美味しく喰らう

天才とは様々なものを「美味しく喰らう」存在

我が変化を見る 第十二巻

目次

第一巻

第二巻

第三巻

第四巻

第五巻

第六巻

第七巻

第八巻

第九巻

第十巻

第十一巻

第十三巻+第十四巻

 

第十二巻

 

12-1(その命の行き着く先へ)

その命の行き着く先へ

夕焼けの中を駆ける微熱を孕んだ風は私に問う
なぜ私たちは死ねないのかと
今あの光が閉じるように
命を綴じることは出来ないのだろうか
刹那的な一瞬は快も苦痛も平等に
そんな夢が叶うなら
私の命は散らなくていい
幸福が欲しい
幸福はない
美しさすらありはしない
嘘と偽りで塗り固められた
真っ白なこの世界に
終焉の音を奏でられるかな
私の命の散る音がそんな音にならないかな

私が求めていた虹色の世界は
真っ黒な空に弾けて散った
私の命が弾ける時に
私は虹色に輝けるのかな
あなたの音が始まりを奏でるなら
私の音は終わりを奏でられるように
君が音を止めるなら
私はノイズを激しいほどに
ビートに合わせて身体を揺らせば
ロックンロール
命の散る音は遥か彼方に

斜陽が閉じて
影すら消えた闇の中
私の輝く夜だから
あなたの紅い紅い鮮血と共に
この世界に奏でよう
コーダの一楽章
フィーネへ至るこの命の音を

私の命が鳴り止んで
広がる静寂の中で
あなたは一体何を聞くのでしょうか(5月16日)

 

12-2(視点の統合)

幸福について論じる以前に視点の統合を計らなくてはならない。私たちの立つことの出来る瀬は限られている。しかし、その瀬こそが大海原へと漕ぎ出すための唯一の瀬でもある。(6月6日)

 

12-3(言語:ひとつの秩序的な形態)

言語はひとつの秩序的な形態である。
故に用いやすく、また、重宝することになる。
結果、私たちは言語から抜け出すことが出来なくなる。
名前を付ける儀式は、思考を固定化する働きを持つ。しかし、一つの思考を体系的に扱う上では便利なことこの上ない。(6月18日)

 

12-4(言語崩壊思考壊滅)

言語を崩壊させた上で私たちは思考することが出来るだろうか?
「なぜ」「どうして」「why」「how」。これらが封じ込まれるだけで私たちの思考は壊滅的な被害を受けるに違いない。
言語が崩壊するならば、私たちは「?」ひとつ頭に思い浮かべることは出来ないのだ。どうしてその状況で思考が出来るだろうか?(6月18日)

 

12-5(生物・非生物の問題)

生命の問題ははたして科学的なものであろうか?それとも哲学の取り扱うべきそれであろうか?
どちらであったとしても、私はかつてこの問題に対して興味を抱いたことは無かった。
生物と非生物の間に壁を設けることは望ましいだろうか?(6月19日)

 

12-6(矛盾を内包する構造)

多くの問題が私の頭の中を飛び交う。
唯我論と唯物論とを同時に信奉することはできる。
矛盾するものを内包するこの構造はどのようなものだろうか?
人間の中にはこの機構が特に念入りに構築されていて、また非常に高い有機性をもって機能してるように見える。(6月19日)

 

12-7(真実の価値)

本当の意味で真実だと言えるのは、唯、唯我論のみである。
しかし、人間特有(私特有)の価値付与型の創造性を取り入れるなら、真実は唯物論へと変貌する。
そのような正しさや真実にどれほどの価値があるのか?
とてつもない価値を孕みながら、そこにはまったく価値がない。(6月19日)

 

12-8(真実は私たちに孤独を強要する)

真実は常に一片の価値も見出されない。
真実は私たちに都合が悪いものであるから。
真実は私たちに孤独を強要する。無価値で無意味なことを強要する。
しかし、それは現実ではない。
この間隙に私たちの希望が石ころのように転がっている。
その希望を宝石として輝かせるのは、私たち自身の手に委ねられている。(6月19日)

 

12-9(幻想、希望、真実)

真実の上で幻想を希望へと変容させることが出来る人は
幻想を真実と取り違え、幻想にあやつられる人よりもさいわいである。(6月19日)

 

12-10(神、真実、希望)

神は存在するし、それが真実であるか否かはどうでもいいことだ。
しかしながら、それは真実を知っていればこそである。
真実は孤独で空しいものだ。だからこそ私たちは希望を見つけられる。(6月19日)

 

12-11(政治は哲学を避けられない)

政治に関して考えていくと、
哲学と関わらないという選択は
まったく残されていない。
政治主体と政治客体との関係性と
そこで行われるべき諸行為の原則は
まさしく哲学的思考の果てにある。
そしてこの原則を見極めないことには
あらゆる政治批評はただの文句にしかならない。
故に私たちが政治について語り合おうというのならば、哲学を避けることは出来ない。
むしろ哲学を避けようとするならば、
諸倫理の観念が確定的で
政治的諸行為が儀式化されてなくてはならない。
しかしながら、ニヒリズムの時代以降に哲学を避けるような政治は望むべくもない。(6月20日)

 

12-12(哲人政治国民主権)

神を政治に関わらせないのなら、
哲人政治でなくてはならないのは必然である。
つまり、主権者はだれもが自己と社会の哲学を確立しなくてはならない。
国民主権とはすなわち、全て国民に哲人であることを強要するがために、欠陥政体であると言わなくてはならない。
ただし、民の意見を聞かなくても良い、民の存在を無下にして良い、などということを主張しているわけではない。(6月20日)

 

12-13(価値への執着)

生は確かに苦痛であるが、それ以上に私たちは生を希求する。それこそが生に対する執着に他ならず、生を苦痛にしていると言うならば、確かにそれはその通りかもしれない。
しかし、それでも私たちは生に、また、価値を見出した様々なものに、執着する。それが人間の業(カルマ)であり、原罪であると言うなら、全くその通りだろう。
私たちは執着する。そして、苦痛する。
この業(カルマ)、原罪をそのまま受け入れることは出来ないだろうか?私たちは執着するのだと、それを肯定できないだろうか?
私たちは執着を苦の原因として、否定することを容易になしうる。
苦しみの原因を、それでも、避けられないという時に、それをそのまま受け入れて、より良く生きる道を模索することはできないだろうか?

苦痛の解消と執着する性質の矛盾する2つを内在させる私たちにそのどちらかを選ぶなんてことが出来るだろうか?(7月16日)

 

12-14(執着の肯定、「私たち」の範囲)

人は執着する性質を有す。
執着は苦痛の原因である。
苦痛は避けるべきであると私たちは執着する。
あらゆる執着から解放されるのならば私たちはよく生きられるだろうか?
よく生きるということに執着する。
人が人であるならば執着は不可避である。
それはすなわち苦痛を避けることが出来ないということである。
執着を肯定し、苦痛を受け入れること。
つまり、苦痛を避けることに執着することをやめること。
私たちが私たち自身で価値があると認めたものを決して壊さず、
同時にそれらに全く価値がないことを知りながら、
その価値が生み出す苦痛を責任を持って受け止める。
私たちが私たち自身に対して責任を持つこと。
その業(カルマ)、原罪をも含めて。
私たちは私たちとその周辺にまで責任を持たなくてはならないのだろうか?
私たちはどこからどこまでが「私たち」なのだろうか?
(7月16日)

 

12-15(苦痛を乗り越える)

全ての執着が私たちにとっての苦痛ではない。
私たちはまず苦痛の原因を知らなくてはならない。
苦痛は常に私たちの性質と結びつく。
私たちはなにかに価値を与えるという性質を持つ。
それは、なにかに執着する心を生む。
私たちは執着するものと現実との間の乖離に於いて苦痛を生じる。
その苦痛を避けるために、そもそも私たちが自分たちの基本的な性質を放棄する必要はない。
私たちはその苦痛を乗り越えることができるからだ。
私たちは常に苦痛を乗り越えることで成長する。
苦痛を乗り越えるとはどういうことだろうか?
それは苦痛に慣れることではない。
それは苦痛の原因と向き合うことである。
そして、執着する心を見つめることである。
そして、与えた価値を書き換えることに他ならない。
または、与えた価値を現実に体現させることに他ならない。
多くの場合、私たちの苦痛は、私たちが執着するものを獲得することで解消される。それは、価値を現実に体現させることにほかならない。
しかし、時に私たちは、決して消えない苦痛に悩まされる。それは、私たちが与えた価値が現実と全く噛み合わないが故に、執着するものが決して満たされないが故である。だから、私たちは、私たち自身の執着する心と、執着するものとに、真摯に向き合い、価値を書き換えなくてはならないのだ。(7月17日)

 

12-16(行動に現れる答え)

例えば、私たちが生きることに苦痛を感じるとするならば、私たちはどうすれば良いだろうか?
まず、なぜ生きることが苦痛なのかを見つめなくてはならない。自分の心は常に答えを知っている。
それは何に対する執着なのだろうか?
例えばある人の執着が生きることそれ自体に対する執着だったとしよう。
その人は生きることに価値を置く。ただ、それは現実で求められるよりもなお重い価値であった。彼がそう知った時、彼はどうして生きることの苦痛を乗り越え、成長することが出来ないと言えるだろうか?
彼の行動に現れる答えは、生き続けることだろう。(7月17日)

 

12-17(価値創造性)

私たちの存在は価値を創造してしまう働きを有する。その結果作られる価値で世界が規定される。
しかしながら、私たちの価値創造性は、同時に矛盾する価値を、世界に付与することを免れないため、世界は厳密には規定されえない。
それは必然的に私たちの不完全を主張し、私たちの存在を否定することになる。
私たちの存在が否定されることで、世界の存在もまた否定されることとなり、これは、私たちの観測結果と矛盾する。
この矛盾は、そもそも私たちの存在自体によって、現れるものであり、私たちの存在は罪であるということになる。
そして、この矛盾は解消されえないため、罪もまた解消されず、その罰として私たちの「生」は苦しめられることなる。(7月23日)

 

12-18(失われた哲学サロンの復興)

失われた哲学サロンの復興
それは資本主義に対する1つの明確な叛旗である。
それは国民国家に対する1つの確固とした否定だ。
これは、「今」に対する考えうる最大の反逆である。
私たちは「生きること」「生き抜くこと」でいっぱいいっぱいであり、ロマンを求められない。
現実の要求する必要性は人類を人類足らしめる冗長性を奪って久しい。
だから、私はここに求めるのだ。そう、私たちの持つロマンを大真面目に議論できる場を再興することを。
これはまずモラトリアムの中にいる学生から始められなくてはならない。
そして、それは社会に波及されるべきだ。
机上のロマンを机上で闘わせるだけのゆとりを私たちは必要としている。(7月26日)

 

12-19(ロマン、理想社会、議論)

現実は私たちに重くのしかかる。
それは私たちを屈服させるだけの力を有しているように見えるだろう。
だが、あまりにも多くの理想を求める者たち、理想に殉じようと奮闘した先人達が、最低でもその精神においては、現実を跳ね返すことが出来ていたではないか。
その力の源泉はどこか?
それは間違いなく、ロマン、理想に他ならない。
今、私たちに枯渇しているのは正しくこれだ。
私たちは現実と、その求める必要に過度に振り回されてはいないか?
現実と必要を軽視するわけではないが、それが全てではない。むしろ、必要ないことにすら、全力を注げる余力があることも示されなくてはならない。
ならば、今、私たちに求められるのは、理想社会を提示することに他ならない。そして、各々の求める理想社会を罵詈雑言で貶し合いながら、切磋琢磨し、現実をも喰い破ることに他ならない。
そのためには議論と、それをする場が必要である。(7月26日)

 

12-20(空想的理想主義を復古させよう)

そう、今の我々には、政治的リアリズムが要求する不安定な勢力均衡とそれに伴う複雑化した外交政策なんかより、空想的社会主義が提供する幻想的なユートピアが必要なのだ。
だが、すでに世界はユートピア思想の過激化が、いかにユートピアから程遠いかを心得てしまっている。これに関して、理想を実現せんと努めた革命的な先人たちをなじるべきではないだろう。
しかしながら、それでも、私たちにとって不可欠な理想が、取り上げられた要因に他ならない。
故に私たちは、ユートピアユートピアであることをもう一度示す必要がある。
実現可能性や、実現手法などを度外視してでも、ユートピア思想を再興しなければ、リアリズムの中で人類は溺れ死ぬだろう。
ユートピア思想が百出し、統合された段階であれば、なるほど、その実現方法というものを考えたくもなる。
又は、ユートピア思想に対する信仰心がかくも篤ければ、なるほど、それは必ず実現されなくてはならない。
だが、私はあえて言おう。提出されるユートピア思想は「科学的」と謳ったところで、信仰を超えることはありえないと。
ユートピア思想が提示する理想世界は、まさに桃源郷に他ならないし、神の手による千年王国とさほど変わらないと。
だが、人類の文化的発展に際して、宗教が果たしてきた役割のように、ユートピア思想と、それに対する信仰は決して失われてはならないのだ。
ユートピア思想は、その実現を求めるあまり、最終的に「科学的」であろうとした。そして、硬直化した「科学的」な理想は、過激さから人心を掌握出来ず、前衛党の崩壊により、ユートピア思想全体を現実の元に晒した。
宗教は「神が死んだ」と言われながらも、未だに健在だ。(日本においてはオウム真理教の存在がソビエトと似た働きをしたことには言及しなければならない。)それは、つまり、宗教の示すストーリーを受け入れることからに他ならない。
確かに、キリスト教においてはそのストーリーは何度も崩壊しそうになってきた。すなわち「科学」の手によって。
しかし、教会は「科学」と同じ立場に立たないことでその崩壊を回避しえた。
私は信じる。宗教もまた1つのユートピア思想であること。そして、それは「科学的」でないが故に存続し、そのユートピアは信仰によって達成されるからこそ崩壊しない。
同じようなユートピアは不要である。
私たちに必要なのは社会があるべき姿をえがくユートピア思想に他ならない。
しかしながら、その実現と、実現手法に関する考察は不毛である。
何故か?
端的に言って、それは善悪の問題だからだ。
理想社会は全て「善」「善意」「正義」などによって規定される。これらによって規定されないのであれば、それは理想社会とは言い難い。
しかし、だからこそ、その実現の問題にはストップがかかる。私たちは、一国内、否、クラス内においてすら、正義を統一出来ないのだ。理想社会を実現させる話は不毛に尽きる。
それはすなわち、いかに私たちの信じる正義を不信心な輩に押しつけようか、という話に他ならない。
それは理想社会という「思想」を、歴史上の一点に示させるに足る行為である。
すなわち理想社会という「思想」を生きたものとして残そうとするならば、それは実現させることを避けるべきなのだ。これは一種のジレンマである。
しかしながら、潰えた思想は得てして、歴史家によって分析されて終わるものだ。
人類にとっては、様々な理想社会が可能性として見えるようになっていなくてはならない。
それは思想を生かすことに他ならない。
そして、生きた思想は科学的社会主義ではなく、空想的社会主義なのだ。
故に、私はここで宣言したい。

空想的理想主義を復古させよう!

と。
(7月27日)

 

12-21(理想社会と善悪基準)

理想社会は究極的には善悪によって測られる。
故に空想的理想主義を掲げる全ての思想家は、自らの信じる善悪基準とその適用について言及するがある。
それはすなわち、思想がいかに理想社会を招来するかという話である。
そして、ここにおいて、全人類は議論することになる。
何が前であるか?何が悪であるか?
全世界は知らんと欲す。
理想主義を掲げる全ての人々は次のことが求められる。
①空想的であること。実現性を一時的にでも放棄すること。
②善悪基準とその適用が理想的であること。
③他思想との間では善悪について議論されること。
しかしながら、各人が前と思うところが曲げられなくてはならない訳では無い。自らの信じるところに拘泥することを否定される訳では無い。
しかし、議論によって様々な善悪基準とその適用が示されるならば、それは全人類及び全世界にとって有益であることは疑う余地がない。
全ての思想家は自らが人類の選択肢の1つを担っていることを軽視するべきではないだろう。(7月27日)

 

12-22(揺るがぬ前提、簡単な定理、難解な証明)

いくつかの前提がある。
それらを揺るぐことのない前提であることを示しうる。
それらの前提からいくつかの真理が証明できる。
さらにそこから定理を導きうる。
前提、真理、定理、それ自体は簡単なものだ。
それらを示し、導き、証明する様は難解である。(7月30日)

 

12-23(呆然)

今の私は考えてすらいない。呆然としているのだ。
何か引っかかるモノがある。
それが何なのか、今ひとつ分からない。
考えてみるしかないのだが、集中が足りない。(7月31日)

 

12-24(甘酸っぱい恋と晴耕雨読のようなゆったりとした生活)

甘酸っぱい恋と晴耕雨読のようなゆったりとした生活、そして近代を夢見る。変化の際にいるという感覚は現実だろうか?錯覚だろうか?思い描く図の中になぜ心を苦しめられるのか?
山の近くのあの田園風景が私の中で何かを訴えかける。
今の私の状況をこのような抽象的な言葉で述べるのも不毛である。最近の思考を整理し、また変革の糧としよう。(8月31日)

 

12-25(懐疑)

我を形而上学的に見ればその実在は怪しいのではないかという問題。(9月1日)

 

12-26(天才、破壊と絶望、希望と創造)

思いついたことが多いのでつらつらと書き連ねて見よう。つまり、最近の清涼な気候は脳に良い働きをしてくれたらしいということになりそうだ。
私は天才になりたい。さて、私はどこで天才になれるだろうか?ひとつ思い当たったのは哲学であった。だが、私の哲学は新しさに満ちているだろうか?私はそんなことは無いだろうと自答するしかなかった。それはつまり、私の哲学は天才的とは言いがたいものであるという事の証明でもあった。そして、それは「何故か」という疑問を産むことになる。私の哲学は常に土台だろう。それは生き方や社会のあり方を述べるための土台である。そして、その結論は「真実になんてこれっぽっちの価値もない」という結論に収斂していくものだ。しかし、哲学というものは本来、「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」を問うところから始まったものだ。そして私の哲学はこれらに対する答えを出すことを避けているとも言える。言い訳がましくなるが(というかほとんど言い訳だが)それにはもちろん理由があって、それらの答えが決して一意的に定まらないものであり、一意的に定めることは最終的に理想社会を提示しようとする思想の土台としては適さないからだ。もちろん、私自身の哲学、私だけの哲学、もっと言ってしまえば一種の私の信仰としてはそれらの答えを持っている。私はときどきそれらを体現しようと筆を執る。つまり詩や小説だ。そして私はそこでミューズの囁きを聞く。(いや、本当にミューズの囁きを聞こうとし、それに真摯に向き合うなら、私はそこで天才になれるだろうが。)それは常に「破壊と絶望を」と囁くのだ。そして私は考える。
確かに私はどこかで「破壊と絶望だけが希望と創造を生む」と考えているように思う。破壊とそれに伴う絶望が希望を産み創造する力を与える。つまり成長だ。そしてそれは変化だ。しかもその変化は恒常性を維持するささやかなモノなどではなくて、劇的な変革をもたらす暴力的な変化だ。特に感情や感性にまかせた美を求めれば求めるほど、それは暴力的になろうとして、破壊を企み、絶望を与えようとする。絶望は確かに美しい。それは刹那的な美しさだろう。私が本当に求めるような美しさは決して手に入らないだろう。しかし刹那的な美しさはどこかにその影があるようで、そして同時に儚く消えてしまう。それらが暴力的に私たちを襲ってくれるなら、それは何をもたらすだろうか?(9月3日)

 

12-27(白色)

白色はすでに虹色を含んでいる。
しかし、ガリレオだったかは色彩は実在しないと言う。
これが意味するところはなんだと言うのだろうか?(9月3日)

 

12-28(患者の訴え)

「ただただ真っ黒な深さに落ち込んでいくのです。」とその患者は訴えた。
彼は一つの美をその患者の世界観に見たように思った。そして、それは強い絶望感と自分自身に対する懐疑をもたらした。彼は既に医者を辞めていた。彼もまた患者であった。(9月4日)

 

12-29(ディモインの戯言)

ディモインの戯言は真実を含んでいた。
その戯言はあのアリスとテレスにも紹介されたもので、曰く、「私たちがどこにいるかを言い当てようとすれば、私たちはどこにもいなくなる」というものだった。(9月4日)

 

12-30(蝶)

真っ白な空の中を虹色の軌跡を残して蝶がいく。
複雑な感情の起伏を舐めるように、暗黒の蠢きが這う。
琥珀色の結晶が血を流す。
黒の中に一筋の白。ただそれだけがアレを示す。
(9月4日)

 

12-31(折れ曲がった電信柱)

釈然としない。何かが引っかかる。
あいまいな塊を、つかみそこねる。
つかんだと思うとこぼれおちる。
残ったささやきは
「折れ曲がった電信柱だけがいつも真実を教える」
だった。(9月5日)

 

12-32(世界は存在できない)

外界はどう考えても私たち自身に依拠しているのだから、その実在は不明瞭なものだ。
さらに私たち自身について考えてみると、それはもしかしたら実在しないときた。
どうやら世界は存在できないだろうという否定的かつパラドックスな結論はもはや避けがたい。
現実は所詮、胡蝶の夢だと言うのだろうか?(9月5日)

 

12-33(反論の希求)

結局、私は自分で導き出した結論は根拠薄弱な「現実」なるもの以外には否定しえないだろうと考えながら、君の意見を求めているようだ。(9月5日)

 

12-34(美、感情)

この世界は実在するのか?そして美。また感情。絡み合って交差する無関係な3つを同じ時に私の中で生じたということで無理やり関連付けようというのがおかしいのだろうか?(9月5日)

 

12-35(時間)

結局時間が連続的であろうが、離散的であろうが、私たちは実在しないだろう。
私たちは時間の流れの中で思惟する働きを機能させることでしか自らの実在を示せない。
しかし、時間をどこまで分割できるか考え、また固定しようと試みるなら、私たちの思惟する働きは強制的に止められてしまう。その時私たちは実在できなくなる。
そして時間の流れがこれらの固定された時間の蓄積、集合であるというならば、私たちは働かない思惟の蓄積、集合でしかないわけだから、どんなに積み重ねても私たちは実在しなくなる。
このパラドックスから考えられることは私たちの思惟する機能を全面的に否定するか、時間を分割不可能なものだと考えるかのどちらかであろう。
そして前者が実は後者を含み得ることを考えれば、そもそも私たちの実在が否定されることで、私たちが実在することも分かるだろう。(9月5日)