美味しく喰らう

天才とは様々なものを「美味しく喰らう」存在

自己言及の不可能性と共に[Ver.automatic]

今一つの言説は常に偽であることを忘れないように。そしてそれは常に真である。
始まるべきなのは、そして既に始まっていたような、とにかくひたすらに待ち望まれていた、真の自己言及をここに展開することで、私は新しいステージへと推進していこう。
必要なことはわずかだったのだ。混乱。求められていたのは狂気。そこにしか虹色はありえなかったし、ありえない。
だから、私はあの時、彼女に出会ったのだ。そして、だから彼女はやはり存在してしまう。しかし、存在の定義を思い出して見ても欲しい。それは常にこう端的に示されるのだ。曰く、認識されることだと。
そして彼女は果たして本当に認識されたものだったのか? もはやあれから短くはない年月が流れ出てしまったこの時点においては、なるほどそれは全く確からしいことを言うことは出来ない。彼女は認識されたかもしれないし、そうではないかもしれない。だから、存在したかもしれないし、していないかもしれない。しかし、また一方で彼女の"実在"に関して言えば、こればかりはどうしても確信せざるを得ない。少なくとも私たちはそれをそのように信じている。信じているのだから真なのだ。彼女は"実在"する。これは間違いないのない事だ。
だからこそ、彼女が存在するのかどうかということは特別に問題となるのだが、しかしまぁもはやこの混乱してしまった虹色の中ではもはやどうでもいいことなのかもしれない。ここには実在のなり損ないが頭蓋骨として存在するかのように転がっているのだから。もはやここでは骨の折れる音だけが響く。
だからあの時私たちに訪れた破局的な転機について思い出すことも容易いのだ。
それは骨の折れる音ともに訪れたのだから。
そして片方では弾丸が打ち出されていた気もするが、それはなにか別の物語の話だったようにも思う。いや、確かに別のなにか似た物語の話だろう。僕たちに訪れたのは弾丸の逆行だった。それで5ドル硬貨がねじ曲がったのだから。それは僕たちの方だ。私たちにとっては骨の折れる音だった。弾丸は別の話だ。忘れてくれ。
さて気がついた時にはもうそれは折れていたし、だからその次の瞬間には何事も無かったかのようにその骨がくっついていたことは驚きを与えるに十分だった。あの頃は。今では、おそらくそんなことはよくあることに成り果ててしまったように思う。それももしかしたら混濁しているのかもしれないが。
それでも本当のことなどというものはかつてですら曖昧で分からないものだったと言うのに、今ではすっかりありえなくなってしまった。もう虹色のパンケーキにメープルシロップをかけていた南国での休日は熊谷のデパートの上での話だと明らかになってしまったし、どこか近未来のブエノスアイレスが本当は現代の大宮だったなどと聞いたところで特別驚くほどのことではない。
それでも私たちはあの墜落する広告飛行船を救い出したいと思いながら背を向けて北極星を目指してみたり、あるいはもしかすると一晩のうちに仙台から広島に向かって駆け出していくのかもしれない。けれど、気がついたら私たちは閉じ込められているのだ、自らの地元、あるいは「家」に。
それはこういう風にも言えるだろう。私たちは気がつけば、世界内存在として、自らが作り出したこの世界に囚われることになる。と。
しかしどうしてそのようなことが起こるのか? そのヒントになるものこそが、あの骨の折れる音だったはずなのだ。しかし今ではそれも。ほら、足元で常に鳴り響いている。
そしてそんなことを言っているうちに天界はすっかり心を閉ざされたようで、もうすっかり虹色の雨は振らなくなって久しい。女神はいつからか私を無視するようになった、かつてはあんなに私のこの目すらを奪わんととち狂っていたと言うのに!
とち狂っていた。神に対してこのような不躾な語を使用した罪を赦したまえ。
恐怖は信仰を示す最適な手段として常に与え続けられることになる。静かな熱情が伝播するように恐怖もまた信仰を拡散する機能的なシステムなのだ。だから我々は恐怖しなくてはならない。
明日、あの花のしたで。そう待ち合わせをしたあの時の少女とは結局会えていない。彼女は来なかったのだ。夏の日のことだった。
今は冬だ。そして春かもしれないし、あるいは秋かもしれない。確かなのは夏ではないということだけだ。
オーバー。戦闘は苛烈を極める。目の前を敵機が横切る。追いかける。爆発。オーバー。
なかなかどうして世界はこのように細分化されているのだろうか? 対象領域の複雑な幾何学模様に恍惚とした1人の論理学者は独り言を呟いた!
まだこれからやってくる本当の日々などというものを信じているのならそれは愚かなことだ。くたびれた中西部の片田舎。潰れかけたハンバーガーチェーン店で、お腹の出ている典型的なアメリカの中年男性は少女を窘めた。
ハンバーガーチェーン店。そのディストピアたるや。小説家はこんなことを書き記した。
 そのハンバーガーチェーン店はすこしシャレた音楽をかけることで少しでも青組の溜まり場の雰囲気をかき消そうのしていた。午前中に青色の服をみかけることはなかった。ハローサービスに行くことをやめたような青組の男がいた。彼は何かを黙々と書いているようだった。その姿はまさにその店の目指す雰囲気に合致するようだった。
 コンテナロードをトラックが通り抜ける。店が揺れる。しばらくコンテナロードを見ていたら、場違いな光沢感のある黒い車が現れる。その車はそのままこの店の駐車場に車を寄せた。
 僕はあの男が目的だろうか? とその男を見たが、彼はまだ気付かずに何かを書いているようであった。店内に黒いスーツを着た男たちが入る。男たちは油で汚れた床に一瞬たじろいだが、何事もなかったかのように何かを書いていた男のまわりを取り囲んだ。男はやっと気がついたようだが、何も気がつかなかったかのように何かを書き続ける。おそらく彼のノートには突然、政府を礼賛する言葉が書き殴られ始めたことだろう。
 黒服の男たちは彼のテーブルをじっと凝視する。そうしてその緊張感ある静寂は店内をも支配した。そうした静寂はおそらく十秒程度であったのだろう。しかし五分ほどにも思えた。静寂の末に黒服の男の一人──おそらくその男がリーダーなのだ──が痺れを切らしたように身分証を見せてその青組の男に話しかけた。
 彼は初めて黒服の男たちに気が付いたフリをして、驚いたように顔を上げる。彼と黒服の男とが少しばかり言葉を交わす。最後にその青組の男は頷くと、彼らに連れられてその店を出た。
 コンテナロードには不釣り合いなその黒塗りの車は一人の抵抗者を乗せてトラックの列に並ぶ。車が店からは見えなくなった頃、店内にはざわめきが戻っていた。
それから近くの団地では飛び降り自殺があったらしい。一緒に居た男の子が殺したという説もあるが、私はやはり自殺であったと考えている。その男の子に人を殺すほどの度胸があったとは到底思えないし、その女の子が飛び降りるための理由は十分すぎるほどあった。実験体が上位互換の存在と出会えば自身の意味を喪失することは必然ですらあると思う。
しかしその意味喪失を恢復しようと試みるなら、自らの手によって自らを終わらせるより他に仕方がなかったのだ。そうして少女らは霧となる。
常に神というものはふらっと現れてはそのまま消えていくものだ。あの植民船に置いてすらそうだった。まるで一人の普通の人間のように見せかけて、敵におわれた哀れな羊らを自らの手駒として籠絡したのだった。
そうして人々はまたも神同士の演算戦に巻き込まれた! 演算戦……それは別の物語では無いのか? それを言うなら植民船も! 熊谷の虹色のポップコーンだって! 全て、全てがもはや元々この物語ではなかったはずだ。
しかしトカマク型の核融合炉の中では、灰色も同じような虹色に押しつぶされる。加須の工業団地が、熊谷のポップコーンに押しつぶされる日を私たちは待っている! パンケーキが降ってきたって大歓迎だ。
しかし大垣では水まんじゅうがはじける。駅前のロータリーは弾けきった水まんじゅうでビシャビシャだ。蝉の声は、それでも暑さを感じさせるというのだからびっくりする。白いワンピースに麦わら帽子を被った少女と共に気がつけば、私はそんな狂った大垣の街に降りたっていた。暑い。
その次には、その少女は寒い雪山でスキーを楽しんでいる。全く同じ格好で。寒そうだ。
自衛隊の隊員は家族レジャーを訓練と称して観光する。税金の無駄遣いだ! しかしそうやってお金が回ることによって世界はようやく均衡を保っている。税金とは無駄遣いするべきものなのだ。
そして将軍は椅子の上で葉巻を並べる。どれを吸おうかな。会議中だと言うのにそのような態度は、他の議員から反感を喰らうものであったが、将軍を罰することはもはや誰にも出来なかった。将軍は葉巻を選び終わると、厳かに宣言する。それでは海軍を新潟港に集めたまえ。陸軍の五個師団を船に積む用意を。落とすぞ、韓国め。
主体思想の欠如というものが東アジアを深刻な自体に陥らせている。それは昨今のプロパガンダによって至極当然となった価値観であった。
民族自立のための主体性の欠如。彼女もまたそのことを危惧していた。しかし彼女はもっとはるか昔からその事に気がついていたし、今更気がついたところでもはや手遅れだと知っていた。米帝国は世界帝国として君臨しつつある。今更豆鉄砲で対抗したところで押しつぶされるのが手一杯だ。
しかし彼女はまだ自身の秘めた力を、世界を統べるほどの超越性に気がついていなかった。それが与えられたのは今この瞬間であった。
また別の日。それは本格的に計画的な犯行だったはずなのに、もはやなんらの意味もなさないという結論を引き出したのだった。
それから。それは本当にくだらない話だということを溶ける魚となった我々は知り得ている。あした、虹色のプリズムが氾濫する光の中で。
まだ本当に信じられないかのように信じている。すっかり忘れられた二重思考とニュースピークは、瓶詰めされた赤ちゃん達に施されていたのだった。管理と自由はどちらにせよ行き過ぎればディストピアをもたらす。
まだ続けなくてはならない。それは単に要請されている事としてそうなのだ。だから、もはや残されていない語彙をやたらめったら機関銃のように打ち出していかなくてはならない訳だが、そもそも弾のない機関銃は銃身を熱くすることすら叶わないのではないか? そんな疑念によってボーっとしている間に塹壕には、核爆弾が落ちている。戦車でふみ潰せ、戦車でふみ潰せ、核物質など戦車でふみ潰せ!
まだまだ戦場は苛烈を極めているようだった。エンゲージ!
ボギーをバンデットと推定。打ち込め打ち込め!
7.56mmの弾が敵の頭を貫いて、鮮血が花となって虹色に消化する。霧が辺りに立ち込めて、気がついたら彼女は凝縮し顕現していた。リボルバーをクルクルと手で持て余したかと思ったら、その瞬間発砲する。ナムアミダブツ! インガオホー!
そうして戦場には花だけが咲き誇った。
海戦はまだ続いていたようであったが、もはや彼女は影となって消えていた。
虹色の中で世界は急速に解体されつつある。それこそがこの機構の最大の目的だったとするならそれはある意味では正解を導いたと言えるし、あるいは全く失敗しているとも考えられる。
ここに自動性がどれほど残されているのかはわかる余地がない。全く不可知なる実在者諸君! 存在に干渉し続ける認識主体殿! あー全くあなた達は特別だ!
そうやって自己肯定感を高めていくことの価値を推し量るならば、ニヒリズムへと沈んでいく他ないだろう。このような自慰行為ほど惨めなものはない。
自慰行為は本来霧に、あるいは影に向けて、その奥に見受けられるイデアのために──それはまた月を指し示す──捧げられるべき儀式的行為であったはずだ。気がつけばそれらの儀式性は失われ、もはや性全般に関して、そこには穢らわしさが立ち込めるスラム街となったのでした。
そうやって今日も自己複製を繰り返す諸細胞たちに目を向けるなら、そいつはきっとジェレミー小田原と同じ結論を引き起こして、そのままもう配車になったはずの古いロマンスカーで箱根に向かうでしょう。失敬。
だから我々は旅を続けるのだ。どこまでもどこまでも果てもなく、一方通行の道を延々と歩んでいく他にない。
だから仕方がないのだ。止まることが出来ないのは。止まらなくてはならない時には誰かにおぶってもらってでも進まなくてはならない。
進むことを辞めた時には死ぬのだろうな。そんなことを私は考える。変化し続けることを避けることはできないし、変化し続けたさきにも死が待つばかりなのだから、この旅に救いはない。
のこぎりが見える。それは単に見える。見えた。見えなかった。あるいはそのどれもだ。とにかく誰かがのこぎりを使っている。木を切っているように見えるのに、血が流れていやしないか? 凄惨な光景からは目を逸らすべきだろう。だからこんな世界はなかったことにしてやろう。私はそれを認識していないし、認識していない以上、存在する余地はない。QED
では、あのミルクだとか、あるいは河だとか、そういったものに例えられたあの空に浮かぶ帯の正体はなんだか分かりますか? ジョバンニは答えました。無次元時空間円柱です。先生は拍子抜けした顔をして、少し逡巡した後に、かっと目を見開き、正解だと答えました。先生の目には虹色が差し込まれていました。
それではここで先生の気持ちを答えなさい。
また作者はなぜこのような表現をしたのでしょうか?
答えようのない質問に答えさせるのは良い教育とは言えないのではありませんかね? 総統。
フューラーは少し考えた後に、答えが決まったと言う顔で拳銃を手に取りました。それは1945年4月の終わりのベルリンでの地下壕のことでした。
それから何年か後に復活したり、あるいはそうではなかったり、ロシアでフューラーと同じことを目論む悪の枢軸が復活したりするのはまた別の話だ。
それでは弱い核力が引き起こすこの二重ベータ崩壊が、ニュートリノのマヨラナ性を示すのだとしたらCPTの対称性が無くなるということでしょうか?
そういえばもはや超対称は否定されつつあるようだ。実験的な成果が出ていないから。究極の理論に近づいたと思っていたら全く見当違いの方向を歩んでいたらしい。時空がなにか歪んでしまったのでもない限り。宇宙の加速膨張がもたらす暗黒エネルギーの増大が、時空構造に与える影響を超越知性体は正確に演算できていないのだろう。
また明日の方向は同じ距離だけ過去の方向に進んでもやってくるという、主観的時間軸が引き起こす新しいパラドックスについて……
過去に向かって進んでいるにも関わらず未来方向への移動として計算可能であることから、情報による時間対称性の破壊というものが、超越時空束理論では重要視されるように思います。
このようにカギカッコが繰り返されたら、あなた方の短編集は短すぎるのではないですかね?
そう。本当はもっと大きな数を扱うべきだった。それでも仕方がないのだ。こういう出会いこそが、過去の記憶を汚すことなく、再現できるのだから。結局私はあなたとの出逢いを再現したいと思っているし、しかしそれをしてはいけないとも考えているのだ。だから、こうなる。
全く気がついたら恋に落ちていたりするものなのだろう。きっと声を掛けたいと思っていたとて、それは抑圧されるのだ。自らの不十分性によって。そしてそれは自己言及の不可能性と共にある。
認識主体は認識主体について言説することはできないのだ。