美味しく喰らう

天才とは様々なものを「美味しく喰らう」存在

我が変化を見る 第十巻

目次

第一巻

第二巻

第三巻

第四巻

第五巻

第六巻

第七巻

第八巻

第九巻

第十一巻

第十二巻

第十三巻+第十四巻

 

第十巻

 

10-1(質素と勤勉への誓い)

私は贅沢と怠惰とを捨て、全てを一様に受け入れるために質素と勤勉を規律とした日々を送ります。
私は執着によってもたらされる苦しみと捨て去ることによってもたらされる苦しみとを選びました。私は自分のために他者を捨てました。
あらゆるものを一様に受け入れるべきであると言うことを知りながら、私は排しました、自分に不都合なものを。
私の精神力は弱く、私は全てをあるがままに受け入れることができません。
私は私自身を見つめ直し、その精神力を鍛えたいと思います。私は全てをあるがままに受け入れられるようになります。
そのために私は捨てたことを罪深く思います。
そのために私は質素そして勤勉に生きることを誓います。(2月6日)

 

10-2(自己対話、言葉)

今までそして未だに多くの言葉が私の周りを踊っています。私は言葉にとらわれないようにといいながら、言葉に頼っています。今も。
今までの私の自己対話は常に言葉と共にありました。私はいよいよそのことを恐れつつあります。私は言葉を排して自己と向き合わなければなりません。ですが多くの言葉が私を包むのです。今も。
言葉を用いないようにと考えれば考えるほど多くの言葉があふれます。私の思考がここまで言葉と一体になっていたことにおどろきました。思考は常に言葉と共にあるのかも知れません。
日々の行動を少しづつ習慣化することは出来ているつもりです。その中で私は私自身を見られるでしょうか?私は私の付けている仮面もまた外してしまいたいと思います。それは付け外しの必用がない仮面なのかも知れませんが。
私は現状をこうして言葉にまとめて皆さんに掲示します。
それは結局私自身のためであって私は思考を言葉と共にしてしまうためです。このような報告がもっと少なくなるよう精進したいと思います。(2月7日)

 

10-3(神とは私たちの想いなのだ)

神とは何か?
それは結局どうやったって概念である。
考えであり、願いであり、望みである。
それは創り出され、信じられるものだ。
そしてそれらはそういった信仰を一心に受けることによって実際に力を持つのだ。
だから、神とはエネルギーでもある。
とても大きな力を秘めている。しかし、人がそれを信じなくなればまた、それらの力も消えていくだろう。
神とは何か?それは信じる心なのだ。信仰こそが神を神とするのである。
神とは私たちの想いなのだ。
私たちの想いが集まった力なのだ。(2月13日)

 

10-4(神、唯物論、言霊、畏怖)

神とは何か?に対して唯物論的な解が導けるなら近代の哲学は生まれてない。
つまりそれは唯物論の中に答えを見いだせるものではない。
だからといって神がないかと言えばそれもまた違うと思う。
神について議論するなら唯物的な世界観からは抜けないといけないよ
そしてそこでは神とは何か?という問いそのものが愚問
神に対していかなる尺度も人は持ち合わせられないから
その尺度を持ち出せるとすれば神は人の創造物なんだよ。
ただ、言霊的な力(私はこれを「気」と言ったりするね)は人が創造した様々なものに力を与えるよね。
いわゆる念と言ったようなもの。
神の正体(仮にそんなものがあるとするなら)こういうものなんじゃないかな。
神とは何か?神とは神である。
最も完璧な答えはやはりここだと思うけど。
神を言葉だけで言い換えることが出来るなら、それはやっぱり神ではない。言葉だけでは伝わらない畏怖こそ神の根幹なのだから。
やはり私たちは言葉とそして思考とを排さなくてはいけないね。
言葉に囚われ、その意味を知りたがり、かえって本質から外れる。これをやっても得たいものは得られない。(2月13日)

 

10-5(考えることで現実から逃げている)

私たちが知りたいのは言葉では無いでしょう。
私たちはそもそも何かを知りたいの?
君たちはなぜそれを考えるの?
思考そのものを思考してみた?
なぜ考えるのか?これを考えないといけないのかもね。
そもそも思考することがおかしなことなのかもしれない。
定められたレールに乗っかり、高校生活を歩むのであれば、そこに余計な思考が入り込む余地があるだろうか?
私たちはどうしたって考えることで現実から逃げていると言わないといけない。
現実からの逃避が悪いとかではない。しかしこれらの思考の実態として、そういった側面があるのは事実だし、それは踏まえなくてはならない。と思う。
余計な思考を排して、日々を送るというとても簡単なことは、私たちを理からは遠ざけれども、楽に生きるという点でそれは必要なのかもしれない。
周りに合わせて、流され、普通となることがまた、幸せになるかもしれない。
私たちは理を知ることよりも幸せであることが求められる。
幸せになるために不要なものを徹底的に排除して、その思考を停止させることで、君たちは平穏を手に入れられるだろう。
平穏も立派な幸せの一体系であり、それを突き詰めるのもまた、幸福への道である。
何も真理を知らなくてはならない道理はない。私たちの生きる意味や、生きる目的やらをなぜ考えないといけない?
今やるべき事を考えれば、そんなことを考える必要がどこで生まれる?
大切なのは幸福という尺度であって、幸せであることを尊ぶべきである。(2月13日)

 

10-6(ビミョーなねむさ)

ビミョーなねむさ
午後のまどろみ
日のこぼれみと
ささやく風
平和
安寧
平穏
私たちの世界は
さいわいにあふれている
はずだった
労働
それも苛酷な
そこは生き地獄
人は皆競い合い
蹴落としあい
ボーダーから外れることへの
恐怖
不安
ストレス
私たちの世界は
苦痛にあふれている(2月14日)

 

10-7(13連の散文詩 ルール──オーダー/秩序/神──)

01.狂い
   狂い
   狂い
   狂い
02.時計の
   針は
   50秒を
   1分にした
03.世界の時間は
   24時
   私が生きる
   30時
   あなたがみている
   16時
04.秋が来る
   早い早い
   秋が来る
05.見えるもの
   見えるもの
   みな
   平安
   私の心を
   なやましてはならない
06.時計の
   針は
   チクタク
   チクタク
   世界の
   時間を
   2倍速
07.私は見ていた
   映画の中で
   少ない
   少ない
   砂の数
   私が見ていた
   私を見ていた
   君を見ていた
   人の命と
   数の砂
   はかなく
   散れよ
   散れ散れ
08.私の
   ために
   消えろ
   消えろ
09.散れ
   散れ
   散れ
10.はかない
   それこそが
   真理
11.形あるものは
   いずれは
   塵となる
   ならば
   真理は
   常に消える
12.理の導く答えは
   私たちに不都合だ
13.12の
   言葉も
   また消える

   そうさ、私がルール(オーダー/秩序/神)だ。(2月14日)

 

10-8(複雑なフレーズもまた陳腐)

複雑なフレーズもまた陳腐なもので
聞き慣れた言い回しに
感動を受けるはずも無く
私の望むなにかは
どこか遠い
このフレーズだってまた
とてもとても陳腐で
つまらないように
世界に溢れる言葉もまた
陳腐なものである(2月16日)

 

10-9(人の心は複雑怪奇かつ単純明快)

人の心は
複雑怪奇かつ単純明快
それゆえに
私は私を知れる
だろう
君が君であるように
私は私であると
言えるでしょうか?(2月16日)

 

10-10(巨大なザトウクジラの夢)

ついさっき見た夢が思い出せない。
彼女は長い眠りの底でふとそう思った。
彼女は純粋で無垢な姿でありながら、
その内側には禍々しい人間性を秘めていた。
叫び声がする。
それは彼女自身が発したものなのか空間の発したなにかだったのか。
今となってはそれも分からない。
白い肌に青い水が走る。
彼女は真っ暗な空を見上げた。
空のように見えたものは空のようではなかったがそれを空と呼ぶ以外に彼女は名前を思いつかなかった。
空には巨大なザトウクジラが泳いでいた。
浮かんでいたという方が正しいだろうか。
彼女の周りにも白いクラゲが浮かんでいたことに気づいた。
何も無いと思っていたところに
様々な色彩が与えられていた。
それは彼女の人間性を目覚めさせる。
彼女は人間となった。
その空間は人間を排除した。
彼女は古い夢を思い返す。
彼女のふるさとはあの空間であった。
スーツに身を包み、
ビルの並ぶこの無機質な世界を
颯爽と歩く彼女の心の中には
ふるさとの景色が揺れていたのだ。
空にザトウクジラが浮かぶ。
黒に浮かぶ白は生命の輝きだろうか。
彼女はいつしか帰るであろう故郷の姿を
胸の中に揺らしながら眠る。
彼女は無機質に生きるのだ。
そのペルソナを憎みながら。(2月19日)

 

10-11(炎が私たちの文明を焼き尽くす)

静かな叫び声が私の耳を揺らした。
非情なる運命に抗いながら、
見えない危機から逃げる。
どこに逃げるか。
私には分からない。
それを知る人はいるのか。
いないに違いない。
燃え広がる炎は
尽きることなく
私たちの文明を舐めまわす。
炎の声が聞こえるか。
それは神の下した怒りの鉄槌。
私たちは叫ぶのだ。
神よ、お許し下さいと。
そして私は叫ぶのだ。
神を殺そうと。
世界が見えなくなるほどの炎も
私たちの前では、無意味であった。
私たちは
私たちとは
私が思ういくつかの不思議は
闇の中で光と共に
私たちを輝かしているのだから。
白と黒と青が私たちを包み込み
光の果てるところもまた
光に溢れる。
偽りの視野は
神のごとく
世界を焼いて
私は見たことのない灰色を
不死鳥の苗床にした。(2月19日)

 

10-12(シャボン玉、色)

静かな赤色は
フツフツと
彼女の心を抉る。
それは最高潮に達して
はじけて
シャボン玉となった。
赤は虹色へと変化した。
彼女はそれを見て泣いた。
そしてシャボン玉を割る。
その時にはじける淡い青を見て
彼女は微笑んだ。
抉られた彼女の心からは
深い深い青が流れ出て
緑の色が埋めようとする。
彼女は色に侵される自分を見て絶叫した。
彼女は狂乱の末に
その着色された自分自身を殺した。
何度も
何度も
そして無色になって生まれ変わっては
着色され、狂乱し、また殺す。
仏陀というものが通りすがりに彼女を見た。
彼は彼女に彼の知っている全てを教えた。
それは彼女を金色に染め上げ、彼女を殺した。
エスというものが通りすがりに彼女を見た。
彼は彼女に彼の知っている全てを教えた。
それは彼女を薔薇色に染め上げ、彼女を殺した。
彼女を見ては彼女に教えを与えるものは後を絶たなかった。
彼女はいよいよ死すらも彼女自身を着色することを知り、
虹色に輝き始めた。
彼女に教えを垂れていた者たちは
彼女に教えを乞うようになったが
それを理解出来たものは一人もいなかった。
彼女は色を知らなかった。(2月24日)

 

10-13(エディプス)

人は常にエディプスに服従しているのは言わずと知れたことである。
しかし、エディプスの発生を原始にまで遡れば、それは自然と人との共作である。エディプスはまず、その名を持たない形で私たちの先祖の前に立ち現れた。しかし、私たちの前に現れるエディプスはそのほぼ全てが自然の与えるエディプスの上に人が作り上げたものである。
私たちは私たちの前に立ち現れるエディプスに対して、疑問を持つべきではないだろうか。「エディプスとは何なのか?それはどこから来て、なぜそれに「従わさせられている」のか?」について。
家族は最初のエディプスである。(2月24日)(書きかけの草稿より)

 

10-14(なぜ涙が溢れるのだろうか)

なぜ涙が溢れるのだろうか
深い深い黒い黒い海の底に
彼女の白い肌が落ちて行く
燃える
いや、輝く聖堂
荘厳なるその地には橙色の白が満たされる
緑生い茂るジャングル
その向こうに真っ白な雪原
命の音が響き渡る
窓の向こうで風が吹く
山の上を走る雲
なぜ涙が溢れるのだろうか
青空は時間と共に茜に染まり
東の空は紺となる
一番星が輝いて
月を背にした人の影
眼下に広がる街は忙しなく輝く
男はフードをかぶり
目を伏せて歩く
彼の足元をネズミが過ぎ去り
猫の死体が転がる
道の奥
まだ見たことの無い闇の向こうへ
彼は消えていった
なぜ涙が溢れるのだろうか
響き渡る銃声も
今ではすっかり鳴り止んで
砂嵐が歴史の上を走り去る
ベールの向こうに沈む私たちの街を
黒い男は静かに見つめる
三日月が彼を観察した途端
彼はそれを一瞥し
ベールの奥へ潜った
なぜ涙が溢れるのだろうか(2月28日)

 

10-15(小説:絶対的希望社会)

叫び声が聞こえる。私は息を潜める。
人が目の前で殺されることに抵抗が無くなったのはいつからだろうか…
銃弾の飛び交う瓦礫の下で私の胸は小さな鼓動を打つ。すぐ上で人が倒れる音がする。その鈍い音が戦友の死を告げる。
「死んでしまったか…」
悲観にくれることもすっかり忘れてしまった。
人が殺し合いを再びするようになったのはいつからだろうか…
20年前、私の住んでいた国では大きな災害が起きた。あの時は死体の山ができることすら信じられない出来事だったのに、今では当たり前となっている。
10年前、私の住んでいた国ではオリンピックが開催された。平和の祭典が無くなったのはその次のオリンピックからだ。
今の子供は戦争のなかった時代を知らないそうだ。世界中で銃火器が火を噴く時代しか知らないらしい。
私は一体何のために戦っているのだろうか?私は時々自分たちが守るものを忘れてしまう。ひたすら目の前にいる「敵」を殺すことに夢中になる。あの血を、あの快楽を。私の中にあった動物的な獰猛さが私の意思を奪い去る。私はひたすら殺す。自分の体が返り血で染まるまで。
戦いに勝てばいいことがあるらしい。それが何だったかは忘れたが、希望はあるのだ。
「コード70855、600秒後戦闘地域での空爆を開始する。至急、退避されたし」
あぁそう言えば名前も失って久しい。私は自分の名前をすっかり忘れてしまった。だが、それも希望のためにはどうでもいいことで、私は70855なのだ。
退避命令が出たことで、退避はできるが、退避するにも周りに敵が多すぎる。せめて使い捨ての機械兵が送られれてくれれば…
敵は既にこちらが引き始めたことに気づいたようだ。敵兵が周りからいなくなる。
逃げることが出来れば…
「ドォォォン」
地面が揺れる。僅かな空間を提供してくれていた瓦礫が崩れ去る。足が痛い。目の前に死んだ戦友の顔がある。彼はとても気分の良さそうな顔をしている。本当に死んでいるのか、信じられない。
既に残り時間は150秒を切った。
私の死は確定的だ。
私は死ぬのか…
希望のために…
いつしか夢想した夢は尽く消え、名前も消え、すべて誰かの提示した希望のために、私は命を燃やしたわけだ。
私は一体何のために生を授かったのだろう。

70855、彼に全くなかった信仰心が、死に際に、自然と現れた。
自らの命の目的を知ろうとした。
人はなぜ生きるのか、その問に答えられる者は居ないのだろう。(3月11日)

 

10-16(生死の狭間)

死んでいるのか
生きているのか
実はこのふたつは同時に私たちの中に存在するのではないだろうか?
私たちは生きているつもりになりながら、死んでいはしないか?
死んでいるつもりで生きてはいないか?
生死の狭間を今も尚さまよっている。(3月12日)

 

10-17(命)

死というものを恐れなくなれば、我々の恐怖するところはなくなり、私たちは命を賭した戦いに出向くことができる。
私たちは死を恐怖することを再び思い出さなくてはならない。
固定化されることの恐怖を。
変化の訪れない恐怖を。
命の尽きる恐怖を。
命の尽きるところで、あなたは何を考える?
あなたは自らの命について考えるのではないだろうか?
今までなぜ生きてきたのか、そして、今なぜ死ぬのか。
ならばその答えを探してみようではないか!
ここに哲学の扉が開かれるのだ。(3月12日)

 

10-18(死、震災、ニーチェ)

死と震災について考える
震災により多くの命が失われた7年前
あれが神の怒りであったとする宗教家は少なくないのではないだろうか?
そして、仮にそれが事実だとすれば、なぜ神は突然にあのような大量の死を欲したのだろうか?
私たちの身の回りから死が遠ざかって久しい。
神は死への恐怖を思い出させようとしたのだろうか?
であれば、なぜ、東北地方でそれを行なったのだろうか?
神が意図的に起こしたのであれば、私たちはそこから神のメッセージを見つけて、反省しようとする。
それは何故だろうか?
私たちが、死と神への畏怖の念を再び思い起こせば、私たちは何を考えるのだろうか?
私たちにとって神や死が再び意味のあるものとなれば、そこにまた別の世界が見えるのではないだろうか?
ニーチェは「神は死んだ」と宣言した。
であるならば、死んだ神を復刻することは出来ないだろうか?
神が再び私たちの前に訪れているのかもしれない。
私たちは自分の持っている価値観を舐めまわし、その要請する認識に懐疑的になってみることが必要ではないだろうか?(3月12日)

 

10-19(神は死んだ)

正しさの破れたこの世界に
救世主が降臨した
天地が切り裂かれ
獣たちが野に放たれた
光と影の戦いが始まる
正しさの破れたこの世界で
かつては光の勝利は絶対だった
光は絶対善で影は絶対悪だった
ある一人の男が宣言する
「神は死んだ」
絶対と正義はこの時に死んだ
我々の世界に絶対と正しさがなくなり
自己責任と自由の欺瞞が
腐乱臭を放ちながら
この世界に蔓延した
救世主も獣たちもみな
絶対的な存在で
この世界の空気は息苦しく
戦いながら共に斃れた
世界には光と影が無秩序に散り
人間がそれらに秩序を与えた
言葉という権威によって(3月13日)

 

10-20(平和、戦争、幸福追求)

平和を求める所以はそれが幸福追求の土台としてなくてはならないからだ。
国家なんか無くなったって人は幸福になれる。
ならば国を守るための戦争よりも、人の命がなくならないために戦わないという選択の方が良いだろう
全ては幸福追求という一点を保証するために
近代以降において戦争がダメなのは総力戦体制になるからだ。戦争のための国体が作られれば、本来国民の幸福を守るための国体が消失し、そのような国体に価値はない。
であるならば、真に戦争を正当化する手段は唯一抵抗権のみである。
つまり、侵略が人の幸福を破壊した時にはじめて、私たちは立ち上がることが出来るということだ。(3月16日)

 

10-21(幸福という判断基準)

人の根本的欲求、その他諸々は尽く幸福に向かってその線を伸ばしている。
人はまず自身が幸福になることを望む。
そして、身の回りの人が幸福になることを望む。
そして、地域や血族と言った集団の幸福を望む。
そして、自分たちの幸福が正しい、良いものだと信じて疑わない。
しかし、その正しさ、善は、自分の属さない集団の幸福を蝕むことになることが多々である。また、その結果として、自らの集団の幸福すら蝕むことになる。
そこで私は判断基準として
幸福を観点にした「妥当性」
という基準を選択し、提示する。
誰もが幸福になりたいと望むのであれば、唯一その点において、私たちは合意できるからだ。
私たちは合意し、妥協することで、幸福を守り抜くことができるはずだ。
私たちは自分たちが幸福であるために様々なことを想い考えるのであって、他者の不幸を積極的に求めているわけではない。
私たち人類は幸福というファクターを通して団結への道を歩めるはずだ。(3月16日)

 

10-22(鮫島)

大事なのは体制は決して永遠不滅のもでは無いので、壊れる時はあるし、じゃあいつ壊れるのかと言えば、それは、国民の幸福を守ることが出来なくなった時であると言うことです。
そして、私たちはその時になれば立ち上がらなくてはならない
皆さんには決して鮫島(はだしのゲン)にならないようにと願うばかりです。
まぁあれはあれで仕方がないことのようには思いますが…
幸福という尺度を基準に妥当性を測ることが出来れば、あのような悲惨な目には遭わずに済むかと思います。(3月17日)

 

10-23(抵抗権、国民主権)

抵抗権の概念を持つことで私たちは自分たちの危機的状況を脱することが出来うる。
自滅の道を権力と共に歩む必要はこれっぽっちも存在せず、泥船をまともな船に作り替えるには私たちが動く以外に術はない。
その時に無闇に現体制を破壊することが許されるはずもなく、では、自滅を防ぐためにどうすれば良いかということを考えれば、自らの幸福を尺度に抵抗権の行使というものを考えれば良い。
これはあらゆる政体あらゆる地域あらゆる時代において常に共通で言えることであり、体制は抵抗権に留意した政策を取っていかなければ崩壊する。
また、体制の管理下にあるものは抵抗権の行使を考えなければ、自滅を強要されかねない。
全ての統治者は国民の幸福を守る必要があり、故に、国民が統治者となる国民主権の概念は最も危険な政体である。
各人が他者に対してまでその責任を必ず負わなくてはならないからである。(3月17日)

 

10-24(欠乏に至る病)

欠乏に至る病
自由は深刻な近代病であり、むしろそれは人を不幸にする。自由とはすなわち自己決定つまり取捨選択を強要し、その責任すら私たちに負わせることである。
私たちは自由である限り、全て自らの行動にその責任を押し付けられ、また常に「選択」することを強制される。
この「選択」と言う行為が自己決定の強要と共に発生するは主に社会的な制約の結果であり、この制約が取り払われるのであれば、私たちは確かに自由によって幸福になることが許される。それはすなわち個人主義の極限であり、他者との関わりに対する絶対的否定である。しかしながら、私たちの「生きる」という行為は他との関わり無しには存在しえず、それは社会(時に環境とも呼ばれる。)(一般的な社会に比べれば環境の制約ははるかに少なく選択肢の増加によって自由であることが不幸にならないこともある。)との関わりは必至である。
私たちにとって「選択」は選択肢すら限られるのである。この選択肢の収束こそ自由という概念と相容れないものであり、人々を自由へと駆り立てる。
しかしまた、人々は幸福を望む。彼らの幸福が自由であるという錯視こそ彼らが幸福になれない原因である。(3月18日)(書きかけの草稿より)

 

10-25(それらは本当に「正しい」のだろうか?)

正しいと思われているいくつかの事柄に終止符を打つべきではないかと言うのが私の意見である。
それらが正しいと考えられているのはそれらの事柄を確保することによって幸福が得られるからこそである。
しかし、それらは本当に「正しい」のだろうか?
私にはそれらの事柄が正しいという価値観によってむしろ現状との不一致を促進し、かえって不幸になっているように思う。自由への信仰はキリスト教的信仰の終焉と共に訪れた。(3月18日)(書きかけの草稿より)

 

10-26(全人類への責任、人を規定するもの)

本当に実在が先に立つのであれば、なるほど、全人類への責任というものは負わなくてはならないだろう。
しかしそれはあくまでも神が、自らを規定する職人がいなければの話である。
つまり、ある個人が彼を規定するものを外部に考えるのであれば、彼は全人類への責任などというものは一切負う必要を生じないのである。
ある人を規定するものは必ずしも自分への投企では無いのである。ある人を規定するものは時には神であり、時には国家であり、時には血族であり、民族である。彼らが自らの規定をそれらに受けていると信じる限り、彼らに全人類への責任は負わされない。(その信仰は強く強固なものである。それらが崩れ去った瞬間彼らを規定するものは実在であり、投企となり、それは全人類への責任を伴うことになる。)
信仰は責任を回避させ、幸福へと人を導くという点でさいわいと言える。
であればこそ、全人類に全人類への責任を負わせる術はないのである。(3月19日)