美味しく喰らう

天才とは様々なものを「美味しく喰らう」存在

続・我が変化を見る/メルクマール

 今回の記事は、『我が変化を見る』の続編であって蛇足であろう。数年ぶりに『我が変化を見る』には不要な一節が追加されることとなる。それに伴って、『少なくとも時間だけは進んでいる』『青春への未練』の二つの記事も遡及的に『我が変化を見る』の続編に登録される事となる。もしかすると今後もこのような不要な追加があるのかもしれない。とは言え、しかしこれはどうやっても『我が変化を見る』本編には接続出来ない。今後付け加えることになるであろう、不要な追加にとっても事態は同様であろう。
 それでもこれを『我が変化を見る』の続編として位置づけたくなるのは、この記事が、私の人生におけるある種のメルクマールとして、記録に残されていて欲しいと、未来の私に対して思うからである。今の私にとって、『我が変化を見る』は、ある一時代を示す重要なメルクマールであるし、これからもその役割を果たし続けるだろう。
 
 私は今、おそらく人生にとって青春時代と呼ばれるに相応しい何かを過ごしているはずだ。あるいはそれはモラトリアムの延長である。私のおそらく同世代の一般的な青春よりも随分長い(長くなる予定の)この青春は、さしあたって19年11月をもって二分される。ここには明らかに断絶がある。
 この断絶は、人間関係の断絶とも実のところ異なるように思われる。全くそれを含まない訳では無いが、人間関係の変化はこの断絶を致命的なものにするわけではないのだ。つまり、青春を分断する何かとは異なる、乗り越え可能ではあるが、遠くに離れてしまうものとして、友人らとの関係性の変化は少なくないものがある。
 よくよく考えてみてら、もっぱら人との繋がりに関して、私はあまりにもコミュニティ基軸で動いてきたのだろう。それらのコミュニティは当然徐々に様々に変化をし、それはそのコミュニティの崩壊へと繋がるわけだが、そうやってコミュニティが崩壊してしまえば、コミュニティを介して人との繋がりを作る私は、友達を減らすことになる。そうやって様々なコミュニティをいろいろと渡り歩いてきた訳だが、既に失われた様々なコミュニティを思い出すことは少なくない。
 この前見た夢は、このことを強く印象付ける。高校時代から昨年に至るまでの種々のコミュニティのメンバーたちが一堂に会して、宴会を模様していたのだ。この夢を見た時、私はこれらが過去となってしまったことを強く意識した。失われたコミュニティは戻ってこないのだ。一方でその夢に出てこなかった何人かの友人は、未だに関わりのある友人で、その夢で見なかったものから、かえって現在の私の居る場所をはっきりとさせるものであった。
 ひとつの区切りがはっきりついたに違いない。これは青春を二分するような区切りとは別個の区切りではある。あるいは、このような区切りは元来日々更新されるべきものなのかもしれない。しかしあるまとまった期間が、そっくりそのまま過去として登録されたことが感慨深いのである。
 それらが過去として登録され、現在と一線を画するものとなったことで、そこへのアクセス権は制限されることとなるのだから。もはやそれらは全て思い出として語られる以外の接続を受け付けない。現在は、それらの過去の延長ではなくなったのだ。
 我々の素朴な時間観に基づくならば、全ての過去は現在に延長しているように思えるかもしれない。しかしよくよく考えてみれば、定期的な隔絶をもって、延長を寸断することで、我々は現在を現在として生きていくことが出来るのだろう。このような隔絶の契機は様々に有り得るし、そこで隔絶される過去の幅あるいは量も、様々であるし、あるいは、一度ならず隔絶された過去を、再度隔絶するなどということも有り得るだろう。これは、人生をどのような問題系によって切り分けるかの作業とも言える。
 現在進行形で、私は自らの集大成を表現しようと努めている。このような大きな脱皮を前にして、過去との決別をする契機が訪れたことを喜ばしく思う。今、新しい風が吹き荒れる。ここまでの道程が、かき消され、ただ前方へと脱出するほかなくなった。全ては荒涼とした未来に向けて投げ出せるのだ。まだ見ぬ景色を求めて。