美味しく喰らう

天才とは様々なものを「美味しく喰らう」存在

言の葉を紡ぐ

#言の葉を紡ぐ(一枚目)

言の葉を紡ぐ。
かつて見て回った様々な思考は種となり、今発芽の時を迎えようとしている。
思想的哲学的思考は留まることを知らず、その旅路は永遠とも思えるほどの長途に及ぶ。
一度は途絶え、終わりを迎えたと思ったこの道はその後も様々な過程を経て変化し続ける。その変化の度に我々は道を歩まなくてはならない。そして故に、この道は終わりを迎えることは無いのだろう。
終わらない旅路の果てというのも不思議なものだが、しかし確かに路肩の切り株に腰を落ち着けることは少なくない。今、再び歩き始めた私は一体次にどのような切り株に腰を下ろすのか。
言の葉を紡ぐ中で、きっとその切り株がどのようなものか明らかになるのだろう。
これはひとつの紀行であり、渦巻く思考を書き留めるための雑記録である。
それはかつて行った事業の続きであり、そして再現であるが、どうかこの道の先に新しい景色が広がればと思う。風よ、私を連れて行け(21/10/26)

結局のところ思考の陳列もまたある程度公開されなくては、毛玉となって絡み合い、それを解くことすら困難になる。
しかし他方で公開の仕方というものも注意深く選択されなくてはならない。
最も良いのは日記的に書き綴られたものが、無作為に発見される環境を整えるようなやり方なのだ。
というわけで、大成功を収めたかつてのやり方というものをこうして再現するわけである。
しかしその中に現れる様々な事柄はおおよそ異なる様相を示すだろう。
かつての記録に現れた言葉遣いは、引用的に再現されたりもするのだろうが、その時こそ比較するのに適した場所はないのかもしれない。
これは、かつての記録との比較を通して真に完成するものかもしれず、しかし他方でこれだけで完結すればとも思う。さぁ思考の深みに落ちていこう。その先に何があろうとも。(21/10/26)

私はおそらく2年──より正確にはそれよりも少し短い程の間隔で、非常に大きめな陰鬱な気分を味わっている。
しかしそのような陰鬱さも、記録と人との繋がりを通して、実りあるものにできるのだということを私は知っている。
そして人との繋がりが欠損すれば、そのような陰鬱さはバカになることによってしか解消する術がないのだということも。
陰鬱さの持つ重要な効用と言うのは、孤独なる時間を確保するという点にある。そのような孤独なる時間の中で自己対話が進む時、思考は飛躍的な躍進を遂げる。
そして、他者と関わる以上に、己と関わることは、広い思考の海への船出としては最適な浜辺なのだ。
しかし注意深くあらねばならない。思考の大海原に漕ぎ出さないということは、極めて愚かだが、その船路の果てに再び他者との交わりを見出すことが出来なければ、我々に待ち受けるのはただ「死」それだけだということを忘れてはならない。(21/10/26)

つまり、他者のいない思考など、島のない海のようなものなのだ。
どんなに海が心地の良いものであるとしても、陸に上がることが全く出来なければ、水の一滴すら枯渇してしまう。
他者無くして、道なし。
常に、他者というものを眼差さなくてはならないのだろう。それこそがおそらく強い実存の第一歩である。
かつての私はこの強い実存を、無我の境地より後退したものとして捉えた。確かに論理的・哲学的にはそのように見えるような事柄であっても、実践の上では全く異なる。このことを命を賭して学んだこの経験を大切にしたい。
しかしすっかりと、後退してしまったように思う。もう一度積み上げなくてはならないものが山のようにあるような感覚だ。
無我とは梵我一如と言うことであり、これらの意味する重要な事柄というのは、自己と世界が不可分一体であるという事実への自覚を理屈としてではなく、極めて強い実感として与えてくれるところにある。
問題は、そのような自己と世界の不可分一体性というものは、自己を世界内存在として扱った上で訪れるものなのか、あるいは自己というものが初めて世界を支えるという事実に基づくものなのか、はたまたそのどちらもなのかということだ。
世界内存在としての自己が世界と不可分一体であるということはあまりにも自明のように思えるが、では実際、我々は実感としてどれほど世界との連なりを理解するというのだろうか?
我々は我々の立つ視座をより良く理解しなくてはならない。本当に我々は世界内存在として存在できるというのだろうか?(21/10/26)

他者を知るためには、他者と関わり合う基点となる自己の探求が不可欠だろう。己が何者であるかということも知らずに他者と関わることはできない。
確かに習慣的にはそのような基礎を確かなものとしなくても、様々な事柄は問題なく遂行できるように思えるが、やはり正しくあろうと試みるなら、基礎を固めなくてはならない。
自己について知らないうちに他者と関わることは出来ないし、実在の措定をせずに世界について語ることは出来ないのだ。
自己とはなにか。この問題を難問たらしめるのは、自己というものは絶え間ない変化・運動の変節点として存在しているがためである。
我々は常に変化し、変化し続ける。この変化の在り方こそが、ある一方における自己である。すなわちこれは世界内存在としての自己である。それは、確固たる基盤を持たず、常に変化し、その姿を確定させることが出来ない。
このような流動性の高い変化の中で一体自己の同一性を維持せしめているのはなんであるのかということが問題になる。
これは世界内存在としての自己だけを見つめても現れえない。世界内存在としての自己は絶え間ない自己破壊を繰り返し、常に変化し続ける。
自己の同一性を担保するのは、やはり我々の立つこの視座に尽きる。すなわち認識の行為者としての我々自身というものだけが、変化から逃れ得る自己である。
このような自己というものは、認識を通して存在するが、認識を通して世界を形成してもいる。このような性質から、彼らは全く世界の内側に留まりえない、世界に対置する存在として、世界の外側から眼差しを投げかけるものであると分かる。(21/10/26)

常にあらゆる物事の基礎には自己が置かれる。それは唯一確信を持って断言出来る実在として世界説明の礎になるばかりでなく、他者と関わり合う主体としての基礎性も持ち合わせている。
問題は多くの場合、他者を自己と等しいものとして取り扱うという点にある。
自己と他者の非対称性は無視しえないものであり、この点を無視しては他者について慮ることすら困難を極めるだろう。他者は常に自己とは異なる存在であり、その異質性は、他者と関わり合うことになる世界内存在としての自己が変化し続けることになる原因でもある。
このような他者の有する自己との異質性はまず恐怖として我々の目に現前する。他者とは常に恐怖されなくてはならない存在である。それは常に異質性に起因する。
この他者に対する拭いがたい恐怖感は、他者と自己との間に錯視可能な共通性を持って克服される。
しかし他者と適切な関係を構築しようと試みる時には、他者に対する恐怖感は克服されてはならないものなのだ。(21/10/27)

他者に対する恐怖感は他者の異質性を呑み込まざるを得ない時に最も強く発揮される。そして他者と関わり合うということは、常に他者を──その異質性を喰らうということにほかならない。
自己というものは、こと世界内存在としての自己は特に、永遠に拡張するものである。自己の拡張には常に障壁が伴うが、我々はそれを喰らう。
そのように自らと異なるものを呑み込み、自己構造そのものを作り変える我々の持つ機能というものは、異質性に触れるたびに、同一性に危機を生じさせる。
このメカニズムこそが我々のホメオスタシスを毀損し、同一性の毀損によって我々は恐怖する。そしてそのような同一性の毀損者として、常に我々に外圧をかけ続けるものとして他者は存在し続ける。
我々は他者を理解しようと試み、その異質性を自己構造に内在化させようとするが、その度に他者は我々の構造をすり抜け、異質性を有した独自の構造として、我々と対等に世界内存在としての地位を確保する。
こういったすり抜ける他者を完全に掌握するには、自己と世界の不可分一体性への自覚を通して遂行する他ない。しかしそのような解決策は、実際的な他者との関わりにおける他者の掌握とは異なる、根本的な構造上の解決であって、それ以上にはならない。
実際的な他者との交わりの際には我々には常識が常に横たわることとなる。(21/10/27)

さて、常識によって、我々と他者の間に断絶が生じることをどのように考えるべきか。
他者と関わることの難しさを自己変化の要因としての他者に求めることで、自己変化に対して一程度の耐性を構築しようという試みは、結果として、自己と他者に対して常識以上の断絶を与えた。
自己は決して他者と等しくはない。その事実に屹立しなくては、他者と関わり合うことは難しい。常識はその点を覆い隠している。
変わらぬ自己だけが自己ではないということに立ち返る必要があるだろう。変化する世界内存在としての自己を見つめ直さなくてはならない。
ここで問題になるのは、世界内存在としての自己と他者の違いである。世界の外より眼差しを投げかけるものとしての不変な自己に基づく、この違いというのは一見無いようにすら見えるものだ。
しかし実際的な生活上、自己と他者の差異は明らかに生じている。一体世界内存在としての自己とはなんなのだろうか?(21/10/27)

ハイデガーは世界内存在としての我々をダーザイン(現存在)と呼び、人間としての自覚ある人間、人間的実存を有するものと規定した。
我々はそれほど人間であることを自覚しているのか、あるいは自覚出来るのかという点は疑問がある。
しかし我々の自我論は多くの場合、そのままに人間の自我論として規定される。このような人間として規定される自己は他者と自己との間の不平等性を無視している。
他者はやはり非我である。すなわち克服されるべき自我の障壁として捉えられなくてはならない。
近代的ヨーロピア二ズムの基礎的な自我規定は、フィヒテの自我論や、ファウストに代表されるような、あらゆる経験を通して、無限に拡張される自我として規定されるし、私はこの規定を支持する。
自我は無限に拡張される。その時には異質性を帯びたあの他者すらをも自己変容を通して咀嚼していかなくてはならない。
と同時に、決して理解し得ない存在として、他者は常に、現にそこにある。我々が現にここにいるように。
このような、「現に」あるものとしての、我々は、なるほど確かに現存在と呼ばれるにふさわしい。
世界内存在としての我々は反省以前に、肉体性を持ったものとしてここにいる。
そして自我の拡大はそのような肉体性を克服し、真の世界内存在足るべく、世界そのものを自我の内側に閉じ込めようと試みる無限の運動の中に放り込まれる。
この無限の運動の自覚は、この無限の世界に対して投企という形で発露される。(21/10/28)

結局のところ実存とは、無限に続く自我の拡張運動として理解出来る。
それは全世界を己が所有するべき対象として捉えることに繋がるが、おそらく全世界を所有した果てにおいてすら、自らを所有することは出来ない。
ここに自らの世界内存在としての位置づけが揺らぐ。
肉体的な自己は確かに所有されるだろう。しかし自我は?
自我と自己構造の間の隔絶も無視できない。
様々な経験が我々を構成するとしても、それらの経験は決して「私」にはなり得ないのである。
我々は自己構造を保有する。そしてそれらを保有する限りにおいて、自己構造は自我にはならない。
世界内存在として現にある我々というのは、自我ではない。自己構造こそが世界内存在なのである。
私と指さされる何かというものは、このような二面性を有する。そして、自我は認識不可能なものでもある。これらは「反省」を通して、その現象から事後的に措定されるのだ。(21/10/28)

自我は認識行為の反省的自覚を通して事後的に「現に」そこにあるということが了解される。
かつて私はそのような自我のみを「私」として規定し、あるいは「認識主体」とした。(これは唯一の疑いえない実在として、世界説明の基礎となる。)
しかしこのように他者との関わり合いの主体としての自己を考えてみると、自己の広がりは「私」には留まらない。自己の広がりは自我が所有するものにまで及ぶ。
すなわち自己はそのままに世界そのものと不可分一体なものとして理解される。
そのような自己は当然に他者を内包する。
しかし他者は常に取りこぼされる。これは何故だろうか?
ひとつに考えられるのは他者もまた世界外にはみ出た存在として捉えられる可能性だ。しかしこれはナンセンスである。
そのような捉え方は自身の在り方を無批判に他者に投影したものに過ぎない。他者と自己は等しくはなり得ないということは基礎に置かれなくてはならない。
この自/他の不平等性は他者論上無視してはならない。
他者は世界内に存在するし、それ以外にはどのような形においても存在することがない。
その上で我々がなぜ他者を取りこぼしてしまうのかということを理解する必要がある。
他者は簡単に(哲学的)ゾンビとなるが、仮にそのように捉えたとしても、対等に関わり合うべき他者としては不足なく、また取りこぼされる。
他者は他者として構造を有する。これこそが、他者を取りこぼす契機であろう。(21/10/28)

構造性。これは世界に溢れるものであり、また十分に可変なものである。
自己構造すら、様々な要因によって変わるものであるし、この自己構造はそのまま直接に全世界を覆う構造の一部として不可分である。
構造の可変性。それは比較的主体的な意志によってねじ曲げられる。ただし他者構造を除いては。
そう、他者が取りこぼされるのは、他者の構造に対して、一程度の影響の限定性があるためである。
おそらくその他の構造は様々な方法で自在に切り取りうる。(この切り取りの仕方を変えるためにはニヒリズム〈無価値化〉の果たす役割が多い)
しかしながら、他者の構造に関しては、影響が限定される。この他者構造の変革に際した限定性は一般に意志として理解されるが、おそらくそれは誤りである。
他者構造は変革できないのではなく、変革してはならないのだとしたら?
いよいよ思考は混迷を極めつつある。(21/10/28)

他者とは世界の中に設けられたひとつの聖域なのかもしれない。
我々は他者を知ることが出来ないのではなく知ってはならないものとして構造させているのだろう。それは世界の側のアジールとして機能する。
征服者は手出しの出来ない他者というアジールに常にヤキモキとする。
特に、征服する可能性が僅かに芽生えるあの恋愛においては!
しかしそのような活動においてすら、聖域は常に聖域として呑み込まれない構造を保ち続ける。
にも関わらず、それらのどれもが、我々の持つ構造と同じように世界構造の一部だと言うのだ。
つまり、他者の構造に踏み込むことが出来ないとしても、我々の構造は相互に繋がっている。
それは非人間的な他者と同じように繋がっているのだ。
なぜ人間的な他者は世界の中において聖域という特別な地位を築き上げることが出来たのだろうか?(21/10/28)

他者の持つ聖域性というのは、他者に何か「目に見えないもの」があるということを意味するものではない。
認識され得ないいかなるものも存在しないし、他者は明確に存在する以上、それは常に完全に認識されている。つまり、他者は(そしておおよそ認識主体としての自我を除くいかなるものも)「目に見えるもの」である。
では、他者の聖域性とは何か。それはすなわち触れえないという性質である。見つめることは出来るが触れることは許されない。これは未購入の商品、あるいはショーケースの中のマネキンに例えられるだろう。それらと違うのは、我々は他者を購入=所有することが全く不可能であるということである。
未購入の商品などは購入によって所有可能であるが、他者に関してはそのようにはいかない。世界の中にある様々な構造を我々は所有、すなわち自己構造に取り込むことが出来るが、他者の固有構造に関してはそれが明確に忌避される。
ここで重要なのは、おそらく取り込むことが出来ない訳では無いということである。それらは避けられているのだ。
この忌避感こそが、間接的に他者の聖域性を示す。
つまり、宗教施設というものは簡単に燃やせる訳だが、誰も燃やさないのと同じように。
世界の全てを所有しようと試み、そうするべきだと規定される、この無限に拡張される世界内の自我にとって、人間的な他者としての非我は、所有してはならないものとして現象しているのだ。
そこには象徴と想像の差はない。ただ現象だけが揺蕩っているのだ。
我々が手を出さない/出せないものとして他者は無限に遠い。(21/10/29)

さて、我々は時として他者を所有せんと欲望する。
そうすなわち恋愛である。
恋愛にまつわる諸現象は、やはり他者との関わり合いの中では特に極端な症状を示し、そこから学び得るものは、自己についてに関しても、他者についてに関しても極めて多くの事柄があるだろう。
恋愛は常に哲学の入口となる。
さて、恋愛においては時に他者のその聖域性を破壊するほどの情念が働く。他者への干渉度合いが恋愛ほど高くなるのは子育てくらいなものだろう。しかし子育てにおいては親と子/大人と子供の間にある構造量の差によって、親/大人が干渉権を有することになることは容易に想像がつく。
翻って恋愛の場合、本来的にはそのような干渉権を有するだけの優位性をどちらかが発揮する前提環境が有り得ない。さらにまたこの干渉権は双方が互いに対して有している。
つまり、対等な他者として、他者性の持つ聖域性を破壊して回るのだ。
重要なのは対等な他者としてということだ。
他者性の持つ聖域性というのは、他者と自己と非対称性に依存する。
恋愛においてこれらが破壊可能であるのは、この非対称性が解消されるためである。
この非対称性が解消される時、自己は強制的に世界内存在として存在していなくてはならない。それも他者と全く変わらぬ世界内存在として。
果たしてそれがどのようなことなのか。今ひとつ私には実感が掴めない。(21/10/29)

少し話は変わるが、言語学にはシニフィエとシニフィアンというものがある。
シニフィエとは、言葉によってイメージされる対象そのもののことであり、シニフィアンというのはそのような対象を指示する言葉そのものである。
さて、シニフィエとシニフィアンを「目に見えるもの/見えないもの(=想像/象徴)」の分類で区分する時、「目に見えるもの(≒認識されるもの)」というのはシニフィエの方である。
シニフィアンをシニフィアンのままに認識するということは極めて難しいことである。私たちは言語を利用する時には、言語によって指示される対象の方を認識している。
当然、意識をしてしまえば、シニフィアンをシニフィアンとして認識することは容易い。
どちらをも同時に認識することも出来る。
そのような意味では、言語にまつわるあらゆるものは「目に見えるもの」である。(21/10/29)

他者(構造)の所有は原理的に不可能なのか、習慣的に忌避されているのか。
これがどちらであるかによっては、恋愛において生じる人間関係上の諸現象に関する説明は全く真逆の方向を向くことになるだろう。そしてそれは恋愛だけではなく、あらゆる人間的な他者に関しての措定ともなる。
原理的不可能性に関して言うならば、おそらくそのようなものはありえないと断言するべきだ。
つまり、他者と他者の持つ構造というものは、全世界に張り巡らされた全構造の一部であることを止めることは全くこれこそ原理的に不可能である──仮に可能であったとしても、もしも他者の構造が全世界の構造と乖離するようなことがあれば、それは認識不可能なものになるのだから、存在できない。存在しないものから存在するものについて論じることは出来ない──し、そして世界構造の一部を占める限りにおいてそれは非我としてたち現れるし、非我は当然に自我によって克服できる。
つまり、むしろ原理的な示唆は、他者が所有可能な対象であることを示している。
しかし、実際にはそのようなことは全く不可能であるかのように他者は現象している。少なくとも我々から見た他者というもの──そして彼の構造は、まるで一握の砂のように、掴んだと思ったその瞬間にはその手からこぼれ落ちるものである。
この現象が生じる要因の一つとして、構造を食することによって、構造を自我構造が引き受けるというものが有り得るだろう。
すなわち掴んだ他者は掴まれたその瞬間、自我の一側面として他者性を解消してしまうというような在り方で。
このように考えると、他者の聖域性は、この他者性の解消と深く関係するように見えてくる。
我々は他者を世界に存在させることを選択しているように思われる。(21/10/29)

恋愛における一部の病的な現象は、つまり、一種の矛盾の中でのたうち回っていると考えてみると容易に理解し得る。
すなわち我々は他者を他者として存在させるためには、彼らの構造を呑み込むべきではない。しかし他方で、他者とより分かり合おうと試みる時には、互いに互いの構造の一部を切り取って食べさせ合わなくてはならない。
これが、全ての構造を呑み込み、彼から異質性を奪い取り、他者性を奪い取り、自我そのものに咀嚼しなければ、──つまり、構造の一部に留まる状態では、相互の構造に限定的に影響を与え合うことが出来る。
このような相互に他者の異質性を消化し、同一性を獲得していく人間関係上のイベントというものは、多く、そしておそらく多くの場合、多大なエクスタシーをもたらす。
そう、恋愛においては、このようなエクスタシーを最大化させるべく、相手の全てを呑み込もうと試みるのだ。そして呑み込んだものは他者ではなくなってしまう。
しかし、相手を他者として、それも対等な他者として、見続けなくては、恋愛状態を保つことすら出来なくなる。
そこで、呑み込んだものが、すぐさま他者ではないことにされることで、他者の延命が謀られる。
つまり、一種の驚異的な飢餓状態として、恋愛時の人間の精神性が説明される。
なるほど、仏陀が説いたように、このような愛というものは忌避されるべきだろう。(21/10/29)

健全な恋愛とは、互いの異質性を健全に維持しながら、相互の構造を交換していく営みにあると言えるだろう。それは農耕的な食生活とも捉えられる。さらに強い贈与性も有する。
両者は互いに自らの構造を成長させ、異質性を維持しながら、適度な収穫期において、その一部を刈り取り、交換する。
ここで交換することになるのは、単に構造のやりとりとは与える/与えられるの二分法ではないためであって、経済性を有しているわけではない。むしろ自然科学的な作用反作用に近いものを想起するべきだろう。
つまり、自らの成長を相手に捧げることになるという点において、贈与性を強く有することになる。
さて、このような自らを捧げるべき相手というものは、何も恋愛だけに限ったことではないように思われる。ただし、恋愛以外においては常に様々な非対称性が付きまとうことになるだろう。
そう、恋愛の最も特異的な地点とは、自/他間の非対称性が解消されるというところにある。しかし、実際にはそのような恋愛は稀なものであると言える。
自/他間の非対称性が解消されないような恋愛は病的な、すなわち著しい飢餓を生み出すことになる。
ここにより良い恋愛における振る舞いというものが垣間見えるだろう。(21/10/29)

#言の葉を紡ぐ(ニ枚目)

さて、私は基本的に唯我論を基礎とするが、なぜ唯我論が採択されるのかということを説明する必要があるだろう。
多くの場合、唯我論は極端な観念論として理解されるが、私が主張するような唯我論は、実在論的唯我論と呼ばれるのが相応しい。
つまり、唯我論の基本的な主張──私のみが存在すると言うことがどのようなことかという点に関して、これは何が実在するのかという問いに対する回答として示されるということである。つまり、私のみが存在するという話は不十分で、より正確には私のみが実在するという話として捉えられなくてはならない。
ここで存在することと実在することの違いというものが重要になる。
そもそも、全てあらゆる現象は、これは何らかの実在するものによって説明されるし、説明されなくてはならない。これは世界説明上の基本的な原則である。その実在が確たるものでないいかなるものによっても現象の説明とは不十分なのだ。
確かに現象を現象として捉え、それだけを説明しようとする動きは多い。エポケー(判断停止)と呼ばれるものだが、これの最大の問題は、その現象の説明が果たして正しい説明であるかということに関してすら、判断を停止しなくてはならなくなるという点である。ひとつの現象に対しては、様々な説明アプローチが試みられる。しかしその中には当然に適当ではない説明が混在することになる。そのような説明を排除する手段は、最終的には何が実在するのかということが規定されていることによって可能となる。
実在と存在という語は、日常的な用法上は確かに混同されるものであるが、その最大の要因は、日常的には何が実在するのかということに関して、常識に基づく共通了解があるとされているためである。
つまり、厳密に何が実在するのかということを考える時には、このような混同は、峻別されなくてはならない。
そして、この何が実在するのかということに関して、私はただ我のみが──認識主体としてのみ実在するという回答をするのである。
故に、全てあらゆる現象は、認識主体を通して説明されなくてはならないわけである。
ではなぜ認識主体が認識主体としてのみ実在すると言えるのか?
それは懐疑論に根差す。懐疑論に根差すことの正しさは、実在というものが疑いえないものとして規定されるが故である。つまり、疑いなくあると言えるなんらかからしか、他の様々な現象は言及できないのだ。(21/11/01)

メタレベルな言説の読み取りとは文脈によって決定される。
例えば「その牛は危険である」という言説が、目の前にその牛が指示する対象がいる上で、言われるのであれば、なるほど、それはこの牛から離れろという意味を有するかもしれない。
しかしオブジェクトレベルにおいて全く同じ「その牛は危険である」という言説が、例えば小説の中などに出てきた時には、この牛から離れろなどというメタレベルの言説は読み取れない。仮に読み取るのだとしたら、それは端的に誤った読み取りであろう。
あるいは何らかの説明として、「この牛は危険である」などと言われた場合にも、この牛から離れろなどという意味を取り出すことは出来ない。
メタレベルとはすなわち文脈である。
さて、私の唯我論に関して、〈わたし〉だけでなく、〈あなた〉も〈認識主体〉になるとの愚かしい誤読が為されているが、これはおそらくそもそもオブジェクトレベルの言説を意図的に無視することによってはじめて生じる極めて不誠実な読解に他ならない。
というのも、〈わたし〉が「認識主体」であるときには、その〈わたし〉(より正確にはそのようなものは「私」とされるべきだが)の見るあらゆるものが存在であるという話であって、ここにどのような〈わたし〉を代入しようとも、その意図することは何ら変わりえないからである。
オブジェクトレベルの言説に忠実であろうとするならば、〈わたし〉と〈あなた〉が同時に同じ世界において「認識主体」であることは無い。
しかしここの点を無視するならば、なるほど、上記のような愚かしい誤読は生じうる。
そして〈わたし〉と〈あなた〉が同時に同じ世界において「認識主体」でない以上、唯我論の言説があることによって生じるナンセンスさは錯視であると分かる。
さて、またメタレベルな言説の誤った読み取りから、唯我論が暗に自我が他者に依存しているなどというこれもまた愚かさの球体であるかのような誤読が為されているが、そもそもこのような誤読もやはり文脈を読み取れないことに依存するものであろう。
唯我論の正誤について他者の判断を必要としているというのは端的に誤りである。唯我論は端的に正しい。問題は唯我論によって世界にある各種の現象を隅々に渡るまで論理的に説明できるのかということである。この論理的な説明に関してはなるほど他者からの意見というものは意義がある。しかしそれは唯我論そのもの、つまり認識主体が実在していることに対して及ぼす影響は極めて限定的である。
唯我論がそもそも言説であるが故にナンセンスであるなどと言うのは全く誤りである。この根拠に君はメタレベルの言説などというものを持ち出したが、このメタレベルな言説の根拠になっている実在するものは私以外にまで広がっている。このことがナンセンスという錯視を生み出しているし、このような錯視の最大の原因は世界説明(形而上学)に対しては世界説明(形而上学)でもってしか反論できないという基本原則を忘却しているためであろう。
認識主体の実在を否定するには、外界実在の証明だけが有効に作用するし、そんなことは全く不可能である。(21/11/02)

さて、言語以前の領域が言語的な構造を持っているのは不自然だと言う話があるが、であるならば、物理学において数学が使用されることというのが不自然だということになるだろう。
しかしそこに不自然さはない。
というのも、数学であるとか言語であるとか、これらは言語以前の諸現象を写し取るために用意されている側面があるためである。
日常言語においてはそのような写像機能は著しく低下するが、論説における論理的な説明に関してはその写像機能を最大限に生かさなくてはならない。
言語の側が、非言語を模倣しているのであって、その逆ではない。
言語以前の領域が言語的な構造を持っていることを不自然だと考えるのは、これらが独立して存在するなどという愚かしい妄想に由来する。(21/11/02)

何が実在するのかということが、そしてそれだけが、世界説明一般の基礎である。
この点を判断停止すれば世界説明は全く不可能である。
ある世界説明がナンセンスかどうかということはその世界説明がその世界説明の内部体系の中に置いて矛盾を含んだ時にはじめて言うことが出来る。
外部から別の世界説明を引っ張って、ある世界説明がナンセンスであるなどということは至極当然の極みである。
そのような形である世界説明を棄却するためには、その持ち出してきた世界説明の正しさが明らかにならなくてはならない。
その点を明らかにせず当然の前提のように用いるのは不誠実極まりないだろう。(21/11/02)

問題となるのは現象としての正しさでは無い。
ある現象を説明するにあたって、その説明が根拠のある前提を、それも否定できない前提を用いているのかということだ。
前提の確からしさが明らかにならなければ、その前提に基づく現象説明は他の現象説明によって取って代わられる余地があるということこそが問題なのだ。
そして形而上学的に正しい前提は唯我論それだけである。
そして形而上学的な、すなわち世界一般に関する説明は、その他の個別的具象的事柄をも説明できなくてはならないのだ。
それはつまり、ある個別的具象的説明が、形而上学に基づいていない時には、形而上学を否定できないということを意味する。
つまり、それは形而上学的な正しさ、すなわち前提の確からしさが明らかでないような、どのような現象説明も不十分なあるいは限定された説明でしかない。
例えばマルクスガブリエルの用語を借用するならば、そのような限定性こそが対象領域という形で指定されるのだ。(21/11/02)

マルクスガブリエルは世界は存在しないと述べたが、彼が述べる意味の場/対象領域によって区別されるような構造を持つ、全認識対象は、それこそそのままに世界となるということを彼は失念している。
結局のところ、認識主体は意味の場/対象領域に対して、決してその内側に存在することは出来ず、外側よりそれを見るばかりなのだ。
しかしそのような世界の在り方そのものが、我々が世界に対して主体的に関わるための契機を与えてくれる。
我々は世界の外にいるからこそ主体的に、能動的に、そして積極的に世界に関わりうるのだ。(21/11/04)

さて、ポストモダニズムは、誤読を必然的に生じるものであるなどという愚鈍なる結論を下したが、やはりそれは意図的な文脈・オブジェクトレベルメッセージの無視に基づく人為的な操作に基づいている。
あるメッセージ、例えば「この牛は危険である」というメッセージの持つメタメッセージは、その一文がどのようなコンテクストの中に置かれているかによって複雑に変容する。確かにひとつのオブジェクトメッセージから複数のメタメッセージが読み取れ、これが当初の意図に基づくメタメッセージとは別のメタメッセージとして受け取られることは、必然的な誤読であると言える。
しかしそのようなあり方では無い、すなわち既に全く異なるコンテクストに立脚したようなものの見方を通して、メタメッセージを読み取るなどということは、必然的な誤読などではなく、意図的な読み間違いでしかない。これを愚かな文章の読み方であると言わなければ一体なんだと言うのか。
芸術について語るために顕微鏡を持ち出すことがあってはならないのだ。そのようなものでは芸術については語りえないのだから。
そしてこれはあくまでも意味の場の違いでしかない。ある意味の場で有効な手法が、ほかの意味の場では有効ではないからと言って、全てが語りえないものになるのでもなければ、それによってコミュニケーションそのものが成立しない訳でもない。
テクスト論は確かに多く有効な示唆を与えるが、自らの立脚する世界観とテクストの提示する世界観が異なる時には、テクストの問題はテクストに則して考えられなければ、一方的な世界観の押しつけにしかならず、そのようなものは批判とすら言えない稚拙なものであると言えるだろう。(21/11/04)

ひとつの言説はおそらく常に客体として世界に召喚されるものである。
ある言説が、複数の認識主体によって認識されているということは、分かり得ないものである。故にそのようなことが成立していないと考えたとしてもそのようなことが成立している場合と同じことが言えなくてはならないだろう。
これはつまりどんなに他者が自らと同じような主体性を有しているように見え、またそのように考える方が説明がつけやすいのだとしても、彼らにそのような主体性があることを証明できない以上は、それらが無いとしてもそれらがあるときと同じように諸現象が捉えられるべきであるということである。より簡略に述べるならば、すなわち、他者が例え(哲学的)ゾンビであったとしても我々のコミュニケーションが問題なく成立しているという話である。
そのような意味では、例え唯我論という言説が、本当の意味では共有されていないものだとしても、なんら問題はないし、むしろ共有されていないものだと考えられる方が適切である。
徹底して自らの主体性を他者に認めない、自己と他者の非対称性を強く自覚することが、唯一、唯我論を適切に読み取る鍵である。この点において、それらを認めないというならば、そのような人は他者の主体性の証明──それは当然に外界実在の証明へと繋がるものだろう──を果たさなくては、唯我論に対する批判たり得ない。(21/11/04)

言語以前の世界が言語的に説明されたからと言って、その世界がアプリオリに言語的構造を持つ、ということを意味する訳では無い事は、少しよく考えてみれば明らかなことだろう。このような自明な事柄を取り違えるのは、ひとえに言語的構造のアプリオリ性を無自覚に前提している点にあると思われる。
アプリオリなものはただ1つ。この認識主体の実在のみである。そして私たちに分かることはたったこれだけである、すなわち、私たちは何かを常に認識している。(21/11/04)

実在は存在の意味を説明するものではない。実在は存在そのものが存在しているということそのものを説明するための基礎である。
まさに言語的なあるいは意味的な事柄に注視し、様々な事柄を無自覚にアプリオリなものと措定した上で為されたその諸批判全体が、端的に、全く異なる形而上学に基づいてなされていることを示している。一体君がどのような世界説明を持っているのか、それを君は全く明かさずに、(実在論的)唯我論とは全く異なる世界観でもって(実在論的)唯我論がナンセンスであるなどと述べる訳だが、そんなもの笑止千万である。
君は自らがどのような世界説明を前提しているのかをまず自分自身の手によって明らかにすることで自覚するべきだろう。
具体的にどこだと言うが、そもそも批判全体が唯我論的世界観に即していないというその点において、全く異なる世界説明が見え隠れするのだ。
非体系的な世界説明の集合であってもさしあたり困ることはないかもしれない。しかしそれらは体系的な世界説明を批判するための道具にはならない。ミクロな反例がミクロな反例として機能するのは、マクロな前提が等しい時のみである。(21/11/04)

さて、ここで実在という語のより詳細な定義を示すべきであろう。
ここで述べるような実在の定義は、何も実在論的唯我論に置いて用いられるような実在に限る話ではない。
さて、我々は一般に、「存在する」/「存在しない」という語を使う。これについて先ず考えよう。
あるものが存在するかしないか。これはある意味の場における顕在/潜在の差として捉える。
つまりある意味の場において存在するとされるような事柄が、別の意味の場においては存在しないとされうるのだ。
では一体そのような顕在/潜在の規定とはどのようになされるのか?
それはつまりある意味の場において前提されている「実在」に依存する。
ある意味の場が規定する「実在」によって説明・構築される存在は顕在する。そして「実在」によって否定されるものが潜在する。
つまり、実在とは、存在を説明または構築するものとして理解出来る。
さて、ここで実在論的唯我論が実在をなぜ認識主体であると規定するのかという話をしよう。
顕在するものも潜在しているものも、これらはあくまでも意味の場においてはそうであるというものであって、世界全体の中には等しく存在している。
あらゆるものが存在しているわけだが、これらはどのようにして説明されるべきなのか。もっと言うならば、世界はそもそもどのように説明可能なのか。このことが問題となる。
そこで世界説明に使用可能な、つまりあらゆる存在を存在として成立させうるような、何か(=実在)が探究されることになる。
懐疑論は、疑い得るあらゆるものに関して、そのような大任を引き受けられないものとして棄却する。唯一、何かを認識しているこの認識主体だけが、実在として措定され、その上で、「存在とは認識されることである」として、世界説明が果たされる。
この世界説明は唯一確固たる、仮定ではないような実在として機能する。そしてこれは明確にされなくてはならない。
(実在論的唯我論において)実在は全く存在していない。(21/11/04)

世界内存在であるところの現存在が実存的生を全うするにあたって重要なのは実在ではない。存在である。
存在の意味とはつまりその実存的生によってこそ規定される。実在の話はあくまでも存在を存在として成立させるために必要な世界の前提であって、我々の実践的な諸生活との接続は、存在と向き合うことでようやく始まるのだ。
そしてやはり現存在が存在と向かい合うに際しては、現存在の持つその肉体性というものは無視しがたいものである。
我々の根本的主体性が世界の外側において無次元的な様相を呈するとしても、その根本的主体性は現存在の肉体性を通して、世界内の遍く存在に働きかける。厳密には現存在の肉体性というものもまた我々の根本的主体性の働きによって初めて生じるものであるが。
我々は肉体性を有するこの現存在をマニュピレーターとして使役する。我々と我々の現存在性の関係性とはそのような自己と他者の非対称性と同じような関係性を持つ。
このような点において現存在もまた他者として屹立する。他我的な他者との最大の差は聖域性がないことと言える。この聖域性が解消される要因は現存在のマニュピレーター的使役に由来するだろう。
そして現存在が肉体性を有することは現存在の有限性を規定する。その最たるものは死である。そう現存在は肉体性を有するがために死への先駆を我々に与えるのである。
世界内存在的な死と言うものはすなわち世界内に与える有限性を規定することにほかならない。
この有限性の原初は他者の聖域性に求められるだろう。(21/11/05)

恋愛は他者を屹立させ自らの有限性を自覚させる。そして死はその有限性の行きつく果てを示す。
このように考えると、恋愛と死は有限性のふたつの端点として理解出来る。
そしてそのような有限性の自覚が哲学においては大変に重要なのではないだろうか。
メメント・モリ──死を想え、この格言を忘れてはならない(21/11/05)

恋愛と死、このふたつの有限性は家族へと結びつく。家族とはすなわち有限性に対する克服の仕方のひとつの方法として機能する。
家族に対しては公共が対置されるとも言われる。それは公共には有限性が排されていることに由来するだろう。
近代ディストピア小説の多くが、公私の対立を描いている訳だが、これは非有限的な文明社会に対する対抗として有限性に基づく男女に希望を見出すような構図として現れている。
しかし、忘れてはならないのは、ひとつには家族というものは有限性に対する"克服"として機能するという点であり、またもうひとつには、公共は個人と社会を必ずしも直接に結びつけるものでは無いという点である。
家族とはすなわち社会共同体の最小構成単位であるのであって、個人と社会を架橋するために重視されなくてはならない基礎共同体であるということである。
この基礎共同体の解消は権力による個人の支配を強化するために用いられるべきであって、この家族という基礎共同体が体制に対するアジールとしても機能するということを見逃してはならないだろう。
そのような示唆に富んだ小説としては二十一世紀日本のディストピア小説、『百年法』があげられるだろう。
我々の有限性の自覚は血縁関係によって克服されようとしてきた。近代国家からは排除されてしまった有限性を今一度よく思い出されなくてはならないだろう。いかなるものも悠久の彼方へと旅立つことはできないのだ。(21/11/08)

共同体が持つ諸関係が家族的であるという指摘は実際のところ権力の生成メカニズムに従って必然であると考えられる。
家族とは常に最も原初の共同体である。家族には既に権力の在り方が記載される。
この権力の在り方は、いかなる共同体を用意しようとも(たとえそれが権力を否定するような無政府主義であったとしても)、参照されることになる。
この参照性こそが各種の理想国家を部族的たらしめているのだろう。
個人と社会の間にある対立とは、たった一つ。有限性と非有限性の対立である。(ここで社会の側をあくまでも非有限性として規定するのは、ある意味では社会もまた有限的であると捉えうるからである。社会が果たして無限でいられるのかということは全く不明であると言わなくてはならない。)
そして開かれた社会というものこそ、有限性を基礎に構築されなくては現れ得ないものである。
そのような観点からいえば、家族というものを軽視しあまつさえ敵と断じてきたプラトン以来の潮流は徹底的に批判されるべきだ。
家族こそが、自由で主体的な責任のある個人を育み、そのような家庭を背景にした各個人の自立的な諸関係を基礎とする公共性こそが真に開かれたアゴラを創出するのである。結局のところ公共の開放性とは閉鎖的な家庭を有してはじめて確立するものであって、家庭が解消された先には、開かれた閉鎖性が立ち現れるに過ぎないのだ。
このような極めて簡単な批判は当然既に哲学史上に輝いているはずだが、残念ながら浅学の身である私の目では捉えることができない。
もしもこのような議論がようやく現代において始まったというならば私は人類の愚かさを今まで以上に嘆かなくてはならないだろう。(21/11/08)

雨。まだ止まず。
思考の波は穏やかに静まる。しかし未だ私は世界の外。
この私が「私」であるとすら言いきれない以上、世界内存在としての肉体性及び有限性からは遠ざかる。
虚無な時間がやってくる。現代資本主義社会が生み出した長い長い虚無の時間が.......(21/11/09)

#言の葉を紡ぐ (三枚目)

私は結局のところ、いつまでも変化を畏れていたのではないか? あの試みは、むしろ私から変化を奪っていったのではないか?
たしかに、あの頃から比べれば、私は変わっただろう。時の流れは否が応でも我々を変えていく。しかしその変化は、──はたして、主体的な、能動的な、意志によって勝ち取った、掴み取ったものと言えるだろうか?
今では酒も煙草も嗜むが、制度が設けた壁を、ただ時間によってのみ乗り越えただけだ。
私は変われているだろうか?
もう5年近くも唯我論にしがみついている。変化について考えた先にあったのは変化しないものだった。
私は変われているだろうか?
2年前の悲劇を、今も繰り返すことは無いなどと、そのようなことを断言出来るだろうか?
私は変われているだろうか?
多くの友人が私の元にやって来ては離れていった。彼らが変わっていっただけなのではないか? この相対性は私の変化を覆い隠す。
いつからだろうか? 生きることを変化することから認識することと言い出したのは。
私はここ最近生きていただろうか? 私たちは何をしていたのだろうか?
変化よりも認識の方が安易だ。私はそのことをよく自覚しているだろう。それを"弱い"実存と呼ぶのだから。しかし実存と言うことで、この安易さを肯定してしまっているのだ。それが強い実存、より正しい生のあり方から私を遠ざけては来なかったか?
遠ざけて来たのだ。その結末は──あの悲しい結末は既に訪れていたではないか! それでもなお、あれから私は変わっていない。あの時の実存性を失ったどうしようもない体たらくな私──醜態を示した私から今の私はおそらく何ひとつとしてこれっぽっちも変わることができていないのだ。
変わるためには女神を必要とするのだろうか? 否、彼女は刺激になるだけだ。本当に変わるためには己の内側から燃え上がるあの炎に包まれて焼け死ななくてはならないのだ。
世界は変わらない。世界は変えられない。だから自分が少し勇気を出して変化しなくてはならないのだ。それだけが、私たちを本当の居場所へと導くのだ。変化を畏れないこと。それがコンパスになる。
私は変化を畏れた。畏れてしまった。変化の中で変わる自己に耐えられなかった。決して変わることのない自分を見つけ出そうと試みた。その試みは大成功を修めた。
そして私は、不変を──認識主体という不変を、ただそれだけを己としてしまった。そのような己にはもはや内側はない。全ての炎は外側でただ燃えているだけだ。もはや私にはそれを呆然と眺めることしか出来ない。
かつて世界を喰らおうと試みた日々は(栄光なるファウスト的衝動よ!).......遠い。果てしなく遠い過去。そして追憶。
生に、死に、他者に、真剣に向き合っていた若い自分が今の私に憐れみを投げかける。
くだらない達観など、具体的な行動が伴わないのならば何の意味も為さない。愚かだ。と。
行動によってのみ自らを証することができる。(21/11/11)

世界はいつだって不条理だ。どこまでも。
それはどのような世界であったとしても変わらない。
そんな中では誰もが様々な困難に直面するだろう。しかしその事態は救われなくてはならないものなどではないはずだ。
結局そのメサイアコンプレックスはどこまでもエゴイスティックなものなのだ。
例え自分が他の誰よりも何かを知っている、あるいは力を持っていると確信したとて、人の力はそんなものを容易く越えていく。
不可視境界線の彼方へ!
救わなくてはならないと思っているその対象こそが私を助けるのだ。
「誰かが君に救ってくれと頼んだのかね?」
確かに導き手が必要な時もあるだろう。しかし導き手となれるものと言うのは、常に唯一裁定者のみなのだ。英雄ではない。青い毛の猿ではなく、片腕の猿こそが導き手だった。
「それは出来ません」
世界のルールを書き換えることは出来ないかもしれない。しかし世界のルールを知らずに生きるよりも知って生きる方が良いだろう。ブロックは下に運ばれ、夢は閉じ込められる。
「それだけさ」
そしていざと言う時には、本当に力を必要とする瞬間には、足がすくんで動けなくなる。
「最後の一瞬まで──信じていました。私にはそれしか言うことが出来ません」
そして約束は違えられる。
「もう一回友達になろう」
その約束が違えられたのは、進んだからなのか、進まなかったからなのか。変わることができなかったのか、出来たのか。
しかしもう死にかけの鳥を見捨てることはない。(21/11/11)

私はどこかで虹色を諦めた。
おそらく2年前に。もしかしたらそれより少し前かもしれない。はたまた一度もそれを渇望したことはなかったのかもしれない。
灰色を生きるしかない。この諦観は、燃え上がるはずだった炎をかき消した。
それでもまだ火種は燻っていると信じたい。
世界を変えることは出来ない? 否、我々の衝動は、絶え間ない運動は、実存は、世界を創り変える原動力となる。
世界が変えられないのだとすれば、それは我々自身の怠慢に他ならない。
常に虹色への道は開かれている。歩いたすぐ側からそれらが灰色に染められるのだとしても。
私たちは知るべきなのだ。自身の可能性を。たとえそれが確率に過ぎないとしても。
私たちは知るべきなのだ。世界の可能性を。既存の枠を破壊できる事実を。
思考はそのための道具だ。ものの見方を変え、自らの在り方を変えていく。そして生きる時、自ずと世界も変わるのだ。
認識は、認識の実存性は、世界に新たな構造を付与するという点にあったはずだ。それは既にある構造の新たな切り取り方などではない。全く新しい構造の付与だ。
世界をありのままに見る。これは知らなかった事柄を知らなかった事柄のままに呑み込むということだったはずなのだ。あるいは分節された別々のものを別々のものとして受容することだった。
類型化をしてしまえば、「名」を与えるならば、その時点で我々の認識は固定化されてしまう。それは認識の実存性を換骨奪胎するものだ。可能性を破壊する。
「名」に囚われるな。自身とそして君に向けられたかつての私のこの叫びをもう一度思い出すべきだ。
認識の、私たちの、実存性を護ろうとした彼の言葉を。(21/11/11)

本当に私は変化を畏れたのか?
むしろ変化をいかに受け入れるか、つまり変化を畏れなくても良いようにしたのではないか? そしてそれは成功してしまったのではないか?
愛されたいと願っても、もはや誰も決して私を愛することはできない。それができる者は私から権能を奪い取ろうと試みるあの暴力的な女神だけだろう。
あらゆる変化は外部と化した。
変化することそれは美しいことだったはずだ。虹色は美しいものだ。
「私は綺麗な美しさが欲しい」
この願いはもう随分と遠くなってしまった。素朴な美しさとは善であり正しさであった日々は、女神が私を殺そうと試みたことで変わることに迫られた。
その結果私は美しさを捨てた?
いまもう一度美しさについて考えるべきだろうか?
正しさと美しさが両立しないのだとしたら.......
あるいはあの純粋な美しさが私を拒んだということをもっと真剣に受け止めるべきだったのだ。
そこから逃げ出すのではなく.......
否、逃げ出したのだろうか?
むしろあの美しさが私を拒んだ理由は、私自身があの美しさに匹敵しえたからでは無いのか?
私はいつの間にか自身の美しさを信じなくなっていたのではないか?
しかしもはや私は美しくないだろう。仮に匹敵するような美しさがあるのだとすれば、それは世界と共にあることによって初めて立ち顕れるはずのものだった。
女神はそのことをよく理解していたのだ。
だから全てを奪い取ろうとしたのだ。
もう一度対峙するべきなのだろう。世界と共に。
まずは世界をこの手に取り戻さなくてはならない。
この世界は、私のモノなのだ。(21/11/12)

自己の有限性は世界と対峙する限りにおいて顕れない。
自己の有限性とは自己=世界の有限性であって、その外部は世界の側にはない。世界は全て自己によって掌握されている。掌握されなくてはならない。
ではそのような中で一体どこに自己の有限性が生じうるのか?
それにはまず生きるということを考える必要がある。
これは世界の中で生きるというような限定された生の在り方ではなく、常にどのような点に座していても訪れるような、そのような生の在り方である。
すなわち最も弱い実存、認識である。
生きるとは、確かに片一方では変化することそのものであるが、この変化するとは、世界の変化であって自己の変化にはならない。
自己はあまりにも確固として認識行為を遂行し続ける。
しかしこの認識行為は自己そのものを成立させる必要条件とも化す。
この認識行為が自己の実在性を確保する橋頭堡であって、認識行為をしなければ実在性は解消することとなる。
この認識行為によって確保される実在性が、限定された実在性となり、有限性として立ち顕れるのだ。(21/11/16)

非有限的な、あるいはより限定的な生。すなわち、世界内存在としての、無限への投企としての生こそが、他者との間に投げかけられる生である。
このような生のあり方をする自己の様相はフィヒテが述べたような非我を克服する無限性であり、あるいはファウスト的衝動そのものである。これらをまとめてファウスト主義的生と規定して良いだろう。
これこそ、生きるとは変化することであるという規定を引き出すような生の在り方である。
このような生の在り方は、自己の認識主体としての世界に対する圧倒的優位性に基礎づけられるものである。
このような生はそれだけでは倫理的にならない。
つまりこのような生の在り方においては、他者とは自己を構成する一要因として取り扱われ、その他者性は解消されてしまうためである。
生は確かにその在り方をファウスト主義的に取るが、しかしまた同時に我々は倫理的でなくてはならない。
これらを成立させるためには、他者を聖域として世界に残存させることにしなくてはならないのである。
ともすれば他者を簡単に破壊し、飲み込んでしまうファウスト主義的生。その非倫理性から逃れるために、我々は不断の努力によって他者の聖域性を維持しなくてはならない。これこそがあらゆる倫理の目指すべき事柄であり、倫理の始まりである。(21/11/16)

このような他者の聖域性は神の手によってはもちろん当然に破壊されていく。それは神が超越者、あるいは絶対者としての立ち振る舞いを認められた存在だからに他ならない。
特にこのような聖域性を破壊して回るような神というものは、セム系一神教的な神の重要な特徴の一つである。
つまり他者の聖域性を維持しようと努めるに際しては、あのような神のなすような事柄を決してしないということは重要な指針のひとつとなるだろう。
倫理的な他者との関わり方とはすなわち徹底した対等性にある。
社会的な役割を除いては、人を上にも下にも置いてはならない。
例えば、通常それほど非倫理的とはみなされないような、同情などというものは極めて問題のある他者との関わり方である。
一体誰が人の心持ちを完全に分かりえるというのか!
我々が嘆く人にできるのは一緒に嘆くことではなく、嘆く要因を自分のできる範囲でこの世界から取り除いていくことに他ならない。
その時には自分というものは世界内にいるその他者と対等な自分としてたち振る舞わなくてはならない。世界の外側から世界のあらゆることを見渡せる認識主体としての圧倒的優位性を持った自己としてたち振る舞うことは徹底して非倫理的態度として退けられなくてはならない。
事実としていかに自我が世界に対して優位であろうとも、人との関わりにおいて人として振る舞う在り方では無いのである。(21/11/16)

「かわいそう」は最上級の侮蔑的発言に他ならない。
このような憐憫を投げかける同情なるものは、徹底して自己をその"かわいそう"な他者の上位に立地させる非倫理的な態度に他ならない。
社会的な役割においても、「かわいそう」を基底にして果たされることはおそらく全く認められないだろう。
権力が群衆に対して「かわいそう」などとそのような同情で機能しだしたとしたら.......
考えるだけでもおぞましい権力の在り方である。
憐憫とは、それをするだけで、自己を他者の上位に立地させるということを忘れてはならない。憐憫は単に自己の優越感を満たすための行為である。(21/11/16)

美しさに触れるためにこそ、私は世界をありのままに見るという荒唐無稽を称揚し、実践し、そしてついに触れたのではなかったのか?
やはり美しさとは語りえないことなのだ。
世界をありのままに見るとは、つまり全く無構造的な世界認識に立脚するということに他ならない。
それは我々の日常的な言語的認識を一切禁止するし、言語的な認識が断たれる以上、やはり語りえない。
しかしこれらの語りえない事柄を語ろうと試みる芸術というものは肯定されて然るべきであろう。それがどれほど神を冒涜するものだとしても、まさにその神を冒涜しようと試みる点においてそれらは最大級の賞賛を受けなくてはならない。
語り得る事柄の最も際というものは唯我論である。
語り得る事柄、すなわちそれはロゴスな訳だが、これらは正しくなくてはならない。
そして他者との関わりに関しては正しさ以上に善が強調されるだろう。
言の葉を紡ぐ以上、美に対してはどんなに善処しても不完全な冒涜的表現を並べ立てる以上のことはできない。言の葉を紡ぐ時には、正しさと善悪を考えることしかできないのだ。
美はもはや個人の超越的体験に帰属するべきものであり、どんなに他者の言葉を参考にしたところで、それらの言語的枠組みを越えて直観的な実体験を通してしか触れることは出来ない。
このようなことを私は既に5年以上前から主張していたはずだ。(21/11/17)

美とはある意味ではまさに狂気そのものである。狂気に耐えることが出来ないのであれば、美など極めることは能わないだろう。
美と政治の親和性の高さもまさにこの狂気にこそある。
美的政治の結実した際のあの熱量というものは、このような本来的には共有不可能に思われる狂気を共有することで生じると言えるだろう。
狂気! これは正気なんかよりもよほど正気であるということである。
狂気! これは得がたいものをこの手にするというファウスト主義的帰結である。
狂気! それこそが我々のこの先の道標に他ならない。(21/11/17)

狂気とはやはりコミュニケーション可能性の断絶のことに他ならない。美も固有な生もそのような狂気性を多々孕んでいる。そしてこの狂気性は明確に倫理にまで及んでいる。
かつて私は寓話的な形式において倫理、特に利他的な有り様の狂気性を仄めかしたが、このように美に関する議論を辿り直すことで、他者論において重要視しなくてはならなかったコミュニケーション可能性とは全く別の地点にも同じように倫理的な源泉があることを思い出した。
すなわち倫理は、一方においてはコミュニケーション可能性を前提として構築されると共に、他方ではコミュニケーション可能性の断絶された領域にその源泉を持つことになる。
コミュニケーション可能性が断絶された領域からコミュニケーション可能性による構築への架橋は一体どのように果たされるのだろうか?
やはりそのような架橋を考えるにあたって重視されるべきは、他者の聖域性に他ならない。
この他者の聖域性の最も完全な形での維持とは、他者を分節化=テクスト化しないという方法によって顕れる。つまり他者に対する名付けの否定。そこに対する沈黙こそが、狂気なる倫理の態度と極めて合致する形で創出できるはずなのだ。
さらにそこから他者との対話を通して、「共に」世界を分節していく(当然その世界の中には私もあなたも含まれる。このタイミングにおいて名が与えられ、他者の聖域性は完全な形ではなくなる)実存を通して、コミュニケーション可能性が開かれるのではないか?
これらのコミュニケーション可能性の在り方が最終的には公共性の構築にまで至ることは想像に難くない。(21/11/19)

我々の物心がついた時から既に他者の聖域性は十分に穢されているのだろう。
我々が真に公共心を確立するためにはむしろ自らをよく知らなくてはならないのかもしれない。
自らをよく知ることは、他者の聖域性を回復させることに繋がりうる。
やはり他者の聖域性は、他者を未分節なものとして扱うところにある。他者を分節化した先の最も悲惨な結末は差別だ。黒人、エタ、不可触民、(特に一時期の)ユダヤ人、オタク、LGBTQ、etc.......
これらの差別は最も行き過ぎた他者の分節化に他ならない。そしてこのような分節化は残念なことに、分節化された当事者もが受容してしまう程のものである。それほど我々にとって分節化とそれがもたらす属性の付与は強力な束縛をもたらす。
当然このような分節化は悪性ばかりが強調されても誤りではあるが、我々が一個の他者と向き合う時には全く悪性の他に有するものはないと断じても問題はないだろう。
名を与えることは我々の理解可能な存在として他者を自我に取り込むことであり、決定的に他者の聖域性を破壊するのだ。
そしてこれはまず自らに名が与えられることによって始まる。
公共性の最も基礎的な単位は個人だろう。しかし共同体の最も基礎的な単位は家族である。家族とは与えられた名に縛られるものである。家族とはそのままに名である。これら家族という共同体の基礎的な単位は他者の聖域性を穢すことで、全く異なる神聖さを名に与えるものに他ならない。
ここに公共性と共同体の差異がある。これらは両立しえないのだろうか?(21/11/24)

しかし他方で、他者を他者としてこの世界に顕現させるためには、名付けすなわち分節化を必要ともする。他者の聖域性の完全な担保とは、他者の聖域性を踏み壊すことと同じ効果をもたらすのだとすれば、他者の聖域性はどのようにすれば最も十全に担保されるのだろうか?
構造の囲いがなくなってしまえば、他者を他者として認識することすら出来なくなるだろう。
ある他者構造の囲いには名前が与えられる。それは一種の分節化として理解出来るはずだ。
つまりもしかすると他者が他者として存在することそのものが聖域性を傷つけているのかもしれない。
いや、しかしそれはおそらく誤りだろう。
この傷つけはあくまでも世界の聖域性の損傷に繋がるものであって他者とは区別されて然るべきだ。
何らかの他者の名によって成立する構造をそれ以上分節化するべきではないというところで、他者の聖域性の担保は落ち着くであろう。
つまりそれは名付けの禁止ではなくレッテル貼りの禁止ということになる。
また同時に誰かに聖域性を傷つけられたくないのであれば、自己紹介は自己の名を示すだけに限られるべきでもあるのだ。
だが、名前というものは既に一種のレッテルとして機能するということがただただ問題だ。
多くの場合には、名前はレッテル貼りとはならないだろう。しかし複数の名前を持つ主体にとってはひとつの名前は自身の全ての構造的な囲いを掌握している訳では無いのだ。
この名前の複数所持こそが、この問題をややこしくする。(21/11/26)

おそらく聖域性こそが人格の源である。つまり我々は──我々がそれぞれにそれぞれの世界を統制する認識主体であるときには──他者の人格をいとも容易く破壊できる。
そしてそのような惨い行いは、歴史を見返せば(それは世界の歴史に限らないだろう。自分自身の胸に手を当て、自身の行いを振り返れば、すなわち自分史においてすら)、簡単に表出してきたことが分かる。
名前の認識とはひとつの分節不可能性の認識とならなければならない。
仮に一人と思われるような主体的扱いを施される存在に名前がいくつあろうとも、それぞれの名前はそれぞれの名前としての人格を有する。そしてそのような人格を不用意に一人と思われるということによって統合することもまた、分節不可能性を犯す、つまり聖域性を破壊する行為の一つである。
分節化の禁止とは、そのものを世界の一部として取り扱うことすら禁止するほどのものなのだ。(私は前節に至るまでまさにこの点を見落としていたと言えよう。分節という言葉にあまりにも惑わされていたと言わなくてはならない。)
このようにして、名前を軸に分節化を禁止することで、そのものを主体として取り扱うことの出来る条件が整えられ、世界に存在する事柄は、実在する事柄、すなわち世界外の存在としての認識主体と同等の外世界性を獲得する。
しかし注意しなくてはならないのは、この外世界性(あるいは人格性)は、唯一絶対の認識主体であるこの「私」の強い実存によってようやく担保されるものであるという点である。
認識主体が実存を失えば、たちまち世界に散在する実在達は存在へと回帰し、認識主体は再び孤独の道を進むほかないのだ。
ただし、一体そのような孤独は避けられなくてはならないものであるのか? という点においては私は多少沈黙しなくてはならないだろう。そのような孤独を通して見る世界の美しさはまた格別のものであると言えるからだ。
しかし仮に言の葉を紡ぐのだと言うのならば、言の葉を紡ぐ限りにおいて世界を最も美しくするのは、絶え間ない実存によって、存在を実在させ続ける、すなわち名のある者を全く一切いかなる分節にも晒さずに、一個の人格として受容することによってのみ有り得る。
そしてこれこそが名前の神聖さを齎し、そのような神聖なるものを与える行為を至高のものとし、共同体に特別な価値を与えるのだ。
そしてまた公共性の醜さが顕となる。そこでは全く一個の人格など尊重されない。誰もが同じ人間というカテゴリーに括られ、そしてそのカテゴリーによってのみ権利を与えられるのだ。そうして公共的空間にはその神聖さを喪失させられた分節化された存在だけが転がることとなる。
当然このような空間は健全なものとは言えない。
この不健全性は、簡単に覆る。我々は他者の人格的な名前によって認識することを通して、他者の聖域性を回復するからだ。
公共性は容易く共同体へと変貌する。これこそがあるべき人間的な社会に他ならない。
この点現代の資本主義社会というものは、まさに人間疎外をしていることが分かる。市場という公共性は未だに共同体に回収されていないのだ。
これは端的に人間の人格的尊厳をまさに市場は毀損し続けているということを示している。マルクスは正しかったのだ。
我々がその実存を失うことを恥と思う程の分別があるのならば、このような状況というものは打破されなくてはならない。
そう全ての市場を回収する巨大な共同体、ウォーラーステインの言う世界帝国の存在が我々の実存の集約となるだろう。(21/11/29)

名前によって確保される聖域性の最も特異な特徴というのは、すなわちその代替不可能性に他ならない。
そしてそのような代替不可能性は公共性の場においては明らかに毀損される。
そして劇場という場においてはこの代替不可能性と代替可能性が複雑に絡まり合うのだ。
それはすなわち舞台の上に置いて、役の代替不可能性と役者の代替可能性が、そして観客席においては常に代替可能性がひしめいている。
我々の実感のある生活において関わりあうことになる多くの他者は代替不可能性を有する。しかしそれと同時にその社会的なロールの中において、家族や恋人などの極めて特殊な例外を除くのながら、そのロールを演じるべき他者というのは常に代替可能性を有しても居るのだ。
この代替性によってある他者の名の重要性が変節すると共に、その場が公共性の場であるか共同体の場であるのかということは大きく変わる。
それと共に、大きな共同体の中にはそれが包摂する小さな公共性があることが明らかとなる。
他者が持つ複雑な可能性に関して、我々は一体それをどのように規律させることができるのだろうか?(21/12/06)

#言の葉を紡ぐ(四枚目)

レヴィナスがあまりにも神秘を対象へと宛がって称揚するので、私もまた再びあの女神へと接近しようと〈渇望〉してみよう。
まず第一に認識主体としての自我というものをこれまで以上に深く考える必要があるかもしれない。しかしひとまずその作業は棚に上げ、「この私」としての「私」=「認識主体」をより抽象的かつ普遍的に取り扱うために、ここでは単に「認識主体」として取り扱うことにする。
このような「認識主体」の取り扱いとして注意を必要とするのは、まずこの「認識主体」はどこまでも「この私」=「私」であって、「あの私」=〈私〉=「他者」とはならないということを留意しなくてはならない。そして次に、今まさにこれを書いている私も、今まさにこれを読んでいる君も、おそらく等しく「認識主体」として取り扱えると仮定しているが、その仮定の中に置いてすら、これら2つの「認識主体」がひとつの世界を共有しているという訳ではないということにも注意を払う必要がある。我々は互いに別の世界の「認識主体」としてその世界に君臨しており、そして世界は異なる「二人の主人に仕えることはできない*」。
これは一方が「認識主体」として君臨するその世界においては、片方はあくまでも彼の対象としてしか認識出来ず、またその世界においてはそのような存在に過ぎないということを意味するものである。
さて、このような注意点を抑えた上で「認識主体」一般の性質を示そう。
まず彼はその世界における唯一の実在であると言える。彼の世界は全て彼自身の認識の支配下に置かれ、その認識対象は全て彼に所有されている。
次に彼の実在性はそのような認識行為によってのみ唯一保たれるものである。彼は認識を辞めることも出来ないし、そしてそれゆえ死ぬこともない。彼はただ一点認識をすることを除いてはその生のために必要な一切の制約を持ち合わせない。
ここで注意が必要なのは全く唯物論など認識主体の性質を読み解くにあたってはなんらの意義もなさないナンセンスでしかないという点である。中にはこの認識行為を肉体による制約を持つものと考える者もいるかもしれないが、肉体による認識システムは既に認識された認識対象として成立するのであって、認識主体そのものを示せない。認識主体を認識によって示すことは全くこれは不可能であって、この認識主体について語る術を与えてくれるのは、まさにこの認識をしているという我々「認識主体」の行為でしかない。
さて、我々が認識することを辞めることはおそらく自発的には全く不可能であると考えられるが、しかし一方で、我々の死は、認識することが出来なくなることによって到来すると予測される。認識することが全く不可能になってしまえば我々「認識主体」は実在性を失い、「認識主体」であることを保てなくなるだろう。
ここに「認識主体」の不完全性が明るみになる。世界の内側に浮かぶいかなる認識対象も全くそれが実在性を獲得する契機を持たないことに対しては、実在であるという圧倒的優位性を誇る「認識主体」も、その実在性は限定的にしか与えられていないのである。彼はあくまでも限定実在である。
この「認識主体」の不完全な実在性から我々はこのような推測を可能とする。すなわち、完全なる実在性の有資格者たる超越者=神に対する観念の獲得である。
我々はこのような神が存在、つまり認識対象として我々のような不完全な羊を教導するべく現前するかについては全くその答えを持ち合わせない。そしてまさにそのことによって我々は神に対するいかなる思考をも最終的には放棄せざるを得ず、ただその超越性に対して畏敬の念を生じさせるだけに留まらざるを得ない。神について語ることはその真に厳密なる超越性の前において不可能となる。「語りえないことについては沈黙しなくてはならない**」のだ。そしてまさにそのような沈黙こそが神の超越性を示すことになるだろう。「黙る」こともまた「語る」の一種なのだ。
このような真に超越的な神との合一は望むことすら難しい。まさにそれは神の気まぐれによって起こり得る可能性を除けばいかなる可能性も皆無であると言えるだろう。
梵我一如と呼ばれるような合一はあくまでも、(認識主体が所有し、把持する)世界全体と認識主体の合一であって、この世界全体は全く一切の実在性を持たない。このような合一は、実在性と存在性の合一であって、限定実在と完全実在の合一では無い。まさに認識主体の限定的な実在性そのものが、存在の総体であるところの世界全体との合一を可能たらしめる。そして合一を通して、世界全体を存在出来ないものとしてしまうのである。しかし他方で常に世界全体は認識主体の手によって存在し続ける。このような存在しながら存在しないような世界の明瞭な現前こそが空と呼ばれるものであり、そしてそれは梵我一如と呼ばれるような合一によって獲得されるのだ。そして世界の側が存在しながら存在しなくなるように、認識主体の側もその実在性をよりあやふやなものとして空に溶けてゆく。これこそが無我である。
認識主体と認識対象の完全な一致とはこれもまたひとつの神秘であり、語りえないことである。この説明全般の影に潜む沈黙こそが最も判然とこの神秘を示しているのだ。
そしてこの神秘によってさらに完全実在たる超越者の超越性が明らかになる。
彼女はこのような神秘的合一に全く巻き込まれないことにその最大の特権性があると言えるだろう。それはすなわち、認識主体が彼女を所有せず、把持していないことを明瞭に示すのである。
彼女は全くいかなる条件によってもその実在性を失わない。それこそが彼女の存在条件に他ならない。このような存在条件は、彼女以外の全ての存在の条件と異なる。彼女と認識主体以外の全ての存在は認識されることによって存在するし、認識主体の存在可能性は棄却される。認識主体はただ実在するのみであり、彼は存在する必要を有さずそしてまた存在出来ない。
超越者は、存在する必要を有さないが、しかし我々の想起する観念に基づいて限定的に存在として扱われるが、その存在の根拠はなく、ただ実在性を失わないという性質だけが彼女を規定するのである。
そのような彼女との対峙は、認識主体が世界に対峙するのとは全く異なる非対称性を持つ。
彼女は、認識主体の一切の眼差しを拒否する。それは認識主体のそのような眼差しこそ、その眼差しを向けられるものを所有し、把持する契機に他ならないからだ。彼女は認識主体の一切の眼差しを拒否すると共に認識主体に対して一切の関心を示さない。
関心を示すことは、関心を示した相手を所有する契機となるが、彼女は認識主体を所有しようと試みないのである。これが既に全く異なる形によって彼を所有し、把持しているためであるのか、あるいは所有-被所有というような関係項を持つことそのものを拒否しているのかは分かりえない。
しかし所有-被所有というような関係項を有するのだとしたら、我々の実在性そのものがおそらく毀損されるであろうし、となると彼女は認識主体を含む世界全体を有する、よりメタ的な認識主体に過ぎなくなってしまうだろう。そのような認識主体性を彼女が有したら最後、彼女の完全実在性は毀損されると考えられる。よって、おそらく認識主体と超越者の間にはなんらの関係項も築かれないと考えられる。
そのような神秘に対して、認識主体ができることなど何も無いと言える。信仰だけが認識主体と彼女を結ぶ唯一のか細い糸でありながら、彼女はそれを拒絶するのだ。
*マタイによる福音書 6章24節
**論理哲学論考
(21/12/16)

虹色と灰色、すなわち非日常と日常、あるいは狂気と正気は、正しくバランスが保たれなくてはならないのだろうか?
あるいは単に虹色ばかりを称揚しても良いのだろうか?
染まるべき虹色とそれを穢す灰色の間で私は考えなくてはならない。
ここ数日の私は全く素晴らしいほどの灰色の園を謳歌した。他者との関わりを限定してもなお広がるこの灰色の荒野の中で、空に浮かぶ虹色の月の光から目を逸らさなければ、罪悪感から逃れることは難しかっただろう。
しかし、その光から目を逸らし続けることは出来なかった。あの虹色を直視しなくてはならない時、この灰色の大地に留まらざるを得ない自らを省みて、考え込むのだ。
私の友人には狂気を酷く嫌悪し、遠ざけるものもいるが、それは本当に遠ざけなくてはならないものなのだろうか?
進んで飛び込まなくてはならない地平なのではないか。
果たして私はあの虹色に染まることが出来るだろうか?
かつて、私は虹色の中にいると確信したことがあった。それは長く続くことのない一瞬の虹色であったが、忘れることは出来ない虹色である。しかし私はその虹色を随分と灰色で穢れさせてしまったのではないか? この恐ろしい警鐘は、私を再び虹色への道と誘うにたるものである。
しかし灰色を捨て去ることもできないのだ。灰色の中でしか得られないものがある。そう、「他者」と彼と関わる上で避けられない「倫理」である。虹色への飛躍は、他者と倫理からの逃避ともなってしまうことを考えると、今の私にはあまり推奨されないのかもしれない。しかし、おそらく両方が全く同時に必要なのだろう。
あの虹色の光をこの灰色の大地スレスレまで近づけなくてはならないのだ。
これこそ、最も過激な狂気に他ならないのかもしれない。(21/12/16)

やはり文章というものは一気呵成に書き上げられなくてはならないのだろう。ひとまとまりの文章はひとまとまりの思考的連続と結び付けられなくてはならない。
一度溢れ出した言葉は二度と戻ることのないものだ。紡がれる言の葉を1枚足りとも逃すべきではないのだ。少なくともこの紀行録においては。
考えよ。そしてそれを言の葉にすることを怠るな。ここ数日の怠惰は目に余るものであった。全てを兼ねることが出来なければ研ぎ澄まされた実存は訪れない。(21/12/16)

やはり、近頃常に問題となるのは、自らのその世界内存在をいかに確立するのかという問題である。これが確かな形で屹立しなければソリチュードはありえない。しかしながら、自己の世界内存在性は、世界内に佇む──そしておそらく彼らは少なくともアプリオリに異邦人としては定立されない──他者との関わり合いによって、ようやくその存在可能性を切り拓くことが出来る。
このような他者を必要とする世界内存在としての自己にとって、果たしてソリチュード(孤独)は可能なのであろうか? ロンリネス(孤立)やアイソレーション(孤絶)は、まさに他者との関わり方の様態としても理解できるし、アレントに曰く、この単独性の様態がソリチュード(孤独)へと至る契機たり得るらしいが、ソリチュード(孤独)な自己とは、一方に純然たる異邦人として、決して世界内に馴染みえない、形而上学的な、外部的に捉えられる、自己を必要とする。
これは全くの疑問であるが、ハイデガーにしろ、レヴィナスにしろ、アレントにせよ、私たち自身の、世界内存在性を、ある程度前提可能な所与のものとして自己に与えている。これが私には全く理解できないのだ。
世界内存在性は他者によってようやく定立できるものであって、それ以前に、決して世界に与することのできない「この私」=「認識主体」がアプリオリなものとして必要ではないか?
果たして過去の哲学者らが、私の持つこの問いにいかなる解答を与えているのか、私はそれを知らない。(21/12/21)

世界内存在としての自己は厳密には自らたりえないだろう。「根」を張り、「わが家」とするべきこの世界で、どれほどそのようなものを築いたとしても、それはどこまでも仮住まいなのだ。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。
これはもしかすれば洋の東西における死生観の差なのかもしれない。無常観の中でうたかたの人生を送る我々は、一体どうすれば、「根」を張り、「わが家」としてこの世界を闊歩出来るというのか。
まさにこの世界の内側に仮住まいを建てることが精一杯であるというその点において、私たちは永遠の異邦人としてこの世界を漂うほか無くなるのである。自らとは何かという問いもまた、このような無常観と共にあるだろう。
これは単に文化的な差異に収斂されてはならない。根本的な形而上学的な差異として哲学の文脈に乗せられるのである。(21/12/21)

世界内存在の灰色性と認識主体の虹色は世界によって架橋される。
まず認識主体がある。認識主体はその生の権能として認識をし、その認識によって世界全体が生成されることとなる。この世界全体はひとまずにはみな他者として生起する。この他者ばかりの世界全体の中に異邦人として飛び込み、「根」を張り、「わが家」とする〈私〉は世界内存在としての〈私〉に由来する。
〈私〉もまたひとつの構造の囲いに覆われた他者である。このような構造の囲いは世界の内部に存在することでようやく可能となる。
つまり「私」と〈私〉の結び付きには、「私」によって生成された世界を必要とするのだ。そして〈私〉について、そこから考える時には、当然のように世界は前提されたものとして生起している。
世界の一部こそが〈私〉であってこれは様々な〈他者〉との関わり合いによって、その構造の囲い(自己構造)を"変化"させていく。
この自己構造の変化こそがやはり世界内存在としての自己の生の根源的な運動である。
この世界内での変化は認識主体の意志によって生起する訳では無いのだ(認識主体の意志などというものがあるとは到底語りえない)。それは〈私〉の意志でしかない。実存は「私」に基づいては始まらない。〈私〉から始まるのだ。(21/12/22)

「私」によっては喰らうことは出来ない。
喰らう、これはハイデガーの言うところの視(ジヒト)と等しい。すなわち実存である。より厳密には「私」が喰らうことをしたらたちまち〈私〉が現出し、そしてその権能はたちまち〈私〉のものとして、その成果を〈私〉に書き込み続けることになる。この喰らうための基礎には「私」による世界の認識が必要である。
「私」の権能は常に視ることにある。ここで視る=視(ジヒト)=喰らうという誤った定式をしてしまい、錯誤に陥っていたのが、ここ数年の私の大きな過ちであろう。
視るは、ジヒトや喰らうといった事柄とは大きくかけ離れた、やはり形而上学的な権能である。ジヒトや喰らうはあくまでも存在の権能なのだ。
この過ちの修正こそ、真に研ぎ澄まされた実存では訪れないだろう。
そして問題は喰らい方、ジヒトの在り方にあるし、そしてそれは世界すなわち他者との密接な関係の中でようやく考えられることとなるのだ。(21/12/23)

喰らうとは構造の捕食に他ならない。それは自己構造の無限の展開である。これは原始的な〈私〉の欲求に他ならず、その意思は次のように言えるだろう。すなわち「世界を私色に染めあげる」。
今再びこのような地平にたち直さなくてはならない。異邦人であることを隠し、泡沫の中で「根」を張ろうと試みられなくてはならない。この世界を「わが家」として闊歩しなくてはならない。他者からの眼差しを浴びながら、それすらをも喰らわん。
共同体的な、あるいは一対一的な関係における、他者との対峙のあり方においては、その「名前」を中心とした聖域性を尊重しなくてはならない。
しかし公共的な、あるいは大勢の他者との向き合い方は、どうすれば良いのだろうか?
大勢の他者の中にあって、〈私〉はあたかも「私」的な振る舞いを再開することになる。「私」に対して倫理は追求されない*が〈私〉に対してはその限りではないだろう。
「私」的な振る舞いは非倫理性を孕む。しかし公共性の中における〈私〉はそれが「この私」であるがために、そのような非倫理性を回復させてしまうのだ。
大勢の他者に囲まれた〈私〉にとっての倫理的な振る舞い。それはひとつの実存でなくてはならないし、それは最終的には行為によって示されなくてはならない。それはつまりおおよそあらゆる倫理には持続可能性が必要であるということでもある。持続性のない倫理は、最終的には世界内存在としての〈私〉を否定し、または世界そのものを否定することに至るだろう。
全ては幸福に向けて捧げられることになる。
*「私」は結局のところ〈他者〉との対峙を欠いている。これらは決して対等な関係に立つことが出来ないが故に倫理を取り結ぶことも出来ない。(21/12/25)

大勢の他者という漠然とした存在者達に取り囲まれた時、果たしてその全てが〈私〉に対して視線を投げかけるのか? と問うならばその答えは否となるだろう。故にハイデガーは彼らを傍らに常に居合わせるものとした。
しかし特定の他者とはっきりと対峙する時、〈私〉は彼に聖域性を認める。これはもっぱら名前を通して認められる。それはつまり彼の構造が名前によって世界から無限に遠ざかり世界から脱色された異邦人として、この私の世界に訪れた客人と認めるということにほかならない。
大勢の他者という漠然とした他者は、少なくともその第一の在り方としては、決して異邦人ではなく、客人としては認められないだろう。彼らは私の世界に属した何かである。
人が他者を把握するためには、その他者の固有の構造性を信じなくてはならない。そして倫理は彼の眼差しが彼の固有な構造によって私を裁くことを信じることで始まる。
そもそも眼差しを向けることがない何者かは私とは関係しないし、関係しない以上裁くこともない。多くの場合、傍らに常に居合わせる彼らは、いつでも私に眼差しを向け、彼固有の構造を用いて私を裁くと考えられる。
このような裁きを私が下すことは当然に非倫理的であろう。私は他者とその聖域性を崇める限りに置いて決して他者を断罪することなど許されない。
しかし仮に他者がおおよそ全ての大勢の他者がそのような非倫理を私に向けることによって私に倫理性を与えるのだとすれば、そのような倫理に持続性はあるだろうか?
倫理の始まりのその前にこそ倫理的であるための最も重要な源泉がある。しかし、倫理の始まりにおいて他者の非倫理が私に倫理をもたらすこの倒錯を放置してはならないだろう。特にポリスの中での倫理においては誰もが倫理的である理想像が倫理の持続的な在り方として求められることになる。
では他者による裁き、断罪を除いて如何にして倫理が始まるというのだろうか?
おそらく私は今、誤りに満ちた言説を並べ立てている。明らかにされていない事柄のいくつかを解明の道具として使役してしまっている。しかしこの誤りのうちに正しさへと繋がる道があると信じよう。(21/12/28)

倫理は他者による断罪より始まるのではない。他者に対して彼固有の構造をこの世界とはパージされた独立の構造であると認めるところにある。
故に歴史は、これはことごとく非倫理的にほかならない。批評家はむしろ他者を世界の中に閉じ込めようとする。これは必要なこととは言え悪である。
しかし大勢の他者に対してその独立な構造を認めることは容易いことではない。名前を知る程の関係性においてはじめてこの倫理は達成される。
それでもなお、我々は他者を世界構造の一部として理解してしまう。このような非倫理的な「私」の特権性はある程度〈私〉にも引き継がれてしまっていると考えなくてはならないだろう。そしてそれを停止してしまうことは、単に生そのものを困難にするリスクを負ってもいる。
人間だけが他者になる訳では無いのだ。全く世界から全てを取り除くことすら有り得るかもしれない。しかしそのように全てを世界の外から訪れる客人として取り扱うことは単に偽であると言わなくてはならないだろう。その偽性に倫理があるのだと言うのなら、そのような倫理にサステナビリティは無い。
サステナビリティのない倫理には当然価値がない。つまり、他者の構造を世界の内側に留めつつも、なおそれが客人としての他者と向き合うだけの可能性を残された状態の構築、これが持続可能な倫理への鍵となるのではないか?
いくつかの条件を1度整理する必要がある。再び混乱が始まっているだろう。他者の両義性に翻弄されてばかりいる。他者の重要な性質とはなんであろうか?(21/12/29)

二年前の悲劇に対する「実際的な反省」? そんなものをするべきなのは本当に私であると君は本気で考えているのか?
実際的な反省? 実際的な反省!
あの件における、私の実際的な問題は徹底して実存の喪失というただ一点に集約される。コミュニケーションの問題など全く考慮にも値しないものだ。
仮にあの二年前の悲劇が、コミュニケーションの問題なのだとすれば、そんなものに問題性は皆無であるし、実際的な反省など全く不可能だ。君にはあの二年前に関して実際的な反省をする余地が幾らかあるだろうが、私にとってのあの時における実際的な反省は徹底して実存の問題であり、他者を他者として認識するという認識論上の問題である。
そもそも私たちの間ではおそらく二年前の悲劇に関しての認識が異なる。あの悲劇における私に与えられた罰は、「過剰な復讐」などではない。あの「過剰な復讐」──その具体的な内容を言うならば、それは殺されかけ血尿を出し殴られて顔を膨れ上がらせたというような内容だが──は、私にとっては大した問題ではない。なんならこのこと自体は私にとっては問題ではないのだ。(世間的には十分問題ではあろうが、それが世間的にどのように見えるかということと、私が抱える加害性や問題性とそれは関係ない)。
私にとって、あの二年前の悲劇において、与えられた罰は、罰を与えたのは、君だ。君の裏切りに他ならないのだ。
なぜ、君は私の元に戻ってきたのか? 君の当事者意識を問うにせよ、あの記憶を共有しようとするのも、つまりはこの問いに答えよということにほかならない。なぜ、君は私の元に戻ってきたのか?
あの放浪の4日間やまさに送られてきた絶交のメッセージこそが、あれを悲劇たらしめているのだ。過剰な復讐がそれを悲劇としたのではない。君が、そう君が、二年前を悲劇として屹立させた張本人なのだ。
故に問わなくてはならないだろう。なぜ、君は私の元に戻ってきたのか?(22/01/01)

悲劇を通過儀礼にすることが「非倫理的」であると言っているがそんなことは当たり前である。歴史は既に非倫理的であるし、君は歴史的な認識をする人間だ。
その「非倫理性」は単に君の認識傾向上の問題である。(22/01/01)

共同体を成立させるための「記憶」とはつまり共通の思い出のことであろう。思い出がポジティブなものだとしてもネガティブなものだとしても、それが思い出として機能する限り、共同体を結束させる効果を保つものになるだろう。この思い出とは共同作業ということも出来るだろう。
これらの思い出が傷であるかどうかなどどうでも良いことだ。なんなればこの思い出は過去でなく、現在進行形でも構わないし、なんなら未来に対しての共通の思い出であっても共同体を結束させるに足るものである。(22/01/01)

#言の葉を紡ぐ (五枚目)

他者は「触れてはいけないもの」である。それは「読まれるもの」ですらない。全くの暗箱として取り扱われるべきものである。
聖域性が世界から分離されることが重要なのは、それは聖域性が保持していなくてはならない分節不可能性の外側に対して与えられる条件を満たすためのものである。聖域性の最大の特性は常に分節不可能性で彩られる。その分節不可能性は一切の分節から逃れなくてはならないのであって、それは世界の一部としてそのものがあるなどということが認められない所以である。
他者がその最低の条件として世界から蹴り飛ばされなくてはならないのは、我々はそれを全く分節不可能なものとして取り扱うそのためにこそであって、蹴り飛ばされる諸構造が名付けによって決定されるという話なのだ。名付けのその瞬間にはそれはまだ他者としては生起していない。この名付けによって世界から分離され、そしてその分離されたことすらが忘れ去られた時、それはようやく他者として生起することになるのだ。(22/01/01)

ちなみに最近の個人的な課題は、非共同体構成員を如何にして他者として生起させるかという問題である。(22/01/01)

資本主義社会の中にあってすら、企業は共同体として機能する。
共同体の重要な要件はその共同事業性にある。
しかし企業共同体はその構成要員を十分に代替可能なものとみなしている。
ここに公共性への開かれが可能している。(22/01/06)

カテゴリー、すなわち数多の他人をひとつの類とみなすような、そのようなあり方こそが公共性の場において人間に発動される。
ここで個人は他の個人と交換可能なパーツと化す。そのような公共性の場において個人は固有の構造を持ちえない。共通の構造だけが公共性においては示される。
しかしそのような中でも、自分に対してはなお固有な構造を認めることが出来る。このような公共性の中に浮かぶ自分は、一種の異邦性を持った、孤独な自己として現前する。これが他人と私との間に、〈世界〉と「私」に似た非対称性を与え、非倫理的関係の契機となるのだ。
しかし〈世界〉と「私」との関係との大きな違いは、「私」が〈世界〉に触れることを断念するのとは違い、私は他人に触れられる、すなわち他人を現象として把持することがいつでもできるという点にある。そしてこの把持は、他人に対しても認められるのだ。〈世界〉は決して「私」を見つめれれないが、他人は私に触れうる。
この触れうるということは時に断罪としても認められるが、重要なのは断罪ではない。まさに相互に触れ合えるという点において、「共に」現象するという事実が、現実存在するこの世界の内側の〈私〉にとって重要なのである。
ここで倫理は構造性の規定を踏み越えたところで発動し始めることになる。それは「手」のあり方、あるいは「道具」の用い方、あるいは「道具」そのものの条件、などといった仕方で現れるだろう。
公共性は固有性を認めないが、しかしその触れ方という点において他人に固有性を付与する余地がなおあり続けるのだ。(22/01/12)

多くの存在は現象もしている。これは触れるものとして存在するということに等しい。
認識されるものの中にも触れないものとして規定されることになるようなものは現象しないものとして扱われ、日常言語において「存在しない」とされる。
現象するものはまたそのために実在するとまで考えられることが多い。しかしあくまでもそれらは現象するものであり、その適切な触れ方によって現象し続ける。
この適切な触れ方の違いというものがマルクスガブリエルの言うところの意味の場にほかならない。故に世界という意味の場は存在しない。というのは世界とは視るものであって、触れるものでは無い、つまり、世界は現象するものではないからである。
〈他者〉は現象するものの中でも特殊な現象である。これはあたかも視えないもののように現象する。それはつまり世界に属さずに固有の意味の場を有するような現象の仕方という不可解を引き起こす。この特殊な現象の仕方の一端に関しては、名より囲われることになる聖域性によって説明がつくが、これは公共的な場における他者の現象の仕方ではない。
公共的な場における他者の現象は、その意味の場は公共的な場という世界に属した意味の場として存在することになる。
これが大勢の多数と個別の一人に対する他者像の違いへと繋がる。
公共的な他者と共同体的な他者はその現象の仕方がそもそもにおいて異なるのだ。
倫理は、その現象に対する適切な触れ方として規定されることになるだろう。(22/01/12)

〈世界〉が〈同〉すなわち「私」に属するなにかであることは全く誤った観想である。〈世界〉こそが〈他〉、「他なるもの」たちなのだ。
〈世界〉を〈同〉に引きずり込むことで〈他者〉の異邦性が導かれる訳だが、実際異邦的であるのはむしろ〈同〉すなわち「私」の側である。〈世界〉は「私」に向けて開かれているのではなく、むしろ〈他者〉のためにある。
「私」はまず〈世界〉を認識されるものとして存在させる。このようにして存在した〈世界〉に〈他者〉は召喚されることとなる。この時、〈他者〉は〈世界〉の内側から生え出ることとなり、既に世界-内-存在としての地位を獲得することとなる。(しかし彼らが現存在足り得るかはまた別の問題として残り続けることとなる)
「私」はそのアプリオリな権限においては、「視る」ことしか出来ない。「視る」ことは特権的であり、〈世界〉に位置するいかなる存在も、おおよそこの権限を有することはないのである。この主張はこのように言われればより理解しやすいだろう。つまり、世界には(哲学的)ゾンビ"しか"居ない。
しかしこの「視る」という権限の行使者、すなわち「私」においては、〈世界〉と渡り合う術を有さない。「私」は常に〈世界〉の外側からそれを「視る」ことしか出来ない。現実における我々──それは現実存在する自己と言える──は、〈世界〉と渡り合っている。視る「私」は現実存在する自己を十全には示さないのだ。
現実存在している自己にとって欠かすことのできないものは、〈世界〉と渡り合う、あるいは「共に」あることとなる〈私〉の存在である。〈私〉はひとまず「私」の権能によって〈世界〉内に生起することとなるものであるが、彼は他の〈他者〉らと共に「触れる」という権限を有することとなる。
こうして「私」は〈私〉の権能を利用して、〈世界〉の内に住みつこうと試みることになるのだ。それは非我の打倒、すなわち「他なるもの」を把持し、所有し、道具として使役するという形を通して実行される。そのようにして自己は〈世界〉を「私」を中心とした束として凝縮させることとなる。ここに家が生じる。そしてこの家全体がまた〈私〉となっていく。これはすなわち自我(自己)の拡張として理解出来る。
このようにして「他なるもの」が〈同〉に凝縮し、〈私〉として拡がりを見せるが、なお「私」は家の中で落ち着くことは出来ない。家もまたどこまでも〈世界〉の一部であり続けるのだ。このような家のあるいは〈私〉の様態にこそ開在性の一端が垣間見える。
さて、こうして〈世界〉に家が建つ時に、なお家になる訳ではなく、むしろそこに迎え入れられる存在として〈他者〉がやってくる。我々は〈他者〉を家に迎え入れることが出来るのだ。そしてこれが〈他者〉との関係を取り結ぶ契機となる。
「触れる」という権能。これが「私」が〈私〉を〈世界〉の中に投企するきっかけとなり、ひいては〈他者〉との遭遇を可能にする。しかし、ここで問われることになるのは、いかにして「私」は「触れる」という権能を獲得するに至るのか? ということである。それはこのような問いとしても成立するだろう。すなわち、「私」と〈私〉の一致はどのように可能なのか?(22/01/13)

相手と向かい合う一般的な人間関係にあたっては4つのファクターがある。これは私からのパースペクティブに由来する2つと相手からのパースペクティブに由来する2つからなる。相手からのパースペクティブは全くこれは本来不可知なものである訳だが、一般的な人間関係においては経験的にあるとされるものである。
さて、4つのファクターとはなんなのかを説明しよう。まず、私からのパースペクティブに由来するものは、①見られたい私の像と②見たい相手の像である。そして相手からのパースペクティブに由来するものは、③見られたい相手の像と④見たい私の像となる。
これを、向けられた対象ごとに整理するなら、私に向けられるものは①と④となり、相手に向けられるものは②と③である。これらが一致すればするほど人間関係一般は円滑化していく。自分の行為に由来するのは自らのパースペクティブであるのだから、とりわけ気をつけなくてはならないファクターは②となる。つまり人間関係の円滑化において、他のいかなるファクターにも先んじて②の改善が求められる。②をどれだけ③に近づけるのかということが人間関係の円滑化の鍵なのだ。
これは非常に難しいものではあるが、より実用的な方法としては、相手から表明される諸態度をできる限りオブジェクティブに捕えるということによって達成できる。この方法は「察して欲しい」という要望には答えられないものだが、丁寧に構築されれば、相手の意図を履き違えることの無い優良な方法となる。しかし現実にはある程度読み取れてしまうメタメッセージも少なくない。しかしこれがまた読み違えられることも多いものだということを忘れてはならないだろう。(22/01/28)

分離。これはすなわちファウスト的自我の否定にほかならない。同の無限の膨張は分離によって中断され、他なる者が現れることとなる。
さて、実在論的唯我論とそこから発展される諸倫理においてはこの分離は一体どのように発生しているのだろうか? 重要なのは分離とは同と他の分離であるということである。唯我論という名称から私が思考しているものは多くの場合、「世界に私しか居ない」というテーゼを主張するものと解されてしまうが、それは実際のところ正しくない。実在と存在の差異というものを私は非常に重要視している。この点において私は極めて厳格な実在論者であるということが出来る。そしてこの実在論に立つにあたって分離はある意味では発生していないともまた別の観点から既にアプリオリなものとして想定されてしまっているとも考えられるだろう。
つまり「存在するとは認識することである」と主張する時には、存在するものをその認識主体と不可分なものとして取り扱うという点においては分離は発生していないとも見えるし、また既に「存在するとは」と述べ始める点においては、分離という事態がアプリオリな前提として与えられているようにも見える。なぜこのような(分離については)どちらとも取れるテーゼが主張されるのだろうか? その答えは実は極めて明瞭である。つまり分離という事態はその取り扱うフェーズによって同じ現象に対しても異なる説明を受けるということに過ぎない。それは分離という事態がどこまでも形而下的な問題であるということを意味する。形而上的には既に同と他は全く不可分なものであり、そして同が先立つのであるから他は同呑み込まれている。分離を主張する時にはそれは形而上から形而下への移行を促すものとして理解出来るだろう。他方、ファウスト的自我は、〈私〉を「私」たらしめる、現存在的に形而下的なこの自己を"正しい"形而上的自我へと至らしめんとする、不可能な無限の衝動に支えられることとなる。
これは論理的な世界の発展方向と、思惟の展開方向の逆進性に由来していると考えられる。世界発展にとっての結果に私たちは住んでいる。故に思惟は結果から原因を探るものとなる。しかしこの逆進性を明示し分けて考えることは難しい。というのは我々があまりにも今この瞬間の結果を重視し、また重視しすぎるがあまり原因として取り違えることになるからである。そういう意味では分離はファウスト的自我よりも論理的に正しい方向性──つまり形而上→形而下の方向性──を有していると言える。しかし実存にとっては、形而下から形而下'へと飛び移らなくてはならない。そしてこの形而下'は形而上と近似すればするほど尊ばれるのだ。
ファウスト的自我は極めて主意主義的な実存である。それと比すれば、分離。これは主知主義的であり実存の前提を提示するものである。(22/02/16)

続・我が変化を見る/攻撃戦だ

 文章には、攻撃的なものと防衛的なものがある。私は実のところ専ら攻撃的な方しか書くことが出来ない。常に攻撃こそ最大の防御と信じてやまない、機動戦論者である。というわけで、いつでも私の文章には敵がいて、それを打ち滅ぼすための言の葉の弾を打ち放しているわけである。しかしながら、この立場は、あまりにも四方八方に喧嘩を売って回るので、常に全周包囲の危機に晒される。そこで内線ドクトリンが採用される(総じてドイツ国防軍のような思想運用である!)訳だが、これは消耗戦に耐えられない。言の葉の弾は乱射は出来ないのである。だから、自らの弾丸が、確かに敵を絶命させるように最適化されねばならない。そして、その照準の狙いは、いつでも敵の最も脆弱な防御点に合わせられ、これを突破し逆包囲、殲滅するために捧げられる。すなわち、いつでも我々は相手を(思想的に)殺す気で論戦をせねばならない。
 哲学的な議論における最も顕著な脆弱点は、なんであれ次の一点に帰結する。すなわち、論理的整合性と経験的整合性の接続点である。残念ながら、論理的整合性も経験的整合性もそれぞれを純粋な形にしていくと、一切の接点を失う相反する整合性であるから、いつでもこれを両立させようと試みる時には何かしらの無理が生じるのだ。とはいえ、二つの思想がこの無理を極力排して成立する。ひとつはコギト命題に立脚する、論理的整合性から経験的整合性へと発展していく方向であり、これは究極的には実在論と唯我論の一致する地点へと至る。もうひとつが、日常的な言語運用から論理言語へと遡る、経験的整合性から論理的整合性へと発展していく方向である。例えば、現代日本哲学界では、このふたつの立場のぶつかり合いに近いものを、永井均と入不二基義の議論に見ることが出来るだろう。もちろん、永井が前者的で、入不二が後者的である。この対立の構造は、古代より哲学史において繰り返されてきたものであり、そして残念ながらヘーゲルの弁証法とは異なり止揚しない議論である。
 さて、では、私は前者と後者どちらの立場だろうか? 内線ドクトリンにおいて、最適化されるのは前者の立場となる。つまり、後者の立場こそ敵となる。整合性において論理的整合性は経験的整合性に勝る。整合性とはすなわち正しさに他ならない。経験的な正しさは容易に懐疑によって覆されうるが、論理的な正しさは覆らないのである。とはいえ、この懐疑論を用いた戦術は、事実上の核爆撃に他ならず、盤面のちゃぶ台返しでしかない。哲学的議論としては面白味のない戦術である。このような一撃必殺による更地化を持って自らの勝利を確保しようとする素人哲学者は多いが、総じて愚かだと言わざるを得ない。第一に、このような考えに至る阿呆共には、敵には敵の正当性と強固さがあることが抜け落ちている。第二には、哲学史を舐めている。第三に、そのような不毛な更地は確保出来る領域にならないことが見通せていない。とにかく総じて素人である。それは哲学的論争における自身の戦略目標を見失い、誤った戦術による束の間の勝利に喜び、最後にはベルリン陥落だけが待っていることを知らない哀れなダスマンに他ならない。なんなら今回わざわざ哲学者と述べてやったことすら過剰である。
 さて、哲学的議論において重要なのは、敵の論が支配する論述内容の正当性を敵から奪いこちら側のものにすることである。ここで我々は、敵の結論が端から現象的あるいは経験的な意味における錯誤に過ぎないことを明かすか、敵の説明体系の帰結を、こちらの説明体系がより適切に回収できることを示すことになる。この点において、我々の立場の特にその究極的で最も堅固な結論、すなわち唯我論は、哲学史において最も弱い立場だと考えられてきた。これ自体全く嘆かわしいことであるが、概念の適切な分類が出来なかったために仕方があるまい。哲学における概念形成においてアリストテレスが果たした役割は大きく、しかもアリストテレスは後者の経験から論理に向かう側の哲学者であるから、彼の整備した概念が我々を不利に貶めるのは必然でもある。さて、私からすればこのような不適切な概念を整理し直し、適切な概念へと整頓すれば、我々の最も堅固な結論は、磐石な前提とし、我々ドイツ国防軍を侵略軍として再編成し、ナポレオンの戦争芸術を再建するための花の都へと変貌させる。しかし、そのような我々にとってのロシア民族となるのは、唯我論が磐石な前提となることを指摘したヴィトゲンシュタインの転向によって生じた言語論的転回以降の議論となる。すなわち、かの邪智暴虐な分析哲学である。
 経験から論理へと向かう諸議論はまさに外線戦略を駆使しながら我々を追い詰める。その中でも、最も我々の首元に迫ってくるのは、私的言語の可能性に関する議論である。我々がモスクワ占領を成し遂げ、あるいはベルリン陥落を阻止するためには、断固として私的言語の可能性を死守しなくてはならない。世界史をひっくり返すように哲学史をひっくり返す、この可能性はどのように確保できるだろうか?
 私的言語批判の核心は、言語規則の公共性にある。規則の公共性がない私的言語は、それが正しく使われたのかを判別できず、それ故に意味(Sinn)を持たない。私的言語において、誤謬可能性は失われ、これは経験的整合性が取れないのである。
 さて、我々が私的言語を維持するために必要なのは、とにかく私的言語が十分に可能であるということが主張出来れば良い。ここで、我々は次のような戦略を取ることができる。すなわち、私的言語には確かに意味(Sinn)はないが、意義(Bedeutung)は成り立つということを主張する道である。これは前期ウィトゲンシュタインからの後期ウィトゲンシュタインへの反逆の狼煙だとも言えるだろう。とはいえ、この主張を成り立たせるためには、我々は哲学史に散らばる有用な道具をかき集め、この混成軍団をひとつの軍隊として訓練し直さなくてはならない。この時、構造主義の議論を形而上学として再訓練することが非常に強力な師団を編成する契機になる。さて、訓練方法(1)を全く省き、結論だけ述べるが、我々はこの師団を用いることで、意義(Bedeutung)と存在することを直結させることに成功し、存在構造を論理構造として理解することで、存在するものが認識されるままに存在することと私的言語の同一性を主張できる。こうして、流通以前の言語の可能性を確保すると生じるのは、流通する言語はどこから現れたのか? という問題である。
 この問題の解決には、流通する言語、すなわち意味(Sinn)のある言語というのが、強く支持される理由を思い出さなくてはならない。それは我々の日常における誤謬可能性の存在である。すなわち、"現実"の存在として理解されたものが、そうではなかったことが明らかになり得る可能性が、我々の言語流通における意味(Sinn)の存在を担保するのである。我々はこれを様相の問題として落とし込むことで解決出来る。重要なのは、存在そのものは既に意義(Bedeutung)において、十分に担保されている以上、意味(Sinn)が保証しているのは、存在することそれ自体ではないという点である。では、意味(Sinn)は、一体何を保証するのか? 結論として、私はこれは現実性という様相を担保しているのだと述べる。しかも厄介なことに、意味(Sinn)の保証している現実性の様相は、現実性一般ではない。〈この現実〉という限られた領域において顕在可能な諸存在が保有するモダリティとしての現実性、すなわち入不二が述べるところの相対現実における現実性なのである。ちなみに、入不二の述べる絶対現実の現実性は、入不二自身も述べるように無様相である。であるから、私はこれを様相と結びつくところの現実性などと呼ぶことは辞めて、現に性とでも述べるべきであると考える。〈この現実〉は、まさにそこに顕在する存在するものたちが特別で限定された現実性を持つことによって、独在性を有していることが分かるのだ。
 さて、ここで私は、意義(Bedeutung)と意味(Sinn)と事実について以下のようにまとめることになる。
 ①意義(Bedeutung)とは、指示対象であり、それはすなわち認識対象に他ならず、故に存在するもの全般のことである。
 ②意味(Sinn)とは、流通する指示対象の内容のことであり、それはすなわち〈この現実〉という対象領域に顕在する認識対象のことである。
 ③事実とは、意義(Bedeutung)と意味(Sinn)の一致である。全て、虚偽とは意義(Bedeutung)と意味(Sinn)の不一致である。
 こうして、現実というモダリティとは、特に意味(Sinn)を可能とする認識対象のモダリティと一致するのである。
 さて、これは一応エッセイであるから、雑なところは許して欲しい。特に〈この現実〉とその独在性については前回のエッセイ(「続・我が変化を見る/軽躁のエイドスは虹色に輝く - 美味しく喰らう」)でも触れているので大幅に省略した。これらの探究内容は、できる限り早く適切な論考として整理する必要があるが、この議論を本当に正しく成立させるためには、他者論に関する完成した論考が求められるのである!
 ぜひ皆様方におかれても、殺伐とした哲学議論の戦場を生き延びるための装備の開発に勤しまれたい。
 
(1)まさにこの訓練は、論考「存在するとはどういうことかに関する報告 - 美味しく喰らう」の二・二五〜二・二五三二までの議論において行われている。

知的探究の原則

知的探究には以下の三つの原則がある。これらの原則は認識論的原則ではない。知的探究という営為の方法論的原則である。
 知的探究の原則を確立するに当たって、最も重要なことは、これが確実な知識というものがどのようなものかということを分からない上で打ち立てられなくてはならないということである。何故ならば、確実な知識の様態について何かを知る以前に、知るということは理解され、成されていなくてはならないからである。 それは知られることの内容によらず、また推論に用いる諸対象の性質によらない。ここで問題になるのは、知るという営みの根源的在り方と、推論そのものの方法となる。これらは客体とは無関係であり、知的探究の営為主体が行使する方法として与えられる。
 全ての知的探究は以下で述べる三原則から逃れ得ない。これらの原則は、過去においてもこのように考えざるを得ないものとして、自覚の有無に関わらず用いられてきた基本的な原則だと言える。

 知的探究の第一原則は経験優先の原則である。
 これは、経験によって得られた知識が常に第一の知識であるという原則である。故に経験によって得られた全ての知識はその真偽の如何によらず棄却できない。
 例えば、我々は、経験的与件について、それを偏見・錯覚・幻想その他、第一の知識としての経験そのものを偽性に満ちたものだと述べることが出来る。この時、偽性の証明のみでは知的探究としては不十分である。これらの経験的与件が偽なるものだとしても、事実としてそれが我々に与えられたことは否定できないのであるから、偽性の証明は、その上でなぜこれらの偽なる経験が我々に与えられたのかを説明しなくてはならない。逆に経験的与件を無条件に真なる前提と置く時には、それ自体の説明は必ず必要とされるものではないと言える。もちろん、普通の意味で虚偽と考えられるものを真という時には、なぜ虚偽だと考えられるのかを示す必要はある。
 ここで経験の対象となるものは何かという問いを抱く人も少なくないかもしれない。しかしながら、この方法論的原則を提起するにあたっては、我々は経験の内容を分類することはできないし、ましてや優劣をつけることも出来ない。直接看取された全ての事柄はまさにそのように看取された形で、我々の経験によって得られたものと理解される。このことから、「矛盾する複数の経験」という観念を想起し、これが説明出来なくなるのではないかと危惧する向きは非常に多いが、そもそも複数の経験が矛盾すると言えるのが経験の中からどのように与えられているのかを考慮するべきである。
 ここから本原則が要求する知的探究の方法は以下のようにまとめられる。
一、経験されたものは否定しようがないので、説明されねばならぬこと。
二、通常の理解と異なる事実もまた説明されねばならぬこと。
 この原則は、何が知的探究の探究の対象=説明の対象となるのかを示すものである。この原則はそれらがどのように説明されるべきかについて言及していないことに留意せよ。またこれらが説明できなくてはならないと述べているのでもない。説明出来ない経験について、説明不要とするのではなく、説明不可能であることを引き受けるべきである。
 これは、真偽以前の知識のあり方に基づく方法論上の原則である。真偽が定まる時には当然に真偽以前の知識との整合性が求められる。
 
 知的探究の第二原則は説明最小化の原則である。
 知的営為を行うにあたっては、常にその知的営為の前提条件を参照しなくてはならず、それに即して、またそれのみを用いて説明することを旨とし、それが出来ない時にのみ、新たな前提条件を追加・変更することが認められる。
 知的探究を行うに当たっては、その探究の内容や対象によって常に何らかの前提がある。何故ならば、何も前提されない場合知的探究という行為自体ができないからだ。前提の追加・変更は、根本的にはこのそもそもの前提に依存して行われなくてはならない。
 ここで、前提条件と言われるのは暗黙の了解も含むものであり、探究者は常に暗黙の了解に対して自覚的であることが要請される。明示は必ずしも必要ではない。また、前提条件の真偽は問われない。

 知的探究の第三原則は無時間性の原則である。
 この原則は、物事を一般化する時にのみ用いられる。すなわち、物事の一般化においては、一般化されたものが時間性・歴史性に回収されてはならず、無時間的なものとして法則化・規則化されなくてはならない。この原則は、一般化という知的探究の営為を用いない、異なる知的探究の営為を否定するものでは無い。
 無時間性の法則を満たすために、諸法則において、時間性は必ず以下の二つのいずれかの処理に付されなくてならない。
一、いかなる時間性に基づく解釈も禁止すること。
 これは、時間性を変数として有することすらない法則化・規則化であると言える。最も典型的な形式としてトートロジー(恒真命題)が挙げられる。
二、時間性を一変数として扱うこと。
 これは時間性をひとつの変数として取り扱うことによって、どの時点においても成立する諸法則・諸規則が満たしているものである。これは時間対称性を有することの指示ではない点に留意せよ。時間対称性を満たさなくとも、一般化された法則・規則であるならばどのような時点でその法則・規則を用いても良いという原則のことである。
 この無時間性の法則は、帰納法を否定するものでは有り得ない。
 また、特定条件下に限定された一般化はいくらでも有り得るものであり、特にその特定条件がある特定の時間・歴史であることを否定するものでは無い。
 この原則は、一般化したものの真偽を測る審級とはならない。 
 無時間性の法則を満たさない/満たせないものは、一般化出来ないものである。
 
 これらの三原則は、より数の小さい原則がより優越する。

続・我が変化を見る/軽躁のエイドスは虹色に輝く

 最近はまた暑くなってきた。このように暑い日々が続くと、6年前の夏を思い出す。あの虹色の日々を。あるいは凝縮されたあの一日を。虹色を求めることを私は続けてきただろうか、と自問する。日々を生きる中で灰色に呑み込まれてはいまいか、と。しかしそもそも虹色を求めることは、あの虹色の日々の再現によって得られるものだろうか? たしかに、6年前の夏と8年前の夏が融け合うように混じり合い、そのような日々の中で、紫煙を燻らせ、アルコホールの酩酊に溺れることをアクセントとして付け加えることが出来るのならば、それはおそらく甘美な虹色の芳香に包まれたものであろう。デカダンスフリーダム。虹色の頽廃的側面。
 だが、虹色は頽廃的であるばかりではない。それはいつでも神秘のある種の流出でもあるはずなのだ。虹色の神秘に近づくにはどうすれば良い? そもそも神秘とは、徹底的に考え抜いた先に転がる論理破綻の語り得ぬものに他ならない。そう、神秘への傾倒と、その語り得なさの故に、視野に表出するものこそに虹色はいつでも宿るのだ。結局、自らの生の中で虹色を見出すことが出来ないということは、思考の鈍化を意味し、言語化の悪癖に絡め取られ、体感することでようやく得られるものを見過ごすことに他ならない。そしてだからこそ夏の茹だるようなこの暑さは、視界を虹色に近づけるのだろう。この暑さの中で言葉は剥ぎ取られ、生々しい暑さは身体の存在を叫び、私はその苦痛を感受せざるを得ないから!
 虹色は繰り返せない。同じ虹色を求めることは出来ない。同じ川に二度入ることは能わぬように。しかしそれでも虹色が我々の全認識に訴えかける眩い閃光はいつでも同じような輝きを放ちながら、我々に正しい道を進ませる。虹色のエイドスは我々がそれと正しく向き合う限り変わらない。であるから我々は考え抜かなくてはならない。徹底的に。そうした思考の突き詰めの果てに、今では私はもう6年前とは全く異なる自らがここに居ることを知る。かつての自らの、軟弱な論理、無根拠な前提。これらを喝破し精緻化し、思想は体系化のために前進し続ける。一年半! 高い壁が横たわっていた。それは砕けた。思えば簡単なことだったのだ。未定義語に正しく着目するべきだった。
 私は予め看取してはいたのだ。ハイデガーの存在者という語のその特殊な用法を。しかしそれを明言し取り出すことは出来ていなかった。ハイデガーは何を問うていたのか? つまりそれは存在への問いとは結局なんであったのかということである。ハイデガーははっきりと、何が存在するのかが問題なのではないと述べる。彼の存在者という用語は、存在するもの全てを含意する。何故ならば、全ての存在するものは、存在するという行為のただ中にあるから。これが重要なポイントだ。彼にとって、存在するというのはひとつの行為であった。存在者とはすなわち存在するという行為の遂行主体全てを表す語だ。それ故にそれは存在するもの全てを含意した。ここで私は存在するということを行為として認めることが出来るのかという点を留保する。この留保を差し挟む時、存在者という語彙は、まさに行為主体のことを表す語句として機能するのだ。そして私はこのことを予め看取していた。それ故に実在の規定はそれが存在者であることを含んでいた。今でははっきりこう言える。実在は常に行為主体でなくてはならない。
 こうして、いよいよ我々は存在論の公理系を発見する。存在論の二公理として以下のように整理できる。
 
 存在論の二公理
1.存在とは、実在によって説明される対象のことである。
2.実在とは、実体性と現実性を有する存在者のことである。
2.1実体性とは、生成変化の影響を被らない存在者の持つ性質
2.2現実性とは、現象に対して影響を持つ代替不可能な固有の存在者の持つ性質
補遺:存在者は行為主体性を有する対象のことである。行為とは一回性と不可逆性のある作用であり、存在者はそのような作用の主体全てを指す概念である。
 
これは既に発表済みの「実在とはどういうことであるのか」の完成系として理解される。不備のあった存在者概念を補完し、またなぜ存在論が実在の探究から始まらなくてはならないのかを明示する。この点に関して補足するべき哲学史上での解釈は次の通りだ。
 多くの場合、存在論は実在の発見により終止符を打つことが多い。しかし私はそれを明確に開始地点に位置付ける。それはなぜこれまで存在論において実在の探究が行われてきたかを考えれば瞭然だ。実在はいつでも存在の原器として求められてきたものである。
 こうして存在者概念の行為主体性が明るみになることで、主体性の問題について考えるための正しい地盤が確保された。主体性はつまり、行為主体性のことを特に指すべきである。実在論的唯我論において、行為主体性は二つに大別される。それはそれぞれ「視る」の権能と「触る」の権能と名付けられる。「視る」の権能は、「認識主体」の権能だ。それはすなわち認識するという行為を指し、その内実は無より存在を立ち上げる権能として理解される。一方で「触る」の権能は、〈認識対象〉に認められるものだ。これは次のようにまとめられる。すなわち、「触る」の権能とは、他の存在の持つ内的構造を用いて、自身の持つ内的構造を変化させるような相互作用のことである。ここでは、道具化による内的構造の延長も含まれる。
 こうして主体性の一部の問題は、認識されるものとして整理することが出来る。問題は、実在と存在の双方に跨るこの主体性の働きについて一言でまとめることだが、やはり行為主体性として整理してしまって良いだろう。すなわち、主体性とは、一回性と不可逆性のある作用を能う主体の持つ性質なことである。
 こうして一年半に渡る停滞は打破され、いよいよ〈他者〉と前〈私〉である〈主体〉に共通する主体性の在り方が開かれる時、〈主体〉は〈私〉となり、ふたつの仕方で成立する〈他者〉が同じ〈他者〉と見なされる構造の反転照射されたアナロジーが大文字の私を成立させることが確立する。
 これでいよいよ実在論的唯我論は、〈この現実〉の独在性に言及し、その形而上学を完成させることが出来る。〈この現実〉はひとつの対象領域であり、これは世界全体の一部である。しかし我々は常々種々の〈現実〉という対象領域それ自体を各々に世界と呼ぶ。実在論的唯我論において世界は一つである。それは最も始源的な〈認識対象〉であり、全ての〈認識対象〉の分節元として理解される。実在論的唯我論は明確にユニバース世界論を構築する。しかし、〈現実〉という対象領域は、いくつかの〈認識対象〉を時間を規則として並べ立てることで成立する対象領域であり、この性質から〈現実〉自体を世界と見る向きは多い。そういう意味ではマルチバース世界観を提示しているようにも見えるだろう。これは世界と現実の両方の語の共通する部分に基づくものであるが、実在と存在を分けたように、実在論的唯我論では明確に使い分けられる。すなわち、世界はあくまで〈認識対象〉の総体として理解され、〈現実〉は時間を規則とする対象領域として理解される。
 さて、〈認識対象〉は必ずしも常に同じ時間規則に整理される訳ではない。時間規則に対して〈認識対象〉が先立つ以上、様々な時間規則が考えられる。〈この現実〉とは異なる時間規則の持ち主として〈あの現実〉を象徴するのはいつでも物語である。物語には物語特有の時間規則があり、それは物語に特有の〈現実〉を成立させる。これは俗に物語世界と呼ばれるものの存在論的理解に他ならない。
 そして、そのように複数の〈現実〉がある中で〈私〉の身体性と不可分な関係を有する〈この現実〉は特権的な地位を有している。すなわち、〈この現実〉は独在している。ここで独在性という用語には留意が必要だ。独在性という語が表しているのは次のような自体である。曰く、独在性とは、どれを選ぶことも必然的ではありえないはずの複数のもののうち、なぜか特別化されたひとつの物が有する性質のことである。であるから、複数の〈現実〉が有り得る中で、何故か特権化された〈この現実〉は独在すると言われる。
 この特権化を象徴するのが、全ての言説に関して、〈この現実〉において理解可能で流通可能な形に必ず落とし込まれるということだ。この独在性によって、言説は〈この現実〉に適合しなくては妄言となり、また〈この現実〉の時間規則に属することの出来ない諸々に関して、それは虚構として処理されるという現象が説明できる。
 こうして、軽躁のエイドスが虹色に輝いた末に、自分の哲学的思索が大きく前進したので、備忘録としてここにメモした。今後これらは更なる精緻化と体系化を経て、完成された実在論的唯我論の形而上学体系として成立するであろう。

続・我が変化を見る/正しい狂気のための自己破壊的再生

 友人に言わせると僕は思想的な意味において、全身がガン細胞で出来ているようなものらしい。つまりあまりにも気が狂いすぎていて正気の状態にある。ここにはある種の均衡状態が成立していて、もはやガン細胞の持つ圧倒的な増殖能力を喪失している。今の僕に必要なのは、この均衡を破壊し、増殖能力を恢復することに他ならない。そうしなければ、虹色を我が身に宿すことは能わない。自らの身体を乗り越えて、周囲をも喰むことこそが、本義で無くてはならないのだ。
 如何にしてこのような均衡を僕は乗り越えて、前進出来るか。これはよく分からないのであるが、ともかく今が正気に過ぎることは明らかである。正しい狂気!これが大切だ。狂気のフリは容易い。しかしそのようなフリに意義はない。狂気のフリを身につけた奴は誰でも自身を正真の狂気のただ中にあると思い込むが、馬鹿げているとしか言いようがない。正真の狂気は、当然ながら他者にそれを狂気だと気付かせないようなものだ。狂気であることそれ自体のアピールがこれとは程遠いことは明らかである。そういう意味では、全身ガン細胞としてある種の均衡のもとに真人間のフリを為せることは正真の狂気にほど近いが、しかし実感としてそこには狂気が欠落してるのだから、これはもはや本当に真人間でしかない。
 まぁそもそも真人間か否かを正気か狂気かで測るのはおそらく適切でないから、僕は自分に関して友人の評価をいろいろな意味で重く受け止め反省することとするが、しかしながら問題は結局ガン細胞が持つべき自己増殖作用が、全身ガン細胞人間であるはずの私において作用を弱めている、あるいは停止している点だ。この話を深刻に友人に振ってみたところ曰く、早い話がシン・ゴジラみたいなものよね、と軽く受け止められた。しかし互いに共通するところで、勇敢さの不足、すなわち臆せず戦うことの減少という問題が了解された。かつて我々はそれをもってして全てを説明することのできるものを望んだ。僕は自らの思想がそういうものであることを信じるが、ではそれはどのように他の思想と対決できるだろうか?
 この対決の困難の一因として、僕の実証主義的態度はあるだろう。つまり、自らの理論が正しいものであるならば、それは現実をその通りに記述できるものであると考える。すると、世に溢れる様々な臆見を僕の理論は臆見であることを前提に正当化していく。これはなかなか対決的態度から僕を引き剥がす。しかしこれは同時に対決的姿勢の糸口にもなるように思われる。すなわち、ある臆見は正当化されるが、他の臆見は正当化出来ないという規則を見つけることで、僕は対決へと向かい、ガン細胞はその本来の能力を恢復する。つまりこの規則こそが重要である。ここで課題になるのが、やはり形而上学的には他者論、そしてより直接的には倫理と実存の関係だろう。これを正しく見定めることが適うならば、ある臆見を正当化し、他の臆見を不当と見なす規則が成立するはずである。そしてそのような規則はそれぞれの臆見が権勢を振るうことの許される領域を確定し、以て哲学は正しく学問の皇帝としてその冠を戴くのである。
 しかし正しい狂気はそこに留まる訳にはいかない。哲学の皇帝としての権威は、正しく神の光を世界に照射するためのレンズとならなくてはならない。そう、今なお哲学は神学の端女であるべしなのである。

なぜ君たちは臆見に満たされた認識が出来るのか?

 今、自分が何を主に考えているのかということを書き記すことによって、私は自らの天命を少しでも前に進めようと思う。今の私の関心は果たしてどこを向いているのだろうか? すなわち、重要な事柄は何か。
 最も根源的に重要であるのは、"この"人生が生きるに値するものであるかという点であるが、一方で「人生」が生きるに値するのかということも重要だ。果たして人生は生きるに値するだろうか。それはなぜ、どのようにそのように言えるのか。個別具体的な人生がどれほど生きるに値するものであったとしても、それらの帰納によってはこの問いは解決しないだろう。人間存在の本性から演繹的に導き出されてようやく問題に対して答えるための用意が出来る。
 こうして私の問いは存在論的次元へと落ち込んでいく。そしてそれは決して存在的にはなり得ない。存在論的問題に関わることの重要性よりもなお存在的問題と関わることが重要であるとは私には到底思えない。なぜならば、多くの存在的問題は、存在論的問題の未解決や誤謬に由来しているように思えるからだ。

 正しい判断というものは、当然ながら正しい認識なしには生じ得ない。物事を考え、判断する時に、我々は経験的な事柄をそれらの問題と向かい合うための材料、あるいは前提としてしまう。こうして認識はねじ曲がる。問題は我々の手元からこぼれ落ちる。故に、我々は経験を超えたところに前提を求め、それを以てして確固たる足場としなくてはならない。経験的なものが無くても良いという話ではないのだ。経験的なものを認識し、判断の材料とする時に、我々は経験を純粋な形で取り出すことが出来ない。経験の認識は常に解釈を伴う。この解釈の正当性を我々は一体どのように用意できるだろうか。もちろん答えは良識があるような誰にでも分かりきったものであろう。すなわち、認識主体と認識対象の存在論的理解に基づくこと。ただこれだけが解釈を伴う認識に正当性を与える。
 どれほどハイデガーが存在的次元を軽視したために失敗していようと、あるいは存在的に問題と向き合わなければ現実的解決に至らないと喚こうと、そもそも存在論的理解が欠乏しているなら、全ての判断の正当性自体が用意できないのだ。不十分な判断に頼って問題を見通すことは、輪ゴムでバンジージャンプを飛ぶような無謀である。
 しかし何故だか、私の友人も含めて、世間の人々はそのような蛮行を嬉々として好む癖があるように見受けられる。不見識を恐れず、声高に主張をすることを通して、蛮行を覆い隠している。こうして我々の認識と判断には病理が生じる。そのような意味において、誰も彼もがある種の陰謀論者であるのは疑いようがない。
 それとも果たして、ただ私だけが「正しさ」という病理に侵されているのだろうか? ではその時、諸君の信念となる核は一体なんであろうか?

続・我が変化を見る/今を量る審級

 暮れ泥む空を見上げると、雲の高いところが西陽に照らされ夏のような白色を鮮やかにする。ふと、ある小説の一説を思い出す。
 
 「きっと十年後、この毎日のことを惜しまない
 
 果たして、私はこの毎日を十年後にどのような思い出として蘇らせるのだろうか? 今の私はこの毎日を十年後も惜しまないものとして生きているとは思えない。とはいえ、これまで歩んできた全ての日々の中で十年後も惜しまないと胸を張れた日々があったかは怪しいところではある。それでも今から振り返れば人生のいくつかの時期は、惜しむことない日々であったなと思う。
 さて、いくら過去が惜しむことのない日々であったとしても、それは結局のところ美化された思い出に過ぎない。問題は今がどのような日々なのかということなのだ。
 今日この日が良き一日であるか否かということを量る審級として、十年後、この毎日を惜しまないと言えるのかどうかというのはひとつの良い判断基準になるように思う。未来に恥じない日々を今進むこと。一方で、この同じ問題に関して、次のような見方もある。
 我々には、高校時代で縁が切れてしまった仲の良い友人であるところのKくんがいるのだが、高校時代から付き合いのある小説家の卵先生に先日、今の君をそのKくんが見た時なんというだろうかという苦言(?)を呈された。これもまた今日この日が良き一日であるか否かを量るもう一つの審級であろう。過去から指さされない日々を今進むこと。
 今という時が、時間軸上の両端で未来と過去に繋がっているというのは、ひとつの幻想に過ぎないのかもしれない。しかしこの幻想を受け入れるならば、未来と過去はそれぞれに今日この日を律するひとつの審級として機能し始める。この機能のために幻想を信じるならば、その態度はプラグマティックなものであるという批判こそあれど、悪いことは無いのかもしれない。あるいは仮に時間軸上の両端に未来と過去がなかったとしても、今日この日を対象として断じる視点は何時でも我々の審級として、我々の今日を実りあるものにすることを期待しているのだろう。
 良き日々を過ごせるように、少なくないできることを、一つだけでも積み重ねることが出来るのなら、我々の生は多少なりとも救われるのかもしれない。