美味しく喰らう

天才とは様々なものを「美味しく喰らう」存在

認識・記憶・時間

はじめに

 本稿は、我が最愛なる友人の一人である、黒井氏の論考『祖霊崇拝』において展開された私の持論への反駁に対する再反駁になる。
 また、彼への再反駁をテコとしてそこから認識と時間の関係について私の持論を提示する。この提示によって、黒井氏がしたような論理的飛躍は今後私の論の反駁として機能しなくなるであろう。
 今回、このような文章を書くきっかけを与えてくた黒井氏に感謝をしたい。

 


復習──黒井の主張──

 黒井が『祖霊崇拝』において主張していたうちの、私の持論への反駁となる箇所について、その内容を確認する。ここではまだ再反駁を行わないが、問題となるであろう箇所を強調しておく。
 彼の論考において、私への反駁として成り立っているのは主に第二章である。また第二章を理解するためには第一章にも触れておかなくてはならない。
 まずは順番に追うことにしよう。
 

 1.「第一章 存在・顕在・潜在」について

 ここで、黒井は、存在するものを、顕在するものと潜在するものに分けて考えた。最後にも述べているようにこれらは、各種領域における相対的な存在する/しない、というものを分かりやすくするものである。
 重要な点は、これらはどれも存在するということである。
 

 2.「第二章 普遍・記憶・個別」について

 ここで、彼は私に対する反駁を展開する。ここの最も最初の段階において、彼は重大な捉え違いをしている。すなわち存在しないものを立証することはできない云々ということである。これは私の実在性の証明不可能性の話と存在の話を混同したものである。その点は注意が必要である。
 そして、最も重大な論理的飛躍はその次に現れる。そう、彼はこのように言うのだ。
 

記憶とは認識の集積である。よって「認識されていない事象の存在を立証することは出来ない」という主張は、「記憶という領域に顕在していない事象を存在すると立証することは出来ない」という主張に言い換えられる。

 

 これは非常に問題のある論理的飛躍である。よってこれ以降の議論はことごとく反駁として失敗している。以下に述べられているのはもはや反駁ではなく、彼自身の倫理説のための用意された信念に過ぎない
 

再反駁──認識・存在・記憶──

 さて、上記の問題点を中心に再反駁をしていく。そもそも彼が私の持論を適切に理解出来ていない点も見受けられるため、その点に関する説明も随時していく。
 

 1.認識・存在

 まず、何が存在するのか否かという問題であるが、それはバークリーの言葉を引用するべきであろう。すなわち「存在するとは知覚されることである」。さて、知覚されること(to be perceived)というのは、多少の誤解を招きかねないように思う。故に私はこれを、認識されること(to be recognized)と述べ直すが、意味するところは大きくは変わらない。知覚という語が肉体感覚と強く結びついた意味合いを持ちかねないという懸念から、認識という語を使う。すなわち、肉体感覚だけでなく、あらゆる方法によって認識されるものは、全て存在する。もう少し分かりやすく述べるならば、夢も妄想も想像も現実も認識されるという点において等しく存在する。
 マルクス・ガブリエルが、『なぜ世界は存在しないのか』の冒頭で述べている例え話を持ち出すと理解しやすいかもしれない。
 マルクス・ガブリエルは、ヴェズーヴィオ山という山を用いて、形而上学構築主義の観点からそこに何が"存在する"とされるのかを説明した上で、それら全てが新しい実在論において存在すると説明する。さて、私たち日本人にとってはイタリアの火山よりは、我が国の有名な山を使った同じような例え話の方がわかりやすい。全く同じ内容を富士山を使って説明しよう。
 今、山田さんが山梨県の側にいて、富士山を見ているちょうどその時に、私とこの文章を読んでいるあなたが静岡県の側にいて、同じ富士山を見ているとする。このシナリオにおいて存在する富士山とは何か?
 マルクス・ガブリエル曰く、形而上学においては、ここで存在するとされる富士山は、誰がどこから見ているかに関係ない富士山(・・・①)だけが存在するということになる。また、構築主義においては、山梨県の側から山田さんが見ている富士山(・・・②)と、静岡県の側からあなたが見ている富士山(・・・③)、静岡県の側から私が見ている富士山(・・・④)の、②〜④までの富士山だけが存在するということになる。そして新しい実在論においては、この①〜④の全てが存在するということになる。
 さて、私の意見からいえば、マルクス・ガブリエルと同じく①〜④の全ての存在が確かに同じように存在する。そしてその理由は、今まさに私たちがそのような認識をしているからに過ぎない。もしも仮に、私たちが形而上学的な視点しか有していなければ、確かに②〜④の富士山など存在しないし、他の視点というものを考慮に入れることが出来ないなら、私にとっては④の(そしてあなたにとっては③の)富士山しか存在しないだろう。しかし今この瞬間において、私たちは①〜④の全ての視点からの知覚を、認識することができている。そしてその事によって、①〜④の全ては存在しているのである。そしてこれは思考実験であり、私たちはまさに肉体を通して静岡県から富士山を知覚していたわけではない。故にこれを認識と呼ぶことにしている。
 あらゆる存在は認識される限りにおいて確かに存在する。そして、存在しないものは全く存在しない。なにか存在しないものを考えようとしたその瞬間、それは認識され、存在してしまう。そのものはもはや存在しないという性質を失うのだ。すなわち存在しないものについては端的に考えられないのである。
 これは潜在するものとは大きく異なる存在しないものの特殊な性質である。潜在するものの顕在するものも、それは存在する。故に、対象領域[1]を切り替えることによって、潜在/顕在というものは切り替えられる。故にある対象領域において潜在するものに関して、そもそも対象領域そのものを切り替えることによって、考えることが出来る。このことは黒井も述べている通りである。
 しかしながら、やはり、そもそも存在しないものに関しては、何も考えることは出来ないのである。
 そして、そのような存在しないものとは、認識されていないもののことであるが、それは立証できないために存在しないとされるのではなく、端的に存在しないから存在しないのであって、ないものはないというトートロジーに過ぎない。
 立証可能性を元に根拠とするのはあくまでも実在についてである。この点を黒井は大きく取り違えている。そして、唯我論がなぜ唯我論なのか、それはまさにこの実在するものとは何かという問題に依存するのだ。
 あらゆるものは存在する。これはすなわち、アトランティス大陸も地球の裏側のブラジル像もメドゥーサも目の前のボールペンも、そうあらゆるものが存在するということである。しかしながら、私たちは多くの場合、それらを峻別する。その時に囁かれるのは次のような文言である。
 
 「アトランティス大陸なんて実在しない」
 あるいは
 「メドゥーサなんて実在しない」

そう、私たちは、このようにどれも全く等しく存在する各種の認識対象の内にReality(実在性)の区別をする。
 では一体、どうすれば、アトランティスは実在せず、地球の裏側のブラジル像は実在すると言えるのか? この問題に対して、出てくるのが、立証可能性なのだ。
 あらゆる存在は全く等しく、認識されるという点において、存在する。これはおそらく反証不可能な事実である。これ自体を反証することは出来ないが、そのような認識対象が、認識主体とは独立に存在する(=実在する)認識対象と、そうではない認識対象があるのだ、という反論はあるかもしれない。そしてここにおいて突きつけられるのが、その実在するという事実は立証可能であるのか? ということである。そしてそれは実際のところ不可能なのだ[2]。物自体というものは不可知である。
 唯我論とは、そのような不可知なる認識対象の実在性を持ち出さなくても、十分にこの世界は説明し尽くせるという主張である。しかしそれでも世界を説明するためには、何らかの実在するものが必要である。(あまり関係ないが、まさにこのような点においてマルクス・ガブリエルは、世界を存在しないと考えたと言っても過言ではないだろう。)
 そして、そのような実在とは認識主体であるところの「私」だけなのだ。この実在するものという点において、それが「唯、我のみである」という点こそが、唯我論が唯我論である所以である。(この説明の詳細は私のブログのうちの以下の2本[2][3]でも触れている。説明が不十分な箇所も多いが参考にしてもらえればと思う。)
 
[1](Gegenstandsbereich) 特定の種類の諸対象を包摂する領域。そのさいには、それらの対象を関係づける規則が定まっていなければならない。(『なぜ世界は存在しないのか』講談社選書メチエ p308)
 黒井君の論考『祖霊崇拝』においては領域または特定の領域と言われているものと同じである。
[2]実在とは何か、またその不可知の宣言
[3]「私」とはなにか
 

 2.記憶

 ここでは、黒井の重大な論理的飛躍を確認していこう。

 記憶とは認識の集積である。よって「認識されていない事象の存在を立証することは出来ない」という主張は、「記憶という領域に顕在していない事象を存在すると立証することは出来ない」という主張に言い換えられる。

 

 先程見た内容からこの文章自体多少の言い直しが必要になるだろう。言い直すと以下のようになる。
 

 記憶とは認識の集積である。よって「認識されていない事象の存在を考えることは出来ない」という主張は、「記憶という領域に顕在していない事象を存在すると立証することは出来ない」という主張に言い換えられる。 


 さて、このように言い換えると、いくつかの問題点がかなり明瞭になる。
 まず、記憶とは認識の集積である、という断定がなされているが、これは問題である。必ずしもそうとは限らない。これに関して彼は全くなんらの説明もしていない。故に彼の論考は比較的手短に済まされているのだ。
 そしてもうひとつは、存在しないことと潜在することを混同しているという問題だ。これはおそらく先程確認した、実在と存在の混同の影響を多分に受けている可能性が否定できないが、そもそも彼は存在するものを顕在と潜在に分けたことを失念している。あるいはそれを覚えていながら、ある特定の領域における潜在をそのままに存在しないことであるとしたのなら、それは極めて問題があることである。
 一体、記憶というひとつの対象領域は、どのようにすれば存在するものを存在しないものにすり替えることが出来るというのだろうか?
 個々の記憶というものも、他の多くの認識対象と同じように、認識対象に過ぎない。個々の記憶たちの現象するひとつの対象領域としての記憶という対象領域においては、むしろ個々の記憶以外のあらゆる認識対象は潜在することになるのだ。つまり、記憶という対象領域に注意を払った時には、目の前のボールペンすらも潜在する。
 そして、やはりそのように記憶という対象領域において潜在するものは、決して考えることの出来ない認識されない存在しないものなのでないことは明らかである。
 さて、なぜこのような重大な取り違いが発生しているのか?
 これは極めて簡単な誤解から生じているだろう。すなわち、黒井は記憶という対象領域を、全ての対象領域を包括する対象領域として想定してしまったのだ。
 そのような対象領域というものに関して、マルクス・ガブリエルは端的に存在しないと結論する。しかしそれは認められないだろう。認識されるものは存在するのだ。
 全ての対象領域を包括する対象領域。これはすなわち世界である。世界は決して記憶ではない。そして存在する。
 世界とはなんなのか?
 それはあらゆる認識されるものの総体である。そしてそのような認識されるものは認識するものとして実在する認識主体に対置されることではじめて正確に捉えることが出来る。つまり、あらゆる対象領域とは、その限定された対象領域であると同時に世界なのである。それはそれらが認識主体によって成立する認識対象であるという点において既に世界なのだ。
 マルクス・ガブリエルの言い方を借りるのならば、こう言えるだろう。
 あらゆるものは全て存在する、世界すらも。ただし、認識主体を除いては。
 さて、私が主張するならば、ある忘却した記憶は、忘却した記憶として十分に存在する。ドーナツの穴が存在するように。
 

 忘却を認識することによって、僕たちは「記憶の領域に顕在していない存在」を想像することが出来る。忘却とは、存在しないものの存在を証明する存在の淵である。


 黒井はこのように述べるが、そもそも想像可能なものとはそのままに認識されているものであり、存在している。忘却は決して存在しないものの存在を証明するものではなく、潜在するものが存在することの再確認に過ぎない。
 何度も繰り返すが潜在するものは存在するのだ。
 記憶もまたひとつの認識対象に過ぎない。

 

提示──時間について──

 さて、最後に時間というものがどのように捉えうるのかということについて提示しようと思う。
 というのは、今回生じた記憶とは認識の集積であるという考え方には、時間観上の重大な誤謬が含まれているからだ。
 記憶とは何か? おそらく黒井はこれに対して、過去の瞬間の認識であるという捉え方をしているのだろう。故に記憶には、存在するものが全て含まれ、しかしながら、忘却によって潜在するものがあり、存在するものが存在しなくなるということを述べる。
 しかしながら、記憶というものを認識するというのは、今まさにある目の前の光景の認識と、寸分の互いもないのだ。
 認識をすることが出来る瞬間というものは、今まさにこの瞬間の現在でしかない。いや、もっと厳密に言うならば、認識するという行為はいかなる時間軸上でも行われていない。
 何故ならば、時間というものもまた認識対象なのである。それをいつ見ているのかということを認識しないのなら、そもそもその事柄に関して時間は付随しないのである。そして、我々が今から認識する過去の時間の不確実さは、今から認識する未来の時間の不確実さと何ら変わらない不確実さを持つのだ。時間は、過去も未来も確実なものにはならない。どちらも認識対象上の差はどのような順番付けが成されているのかということを除けばほとんどないのだ。
 また、我々は必ずしもひとつの時間軸上のみを認識するわけではない。絶対的な実在するような時間はない。認識主体の認識する時間の流れは単一ではないのだ。様々な時間の流れという認識対象のうちに、絶対的な時間の流れという特別な認識対象がある訳ではない。
 過去であろうと未来であろうと、その他のどのような時間に分類されるような瞬間であろうと、ある認識をまさに認識するということを認識主体が実行するのは、今のこの一瞬だけなのだ。そして今この一瞬に認識されたものだけが、今この一瞬に存在する。そして時間もまたそのような認識されるものなのだ。
 すなわち、今この一瞬の認識という認識は、いかなる時間軸にも立てない認識主体からの認識によってからしか成立しないのである。そしてそのような認識は今だけでなく、それと同じように過去や未来、そしてその他のどのような時間とも並列化され、認識上、認識対象としては時間上の区別は出来ないのだ。
 それこそ黒井が述べてくれたような「立証することの出来ない」何かを実在するものとして想定する不誠実な飛躍でも無い限り。

 

終わりに

 唯我論に基づく形而上学的な世界像は極めて単純なものだ。それは、唯一の実在である認識主体とそれによって認識される認識対象という関係に即し、あらゆる認識対象を総じて世界と呼ぶのである。世界に属する様々な認識対象は、この形而上学的な世界観上は、全く区別不可能なものだ。それらを区別するためには、想定による妥当な論理的飛躍を用いて非形而上学的な現象として、各種の認識対象を区別する他ないのである。