美味しく喰らう

天才とは様々なものを「美味しく喰らう」存在

我が変化を見る 第十三巻+第十四巻

目次

第一巻

第二巻

第三巻

第四巻

第五巻

第六巻

第七巻

第八巻

第九巻

第十巻

第十一巻

第十二巻

 

第十三巻

 

13-1(懐疑的真実:自我、確信的真実)

一般的に世界の実在は信じられているし、私もそれが形而上学的な、すなわち、観測者自身を黙殺する思考の中では、確かに世界は実在していると考えている。その中で確かに私は唯物論を支持するし、ボールペンやブラジルにある見たこともないキリスト像の実在を信じ、神やメドゥーサや見たことのあるUFOのようなものを錯覚や幻想であると考える。
このような世界の実在が信じられるに足るのは、まさに他我の実在を信じるからにほかならない。自分と同じような周りの人々にも自分と同じように思惟する機能があるように見えるし、それは疑う余地がないように思われる。むしろ、それらがないのではないかと考える方がどうかしているだろう。
そこから、真実を形而上的なところに求めるのは当然の帰結である。私はこれを確信的真実と名付ける。確信的真実は決して絶対的真実ではなく、あくまでも価値のある真実として確信されているものである。
ただ、当然それは各々の社会によって変化するものでもある。つまり中世では神が現代では科学が支持されるように。
しかしながら、それらは他我の実在を前提にしている。17世紀のある哲学者は様々なものを徹底的に疑い、決して疑うことの出来ないものを発見した。つまり自我を。コギトエルゴスムは真実として確立される。疑えるものを偽とした時唯一真といえるのは、自我、ただそれだけである。私はこれを懐疑的真実とする。これは絶対的な真実である。そうではあるのだが、私たちはそれだけでは何も見ることが出来ない。故にこの真実に価値はない。
絶対的真実としての懐疑的真実は真実としての価値を持ちえず、ただ前提条件とするしかない。
他方、確信的真実は絶対的真実にはなりえない以上、懐疑的真実からの証明を必要とする。そこでは現実はそれが絶対的真実であることの証明にはならない。そして証明のない確信的真実はどこまでも信仰であるし、相反する確信的真実が共に絶対的真実となることは可能である。(9月20日)

 

13-2(実在の発生)

これから展開しようとする話は本当に脳みそを掻くような行為だが、重要なものである。すなわち実在の発生について。
実在と存在というふたつの言葉があり、これらは同じような意味合いで使われているが、私はこの2つを明確に別物であると断言し、意味を再定義したいと思う。ただしここではその性質的違いについて述べるだけにしたい。それは主題である実在の発生というものを脳みそを掻くようなものにしないで済むようにするためである。しかし、私の主張する他の議論と関連づけた時にはまさに脳みそを掻くような話になる。
さて、実在と存在の性質的違いであるが、これは前者がまさにアプリオリなものであり、後者はアポステリオリなものであるという違いである。
そして、実在の発生とは、すなわち、いかにアプリオリは発生するのか、という議論である。例えば、外界の実在に基づいて考えられる宇宙論などでは、宇宙の始まりという問題を抱えている。それは宇宙自体がさらに大きな実在から因果的に発生するというもので、それは地球が46億年前に惑星形成のメカニズムによって発生したアポステリオリな性質を宇宙にも与えることになるだろう。その結果引き起こされるのはアプリオリの全面的排除にほかならない。その議論の中で実在性は私たちの誕生以前からあったか否かが争点となる。
他方、外界の実在を信じない立場からすれば、唯一アプリオリなものは私自身ということになる。そして、このアプリオリな性質は因果に基づく起点を有してはならない。それは無限の過去においても存在する。ただし、世界の形成との同時性に基づくアプリオリな性質の担保ということができるのであれば、実在の発生について述べ得る可能性が残される。そこで私達は一つのタブーと出会うことになる。この問題が生じるところこそ、アプリオリなものの発生というものが脳みそを掻くような行為になるもとである。しかし、世界が始まる前とはすなわちアプリオリ以前に他ならず、世界が始まる前の世界とは根本的に矛盾した概念である。(9月28日)

 

13-3(空、ウィトゲンシュタイン)

空というのは単純で不可分性の表れである。しかし、だからこそ、私たちにはわからない。私達には他人が見え、ものが見え、そして自分が見えるが、同時にそれらは全く、私、ではないから。あなたは私の一部でしかなく、私もあなたの一部でしかない。その上、この文章さえ、それを見る人の一部に他ならない。
ウィトゲンシュタインは「語られうるものは明晰に語られうる」と述べたが、全くその通りで「有は無であり、無は有である。しかしながら、有はやはり有だし、無も同様である。」というのは理解しがたくとも明晰に語られている。これが真であるか偽であるかをこれらの言葉が論理的に正しいかでははかりえない。
まして、一瞥しただけの現実と照らし合わせることも難しいだろう。上に述べた命題をいかにすれば真と言えるのかはまさに今考えているところであるが、あの命題は世界の無意味性だけでなく、世界の不可分性も示してくれる、極めて大切な基本命題であろう。(10月3日)

 

13-4(明晰、表現)

私たちは自分の知り得たことを明晰に表現しうる。しかし、その表現から、それを見た人が私と全く同じものを知るとはかぎらない。
その表現が何を明晰に示しているかは、それを見た人によって拡散していく。そして、そういったサンプルが収斂して、その表現の解釈が作られる。そしてその解釈はすでに明晰ではない。
私たちは明晰に語りうる。ただし、明晰に語られたものを明晰に知ることは出来ない。(10月4日)

 

13-5(空集合、梵我一如)

不思議なことに人は世界がはじまる前を想像できる。
これから私はその想像力に期待し、世界がはじまる前について述べたいと思う。
古く世界が始まる前は無であったとされるが、私に言わせれば、それは不十分であり、正確には空であった。空というのは無=有という状態に他ならない。つまり有るということは無いということである。
そして、この世界が始まる前の状態は今も残っている。これこそが世界の不可分性を示す。有という状態をAとするならば世界が始まる前とはつまり、A∧~A(AかつAでない)という集合である。これらは要素を持ちえない。つまり、世界の中に本来要素はなく、不可分な空集合として、永遠の相の下に世界がさらけ出される。この永遠の相、すなわち空こそが真にアプリオリなものである。しかしながら、私たちにとってはもう一つアプリオリなものがある。そして、それが空の中に要素、つまり、色を混入させ、世界にアポステリオリなものを蔓延させる。
それはつまり、私たち自身、正確には私たちの視点である。
私たちは体験以外の方法では決して空を知りえない。A∧~Aの中に私の視点も当然含まれ、私自身も世界と合一であり、不可分であるが、それが提示される時には君の視点はA∧~Aに含まれないからである。
そして、その君の視点が世界から放りだされることによってA∧~Aは偽となり、有と無が分離する。それは君が視点を獲得し、世界の中で要素となったからに他ならない。そして、それこそが世界の始まりである。しかしながら、こうして始まった世界は常にA∧~Aが真である永遠界の中の特異界でしかない。この世界事態は常にA∧~Aが真となっている。(まさにこここそが色即是空である。)
私たちは多くの場合、自らの視点をないがしろにするが、それこそが世界に要素を与える一つの特異点であることに自覚的になった時、私たちの前には空と不可分な世界そして自己を見ることが出来、梵我一如と色即是空を理解する。
そして、この私の説明以上にそこへ至るよい説明も見当たらないであろう。(10月5日)

 

13-6(明晰、体感)

1、語られているものは全て「明晰に語られ」ている
2、「明晰に語られ」ているものは共有できる。
3、共有されたものは、その推理が妥当な推理であるならば、理解しうる。
4、理解したものに生きれば、それは体感される。
(10月6日)

 

13-7(不完全燃焼)

私が知り得たものは私たちの生きる世界のすぐ側に同時的で無意味でそして深淵なる空があるということなんだよ。
私たちが生きる世界は即時的に瓦解しうる。
私自身とても自分が真理を知ったとは思えないし、仮にあれが、仏の示した真理だと言うならば、僕は本当にどうしたらいいというんだ。
まぁ私の問題は多分、知り得た真理の中で生きていないがゆえなんだろうけど。
ただ、同時にあの真理の中に生きることが有意義であるとは思えない。
世俗的な生き方が小さなさいわいを与え、真理が大きなさいわいを示すなら、それで充分ではないだろうか?
私たちが大きなさいわいを時に必要とするのは小さなさいわいを望みえない時がたまにあるからでは無いのか?
ならば、その時に大きなさいわいを見れるなら何も問題はないだろうし、本当に必要なことは日常的な些細な出来事からいかに小さなさいわいを導くかということではないか?
そもそも真理などを必要としないように!
真理を導くことが誰もが持つ生業であるとはとても思えない。(10月11日)

 

13-8(苦痛と幸福の間には境がない)

苦は因果の末にあるように私たちには見える
そして真理を知ることが出来るなら、私達はその真理によって苦痛を断てると信じている。
そして、私たちは真理を求める。
しかし、私が知ったものが真理だとするならば、そもそも苦痛と幸福の間に境がないんだ。
どちらかを避けどちらかを求めることをそもそもやめるべきだろうか?
否。
私は、自らの信じる幸福だけを見つめればよい、と思う。
苦痛と対面することは大抵の人には必要のないことだよ。
徹底的に苦痛を避け、そして幸福だけを見つめる。
それで小さなさいわいは、そうコップ1杯の水は、満たされる。(10月11日)

 

第十四巻

 

14-1(悩みありて幸多き円環たる青春に侮蔑の盃を掲げて)

ここに来て私はどうも恋に恋したようだ。そして過ぎ去りし、はるかかなたのあの青春を恨み望む。
それらはどこまでも円環だ。そう日常の中の小さなハプニングでそして日常を壊しきれない脆弱な何か。侮蔑の眼で見られるべき停滞を善とする考えの極み。
なぜ、あの憎しみ深き青春と小さなさいわいの象徴たる恋とが私の胸の中で跳梁跋扈するのだろうか?
変化に恐怖し、どこまでもそこに居続けようとする停滞を憧れるのだ。だから私はこう叫ぶ。そうするより他にないが故に。

 

悩みありて幸多き円環たる青春に侮蔑の盃を掲げて!(10月15日)

 

 

14-2(円環的停滞のための変化)

好きな人がいなくなり、恋することを辞めた時、私の青春は止み、円環から放り出され、永遠に歩き続ける思考の流れに溶けた。
結局、変化も停滞も全く同じものであることを知った時、私は放り出された円環を懐かしむのだ。私の思想の奥底を流れる懐古主義があの恨み深い青春を汲み取り、いよいよ全ては永遠の相の下に一つに結ばれる。
あぁ激しい矛盾が自分自身を引き裂くように思われたあの頃が懐かしい。
あまりにも私は老け込んでしまったようで、ただただ一つの流れに没する。(10月15日)

 

14-3(後ろの道をもう一度)

大きなさいわい。そう人類への愛を。私はもう恋をすることは出来ないのだろうか?
あのコップ一杯の水を望みえないのだろうか?私の前にはもう1人の少女はいない。そこには記号としての恋と人々が立ちふさがる。
あぁ私は大きなさいわいに殉じなくてはならないのだろうか?私の心を苦しめる女神はどこに消えたのだ。私の胸を締めつけるあの甘酸っぱい恋は!
どれほど感情の波を荒立ててもここには既に永遠の凪。動きすら静。静もまた動。永遠の移ろいとはもはや停滞。しかしそれは確かに変化なのだ。
私の道は未だに二手に分かれている。そして私はどちらを選ぶことも出来ず、そこに茫然と佇むのだ。後ろの道をもう一度歩けるほうを求めて。(10月15日)

 

14-4(結び:私は深い哀しみの中に居たい)

私は深い哀しみの中に居たい。誰かのために泣くことが出来るなら、それが私のさいわいだから。全人類のために泣こう、それが私にとって本当のさいわいだから。
淡く脆い人の生に泣こう。そして人々がそれに気付かず笑えることを願おう。そしてその事実に泣こう。
世の中の不条理に泣こう。そして、それを改めんと怒る人々に泣こう。不条理の中で歯を食いしばって生きる人々を讃えよう。そしてその事実に泣こう。
人々の情に泣こう、その荒波の激しさのために。あぁどこまでも無情なこの世界のためにすら涙を流そう。それが本当のさいわいであるから。
そうして涙を流して笑おうじゃないか。この涙は嘆きでも憤りでもない。ただただ深い哀しみなのだ。
あぁどうして泣かずにいられようか。この自然にすら涙で頬を濡らそうじゃないか。
私は深い哀しみの中に居たい。誰かのために泣くことが出来るなら、それが私のさいわいだから。全人類のために泣こう、それが私にとって本当のさいわいだから。(10月15日)

 

14-5(蛇足:日本人)

よくよく考えてみると日本で日本人だと言うことほど馬鹿げた話もない。I am a Japanese ならばまだ分かるが、日本人です、は不毛だろう。
自分たちのアイデンティティとして、国や言語や家などがあると私は考えているが、そうなるとやはり、私が日本人であるというアイデンティティは宣言するほどのものではないと思うのだ。(10月16日)

 

14-6(蛇足:To Be Continued)

答えを見出したと考えながら、なにも答えていないように思うのはなぜだ?
今私が手にしているいくつかの真理は私が問うてきたいくつもの問に対して明確に答えを与えている。ただ一つ変化そのものについてを除いて。
変動することこそ生である。そして私は生それ自体については何も述べていない。いかに生が始まるのか、そしてどう生を行えばよいのか。それらには明示的な解を与えた。しかし生きることそれ自体の変化を私は述べただろうか?
私たちが何者であるかということが分かった今、私たちは何をしているのかを明示しなくてはならない。(10月16日)

 

終わりに

ここまで読んでくれた方に感謝を。

非常に脈絡のない短編が延々と260編もあった。今後はこの前編を様々な角度から分析していく中で、自己批判を深めていくことになる。

もしよろしければ、今後ともお付き合いいただければと思う。