生きる苦しみは変化すること、異質を取り込むことだけだろうか?
かつて感じた感情(理想と現実の落差)に対する恐怖は「異質」で説明出来るのだろうか?
恐怖が苦しみを生み出すのは、恐怖がそもそも「異質」であるからだと言えるのではないだろうか。
しかし、異質と触れることが恐怖だと言うのだ。
感情は時として生きることを素晴らしいもののように見せてもくれて、生きる希望を与えてもくれる。そして、同時に私たちから生きる希望を奪うのだ。
異質さだけでは片付かない生きる苦しみがありそうだ。(5月4日)

 

11-17(感情、恐怖、幻想)

異質と触れることは恐怖なのだろうが、感情の持っていた恐怖は幻想であった。しかし、それを幻想と見抜く以前には私はそれを異質なものとして感じていなかっただろうか?
であるならば、異質なものが尽く幻想であり、ある現象であるということを喝破できるのであれば、恐怖は取り除かれるのだろうか?
いや、感情の本質を見抜いたところで、私は未だに感情を恐れてはいるのだ。
さて、感情と異質さと恐怖について考えていく必要がありそうだ。(5月4日)

 

11-18(生きる苦しみ、生きる喜び)

感情が生きることを否定する時、感情はその姿を強く顕にする。私の知っているそういった感情はやはり次の三つだ。
嫉妬、怒り、そして悲しみである。
これらの感情は、理想と現実の差を現実が理想よりも劣る時に発露する。
これらの感情は、私たちの命を苦しみに変える典型だ。しかし、だからこそその先で報われた時に私たちは生きていてよかったと感じもする。
生きる苦しみと生きる喜びが不可分であるならば、私たちはやはり苦しいのではないだろうか?(5月4日)

 

11-19(生きる=変化、経験による集合)

生きることに苦しみを感じるのはそもそも生きるという行為自体に何らかの原因があるのだろうか?
生きるとはどういうことだろうか?
私はそれに対して
「変化すること」
と答えたい。
私たちは生きていれば、必ず知らないものと出会う。そして、それを知る時、私たちは変化する。
私たちの存在はそれが存在し続ける限り変化を強要される。
そして、「死」という最大の変化をもって私たちはその「生」を終える(と思われている)。
我々の生きるという行為は変化なのだ。
変化することに人は恐怖を感じると私は昔に述べた。だからそれは苦痛をもたらすのだと。
なぜ、人は変化することに恐怖するようになるのだろうか?
私たちはその成長の過程で自らの構造というものを構築する。その構造は思想や思考法など多岐にわたるもので、経験による集合だ。
そして、それを守ろうとする性質があるように思われる。
変化をする過程では新たな経験は、自己の構造を変えてしまう。
つまり、固守しようとするものが、変化によって犯されることが怖いのだ。
一種のホメオスタシスのようにも思われる。
つまり、構造の恒常性を務めるために変化していくわけだ。
そういう変化は認める。
しかし、構造自体の変化に対してはそれを頑なに拒む。
そうして、生きることが自己構造の変化を強制してくるようになると、人は生きることを苦しいものだと感じるのではないだろうか?(5月4日)

 

11-20(承認、苦しみ、自己構造のホメオスタシス)

しかし、承認されないことで生きることに苦しみを覚える例もあるように思う。
これははたして自己の構造を強制的に変化させる動きなのだろうか?
自己の構造は自己の経験に基づくものである。
過去の承認が経験として構造に組み込まれ、それが自己の構造の重要な要素であるならば、承認されないという事実は彼の構造に変化を強要していると考えられる。
つまり、自己構造のホメオスタシスが保たれないことが人生の苦しみの原因なのではないだろうか?(5月4日)

 

11-21(自己構造、選択、循環論法)

私は生きることが苦しいのは異質なものを取り込まなくてはならないからだ。と言っておきながら、自己構造のホメオスタシスの作用なのだ、と結論づけた。しかし、そもそも自己構造そのものを考える必要があるのではないだろうか?私たちは常に変化に晒されていて、また変化し続ける存在である。しかし、それでもなお、時として変化することを恐れる。その時に自己構造のホメオスタシスが働くというのならば、変化をむしろ求める状態などに置ける自己構造はどういう作用をしているのだろうか?
ただ、何かを求めるという行為が1つ選択であるならば、これは「人はどう生きるのか、何を望んで生きているのか?」という問題へと移行していくもののようにも見える。
もしかしたら、これは循環論法に陥るのかもしれない。
ではその鎖をどこで断ち切ることができるのかも考えてみれば良いのだろうが…。
自己や他己を構成する構造について考えてみよう。(5月4日)

 

11-22(無意味な世界を認識)

そもそも、生きることが苦しいと思うのは私たちが虚無に堕ちてしまっているからではないのか?
私たちがその命に疑問を持つ時に一体どのような価値を抱いているのか?
それは無価値に寄り添う価値ではないか?
私たちの存在が無意味、無価値ではないかと疑えば、なるほど生きることは苦しいものになるだろう。
使命感を与えてくれるという点ではカルト宗教はよく出来ている。
宗教は生きる意味を与えてくれる。
しかし、それすら後付けなのではないか?
私たちは先に無意味な世界を認識出来ているのではないか?
その上でいかに有意義な生を手に入れるかは個人個人が自らの幸せを知っている必要がある。
だが、そもそも、生きるメカニズム、苦しみの原因が分かり、人類または知的生命体全般に一般化される生の進行方向が提示できるのならば、私たちは自分自身の幸福をより確かに認識できるのではないだろうか?
それは社会の在り方もまたよく定義してくれるだろう。
世界において個人とは一体いかなる存在なのか?それを再現性をもって示すことができるのならば、私たちは新しい指標を手に入れられるのではないか?
そして、それは既存の何ものをも否定してはならないだろうし、これから立ち現れる何ものも否定しないものでなくてはならないように思う。
一体なぜ私はそれほどのものを見出そうとするのか?
それが私の使命なのかもしれないと思うからこそなのかも知れない。(5月6日)

 

11-23(幸福方程式①)

個人の定義、私の存在証明の問題をひとまず棚に上げ、幸福について考えてみよう。

1.「Hこそ幸福である。」と言えるか?
2.「幸福とはHである。」と言えるか?

1が言えるとき、2が言える。
2が言えるとき、1が言える。

では「A」と「B」の幸福について考える。
「A」と「B」の幸福は一致しないと仮定すると
「A」の幸福はH
「B」の幸福はH
は矛盾する。
よって、1,2は正しくない。
「A」と「B」の幸福は状態である。
「A」の幸福の状態を「α」
「B」の幸福の状態を「β」
と考える。
ここで、1,2を満たそうとするなら、
Hを関数f(x)と仮定し、「α」「β」を関数f(x)の解と仮定する。
すると、1,2は次のように言い換えられる。
1.「ある関数f(x)がある条件hを満たすことこそ幸福である。」
2.「幸福とはある感情f(x)がある条件hを満たすことである。」

ある関数f(x)とある条件hについて考えてみよう。

ここで、私はある関数f(x)を簡易モデルとして次のように考えた。

ある関数f(x)=精神的状態÷環境的制約

そして、ある条件hをf(x)≧0とした。

この関数は状態量としての記述としては問題ないが、実際の幸福の体感は時として過去との比較などによって左右される。
精神的状態の項にそういった要素を組み込むことは可能と思われる。
ちなみに精神的状態の項は∑(足し算)、環境的制約の項はΠ(かけ算)で表され、環境的制約は常に0以上になる。

ヘロイン漬けを例に取れば、

精神的状態に関して、正であるとき、
環境的制約が0に近くなるため、
関数f(x)は∞となり、極めて幸福である。

ただし、精神的状態が0の場合は、普通または軽度の幸福となる。
また、精神的状態が負の場合は、極端に不幸な状態となる。

次に失恋などにより、精神的状態が負になった際のことを考えてみる。

環境的制約を増大させることで、数値を小さくすることが出来るため、不幸感を軽減することが出来ることがモデルから推察できる。

これは現実に即していると思われる。

よって目下課題となるのは精神的状態の項がどのような機能を持つかという点であろう。
しかし、簡易モデルでも大まかになら問題なく話はできるとも思われる。(5月10日)

 

11-24(幸福方程式②)

幸福は状態である。


幸福状態は次のように定義される。

                        精神的状態
幸福状態= ─────────
                        環境的制約

右辺の値が0以上の時人は幸福と感じる。

精神的状態はそれを構成する要素(a,b,c,d,e・・・)の足し合わせ
(精神的状態=a+b+c+d+e+・・・)

環境的制約はそれを構成する要素(A,B,C,D,E・・・)のかけあわせ
(環境的制約=A×B×C×D×E×・・・)
環境的制約を構成する諸要素は0以上で定義される。(5月11日)