美味しく喰らう

天才とは様々なものを「美味しく喰らう」存在

繚乱の高揚を焼き付ける 九日目

 二日目の論稿で明らかになったように、行為は、主体による一度限りの能動性の発揮によって、その行為に関連する全ての関係が不可逆な変更を迫られることである。では、このような行為をする主体の性質とは何であろうかということを問題にすることで、主体性とは何かということを理解する糸口を我々は掴み取ることが出来る。まず、考えてみたいのは、このような行為の主体となる資格というのは、原理的にどのようなものにまで開かれているのか、ということである。
 行為という語の通常の語感に含まれる、意図や意志というものはもちろん、先程示した行為の条件から逸脱しないばかりではなく、あの条件を満たしていることを最もよく保証しているものである。であるならば、意志や意図を持つことの出来るような生気的なものだけが、この行為を可能とする主体なのだろうか?
 行為の主体が意図や意志を持つならば、その主体はその行為を何かしらの目的のために遂行しているということになるだろう。これはまさに生気論的世界観が支配的であった古代ギリシャにおいて、アリストテレスがその原因論の中で、重要な原因の一つとして、目的因を分類したことを思い出す。しかし、行為の目的というのを持つことを行為の新たな条件として含めようとすると、ひとつの困難が待ち受けているのは火を見るより明らかであろう。すなわち、誰かの作用を行為か否か判断するためにその作用に目的があるかどうかということが問われることとなる訳であるが、その目的はいくらでもこじつけられてしまうという問題である。すなわち、その行為の主体と目される何かが、ある作用をする時に、そこに目的があるのかないのか分からなくとも、作用の帰結から逆算されたある目的があると考えることが容易いのである。すると、目的というものは、ある作用が行為か否かを判別する上では、緑の妖精となってしまう。我々は幸いなことに、近代を経由している。我々は生気論的世界観よりも機械論的世界観に対しての方が馴染み深く、そして、機械論的世界観を拡張すると、この目的という話はその重要度を失うのである。もちろん、機械論的世界観においても、因果というものは相変わらず重要であるが、その原因となる何かがある結果を引き起こすことに目的があることは求められない。しかしながら、と同時にひとつの疑念が立ち上がる。そのような原因を引き起こす何かは、その結果を果たして"行為"によって引き起こしたと言えるのだろうか? 今、検討されているのは、あくまでも行為の主体の資格はどこまで付与できるのかということである。
 例えば、川について、これをあくまでも機械論的世界観に属するものとして理解しながら見てみよう。川はその運動として地形を削る。川のこの地形を削る働きが、冒頭で示された行為の条件に当てはまるものとして理解できるのならば、因果系列の始点となるあらゆるものが、広く行為の主体として了解され得る。何故ならば、まさに機械論的世界観において、川が地形を削ることは、ただの因果作用のひとつに過ぎないからだ。川が地形を削る時の川の運動は、川が流れるという働きに由来するものに他ならず、これはまさに川の能動性の発揮に他ならない。能動性とは、ある何かしらがある働き方を可能とする性質のことだ。川であれば流れることが川の能動性として理解できるし、刃物であれば何かを裁断することがその能動性として理解される。こうして川の流れる働きが彼の能動性と理解される。さらに、一度として同じ川の流れに入ることは出来ないという格言を思い出すならば、この能動性の発揮を一度限りのものであると考えることが出来る。そして、川が地形を削ると、川と地形の関係は不可逆に変更される。それは、元の流路とは全く異なる関係において現象している。このように、川の地形を削る働きは、行為の条件を十分に満たす。ここから分かるのは、ある因果系列を取り出すならば、その系列の始点は行為の主体の資格を十分に有し得るということである。
 ここでひとつだけ注意がいる。すなわち、因果系列は実は時間に依存しないという点である。因果系列とは、原因と結果の連鎖に他ならず、それは時間的なものとは限らない。分かりやすいのは加算であろう。2に対して2を加えるという原因は、4という結果を与えるが、これは時間的な因果関係ではない。もちろん、ある事柄を因果的に理解すると、我々はついつい時間を持ち込んで解釈してしまうのだが、本来因果性そのものはすぐさま時間的ではない。あくまでも論理的な時間性の外側における因果関係というものが有り得る。
 ここまで拡張していくと、随分と多様なものが主体性を有しうる資格の候補者であることが分かる。そして、おそらく最も重要な因果系列とは、存在しないものが存在するようになるという論理破綻的な、存在の生成に関わる因果系列である。この因果系列の始点は、他の因果系列の場合と同じように行為の主体の資格を満たすわけであるが、"存在するもの"がどのように"存在する"のかということについては、哲学史のメインストリームに他ならず、諸説がある。ここではその答えは全く重要ではないから、その中でも最も広く行為の主体の条件を満たす存在理解を採用してみよう。それは、次のような考えである。すなわち、"存在するもの"は"存在する"という事態を通じて現象する(己を開示する)という理解である。この考えに基づくならば、全ての"存在するもの"は"存在する"ということによって、行為の主体であると言えるだろう。
 こうして、行為の主体の資格をおおよそ誰もが持ちうることが明らかになった。その上で、主体性について考えるためには、その能動性の発揮の仕方によって主体性の在り方を分類し、理解をさらに深めるのが良い。しかしながら本日の論稿においてひとつの問いは解決されたのであるから、この問題は後日の課題として引き続き取り組まれる。  二時間半(八月九日)

繚乱の高揚を焼き付ける 八日目

 ある固有な事物はその固有な事物として自らを開示するための特定の存在論的領域を必要とする。重要なのは、この事物はその固有な現れとは無関係に存在することが出来うるという点である。もちろん、我々の思考の中の対象としての現れも含めた感官への訴えは、その固有性の開示と共に与えられるのだが、これは我々の認識の帰結に由来する問題であり、その存在の存在そのものに由来するものではない。だからこそ存在は開示よりももう一段奥まった地点にあるのだが、それはひとまず重要ではない。今重要なのは、無規定な存在が固有な存在として開示されるためには、特定の存在論的領域を必要とするという点である。
 ある存在は、少なくとも、何かしら他と異なるというだけで、存在することが出来るのではあるが、そのように存在することは、彼の固有性を保証しないのである。彼の固有性は彼がある際立った仕方で彼が他とは異なることではじめて与えられる。このある事物の際立った差異が認められるには、彼と彼に対してそのような差異を与えることとなる他の事物との間の存在論的連環を必要とし、そのような連環は、存在論的領域を形成することとなる。まさにこのような事物の固有な性質の発現を哲学では様相と呼んできた。
 様相とは、言ってしまえば、ある事物がある存在論的領域において示す、彼の固有な存在形式のカタログである。そしてひとつの事物というものは、複数の様相を当然に持ちうるし、あるいは全く持たないことすら有り得る。これら、無様相や各種の様相というのはひとつの事物に対して与えられるわけであるが、もちろん、無様相であることとある様相を同じ存在論的領域において持つことであるとか、相反するような様相をひとつの事物が同じ存在論的領域で持つことは、不可解なことである。だからこそ、あらゆる事物をその領域に放り込むことが出来るような、全てを内包する存在論的領域というのは、構築的に、すなわちその固有性を開示する諸存在の側からボトムアップで捉えようとする限り、不可能な対象であるように見える。そこでは、あらゆる事物は様相という固有性の発揮は制限され、その存在論的領域は無様相な事物だけが許される場となるからである。すると、そのような場はあらゆる事物を内包する場であるはずなのに、それらの事物の多様な存在形式を排外する場となってしまうのである。そこで逆に、このような全体性から現れる、無様相性を理解する過程で、入不二基義は、「現に」という副詞の働きに着目し、各種の様相を発現する存在論的領域を貫通する力としてそれを捉え、現実性(Actu-Re-ality)と捉えるが、ここにはいくつの問題があるように思われる。その中でも二点のみをこの場で指摘する。第一の点は、果たしてそれは本当に形而上学的に存在論的領域を貫通する力と言えるのか、我々の実存を可能とする極めて特殊で限定された存在論的領域の効果なのかの区別がつかない点である。とはいえ、これは今問題にするような話ではない。より深刻のは次の点である。すなわち入不二は彼がActu-Re-alityと呼ぶものを、現実性あるいは絶対的現実性というように形容し、現実を様相から切り離そうと試みる点である。しかし、現実性というひとつの様相は、まさに様相に他なるまい。それはある際立った差異によって、他の事物と区別されたある事物の様相に対して与えられてきたものであるし、そのような様相の元で自らを開示する事物の性質の特徴的なもののひとつとして現実性は考えられてきたのである。入不二のActu-Re-alityは、まさにその副詞的な「現に」の持つ力の性質であることを鑑みれば、"現に"性と呼ばれるに相応しいものである。それは様相でしかない現実性では絶対に有り得ないのである。
 それでは翻って、現実性という様相とはなんであろうか? これを考えるためには、そもそも様相を形成する存在論的領域について考えねばならない。本日の論稿は、この存在論的領域の分析で終了し、実際にその中で現実という様相が何をするのかという分析は後日に実施する。
 存在論的領域は、そういった領域がはじめからあるようなものではない。常にそのような存在論的領域に対しては、無様相な事物の方が先立つこととなる。無様相な事物が、それでも事物として理解されている時には、当然五日目の論稿で述べたような、差異化(=存在化)のプロセスがその事物には働き、他の事物と区別されている。そうして区別された、あれとこれはその区別によって存在論的な関係を持つことを余儀なくされる。これが認識論的な関係ではなく、あくまでも存在論的な関係であるのは、この差異が事物の先天的な性質に由来するものではなく、この差異によって事物が存在論的に屹立するためである。ここで生じる存在論的関係は、さらに、様々な事物を成立させることがある。この時、その同じ関係によって区別された事物同士の枠組みが、存在論的領域となる。この関係は、その存在論的領域の規則として、その存在論的領域の在り方を規定する。そして、そのように存在論的領域が屹立することで、その存在論的領域の規則との関係において、真偽と様相がはじめて、事物や命題において可能となるのである。こうして、現実性という様相を考えるための最低限の土台が成立した。これで後日、現実性をもう一段深く掘り下げられるだろう。  二時間半(八月八日)

繚乱の高揚を焼き付ける 六日目

 一人称的遂行によってはじめて理解可能な命題というものが哲学の基礎概念にはある。そしてこれを理解し、理解させることには困難がある。しかしながら、それでもこの手の基礎概念の証明を理解することは、哲学のいくつかの重要な問題を解決していく上で不可欠なものでもある。なぜ、このような理解に独特の困難が生じるものが、重要な概念の証明と結びついて哲学においては与えられるのかと言えば、そもそもの哲学という学問の持つある二面性に起因するであろう。それはすなわち、哲学とは何かを理解することで見えてくるものとなる。
 哲学とは何だろうか? 人文系クネクネのお洒落アイテムとしての分厚い本? あるいは自己啓発のための名文句集? はたまた誰にでも分かる簡単な話を、小難しく衒学的に捏ねくり回す、めんどくさい人たちの戯言? そうではない。むしろ哲学は一つの闘争である。それは、積み重ねた戦闘訓練と、手入れされた武器を用いた、戦争に他ならない。これは一つの事実をよく写すものではあるのだが、とはいえこのような比喩で話を進めるのは不適切なことである。そこで、哲学はまず哲学することなのだということを押さえなくてはならない。
 哲学する。これはどういうことなのだろうか? 実はどのような学問においても、それを極めた人は哲学者と呼ばれる。すなわち、最高位の学位である博士号は、Ph.D. (doctor of philosophy)と呼ばれるものである。もちろん、多くの博士号取得者はその専門としていわゆる"哲学"と呼ばれる学問を学んだわけではない。しかしそれでもなお、彼らがdoctor of philosophyと呼ばれるところに、哲学というものが第一義において哲学することとして規定されることが現れる。彼らは、自立した学問探究が出来ることの証明として、この称号を手にする。すなわち哲学することの内実には学問探究という要素がある。故に、学問探究とは何かということの解明が、哲学するということの内実を明らかにする。とはいえ、学問探究の学問とは結局のところ探究の内容に他ならない。だからこそ、どのような学問を探究するにせよ、その自立的な遂行が可能だと認められるならば、Ph.D.だと認められるのだから。とすれば、より厳密にはまさに探究という事柄そのものが哲学するということと結びつくと考えられる。
 探究とは何であろうか? この活動には、まず、問いと出会うことが必要となる。何らかの問いに直面し、この問いを解決するために、この問いに関わる物事の本質を探し究めること。この一連の運動を探究と呼ぶ。であるから、まず、探究、すなわち哲学をすることは、問いと真摯に向き合うことから始まる。そしてこれを解決するためには、まずその問いがその問いとして成り立つその問いの固有性を把握し、次にこれを整合的に解き明かすことが必要になる。この時用いることができる整合性は論理的なものか経験的なものになるが、最終的にはその問いを答えへ運ぶためには、それらの整合性に基づいて、論理を展開することが求められる。そして、この一連のプロセスを実行するにあたって、先人の知恵を参考にすることも必要となる。ここに知識の必要があるのだ。こうして探究のプロセスを踏むことは、まさに賢いとされる才覚を総動員することを余儀なくされるが、ではその実態としてこれらのことは何をしているかと言えば、単純にこのように言える。すなわち、徹底的に考えているのである。
 こうして哲学の第一の側面である、行為として理解される哲学するという事柄は、端的には徹底的に考えることそのものに他ならないことが分かる。しかし、だとすれば、徹底的に考えさえすれば、その思考の内容に限らずに、哲学だと言えるのだろうか? 行為として哲学をしていることは否めないだろう。しかし、例えば、夕飯のレシピを何にするのかということを徹底的に考えることが、(おそらくそれをちゃんとやる場合には夕飯の作成という目的にたどり着かない傍迷惑なものであることはともかく)哲学という内容をしているとは言えないだろう。ここに哲学の第二の側面が垣間見える。すなわち、哲学というものには、学問としての特定の内容があるのだ。
 哲学の学問としての特定の内容を同定することは、その学問史上、非常に困難なものだ。何故ならば、多くの専門化された学問が、その根において、哲学の内容とされていたものから分化していった歴史でもあるからだ。そしてそのために、そのような分化を受けなかった残り物を哲学の内容として理解することにも不備があるだろう。そのように理解してしまうと、各種の学問を基礎付けることを目指す、学問名を冠した哲学、例えば科学哲学のような哲学上のジャンルを説明しきれなくなってしまう。ではどのように理解すれば良いのだろうか? 哲学には明白な始まりがある。すなわちソクラテスという始祖がいるのだ。元来哲学というのはソフィストと呼ばれるものとの対比によってソクラテスが生んだ語である。このソクラテスの弟子のひとりであるプラトンは、ソクラテスの言葉を書き残すことで、それを後世に伝え、ここに哲学の歴史が始まる。そしてプラトンの弟子の一人であるアリストテレスは万学の父と呼ばれるほどにこの二人が問題にしてきたものを広げ、ここにヨーロッパ学問の礎に哲学というものが屹立したのである。ある哲学者は、哲学とはプラトンへの脚注であるという言葉を残したが、これは非常に示唆的なものだ。ある内容が哲学であるか否かというのは、ソクラテス─プラトン─アリストテレスが作り出したコンテキストとの接続可能性によって、考えることが出来ると言えるだろう。この三者の創り出したコンテキストと接続された種々の問題とそれに対する各種の知見こそが、哲学史と呼ばれる巨大なコンテキストを形成し、新たに哲学として登録される内容は、この巨大なコンテキストに結び付けられなくてはならないのである。故に哲学の第二の側面とは、その内容において哲学史のコンテキストと接続出来るものであることが求められる。
 さて、一つ注意が要るであろう。哲学史のコンテキストの開放性について。それはまさにアリストテレスが整備した開放性なのだが、アリストテレスは彼がソクラテス、プラトンから引き継いだものに対して、さらにその前史として何人かの先人をこのコンテキストに登録した。哲学史のコンテキストへの登録は未来の人間がそれまでのコンテキストと接続しに行くだけでなく、未来の人間が哲学史のコンテキストと接続する時に、他の文化的背景をこのコンテキストと結び付けることで、それらも含めて哲学史の巨大なコンテキストを再編成する再帰的要素がある。だとしても、哲学という内容はどこまでも西洋中心的にならざるを得ない点まで考慮しなくてはならないだろう。というのもそうして引き継がれる過去の思想は、哲学史のコンテキストに接続できるように整形され、その思想の固有性を全面的に登録することにはならないためである。
 こうして、哲学の二面性が明らかになった。一つには行為として徹底的に考え抜くこと。もう一つには内容として哲学史のコンテキストと接続するものであること。この二面性が、哲学の重要概念の証明における一人称的遂行とその伝達を要求する。というのも、内容としての哲学は、そもそも行為としての哲学を前提するからだ。故に行為としての哲学が内容として翻訳される過程において、この一人称的遂行を必要とするものが、捩じれた位置を持つことになるのだが、哲学そのものの説明で紙面が圧迫されてしまったのでこの件についてはまた後日に詳述しよう。  四時間(八月六日)

繚乱の高揚を焼き付ける 六日目

 一人称的遂行によってはじめて理解可能な命題というものが哲学の基礎概念にはある。そしてこれを理解し、理解させることには困難がある。しかしながら、それでもこの手の基礎概念の証明を理解することは、哲学のいくつかの重要な問題を解決していく上で不可欠なものでもある。なぜ、このような理解に独特の困難が生じるものが、重要な概念の証明と結びついて哲学においては与えられるのかと言えば、そもそもの哲学という学問の持つある二面性に起因するであろう。それはすなわち、哲学とは何かを理解することで見えてくるものとなる。
 哲学とは何だろうか? 人文系クネクネのお洒落アイテムとしての分厚い本? あるいは自己啓発のための名文句集? はたまた誰にでも分かる簡単な話を、小難しく衒学的に捏ねくり回す、めんどくさい人たちの戯言? そうではない。むしろ哲学は一つの闘争である。それは、積み重ねた戦闘訓練と、手入れされた武器を用いた、戦争に他ならない。これは一つの事実をよく写すものではあるのだが、とはいえこのような比喩で話を進めるのは不適切なことである。そこで、哲学はまず哲学することなのだということを押さえなくてはならない。
 哲学する。これはどういうことなのだろうか? 実はどのような学問においても、それを極めた人は哲学者と呼ばれる。すなわち、最高位の学位である博士号は、Ph.D. (doctor of philosophy)と呼ばれるものである。もちろん、多くの博士号取得者はその専門としていわゆる"哲学"と呼ばれる学問を学んだわけではない。しかしそれでもなお、彼らがdoctor of philosophyと呼ばれるところに、哲学というものが第一義において哲学することとして規定されることが現れる。彼らは、自立した学問探究が出来ることの証明として、この称号を手にする。すなわち哲学することの内実には学問探究という要素がある。故に、学問探究とは何かということの解明が、哲学するということの内実を明らかにする。とはいえ、学問探究の学問とは結局のところ探究の内容に他ならない。だからこそ、どのような学問を探究するにせよ、その自立的な遂行が可能だと認められるならば、Ph.D.だと認められるのだから。とすれば、より厳密にはまさに探究という事柄そのものが哲学するということと結びつくと考えられる。
 探究とは何であろうか? この活動には、まず、問いと出会うことが必要となる。何らかの問いに直面し、この問いを解決するために、この問いに関わる物事の本質を探し究めること。この一連の運動を探究と呼ぶ。であるから、まず、探究、すなわち哲学をすることは、問いと真摯に向き合うことから始まる。そしてこれを解決するためには、まずその問いがその問いとして成り立つその問いの固有性を把握し、次にこれを整合的に解き明かすことが必要になる。この時用いることができる整合性は論理的なものか経験的なものになるが、最終的にはその問いを答えへ運ぶためには、それらの整合性に基づいて、論理を展開することが求められる。そして、この一連のプロセスを実行するにあたって、先人の知恵を参考にすることも必要となる。ここに知識の必要があるのだ。こうして探究のプロセスを踏むことは、まさに賢いとされる才覚を総動員することを余儀なくされるが、ではその実態としてこれらのことは何をしているかと言えば、単純にこのように言える。すなわち、徹底的に考えているのである。
 こうして哲学の第一の側面である、行為として理解される哲学するという事柄は、端的には徹底的に考えることそのものに他ならないことが分かる。しかし、だとすれば、徹底的に考えさえすれば、その思考の内容に限らずに、哲学だと言えるのだろうか? 行為として哲学をしていることは否めないだろう。しかし、例えば、夕飯のレシピを何にするのかということを徹底的に考えることが、(おそらくそれをちゃんとやる場合には夕飯の作成という目的にたどり着かない傍迷惑なものであることはともかく)哲学という内容をしているとは言えないだろう。ここに哲学の第二の側面が垣間見える。すなわち、哲学というものには、学問としての特定の内容があるのだ。
 哲学の学問としての特定の内容を同定することは、その学問史上、非常に困難なものだ。何故ならば、多くの専門化された学問が、その根において、哲学の内容とされていたものから分化していった歴史でもあるからだ。そしてそのために、そのような分化を受けなかった残り物を哲学の内容として理解することにも不備があるだろう。そのように理解してしまうと、各種の学問を基礎付けることを目指す、学問名を冠した哲学、例えば科学哲学のような哲学上のジャンルを説明しきれなくなってしまう。ではどのように理解すれば良いのだろうか? 哲学には明白な始まりがある。すなわちソクラテスという始祖がいるのだ。元来哲学というのはソフィストと呼ばれるものとの対比によってソクラテスが生んだ語である。このソクラテスの弟子のひとりであるプラトンは、ソクラテスの言葉を書き残すことで、それを後世に伝え、ここに哲学の歴史が始まる。そしてプラトンの弟子の一人であるアリストテレスは万学の父と呼ばれるほどにこの二人が問題にしてきたものを広げ、ここにヨーロッパ学問の礎に哲学というものが屹立したのである。ある哲学者は、哲学とはプラトンへの脚注であるという言葉を残したが、これは非常に示唆的なものだ。ある内容が哲学であるか否かというのは、ソクラテス─プラトン─アリストテレスが作り出したコンテキストとの接続可能性によって、考えることが出来ると言えるだろう。この三者の創り出したコンテキストと接続された種々の問題とそれに対する各種の知見こそが、哲学史と呼ばれる巨大なコンテキストを形成し、新たに哲学として登録される内容は、この巨大なコンテキストに結び付けられなくてはならないのである。故に哲学の第二の側面とは、その内容において哲学史のコンテキストと接続出来るものであることが求められる。
 さて、一つ注意が要るであろう。哲学史のコンテキストの開放性について。それはまさにアリストテレスが整備した開放性なのだが、アリストテレスは彼がソクラテス、プラトンから引き継いだものに対して、さらにその前史として何人かの先人をこのコンテキストに登録した。哲学史のコンテキストへの登録は未来の人間がそれまでのコンテキストと接続しに行くだけでなく、未来の人間が哲学史のコンテキストと接続する時に、他の文化的背景をこのコンテキストと結び付けることで、それらも含めて哲学史の巨大なコンテキストを再編成する再帰的要素がある。だとしても、哲学という内容はどこまでも西洋中心的にならざるを得ない点まで考慮しなくてはならないだろう。というのもそうして引き継がれる過去の思想は、哲学史のコンテキストに接続できるように整形され、その思想の固有性を全面的に登録することにはならないためである。
 こうして、哲学の二面性が明らかになった。一つには行為として徹底的に考え抜くこと。もう一つには内容として哲学史のコンテキストと接続するものであること。この二面性が、哲学の重要概念の証明における一人称的遂行とその伝達を要求する。というのも、内容としての哲学は、そもそも行為としての哲学を前提するからだ。故に行為としての哲学が内容として翻訳される過程において、この一人称的遂行を必要とするものが、捩じれた位置を持つことになるのだが、哲学そのものの説明で紙面が圧迫されてしまったのでこの件についてはまた後日に詳述しよう。  四時間(八月六日)

繚乱の高揚を焼き付ける 五日目

 私は暴力というものの必要を信じて疑わない。というのも、世界には種類においても大小においても様々な暴力が溢れているし、またそれらから逃れ得ないからである。確かに、暴力を否定することは美しい理想である。その矛盾に目を瞑るならば。どれほど暴力を否定しようとも、我々の一挙手一投足が、その本質において暴力的なものと直結していることを鑑みないのならば、暴力を否定することの崇高な理想は否定できない。しかし、我々実存者は、だからこそ現実の種々様々な暴力を直視しなくてはならないのだ。我々はそれを一切振るうことなく生きることは出来ない。
 では、そもそも暴力とは何だろうか? これほど不可避な暴力とは。単に人を殴ることや殺すことは私たちにとって不可避なことではない。我々はそれをすること無く、立派に生きていける。しかし搾取は? 共産主義者は資本主義社会においてこれは不可避だと指摘する。我々は搾取されていると。とはいえ、消費者でもある限り、我々はその搾取の恩恵にも預かることとなる。どれほど自分の国の労働環境を搾取から程遠いものに保とうとしても、国際資本主義は搾取を国外の労働者に課すだけである。我々はこうして搾取の暴力が振るわれることから逃げられない。また、それでは階級の打倒が搾取を撤廃することになるのかということを考えるならばこれも少々怪しい側面があるが、それについて詳しく論じようと試みるとそれは共産主義という強固な理論体系との対決になるから、この論稿では扱わないこととしよう。とにかく、資本主義社会を生きる我々は賃労働に従事するならば搾取されているし、消費者であるからには搾取の恩恵に預かる。こうして現代社会では隠蔽された暴力の中を私たちは生きている。とはいえ共産主義という理想が達成されればこれはまだ免れる可能性がある。それでは、もっと根本的な存在論的暴力から、我々の実存は免れているのか? 免れる可能性はあるのか? このことを問い質していくと、話は変わっていく。我々の身の回りに溢れて止まない根源的暴力。それこそが存在論的暴力に他ならず、我々を実存者たらしめる力なのである。
 我々の事物理解は、世界を切断することではじめて手に入れることの出来るものだ。というのも、ある物事が、他の物事とは異なり、その物事である限定性・固有性というのは、そのようにしか与えられ得ないからに他ならない。哲学的なジャーゴンにおいてこれは差異と呼ばれる。重要なのは、この理解において現れる、ある事物の固有性というのは、理解される前からその事物に備わったものな訳ではないという点だ。まさに二十世紀の哲学において、非常に強い影響力を保持した構造主義という思想が指摘するのが、この点である。その重要な主張は、我々はものの名前を名称目録(カタログ)として登録しているのではないというものだ。我々はものに対してある名称を"与える"ことで、それを他の様々な物事から区別して屹立させる。分かりやすい例を二つほど引き出しておこう。ひとつにはパピヨンという名称について考えることで与えられる。フランス語のこの単語は、日本語における蝶と蛾の両方を意味する。そしてフランス語には、日本語と同じように蝶と蛾を区別する語彙はないのだ。つまり、ここからわかるのは、蝶や蛾が元々それ自体として別々に分かれるようなものとは限らないということに他ならない。また、次のような人類学のフィールドワークでの経験は面白い話だ。ある人類学の研究者が雑草の名前を現地の人間に聞いた時に大笑いされたという、レヴィ・ストロースが『野生の思考』の冒頭で紹介したエピソードは示唆的である。その雑草は、その現地の人々にとって、固有性を持つ事物として対象化されたものではなかったのである。この話を引いて、内田樹は『寝ながら学べる構造主義』において、次のような重要なことを述べる。曰く「それぞれの社会集団はそれぞれの実利関心に基づいて世界を切り取ります」と(内田樹 2002、p.146-147)。
 差異の発見というプロセスは、ある物事を他の物事から切り分ける過程に他ならない。では一体誰が切り分け、それを見つけるのか? 構造主義は、それを社会構造や言語構造に還元しようとする。しかしこの差異化のプロセスは社会的・言語的なものに限らない。赤色と青色を区別できてしまうことすら、この差異化のプロセスと異なるところを持たないのだ。このことは、茜色と朱色の区別が、赤色との関係においてどのようなものかを考えれば、同じことが赤色と青色において色との関係で生じることが分かるだろう。そしてさらに色と音などあらゆる差異に関して同じプロセスを見て取れる。全て、パピヨンと蝶と蛾の三者の関係と同じ関係を持つのだ。このように理解する時、差異化のプロセスは、まさに何事かを存在させるプロセスだと言える。そして、まさに「私」が、そのような差異を創り出しているのだ。しかしこの時点でこの差異化のプロセスを暴力と呼ぶことには違和感があるだろう。なぜそれは暴力などと言えるのか、と。
 この暴力性は、そうして創り出した差異を消し去ることが出来ないからに他ならない。差異化のプロセスとは、事物と事物の世界における関係を、都度都度我々の一回的な実存の行使によって、不可逆なものとして固定する行為なのだ。蝶と蛾を区別してしまえば、無理やりにでもパピヨンを昼と夜のパピヨンに分節することと一致させたくなる(あるいはこれはフランス語話者からは逆とも言える。昼のパピヨンと夜のパピヨンという分節に日本語の蝶と蛾を対応させる)。そのふたつの分節は異なる分節であり、どちらも消去されないし、どちらも重なっていない。差異化のプロセスには二つの暴力が潜んでいる。一つはより根本的な暴力。何かをある在り方において存在させる暴力、すなわち差異の消去不能性に由来する暴力である。我々はユダヤ人が迫害の対象として固有化されることを誤りだと考えている。しかしそのように固有化されたことを忘れることは無い。そしてこの忘れがたさは、ネオナチを生み出す。その分節の誤謬性を再否定することで。第二には、ある優先された差異の在り方で、他の差異の在り方を覆い尽くそうと試みること。すなわち差異を固定化する暴力。ある差異の在り方と別の差異の在り方の間には、それこそ「社会集団の実利的関心」に基づく優劣がある。あるいは昨日の論稿と合わせて、このようにも述べられるだろう。すなわち、社会集団内における言語構造に基づく共有性の在り方は、ある差異の在り方を誤りとする、と。これはまさに構造主義が指摘し、ポストコロニアリズムを発展させてきたその論理である。そして、私たちは個々人がそれぞれの投げ込まれた生活世界の中で、この二種の差異化の暴力を振るうのだ。この二種の暴力の総体こそ、存在論的暴力に他ならない。
 そして、最悪なことにこの存在論的暴力は他者に向かう。何故ならば、この差異化のプロセスは、まさに他者が存在するために不可欠なプロセスでもあるからだ。ある人をその人として理解すること。それはその人を他の人と異なるものとして存在させることである。その存在は差異化の第一の暴力によってのみ可能となる。そしてそのように成立した消去不能な暴力の痕跡は、第二の差異化の暴力によって絶対化される。なんなればそうして絶対化することこそが他者に対する配慮だとすら理解される。エンダーは言う、「自分の敵を完全に理解する時、僕は彼を愛しもする。そして完全に殺すのだ」と。まさにこれこそが全体化のプロセスなのだ。世界から切り出し、張り付けるこの一連の差異化のプロセスの暴力性。我々はこれを行使しないで、他者との環世界を営めない。だからこそ、ここでレヴィナスが叫び出す。他者はそのような差異化のプロセスの果てにいる誰かでは無いのではないか、と。仮にレヴィナスが正しいのだとしても、それと同時に我々実存者がこの差異化のプロセス、すなわち存在論的暴力を振り回さざるを得ないことから目を逸らす訳にはいかない。このように何かを固有化し、世界に張り付け、理解するプロセスは実存者が実存をする上で不可欠な遂行であるから。そしてそれが他者に向かいうるからこそ、実存者には倫理が問われる。他者に対する存在論的暴力を振るうことの責任が。  三時間半(八月五日)

繚乱の高揚を焼き付ける 四日目

 間違えるとはどういうことであろうか? 間違えたと知ることでなく、間違えるということ。このことが問題である。例えば、山道に落ちている縄を蛇と見"間違える"こと。あるいは、2+2=5であると、"間違える"こと。はたまた、あの人は倫理的配慮に値しないと"間違えて"判断すること。どのような例を取ってみても、我々が間違えるためには、いつでも正しい何かが必要である。とはいえ、山道に落ちているものは縄であることが、2+2=4であることが、あの人は倫理的配慮に値することが、正しいことであると、なぜ私たちは知っているのだろうか? それを知らなければ、あれらが誤りであると私たちは知りえないというのに。だからこそ、間違えるということを考える時に、人は正しいことを知らなかったことを問題にしてしまう。しかしここでひとつ留意しなくてはならないのは、間違えるということは、真偽の認識の問題ではなく、正誤の判断の問題であるという点だ。偽なる命題を信じる誰かは、それを偽であるということ、すなわちそれとは別に真なる命題があることを知らないうちには間違えてすらいないのである。つまり、間違えるためには正しいことを知っていなくてはならないことはほとんど自明なことである一方で、ある二つの認識が一つのことについて与えられた時には、どちらが誤りであるのかということは自明なこととしては出てこないというのが、間違えるということを問う上では最も重要なこととなる。このことを考える上で、哲学においてよく用いられるのが、夢と現実の区別の付けがたさの問題である。
 まず、大前提として、ここでは夢が誤りの側に配置され、現実の側が正しいものとして理解される。これはまさに普通の基準に他ならない訳だが、とはいえこの慣習的基準はいくつかの知的操作によって簡単に崩壊してしまう。故に、我々はなぜそれが壊れてしまい、また且つそれでも尚、強固な慣習的基準として生き延びるのかということまでを明らかにしなくてはならない。まず、この基準がなぜ容易に破壊されるのかということに関して、結論を述べるならば、我々に与えられる、立ち現れた諸現象には、それ自体としては正誤を識別するための徴符が無いからに他ならない。このことを野矢茂樹は彼の著書『心と他者』において、大森荘蔵の考えを引き合いに出しながら、「虚実無記の立ち現われ」と呼ぶ(野矢茂樹 1995、p.6)。すなわち、夢であろうとも、現実であろうとも、そこで我々が経験することは、その真偽に関わらず、どちらも同じように立ち現れており、同じように身に迫ったものとして開示されている。だからこそ、夢の一つの特徴として、それが夢であることに気が付くのは起きてからだと言われるのだ。もちろん、明晰夢しか見ない者にはこの特徴は分からない話だろう。しかし明晰夢を見る者は、その夢での経験の質感が、現実での経験の質感とは、実のところあまり変わらないということをより直感的に理解できるのではないだろうか? 明晰夢において、それを夢だと理解するのは、その夢での経験の質感に由来するのではなく、その経験の与えられ方の唐突さであるとか、あるいはその経験の中における自らに可能な事柄が、現実においてとは異なるなどということによってであろう。すると、一つの懐疑が否定できないものとして与えられる。すなわち、現実というのも、そのような夢の一種に過ぎないのではないか、という懐疑である。そして、これは論証によって棄却することの出来ない類の懐疑でもある。確かにこの現実は、夢とは絶対的に異なると言えるのならば、デカルトの懐疑論証も、水槽の脳も、胡蝶の夢の故事も成り立たないはずなのだから。しかし、それでも我々の実存的経験は、現実には夢とは違う特別な特徴があることを示唆し続けている。
 この特別な特徴に関して、永井均は現代思想第52巻第1号『この現実が夢でないとはなぜいえないのか?──夢のような何かであるしかないこの現実について』において、夢の本質的特徴として、「他者たちと共有された世界ではない」ということを挙げている(永井均 2024、p.9)。確かに、夢で経験された事実は、決して現実にいる他の誰かと、まさに同じような事実としては共有され得ない。実にこのことが、夢と現実の実存的経験としての大きな差異であるように私には思われる。もちろん、現実における他者との共有は、それによって現実を夢の一種ではないことには全くしない。というのも夢の中において、夢の中の事実を夢の中の他者と分かち合うことにはなんの支障もないのだから。逆に、夢の中で現実の事実を夢の中の他者と分かち合おうとすれば、現実の人が夢の話を聞くのと同じような反応を彼らが示すことすらありえるだろう。とはいえ、ここで問題になるのは、夢が現実とは異なり、誤りとして扱われるその水準において、その基準として、現実での共有可能性が問題となっているということである。これは、まさに間違えるということを可能にするための、正誤の問題と結びつく。つまり、この共有性は、ある二つの認識のうちのどちらを誤りと見なすかということの基準に他ならないのだ。
 例えば、縄と蛇の見間違いについて考えるならば、縄という立ち現われと蛇という立ち現われの間には、正誤の徴符はなく、その立ち現われのみからはどちらが誤りであるかは判別がつかない。しかし、ここで縄であるという立ち現われは共有でき、蛇であるという立ち現われが共有出来ない時には、この共有可能性の違いによって、縄であるということが正しいとされ、それによって、蛇であるという判断は間違えたことが分かるのである。冒頭に挙げた三例のどれもが同じである。2+2が5でないのは、それを5であることが正しいことだと述べることが意味不明だからに他ならない。倫理の例の場合はもっと深刻なことを言える。つまりある人が倫理的配慮の対象ではないという判断が共有されてしまうならば、それはまさにそのことによってその共有を維持できる人々の間では正しいことであることを示すのである(もちろん、それはその時にそのように倫理的配慮の対象から排除される当の本人とは共有出来ないことではあるが)。すなわち、間違えるとは、その事実について他の人に共有可能ではない理解を、共有可能な理解を退けて、なお正しい理解として保持するということなのである。それは真偽の問題と正誤の問題が異なるということであり、また後者は実存論上の問題だということである。  五時間(八月四日)

繚乱の高揚を焼き付ける 三日目

 残念ながら、やはり哲学というものをやる上でもセンスや頭の良さというものがある。とはいえ、その手の事柄の大半が、技術と努力によって補うことが出来るのと同様に、哲学をする上で必要な才覚というものも、技術や努力によって身に付けることのできるものである。そしてまた、私はこれを自分が哲学をし、また哲学を好みこれをする人々との交流の中で見つけたものではあるが、もしかすれば哲学に限らず、学問的態度一般にも同じように必要な才覚なのではないかとも考える。これから示していく才覚のどれか一つでも突出して有する時、それを見た人はその才覚を有する人を賢いと判断しやすい。と同時に、それらの才覚のうちのどれか一つでも欠落していることを見れば、それ故に愚かだとも言われ得る。今回示したいのはこのような才覚である。
 それでは、特に哲学をする上で顕著に要求されることとなる、我々の賢愚の判断の基準となる才覚とは何であろうか? まず、最も明らかなものは、豊富な知識を有していることであろう。我々はより多くのものを知っている人を賢いと考えるし、ものを知らない人を愚かだと述べる。そして、哲学をする上では、2500年を誇る哲学史という知識庫から銃弾を補給できなければならないからこれは非常に重要な才覚のひとつである。もちろん、他の諸学問においても、その学問を遂行する上で不可欠な知識の欠落は致命的である。ところで、このような知識の豊富さというものが才覚であるのかを疑問に思う声もあるかもしれない。それは蓄積された成果なのではないかと。しかしはっきりと述べておこう。ものを覚えるということには、才能の問題があると。それはつまり、同じことを覚えるのにどれだけの時間を必要とするのかということには個人差があるということである。当然、より少ない時間で覚えることが出来る人はそれだけより多くの知識を持つことが出来るのである。であるから、知識の豊富さとは才覚に他ならない。才能を有する人は簡単にこれを発揮できるのだ。もちろん、才能を持ちながら用いない人よりも才能はなくとも用いる人の方が才覚を発揮するものだし、これから述べる才覚に比べれば、最も努力によって才能のない人が才能のある人を抜くことの出来る才覚ではあろう。
 この次に努力によって補える才覚は、論理展開能力である。すなわち、問題に対してこれを解決する道筋を論理的に切り開いていく才覚である。もちろん、これも才能がものを言う場面が少なくはない。ある与えられた問題を論理的な構造として把握する才能があれば、それを解きほぐすこの才覚は発揮しやすいだろう。しかしながら、多くの既知の解決された問題は、既にその問題の論理的骨格とその解剖が済んだものであるから、それらのやり方を真似ながら、自らも同じように解剖していけば、この才覚は身に付いていく。当然数をこなせばこなすほど、身に付くものであり、知識の豊富さと同様に相当程度が努力によって補える。理数系学問における計算能力もこの能力の一種だと言える。だからこそ、この才覚はその最高峰の水準においては、知識の豊富さとは異なり、どうしても元々の才能が必要となる。この点において、努力によって補えるレベルには上限がある才覚でもある。というのも、結局のところ、この才覚の発揮には、問題の論理的構造を把握することが不可欠であるためだ。ある問題が、他の問題と同様の論理的構造を持つことさえ分かれば、積み上げた解剖能力によって、これを展開出来る。しかしそれが分からなかったり、見誤ったりすると、問題は迷宮へと向かっていくこととなる。そういう意味で、ある程度のレベルでは、元の才能が問題にはならないが、この論理展開能力が求められる極限的状況においては才能が問題となってしまうのである。そして、この才覚の発揮のさせ方というのが複数の問題を横断して類型化することでより良く発揮されるために、この才覚に秀でている場合に、次の才覚が劣ってしまうことがある。
 この才覚は、おそらく賢さを判断する基準となる才覚の中では、最も才能と直結した才覚である。努力によって鍛えることが不可能なわけではないが、この才覚は才能を持つ人にはほとんど努力を要さない才覚でもあり、才能の有無が才覚の有無と結びつきやすい。しかも、先程述べたように努力によってなお身に付けることのできる論理展開能力は、この才覚の発揮を妨げる要素があるのだ。そして、この才覚は、もちろん一般的な賢さの評価としても機能する才覚ではあるが、特に哲学をする上ではおそらく最も必要な才覚でもある。その才覚とは、問いの固有性を把握する能力である。それはすなわち、ある問題がその問題として成り立っている、その問題に固有な地平を捉える能力に他ならない。ある問いが何を問うているのかを把握する力である。哲学においては、たびたび問いを問うことを重視するが、それは結局、この問いの固有性を把握する能力を鍛えるためなのである。そして、それが哲学を難解かつ衒学的にする。この哲学の衒学的要素は、この能力に関する才能を持つ人々には容易にその重要さが理解される。しかし一方で、この能力を努力で補う人々からすると、この手のやり口はあまりにも衒学的に映る。とはいえ、哲学的なある問題は、単にある問題類型の一具体例という訳ではないのだ。そのためにこういった話が必要になってしまうのである。もちろん、この問いの固有性を把握する能力というのは、日常的な問題解決のシーンでも有用であり、これが出来る人は賢いとされる。というのも、彼らはある問題がある問題として生じるその根本を捕まえているために、それを解決するために最も必要な核心を取り出すことに優れているからだ。そうして核心が取り出されれば、論理展開能力を持つ人たちによってそれは解決へと導かれる。こうして、これらの両方の能力はそれぞれに人を賢いと判断させる。
 さて、これで全ての賢さの指標となる才覚は出切ったのだろうか? いいや、そうではない。仮にこれら全ての才覚に秀でた人でも、次の才覚が失われれば、そのことによってその人は愚かだと見なされるからだ。一方で、次の才覚に突出していたとしても、そのことによってすぐさま賢いとも言えない側面がある。とはいえ、その才覚の欠如が愚かさへと至るならば、それを優れて有する人は、賢いと言わざるを得まい。それは普通、人を賢いと評価する時には、全く顧みられないが、先に述べた三つの才覚が発揮される地平として、賢さの基盤でもある才覚である。それは、問いに対する真摯さを持つ能力である。先に述べた三つの才覚のどれも、結局そもそもの問いに対する真摯さを欠如するならば、発揮されなかったり、その発揮の仕方をバカにされる。分かりやすいのは、第一の才覚である知識の豊富さを十分に有する、クイズが得意な人に対する態度であろう。当然、その知識の量は賢いと見なされるには十分であるが、一方ではそれだけでもあるとされる。この「それだけでしかない」という評価を可能たらしめているのが、この第四の才覚の欠如なのである。第二の才覚である論理展開能力も、ある問題を解決する意志がなくては発揮されない。その意志を喚起するのは、この第四の才覚の発揮に由来していると言えるだろう。そしてまた、第三の才覚である、問いの固有性の把握能力は、この第四の才覚を極めれば極めるほど、その必要を痛感させられる才覚でもある。誰でも、問いに対して真摯さを失い、おちゃらけてしまう限り、他の分かりやすい賢さの指標も育たないばかりでなく、最も愚かな人として理解されすらしてしまうのである。
 このように、賢さの指標となる才覚には、①知識の豊富さ、②論理展開能力、③問いの固有性の把握能力、④問いに対する真摯さを持つ能力の四つがある。これらはどれも才能によってより簡単に発揮できるものであると共に、技術と努力によって身に付けることでも、発揮されていく才覚である。これらの才覚を鍛え上げる方法についての論稿はまた別に書かれる価値があるだろう。  五時間(八月三日)