美味しく喰らう

天才とは様々なものを「美味しく喰らう」存在

我が変化を見る 第八巻

目次

第一巻

第二巻

第三巻

第四巻

第五巻

第六巻

第七巻

第九巻

第十巻

第十一巻

第十二巻

第十三巻+第十四巻

 

第八巻

 

8-1(新年の抱負)

新年明けましておめでとうございます。
我が変化も二年目に入るわけですね。
更新は初詣後と思っていたのですが、ちょっと書き込みたい気分になったので。
1年というのは遅いようで早いもので、これを読んでいる人のほとんどが一年前には存在すら認知してなかったわけです。
私は私を取り巻く人間関係が去年1年で大きく変わったことを年が明けて改めて実感しました。
もちろん、それに伴い、疎遠になった人も少なくなく、それはとても残念でもあります。
今年は人間関係の輪が広がればとは思いますが、やはり厳しくなるような気もします。
知識量も増えたでしょうか?
そうだといいなと思いますが…
今年は多分知識量は増大するような気がします。
まぁもっといろんなことを知れますし、知りたいですから、貪欲にあらゆる「知」を貪りたいですね。
さて、今は日本にいて日本の年越しを楽しんでいるのですが、やはりその中でも、他文化の年越しが気になるんです。
当然使用してる暦がグレゴリオ暦じゃない所もありますから、それはそれで興味深いですよね。
いや、新年早々知的好奇心がビンビンですね(笑)
そういうわけで私は常にあらゆるを知りたいのです。
さぁ、新年。これを機会に皆さんが小さな変化を沢山自分の中で引き起こせますように。(1月1日)

 

8-2(正常かつ一般的で没個性的な善良で健全な一市民)

普通であることは美徳でしょうか?
特殊的で異端のようなものは排斥しないといけないのでしょうか?
私たちの私たちによる私たちのための世界はいつしか
普通の普通による普通のための世界となって
私たちの中の一部を殺すことが
本当に許されるのでしょうか?
でも実際そうじゃないか
俺は知らないうちに排斥されている
では、私たちはその世界のルールを是として、それに則り、そこに縛られて生きていかなくてはならないので使用か?
私は不文律をルールとして信奉することができません。
常識は不文律だからこそ変化の余地が多分にあり、だからこそそれは変えていくことも出来ると思います。
私たちは普通であることを美徳とする不可視的なルールに終止符を打つことも出来るのではないでしょうか?
正常かつ一般的で没個性的な善良で健全な一市民こそが異端となる新たな常識を創造し、普通を排斥することが出来るのではないでしょうか?(一月二日)

 

8-3(特殊の刈り取り、智慧の火)

さて、ある本を3分の1ほど読んで。
余りにも創作意欲の方が湧き出してしまい、読書にならないので書こう。
やはり日付は見方を固定させるような気がするから、今度日付なしで順番も改編したものを載せようと思う。
まぁそれは今度やる事として…
本には朝の方が良いと書いてあったが、若い時分では夜型になるのも多少は仕方ないだろう。
考えがまとまらず枝葉のごとく散乱しても今はかまわない。
それで何が書きたいかと言われると、それもまたあやふやで、ひたすら言葉を紡ぐしかない。
そのうち言いたいことがぽっと出ると思う。
まぁさっきまで「普通」について話していたわけだけど、それはやはり私たちが集団の中で生きていることと密接に関係すると思う。
集団にいる限り、集団としては頭の高さは揃えないといけないから出すぎた穂はいくら豊満であっても切り捨てなくてはならないのだ。
また、高さの足りない穂はドーピングをしてでも伸ばさなくてはならない。
そうやって揃えられた穂に価値はあるのだろうか?
それは見る側面によって変わるものだ。
Aから見れば価値があってもCから見れば無価値になることは多い。
これらの言葉だって、求めるものによっては石ころであり、もしくは、宝石以上かもしれない。
誰にとって何が必要かを他人が規定することは難しいけれど、社会はそれを規定するに足る存在になりうる。いや、それは歴史かもしれない。
多くの智慧の火が過去に灯され、脈々と今までその灯りを放っている。
私たちはその灯りを頼りにしながら、火打石探し、新たな灯りを灯すことが出来る。
誰にでも、智慧の火を起こすことが出来るのだ。
しかし、誰も彼もがやれば火事になる。それは智慧そのもの価値がなくなることにも繋がってしまう。
社会というものはよく出来ていて、それを防ぐことが度々ある。
それに抗うことだって私たちにはきっと出来るが、集団はそれを許さない。
だから特殊は刈り取られる。
今後はますます刈り取られるに違いない。
そして、普通になった人ほど、特殊は刈り取られるというのかもしれない。(一月二日)

 

8-4(「特殊」のまっすぐさ、誰もが「厨二病」)

さて、最近、私はよく、傲慢さを自覚する。
自覚しながら、それを誇らしくも思う。
まぁ確かにもう少し謙虚さが必要であることは自覚しないでもないが、過去の偉人や超常に屈しないといけないことが苦しい。
それでも、場をわきまえて頭を下げることが出来ない訳でもないから、この傲慢さはほんとに内面に起因するもので、余計にタチが悪い。と思う。
何事にも程度によって利点やデメリットが生じる。ではバランスが大切なのか、と言われれば、そうだというしかない。
しかし誰もがバランスを取ることが上手いわけでもないし、むしろこのバランスが取れてる人の方が少数だと思う。
いわゆる「普通」はやはり歪んでいるのだ。「特殊」なあの真っ直ぐさには勝てない。でもだからこそ、その真っ直ぐさを、同じように歪ませようとすることが出来てしまう。
やはり私は「普通」であることをまったく美徳としていないわけで、常に「特殊」でありたいと望む。
しかし、だからこそ、常に自分が「普通」であり、「正常かつ一般的で没個性的な善良で健全な一市民」であることを強く意識させられる。
そして悔悟の念と悔しさと怒りと悲しみとがなんかもうグッチャグッチャになって、収拾がつかなくなる。
だから私は「普通」を排したいのだ。
「普通」という価値観。その美徳。そういったものを一切否定して、自分が正常かつ一般的で没個性的な善良で健全な一市民であることを否定したいのだ。
ほかの人と同じではありたくないのだ。人は誰もが特別でありたいと望むのだ。そしてその希望を潰えさせられた人は、社会に出てもなお歪な形でそれを持つものを「厨二病」と名付けるのだ。特別でありたい特別でないもののことを。
そしてそれならば、一部の成功者を除けば、誰もが「厨二病」であり、その一部の成功者ですら、「厨二病」であると、私は思うのだ。
そしてそれならば「普通」であることを否定しようと誰も彼もがもがけばいいと、本気でそう思うのだ。(一月二日)

 

8-5(異端、ビッグブラザー)

考えてみよう
今、私の部屋にはこれらの本がある
これらは大量に出版されて、どこにでもあるものだ
しかし例えば、Aという本がある。
この本を読んだことがある人は多分αのグループにはいない
そしてこの本を読んだことがある私はその時点でαのグループの中において「特殊」となった。しかし異端とは見なされない。
それは、この本はここでは特殊だが
同時に普通でもあるからだ
このように特殊性と普遍性は同時に存在する。
なぜならそれはどのグループでの話かと直結するからだ。
では、私たちが「異端」として排除するあれらの「特殊」はどのグループにとっての「特殊」なのだろうか?
社会だろうか?
いいや、違うだろう。
社会は「普通」も「特殊」も包括し、そこに「異端」を作る能力を持たない
「異端」はグループの中で発生する
このように書くとまるで「グループ」が異端を定義づけ決定し排除しているように見えるが、実は違う。
正確を期して言うのであれば、「異端」はグループの構成者によって定義づけ決定し排除している。
では社会の構成者によってあれらの「特殊」は「異端」と見なされるのか?
そんな筈はないのだ。
私たちは「社会」というグループの構成員同士で対話をすることはないのだから。
ではあれらの「異端」として排除される「特殊」は誰にとっての「特殊」なのか?
それは私たち個人にとっての「特殊」である。
私たち個人が私たち自身の知る人々を集めて「社会」として仕立てあげ、そこから一部を「特殊」と決め「異端」として排除するのだ
「異端」として排除された人は結果として「普通」のコミュニティから弾かれる。
そして自覚してか無自覚かは知らないがそのように弾いてる側もまたいつ自分が「異端」として排除されるか分からない。
この恐怖心がビックブラザーを生み出し、「普通」の美徳を作るのだ。
つまりこれは社会の問題のように見せかけた個々人の問題であるというわけだ。
ビックブラザーは個々人が心の中に飼っている不可視的悪魔に過ぎない。
そしてビックブラザーを人々が否定するのは、単純に恐怖心に起因するものだろう。
告発者はその恐怖を感じないのだ。もはや排除される恐怖がないのである。(一月二日)

 

8-6(排斥、恐怖心、決定)

排除される恐怖。ドロップアウトした自分の未来。そういったことが怖い小心者もいれば、
なるようになるさと楽観的で、自分はどこまでも正しく、正義は必ず勝つと思う傲慢な者もいる。
どちらもそれぞれの良さがあるのに、それらを恐怖心から排斥することは果たして私たちに何を与えてくれるのだろうか?
そして何を奪うのだろうか?
誰もが恐怖心と共にあり、それに従わないと行けないのだろうか?
抗うことは罪なのだろうか?
抗わないことは罪なのだろうか?
ある人は私たちには何の決定権もないという。それでいながら決定を覆そうとしてもいる。
ある人は決定権を認めながら、今の決定に対して不満がありつつも諦め、次を見据えてる。
自分自身の中にすら特殊と普遍が一緒くたになりながら、排斥される恐怖から周りと同じ色であろうと誰もが必死だ。
自分らしさはほどほどにして、組織や上司のいうことに従う。自分の人生が楽しいものになるかよりも安定したものになることを祈る。それでいながらストレスを抱え込み、安定は簡単に破局する。
でもその生き方を間違っている、変えるべきだと私が言うことが出来るだろうか?
君にいうことが出来るだろうか?
何が正しいのか、何が間違っているのか、それは「全体」の問題だろうか?(一月二日)

 

8-7(変化しないもの、社会、意味)

私の思想的哲学的変化の過程の始まりは変化そのものに対しての思考から始まった。
そしていまや、変化しないものを思考している。
それは存在しないであろうにも関わらず。
いや、変化しないものというのではない。変化が小さなもののことを私は変化しないものとして捉えているのだ。
例えば、個人の変化は社会の変化を引き起こすかという問題に対して、ある人は引き起こすという。しかし、私はそれは個人のものの見方が変わっただけに過ぎず、社会にまで変化をもたらした訳ではないという。
このふたつの結論は共に、正しい。個人の変化はその人を取り巻く環境を変える。それを社会というのであれば、それは社会の変化となりうる。
さて、このふたつの結論の重大な相違点は「社会」定義が全く違うところにある。同じ社会という名前であっても、それによって切り取った世界は全く違うのである。
そこで、私たちは変化の片鱗を見るのだ。他者との関係の中で構造的変化を引き起こす先駆けとなるのが「意味」の相違だ。
これは「無意味」下では決して行われない。あらゆる物事は無意味であるが、私たちはそれに意味を見出す。それは変化の為でもあったのだ。
しかしそういった意味の効用は、時には不要または邪魔とすら言えるものになることもある。
ものは程度なのだろう。ではその程度を私たちはどのようにして感じているのだろうか?
これは充分、考える必要のあることである。(一月三日)

 

8-8(満たされることは虚しい)

満ち足りていながら、まだ知らない、物足りないと思う。しかし、知ろうとするわけでもなく、その物足りなさを埋める術を知らない。
そういう時私は、目の前のタスクをこなすようにする。
そうすることで物足りなさを忘れ、ものを知ることが出来るから。そしてさらに満たされる。
だが、満たされれば満たされるほど満たされていないことを知る。私たちは何も知らない。
では、知らないことは罪なのだろうか?
そんなことはないと思う。知りたいという欲求がある一方で、知れないと思う諦めがある。
そして問題はこの諦め方にあるのではないだろうか?
できない理由を探して諦めるからこそ苦しくなるのだ。
できなかったから諦めるという諦め方以外は心に苦しみを与えるだろう。
物足りなさがあるのなら、それは煩悩として消さなくてはならないものだろうか?
いや、そんなことはないのではないだろうか?もちろんそういったやり方もあるだろう。
また、それを満たすやり方もあるに違いない。
問題はそれを満たした時に、そこで得られる幸福感が、君の心にピッタリとハマるかなのではないだろうか?
満たされることは虚しい。
欠落感がむしろ人にさいわいをもたらす。
欠落感を埋めるための努力の成果として満たされて、私たちは初めてその心を本当の意味でさいわいに染める。
それは知ることを強要する。感じることを強要する。
あらゆる苦しみを乗り越えることを強要する。
それらを超えた先で、満たされた心には、さいわいがあるだろう。
そうして得たさいわいはどこまでもその人の心を照らす。(一月四日)

 

8-9(憂鬱)

綻びかけた精神をさらに滅ぼすために速筆をしよう。憂鬱憂鬱憂鬱憂鬱。つまらない日常。非日常すら日常と化して、ますます世界を憂鬱にする。私の見たものは結局虚像で、誰もがいつしか死を求めてやまない。私の中にすら、ますます死の影は濃い。憂鬱憂鬱。人は誕生以前と死後を求めて、今を見ない。だから今を嫌いになって、気づけば死んでいる。あぁ哀れ。死を望むが故に死を希望とみなし、死を知った時にそれを恐れる。あぁ哀れ。憂鬱を晴らすこともできず、鬱憤を溜め込み、酒や麻薬で紛らわせる。虚しさが心に穴を空けるから、いつしか自分が消えて行く。私に語りかけるあの声は滅んで久しい。嘘を吐き続けては後悔し、誠に生きようとすれば、かえって苦しく、生きていくことも辛い、死ぬ事は怖い、道を閉ざすものこそ運命だと言うのなら、私の歩む道を教えたまえ。光の者は死に絶え、ひたすら影が覆うなら、光の復権を望み、世界を滅ぼすことは認められるのか?あなたの望む未来が、本当にあなたの希望となっているのか?白濁液の苦い匂いが、いつしか快楽に変わる時、本当のさいわいを求めて、私たちの翼の羽がもがれた。愛おしき姫君は、遥か彼方へ旅立ち、私は共に歩くことも出来ず、掻き切る、自らの首を。あぁ、あなたの神が私の悪魔で、あなたの天使は私に死をもたらすのだから、恐ろしい。美しく咲く花も、知らないあいまに枯れ、醜い者はますます穢らわしい。私の愛した何かはどこへ消えたのでしょうか?すぐ近くに居るような気がするのに、とてもとても遠くて、私は私の中に何を隠しているのか、自分でもわすれてしまったから、嫌なことに蓋をし続けて、箱の中身が溢れそうになっているのに、沈黙を貫こうとして、かえって苦しい。愛したもの、愛していたなにか。私から奪わないで。悲しい事なんて何も無いのに、冷たい風が吹いたからかな?、とてもとても涙が零れ落ちそうで、視界が曇る。なんでかな?なにか悲しいことは私の中にすら見つけられないのに、どうしてこんなに泣きたくなるんだろう。大声をあげて泣きたいのに、理由がないから泣けなくて、理由を探しているうちに、涙は消えてしまうんだ。だから私はいつも泣けない。意味付けや意味の呪縛に囚われて、泣くことも笑うこともままならない。大声をあげて、道の真ん中で、泣きわめくことが出来るなら、私は心に空いた穴を、満たせるのかな?それすら定かではないけれど、涙をこぼすことも出来なくなっています。あぁ醜い。それでも美しい。なんだか、私が見ているものはぐるぐるぐるぐる形を変えて、私はいつも虚像しか見ていない。レンズの先にあるであろうホンモノに触ることが出来たことがあっただろうか?知りうるものすら知りえず、いつしか無味乾燥とした自らの道をとぼとぼ歩いて、その事に気づくことすら出来ないなら、憂鬱な日常に一条の光を差し込ませて!あぁあなたのその醜い顔が美しくみえるようになると言うなら私のさいわいは涙とともに、でも見えない。見えたものもすぐに消え、触れることが出来ない。それは本当に存在するのかな?そんな疑問の中で、涙がこぼれる。こぼれない。あなたに気づいてほしいのに、それすら叶わないなら、私はなんであなたと共にあるのか?あなたはどんどん目だけになって、私を冷静に観察し始める。それでも私の感情があなたを犯しているだろうから、そのうち観察もままならなくなるに違いない。そして、感情すら奪っていくのでしょう。あなたはとてもとても冷酷で冷めていて、覚めていない。何も知らない。どれもこれもが夢の中。観察者。決して触れない、体験しない、ただ見ているだけの寂しい存在。存在すら定かではない。あなたが生きている意味があるのだろうか?そして、君は静かにこう思ったんでしょう?また意味に囚われている。じゃああなたはその観察で何を学んだというの?何も学ばない。体の動かし方すら知らないんだもの。あなたは見ることしか出来ない。考えすらない。ただ見て、流されるだけ。正常かつ一般的で没個性的な善良で健全な一市民を美徳として、正常かつ一般的で没個性的な善良で健全な一市民に生きようとして、色を失って、死んでいく。さぁ、あなたは死にたいの?死にたいの?死にたいの?憂鬱な日常に暇を告げて、死の世界へと旅たちたいの?ならば死ねばいいのに。死ねばいいのに。死ねばいいのに。死ねばいいのに。死ねばいいのに。(一月十二日)

 

8-10(死にたくない嘘つき死にたいクセに)

さぁ偽りの仮面を脱ぎ捨てて、その醜い1面を顕にしよう。神の怒りをその身に受けて、死ぬことすら許されない、私たちの穢らわしい魂を祝福するために。私の命は儚くとも、続く魂の物語に終わりはなく、際限なく苦しめられる、生死は共にある。私は私の心すら信じることができない。感情の醜さは知れば知るほど愛おしく、かつ憎ましく、打ち滅ぼそうとすればかえって自らを苦しめる。自らの影れを意識すればするほど、望まぬうちに神に頭をたれている。あぁおぞましい。我が魂の救われんことよ。巫女の声は遠く、目だけになることすら能わず、我に苦しみを与えるのは何故か?それは試練と言えるだろうか?命が惜しい訳では無い。命を守るようにこの体は恐怖を知っているのだ。それすら経験としては回収すれば済む話なのか?あらゆる経験を、経験として処理するだけ。退屈を超えて憂鬱に。神背くだけの力があればさいわいだ。しかし神と悪魔は結託し、我々を苦しめる。この憂鬱な精神は何のために。言葉がつかえて声が出ない。音がない世界では、かくも虚しい。心に空いた虚空を満たすまで、私はただやみくもに言葉を並べるというのか?違う。この行為こそ女神に出会う最も簡単な方法に違いない。開いた虚空が浮かび上がり、その一瞬の影法師を見るためだけに、ここまで心を壊すのだ。過去に囚われ、未来を縛り、いつしか今が辛くなる。私の過去を返せ!私に過去を与えよ!過去だけが私を救い、過去だけが私を苦しめるなら、今も未来も永遠に消えてなくなればいいのに!私は私を苦しめるこの何かを知らない。それは私自身だから。それはこの世界そのものだから。世界と自己を二分するものがあるとすればそれは過去に違いない。過去こそ神。過去こそ悪魔。私は私の信仰のために私自身を破壊して、その先に何を見るのだろうか?信仰なくして人は生きられない。だから私は信仰が嫌い。人間であるうちは人間を愛せない。私は人間は好きでも自分のことは大嫌い。どこまで行っても付きまとう死の影は心の虚空と共に。飽き飽きしたこの青空の下で見る夢は、悪夢。残滓を掻き集めようとすれども遅し。砂となって儚く散る夢にいつまでも際悩まされ、私は私を見失う。悪魔の声が聞こえる。ほらまたそうやって嘘をつく。聞こえた声を捉えることはわたしにはできない。君にはできない。ならば私はやっぱり喋りながら打っているんだ。喋っているのは誰か?私では無い。あぁ悪魔が私の喉を奪い、神が私の手を奪い、私に残されたのはこの目だけ。目だけになった時に感じるのは恐怖?いや、快楽だ。快楽だ。快楽のために私は死ぬのか?しにたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない。嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき。死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに死にたいクセに。あぁ憂鬱な日々よさようなら。この世界に終止符を。いつしか私は言葉を失う。(一月十二日)