美味しく喰らう

天才とは様々なものを「美味しく喰らう」存在

続・我が変化を見る/青春への未練

 友人が最近ラノベを読んで青春への未練を引きずり創作意欲を燃え立たせている。私はそういう熱気には全く弱く、すぐに感化されてしまうところがある。おかげで最近は動画を投稿してみたり、あるいはこうしてブログを書いたりしているわけだ。では果たして青春に未練があるかと言えば、これに関してはほとんどないと言っていい。ひとつには私が現在進行形でモラトリアムの渦中にいて、青春そのものを過ごしているということが挙げられる。もうひとつは、高校時代にモデルケースのような青春イベントを受験以外は攻略済みであるというのも大きい。
 私の青春はおおよそ19年11月をもって区分されている。以前を青春1.0、以降を青春2.0としている。まさに私は現在進行形で青春2.0を謳歌しているわけである。
 青春1.0と2.0の大きな違いとしては、煙草を嗜むようになったか否かということがある。煙草を吸う青春というのは、ライトノベル的高校生活にはない要素だ。高校までの青春と大学からの青春。その僅かな違いがライフステージの色合いを変えているのだろう。
 特に青春1.0は『我が変化を見る』なんてものを書き上げたりしていたわけで、大変な自己変革の時期であった。ある意味では青春1.0において、自己存在の核は構築されきったように思われる。何が私の中心教義を完成させたのか? やはり殺されかけたことが大きいのだろう。より正確には、その瞬間死ぬことに躊躇いがなかったことが大きい。いつ死んでも良くなった時に、人はある種の核を完成させるのかもしれない。少し極端かもしれないが。
 では青春2.0とは何なのか。実際その答えが出るのはおそらく数年後であろう。今まさにそれを過ごしている時にそれが何かは分からない。とはいえ、青春2.0に区分される時期に起きたことで、思い出となったことも少なくない。人生で二度目の恋は今のところ、青春2.0の強烈な思い出となって、私の脳裏に焼き付いている。好きな人と食べる食事が結局のところいちばん美味しいのだ。素晴らしい景色と素晴らしい食事であった。夏だ。夏がやってきた。
 人生は円環を拒絶する。我々の歩みは、ただただ前方へと駆け抜ける他ない。この人生の様相を歴史に(誤って)投影してしまったものこそが進歩史観なのだろう。歴史は螺旋を描くことが許される。しかし人生の長さは、時の歩みの曲率を曲線と感じられるようには出来ていないらしい。あまりにも短いのだ。いや、もしかすると、時の歩みの曲率を感じ取ることが出来ないのは、単に私が若すぎるが故なのかもしれないが。少なくとも20余年では感じられない。もしかすれば60も生きれば感じ取ることが出来るのかもしれない。干支も一回りするのだから。
 前へ。前に進む他ないのだ。我々がその全てを完成した時に死ぬための前進が。