美味しく喰らう

天才とは様々なものを「美味しく喰らう」存在

「うっせぇわ」がうっせぇわ!

 まぁ、おそらく表題のように思っている人は少なくないのではないだろうか。かくいう筆者もまぁそのように思わないこともない。
 
 最近、「うっせぇわ」という楽曲が世間で流行している。その歌詞は賛否両論あり、様々な批評が出回っている。筆者に批評の面白さを教えてくれた友人に感謝したい。様々な記事を面白く読むことが出来る。
 また、多くの場面で、この楽曲について話す機会があった。そしてもっと多くの場面で、この楽曲について話されているのを見た。そこで今回は私がこの楽曲についてどのように考えているのかということをまとめてみようと思う。
 
 まずは個人的に、なるほど、と考えさせられた批評が2つほどあるのでそちらを紹介しておきたい。
 1つ目はこちら。https://www.news-postseven.com/archives/20210214_1635400.html?DETAIL

 ここでは、「うっせぇわ」はだっせぇわ、という年長者の意見が書かれている。
 2つ目はこちら。https://news.yahoo.co.jp/articles/11d46ba3ce253fb7da5798ae946eea7e3a75fab4?s=09

 ここでは、「うっせぇわ」は20代が10代に送る処世術なのだという話が展開されている。
 
 筆者は今まさに20歳である。ちょうど10代から20代へと足を踏み出したばかりの新成人だ。そして筆者は、「うっせぇわ」には深く共感する。あの楽曲で描かれている「私」とはまさに筆者のことである。しかし、だからこそ、筆者はあの曲の歌詞が大っ嫌いだ。
 
 今回は、あの曲の歌詞が我々の世代を中心に流行すること、が一体何を意味しているのかに関する持論を述べよう。
 
 まず「うっせぇわ」とは何かということについて先に述べておこう。端的に言うならば、あの曲は、どのようにフラストレーションを外部に吹き出すことなく、自身の内側で抱え込めば良いのか、ということを歌っている。そしてそれこそが尾崎豊なんかを聞いてきた年長世代からしてみればダサいものに見える点なのだろう。
 
 なぜ「うっせぇわ」はダサく見えるのか?
 
 「うっせぇわ」がダサく見える理由は実は簡単である。それはつまり「君」が不在であるという点にかかっている。あの歌詞の中には、コミュニケーション可能な他者というものがいないのだ。どこまでも独りよがりな歌なのだ。周囲の全てを敵だとみなしながら、お前らは敵だ!、とすら叫ばない。心の中で、チッ、と舌打ちをするだけなのだ。それが「うっせぇわ」という曲に含まれたダサさである。そう歌詞の最初の宣言は果たされていない。
 「うっせぇわ」は正しさや愚かさを見せつけてやると言い出しておきながら、それを見せつける相手を持たない、あるいはそれを見せつける相手は自分自身であると言える。
 メロディーやフレーズによって他者に対する主張を歌うように感じさせるもののその内実は極めて内省的、あるいは自己中心的な歌なのだ。あの歌詞は全て自分自身への言い聞かせでしかない。
 それこそが「うっせぇわ」ひいては私たち世代の持つ歪みである。そういう点ではあの歌詞は私たちを非常に良く示している。
 詳しく見ていこう。
 
 今の若者に蔓延る歪み
 
 なぜ、そのような歪みを私たちは持っているのだろう。その謎を解く鍵は冒頭と最後にある。
 この曲はまず、「正しさや愚かさを見せつけてやる」、と言って始まり、最後には、「私も大概だけどどうだっていい、問題はない」、と言って終わる。
 「正しさや愚かさを見せつけてやる」。これは宣言であると共に痛烈な嫌味でもある。自分は周りにそのような圧迫を受けているという主張なのだ。ここにはダブルミーニングがあり、そして故に最後には「私も大概だけど」というところに繋がるのだ。
 心の中で、お前らは敵!、と主張することが、自分に普段「正しさや愚かさを見せつけて」くる人々と同じようなことだという強い自覚があるのだ。だからこそ、それを外に発露させるべきではない、自分の内側に溜め込まなくてはならない、そのような思想へと変遷するのである。
 そしてそれはまた同時に「正しさや愚かさを見せつけて」くる人々のことを嘲る発想へと繋がる。つまり、普段自分は思っていても口にしないことを、平気で口にする、自制心の効かない愚かな者として、主義主張をする者=他者と真剣に対話をする者を嘲笑うのである。
 
 これは昨今インターネットに蔓延る冷笑主義の実態である。冷笑主義とはつまり他者とのコミュニケーションを拒否しながら、それをするものを嗤う態度なのだと言うことだ。結局のところ、そのような態度というものは、自分自身に向き合っていないということなのだ。
 そしてこの「うっせぇわ」という楽曲はそのような冷笑的態度というものを肯定し、なんなれば良い処世術として喧伝しているのだ。そしてそのような点こそが、筆者がこの楽曲に共感しながらも、嫌いである元である。
 
 「うっせぇわ」の流行の先に
 
 このような冷笑的態度の喧伝という性質のある「うっせぇわ」という楽曲が私たち若者世代に流行しているということは何を意味するのだろうか?
 筆者が考えるにそれはふたつの意味を持ち、ひとつの未来への展望を与える。
 つまり、ひとつは、一部の人たちの主張的な態度というものに対する嫌悪感。
 そして、一方では、コミュニケーションを取ることに対する高いハードル。
 「うっせぇわ」の流行とはこのようなものを意味する。
 そしてそれらに対する対応は、出したい声を出すことを否定し、内側に溜め込む態度へと繋がる。「うっせぇわ」は「私」を「天才」であるとか「現代の代弁者」などと考えることによって、声を出すことを控えることを成し遂げられるというプロパガンダなのだ。「うっせぇわ」は学校や仕事が終わったあとの夕方に聴く曲ではない。あの曲は、通勤通学の鬱屈とした空気感の中、自らを鼓舞するための曲なのだ。
 
 さて、今このような宣伝に共感できる人々の最も中心的な層というものは10代から20代であろう。
 少し先の未来、このような処世術を身につけた人間が10年後、20年後、自分たちの声を出すことを押さえつける存在を持たなくなった時、私たちが溜め込んだ呪詛というものが盛大に社会に対して吐き出されることになるだろう。それは恐らく壮絶な叫びとなる。それが良いものとなるか悪いものとなるか、筆者には確かなことは言えないが、あまり楽観することは控えた方が良いのではないかと思う。
 毒は溜め込むよりはとっと吐き出すべきなのだ。もしも今後も私たち世代が毒を溜め込み続けるのであれば、「うっせぇわ」はまさに20年代というものを代表する楽曲のうちのひとつになるだろう。
 
 さて、最後に、「うっせぇわ」と対称的な楽曲をひとつ紹介したいと思う。YOASOBIの「怪物」という曲だ。https://youtu.be/dy90tA3TT1c
 この曲には「君」がいる。社会に対して感じる漠然とした不満という点では、「うっせぇわ」と「怪物」には共通するものを感じ取ることができるはずだ。そしてだからこそ「君」の有無というものが、どのように異なるのかということが分かりやすく発見できるだろう。