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天才とは様々なものを「美味しく喰らう」存在

存在するとはどういうことかに関する報告

アブストラク

前段で報告したような実在論的唯我論はいかにして諸存在を説明するのか、形而上学的に正当な唯一の存在理解の仕方について報告します。

 

二      存在するとは認識されることである。
二・0一   存在するという事態は、実在するものから説明される必要がある。
二・0二   実在するものとは、前節までで見てきたように、「認識主体」である。
二・0三   「認識主体」から説明される存在の最も基本的な様態は、認識されるという事である。
二・一    あらゆるものは認識される限りにおいて存在する。
二・一一   全てのものが存在する。但し、「認識主体」を除いて。
二・一一一  「認識主体」は「認識主体」としては認識されないのであるから、存在はしない。
二・一二   全ての存在するものは、<認識対象>である。
二・一三   我々が、日常的な言葉の使い方として、存在しないと述べるようなものも、そのように述べられる対象を認識せずには述べ得ない以上、<認識対象>であり、存在する。
二・一四   存在しないということは、認識されないということである。
二・一五   存在しないという事態は、存在しないから存在しない、つまり、ないものはないというトートロジーに過ぎない。
二・一五一  存在しないという事態は、立証出来ないということによって、そのように主張されるわけではない。
二・一五二  立証不可能性から主張されるのは、"「認識主体」以外が実在しない"ということである。
二・二    存在するものが現象的に生起する場として対象領域がある。
二・二一   対象領域とは、マルクスガブリエルの提唱した概念である。
二・二一一  曰く、「特定の諸対象を包摂する領域であり、それらの諸対象を関係付ける規則が定まっていなければならない」
二・二一二  全ての存在するものが一度に対象領域に生起する訳ではない。
二・二二   我々の実際的な対象の把握は、この対象領域に強く依存する。
二・二三   ある存在が、対象領域に現れる時、これを「顕在する」と言い、日常的な言われ方として存在すると言われる事態と一致する。
二・二四   ある存在が、対象領域に現れていない時、これを「潜在する」と言い、日常的な言われ方として存在しないと言われる事態と一致する。
二・二五   <認識対象>は対象領域に先立つ。
二・二五一  いくつかの<認識対象>を特別な規則に基づいて把握することで、対象領域が成立する。
二・二五二  対象領域とは、つまり世界構造上のひとつの区切られた領域をある特殊なパースペクティブから眺めやることで生じる、存在論的な限定領域である。
二・二五二一 <認識対象>が、あるひとつの<認識対象>として屹立するのは、それが他の<認識対象>とは異なるということに由来する。これによって、あるひとつの<認識対象>は、差異による分節によって、他の<認識対象>と区別されるということが分かる。
二・二五二二 ここから、我々は、このような諸分節の成立する以前の(仮想的な)単一の<認識対象>としての世界を理解する。この世界なるものは、その特有な構造、すなわち世界構造を有し、我々が実際的に把握する諸<認識対象>はここから分節されたものとして理解される。
       構造主義を存じ上げる読者諸賢には馴染みのある考え方であろう。これはつまり形而上学的な構造主義理解である。構造主義の言うように、我々の思考内容は言語構造に依存する。これは<認識対象>にとっても共通するところのあるものである。しかしながら、<認識対象>は必ず言語的である訳では無い。それでも、諸<認識対象>がそれぞれに固有の<認識対象>であるとき、そこにはその<認識対象>をその<認識対象>足らしめる他の<認識対象>との差異が求められなくてはならない。そしてこのような差異の成立は、構造主義的な理解における分節と一致する。
二・二五二三 このようにして成立する複数の<認識対象>は、ある特定の地点から覗き見られる時、独特な関係によって規則的に配置されているように見えうる。この時、ある特定の地点から眺めやることで開かれるパースペクティブこそが諸<認識対象>を規則づけ、関係させているのである。
二・二五二四 眺めやることで開かれるパースペクティブによって、諸<認識対象>が規則的に関係することで、その規則に基づく特殊な領域が形成されることとなる。この特殊な領域は、存在論的な領域として機能し、また規則によって限定された領域である。これこそが対象領域である。
二・二五二五 ここまでで対象領域(及び形而上学的な構造主義理解)について最低限の了解は出来るだろう。ここからはさらに理解を深めるために、いくつかの喩えと具体例を通して上述した事柄が示そうとしているものに迫っていく。
       さて、<認識対象>の成立における差異による分節という事態は、夜空に星座を描く様に喩えられる。つまり、満点の星空を見上げた時に、そこには黒い背景に無数の光る点が散りばめられているわけであるが、このような状況は未分節な単一の<認識対象>としての世界として理解される。星空を世界と見なした時に、いくつかの恒星によって、星空から切り分けられる、すなわち分節されるものとして、星座が現れる。このような星座こそがこの喩えの中では、諸<認識対象>として振る舞う。このような星座たちのうち、例えば天球上の太陽通過軌道、すなわち黄道によって規則づけられるものは、黄道十二星座といい、星占いなどで用いられるわけであるが、これが対象領域に位置づけられる。この他にも、季節ごとの夜空に浮かぶ星座たちであるとか、北の空の星々であるとか、南半球の星座であるとか、こういったものが対象領域として理解出来る。
       次に具体例をいくつか挙げてみよう。生物分類における哺乳類という概念は対象領域である。我々は哺乳類について、哺乳類そのものを形象する像を描くことは出来ない。我々が哺乳類と聞いて実際に思い浮かべるのは、馬や牛やネズミや人間などの具体的な哺乳動物であって、これらの分類されるカテゴリーとしての哺乳類を描く像は思い浮かべられない。ここで馬や牛やネズミや人間などの具体的な哺乳動物が<認識対象>として理解出来る(実際にはこれらの種も具体的な個体、つまりキタサンブラックドナルド・トランプなどを<認識対象>として形成される対象領域としての側面があるわけだが)。これらの具体的な哺乳動物としての<認識対象>が、その生態的特徴によって規則的に配置された時、ようやく哺乳類という対象領域が成立するのである。
       別の例を見てみよう。諸学問は対象領域を形成する。例えば、ここで<この文章>という<認識対象>について、考えてみる。例えば、物理学が成立するような対象領域の中では<この文章>は、(ブログ記事であるから)電子機器上の表示として理解されることになる。あるいは修辞学が成立するような対象領域の中では<この文章>は、ある文法構造上に配置される。そして、哲学が成立するような対象領域の中では、<この文章>は実在論的唯我論や形而上学構造主義理解について解説する文章である。このように、ひとつの<認識対象>は様々な対象領域上に配置される事があるが、どのような対象領域に配置されるのかによって、その<認識対象>の理解は大きく異なることとなる。とは言え、ある<認識対象>がその<認識対象>である固有性が発揮される対象領域において理解されるべきである。つまり、<この文章>の場合、物理学や修辞学の成立する対象領域で見られるとき、<この文章>でなくても、同じように見ることが出来るだろう。<この文章>にとって適切な対象領域のひとつは哲学が成立するような対象領域である。
二・二五三  対象領域を限定する諸規則は様々な仕方で変更される。
二・二五三一 この変更の仕方の類型を列記することは、現時点の筆者の浅学により困難を極める。しかしながら、このような事態についての思案を以下に記しておく。
二・二五三二 諸規則の変更という事態について。この事態について考える時、筆者はクリプキの規則=共同体論であるとか、東浩紀の訂正可能性の概念を想起する。これらの諸論は、厳密にはより社会的な事柄を扱うものであり、その全てをこの対象領域における諸規則の変更という問題に適用できる訳では無い。しかし、この適用が困難となったのは、おそらく筆者による対象領域の位置づけに拠るところが大きいように思われる。おそらく元来のマルクスガブリエルの考えるところの対象領域と、上記したような分析哲学ポストモダンの考え方は、筆者の手による対象領域の位置づけよりは余程接近しやすいものである(そのことについてマルクスガブリエル当人がどのように考えるのかは筆者には分かり兼ねるが、嫌がるようには思われる)。というのも、全てに共通して言えることは、これらが語りの場の強い影響を受けるものであって、<他者>の存在を前提しているものであるからだ(なんなればこれは構造主義に関してすら同じ事情を有しているだろう)。もちろん、筆者も諸規則の変更という事態に関して<他者>の影響の大きさは尋常なるものでは無いと考えるが、この事態の成立は、<他者>の到来以前から有り得る、可能な事態として考えられなくてはならないと考える。というのも、本当に確かな事柄、すなわち「明らかにすることの出来る唯一の実在は「私」であるところの「認識主体」だけである」という頑強な足場から考えるならば、明らかに<他者>の存在はアポステリオリであり、そして世界の存在無しにはその到来は説明されないものであるからである。故に、元来<他者>ありきであった幾つかの概念に関して、これを前<他者>的な、世界の形而上学的理解のために供するのである。ここで提供される哲学的概念の多くが言語論的転回の影響を受けたものであるが、というのも、<認識対象>とは認識されるものであって、これこそが存在するものであるのだから、存在について考えることは、それがどのように認識されるかの問題であるからだ。そして、このような問題について考えるときに、果たして誰が言語論的転回の示唆を無視出来るものだろうか? 言語論的転回の唯一の問題点は、それが言語論的であるが故に、世界理解について無根拠に<他者>を前提してしまっている事に尽きるだろう。確かに、構造主義の主張するように、我々の認識にとって、言語が果たす役割は非常に大きい。それがさまざまな差異を作り出し、我々の現実世界を実際的に豊かなものにしていることは疑いようがない事実だと言って構わないだろう。しかし、それは我々が前言語的には差異を認識出来ないということを意味するものでは無い。これらは前言語的にも同じように成立する事柄だと考えられる。そして、このような前言語的成立は、諸規則の変更という事態についても生じうるものであろう。もちろん、<認識対象>の成立、対象領域の形成、その諸規則の変更は、それぞれ言語的にも成立するものである。
二・三    世界は、あらゆる認識されるものの総体である。
二・三0一  すべての<認識対象>は世界より分節されたものである。
二・三0一一 世界は、差異によって分節されることで、諸<認識対象>を成立させる。
二・三0一二 つまり、世界はその一部を切り取って、我々の目の前に現象する諸<認識対象>として現れる。
二・三0一三 全ての<認識対象>は、世界の一部である。
二・三0二  世界は始源的な<認識対象>である。
二・三0二一 「認識主体」は、すべての<認識対象>のうち、世界を最も原初的に看取している。
二・三0二二 「認識主体」に対して、世界が<認識対象>として現象する時、我々は仏教が示す空概念を会得する(厳密にはこの空概念の会得は、より神秘的な事態への入口として機能する。そのために必要な材料はここまでの議論では揃っておらず、またそのような話に関連する諸事情を勘案すると、空概念を入口とするより神秘的な事態に関してはここでは深く立ち入れない)。空概念の体得において重要な点は、無と有の同一という事態を把握することである。ここで、世界という<認識対象>の把握から空概念の会得が出来るということは、我々の日常的な存在理解を示している。つまり、世界が<認識対象>として現象している以上、有である世界の存在は看取される訳だが、これが無、すなわち存在しないことだと解されているのである。
二・三0二三 つまり、我々の通俗的な存在理解は、分節された諸<認識対象>に依存している。看取されることとなる、<認識対象>としての世界は、論理的には確かに存在するものであるのだが、その未分節な様に、日常的な現象に最適化されたいくつかの思考の癖、すなわち臆見は付いて来れないのである。臆見は未分節な<認識対象>の存在をとらえ損ね、存在しないものとして取り扱う傾向がある。その中で、仏教の空概念は、臆見によって構成される考え方の中では、存在する世界に最も差し迫ったものとなっている。というのも、空概念において有であるところの諸<認識対象>についてその起源を正しく、世界から供出されるものとして理解しているのである。
二・三0二四 一方で、世界について、それを対象領域でしかないと考えるならば、なるほどこのような対象領域はありえないものとして理解されるだろう。このような考え方に至るのも臆見の成す成果である。すなわち、対象領域は諸<認識対象>無しには成立しえないものであるから、全ての対象領域に対して諸<認識対象>は先立つ。これが先立つのであるから、対象領域は<認識対象>から構築されるものとして理解されるわけであるが、すると世界という対象領域の成立は認められず、世界は存在しないというテーゼが成立するのである。このような考え方の根本的な原因は、諸<認識対象>がそれぞれ別個にあらゆるものに先立って存在していると考えることに由来する。
二・三一   存在するものは、全て世界の内部に位置づけられる。これは我々の一般的で通俗的な世界に対する観念と一致する。
二・三二   「認識主体」は世界の内部に位置づけられない。なぜならば、「認識主体」そのものは認識されないからである。
二・三三   故に「認識主体」と世界は対置される関係にある。
二・三三一  この関係の中で誤解してはならないのは「認識主体」と世界は存在論的には対等ではないという点である。世界に対して常に「認識主体」はアプリオリである。「認識主体」は世界の開闢点として理解される。
二・三三二  一方で、認識論的には対等である。その基調は、視るー視られるの関係にある。奇っ怪な想像(つまり、まさにこの想像をする者を完全なる非存在として取り扱うような想像)で考えるならば、無なる場に浮かぶふたつの対象としての「認識主体」と世界を想像出来る。この無なる場にはこのふたつの対象しかない。──当然、この想像自体は大きな誤りに満ち満ちている。このような想像の実際は、無なる場なる物こそが世界の役割を演じ、「認識主体」は<認識主体>と化しているのだから。とはいえ、このような想像を通して、「認識主体」と世界の持つ認識論的対等性が明らかになるだろう。このような対等性について上記のような奇っ怪な想像が可能なのは、ここまでの「認識主体」と世界についての論理的整備があるからこそであり、実際的な経験としてはこの対等性を感受することは難しいものである。
二・三三三  全ての<認識対象>が世界に内包されるのであるから、我々のある種の理解として世界を基準とする区分けが成立する。このような区分けに従って「認識主体」は外世界的な点として理解され、我々の実際的な諸問題が内世界的なものであることが理解される。そして、素朴な観点からは全てが内世界的であるが故に、多くの過去の哲学者は自らというものについてもその内世界性を疑わなかった。それが世界は存在しないという誤った結論や、有益であるが不完全な世界=内=存在として現存在なる観念を成立させてきた(この点に関する過去の哲学者の誤謬を列記しようとすればキリがないだろう。それだけで哲学史が紡げる)。
二・三四   世界は始源的には確かに単一の<認識対象>であるが、現象している実際的な世界について考えてみると、対象領域としての形相を帯びる。
二・三四一  世界という対象領域は他の大小の対象領域と異なり、全ての対象領域を包含する。
二・三四一一 それ故に、世界が存在しないなどと言われることもあるが、このような言説は世界という対象領域の特殊さを見落とすことで生じる。
二・三四一二 世界という対象領域の特殊性は、世界が、対象領域であることに先立って、<認識対象>であることに起因する。
二・三四一三 通常の対象領域の成立は、その対象領域を形成することになる諸<認識対象>の把握から始まる。いくつかの<認識対象>の把握から、それらを貫くことの出来る規則が発見されることで、通常の対象領域は存在できる。諸<認識対象>を貫く規則なしに、通常の対象領域が存在することは無い。
二・三四一四 一方で、世界が対象領域として機能し始めるのは、諸<認識対象>がそれ単体では存在できないことに由来する。諸<認識対象>は経験的に常に他の存在するものから浮かび上がるものであり、これらが浮び上がる場として、対象領域が指定される訳であるが、対象領域もまた<認識対象>となる。この時、世界を除くすべての認識対象が共通して浮かび上がる場として、世界は対象領域として機能することを余儀なくされる。ここで、世界が対象領域として機能できるのは、これが諸<認識対象>の母であるからである。世界はその部分を諸<認識対象>に明け渡すことで、諸<認識対象>を成立させる、大いなる母体であるのだから。
二・三四二  我々の関心が諸<認識対象>へと向けられることにより、世界は背景化されることとなる。
二・三四二一 我々の関心が諸<認識対象>へ向けられると、我々の焦点は諸<認識対象>へと釘付けられることとなる。そのように釘付ける当の<認識対象>以外は、その<認識対象>を引き立てる背景と化す。
二・三四二二 分節化は、<認識対象>をそれ以外から引き出す作用がある。世界は<認識対象>が成立する度に、それ以外として背景化されるのである。
二・三四二三 背景化されたものも存在はしている。世界は背景化されることで視野そのものと同義になる。この事態を持って、視野を視野として捉えることはできないからと言って世界は存在しないと結論を出すのは、全く早急であると言わざるを得ない。視野に写るすべてのものは認識されており、存在するものである。視野そのものは対象領域である。それゆえに始源的には<認識対象>であるところの世界は、分節化を通してその一部を諸<認識対象>に明け渡すことで、視野として機能する対象領域として理解されることになる。
二・四    <私>は<認識対象>である。
二・四0一  臆見に基づいて、自分自身として規定される多くのものが、<認識対象>である。そのようなものについて考える時には、明らかにすることが出来る唯一の実在である「認識主体」としての「私」と区別して、<私>と表記される。もちろん、<私>として理解される全ての対象は<認識対象>であるから、その存在は「認識主体」に認識されることで成立し、世界から分節されたものである。
二・四一   これまで哲学が取り扱ってきた、自我や自己に纏わる諸問題において検討されてきたのは、<私>に属するものであった。しかし多くの哲学者が「認識主体」の特性を<私>に属する問題と取り違えてきた。身体のみならず、心や精神、意思などと言った諸問題の主題はすべて認識される対象であって、内世界的なものである。これらの内世界的な対象は「認識主体」の特性を有することは無い。
二・四二   身体と精神をふたつの実体として捉える心身二元論は、近代哲学の方向性を決定したと言えるが、もちろん、実在論的唯我論においては、両者ともに実在性は認められず、<認識対象>である。これらの自我論上、「認識主体」の特性を誤って付与されてきた<認識対象>は次のような特徴を持つ。
二・四三   身体は<認識対象>である。であるからして、これは自分自身そのものとは言い難い。身体は道具的存在として「認識主体」に指向性を与える。
二・四四   精神や心と言われるものも<認識対象>である。これらは意志に関係する機構として理解されるだろう。ここからよくあるひとつの誤解が生じる。曰く、「「認識主体」は精神や心のようなものである」。これは全くの誤りだと言って良い。何故ならば、精神や心という対象は<認識対象>であるから、その内的構造を問うことが出来るものであるが、「認識主体」に関してはそのような取り扱いは出来ないのだから。精神や心は意志と分かちがたく関係するが、意志も<認識対象>である。そして意志もまた道具的存在として「認識主体」に指向性を与える。
二・四五   <私>は他の<認識対象>に対して特筆すべき特徴を有する。すなわち、<私>は主体性を有する。身体や意志のような<認識対象>が道具的存在として生起することで、指向性を持ち合わせることが、このような事態を提供する。しかしながら、そのような特徴を持つこの<認識対象>が、なぜ特別に<私>と名指されることになるかの解説は次節にて明らかになるだろう。

 

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