美味しく喰らう

天才とは様々なものを「美味しく喰らう」存在

続・我が変化を見る/少なくとも時間だけは進んでいる

 すっかり周りの人間も大人になった……のだろう。その内実として実際大人になったのかどうかは知る由もないが、少なくとも世間体としては十分に大人である。
 周りの同学年の親しい友達は四人ほどいる訳だが、彼らはそれぞれ東証プライム企業に勤めたり、公務員として働いていたり、オーストラリアで一攫千金を狙いに行ったり、小説で新人賞の最終候補になったりしている。硬い人生を歩む奴が二人と、夢追い人が二人ということで、友人関係のバランスとしてはこれは悪くないように思う。かく言う私は、そんな彼らと異なり、無様にモラトリアムを延長し、気ままな大学生活を送っている。とはいえ、一応新聞奨学生として毎日深夜に町をバイクで駆けずり回っているのは、いろいろと堪えるものがあるが。
 大人になるということがどういうことなのかというのは難しい話だ。しかしひとつ思い当たることとしては、現実への妥協によって人は大人になるのでは無いかと言ったものだ。そういうと、夢追い人というのは大人では無いのかという話になりそうだが、彼らもまた大人であろうと言うのが私の見解になる。現実と妥協するということが出来なければ、実際に夢を追う成果を現象させることは出来まい。上記に取り上げた友人らはどいつもこいつも何らかの形である種の現実に対する従順さを、よく言えば現実を超克する術を身につけ、前に進んでいるのだろう。現実から逃げて逃げて逃げ続け、何とかモラトリアムを延長させている私とは異なる。
 しかしそれでも私は大人になりたくないと思っている。やがては否が応でも現実に呑み込まれるのだ。醜くても足掻いていたいと思っている。そしてそのような足掻きの中に虹色の欠片を拾えることを期待してもいるのだろう。おそらくそのような虹色は本当に求めているあの虹色とは異なる。しかしそれでも、その影を背負った何かを掴んでいたくてしょうがないのだ。
 如何にして、灰色の中で虹色と戯れるのかということは、おそらく高校の頃からの私の生き方に関する課題だったと言えるだろう。そしてあの頃から今に至るまでの中で、最も虹色に近づいたのは、19年の4月から20年の3月に至るまでのあの時期なのだと思う。この一年だけは、あまりにも特別が過ぎる。生と死、愛と憎、そういったものが犇めいている。この時代の記憶が脳裏に固着して、イデアとして現在を照射している。この時代を象徴するのは結局のところ、次の動画なのだ。
 
 https://youtu.be/94VfwQqmlH8
 
 だから、私はなんだかんだで、ずっとこいつを求めているのだ。この空気を。あの空気を。
 しかし当然の事ながら一方で理性は告げている。過去は手に入らないものなのだ、と。あるいは、あれは過去であるから美しいのだ、と。分かりきったことではあるが、それでも手に入らないものほど手にしたいのだ。そしてそのためには足掻くしかない。どこまでもどこまでも、灰色に埋もれないように、現実に呑み込まれないように。
 現実を乗り越えることすら生ぬるいのだ。現実を破壊しなくてはいけないのだ。
 これはもはやひとつの強迫観念となって、私の人生を規定するだろう。あの夏の暑さを残した夕方の農道をいつまでも求めるのだ。