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即非の論理

 即非の論理というものを聞いたことはあるだろうか? Aとは即ちAに非ず、故にAなり という論理である。
 一見すると非常に荒唐無稽だが、実際のところ、極めて論理的な帰結である。しかし、これを論理的な帰結であると理解するにはいくつかの段階を踏んで理解を深めていかなくてはならない。
 即非の論理という言葉は鈴木大拙という仏教学者によって作られたものだ。大拙は『金剛般若経』の「仏説般若波羅蜜即非般若波羅蜜。是名般若波羅蜜(仏が般若波羅蜜と説く。即ち般若波羅蜜に非ず。是を般若波羅蜜と名づける)」に代表される仏教の論理を、Aとは即ちAに非ず、故にAなり と定式化し、これに「即非の論理」という名を与えた。つまり即非の論理とは仏教の特に空思想に基づく論理である。(金剛般若経般若経典の一つであり、般若経典では空思想が説かれる。最も短いお経の一つとされる般若心経も般若経典の一つである。)
 即非の論理は空思想の理解と共にある。
 空思想とはなんだろうか? これは実はそれほど難しいものではない。空思想において解き明かされているのは全ての前提となりうる実在というものがどのような姿であるのかということである。そしてその結論こそが空という言葉で表される。空思想の空とはサンスクリット語の漢訳だ。もともとのサンスクリット語ではシューニャと発音される単語で、これはインドの数学におけるゼロの名称でもある。つまり、空思想においては、実在など無い、ということが言われているのである。
 何も実在しないということを真理であると考え、それを悟ることは、仏教、特に般若経典群の影響を強く受けている北伝仏教において、極めて重要な主題の一つである。
 空とは「有るものは無く、無いものは有る」ということである。これを最も確実に悟るためには体感することこそが鍵であると考えられるが、しかしそこに理屈がないわけではない。一般に実在すると言われるものが、はたしてどれほどの確度を持って実在すると言えるのだろうか? これに関しては稚拙ながら、実在が不可知なものであることを以前紹介したのでそちらを参照してみて欲しい。

https://rize-faustus.hatenablog.com/entry/2021/02/04/181940
 さて、不可知なものに関して人は様々な態度を示すことができる。そしてその中にはそれをないものとして扱う態度も含まれる。様々な存在に関して、それが実在しないということを前提にした上で、即非の論理を読み解くと、それが極めて論理的な帰結であることに気がつくだろう。
 
 (存在として今まさにここにある)Aは即ちA(という実在)に非ず、故に(私たちがそれを)Aと名づける。 
 即非の論理とはこういうものなのだ。一般に即非の論理といえば、上記の前半部分、つまり存在として取り扱うAと実在として取り扱うAの間における差異が、共にAと呼ばれることによって、一種の非論理的雰囲気(あるいは神秘的雰囲気)を漂わせる点に着目されがちだが、種を明かしてしまえば、そんなものは雰囲気に過ぎず、幻想的であることは明らかだろう。存在は実在に非ず。
 個人的に、私が着目したいのは、後半部分である。故にAなり(私たちがそれをAと名づける)。これは実は西洋哲学、つまりアリストテレス以来のA=A(トートロジー)を真理として考えられてきた伝統的文脈(これは大変理解しやすく、それに基づいて即非の論理を考えると即非の論理は神秘的雰囲気を帯びる)の中でも、立ち現れた問題である。
 即非の論理の後半は構造主義と大変に近似していると言える。構造主義において名付けの原理はその差異性を恣意的に決定することによって行われるとされるが、即非の論理はなぜそれが可能なのかを説明していると考えられる。即非の論理に基づくならば、そもそもその差異性は先天的なものでは無い(Aは即ちAに非ず)。
 即非の論理にせよ、構造主義にせよ、その前提には実在の否定が必要となる。私たちが自由に名を与えられるのは、名を持つものが名を持つものとして実在しないことが必要だからだ。そしてこの実在の否定は常に即非の論理を呼び起こす。しかし、それは非論理的展開ではなく、むしろ極めて論理的な帰結なのだ。
 しかし、実在の否定という前提は、極めて強い衝撃を与えるものでもある。西洋哲学にも実在の否定に通底する思想がある。それはニヒリズムである。
 実在は常に物事の前提になる。これらの前提は同時に何らかの価値を規定することになる。ニヒリズムとはそれを否定する思想である。
 このように、西洋哲学の考え方というものを借用してみると、即非の論理と言うものの無駄な神秘性はいくらか剥がれ落ちることになるだろう。
 トートロジーを超えたところに真理があるのは事実だとしても、それはトートロジーが一切にわたって成り立たないことを意味しない。そして即非の論理は、決してトートロジーに反したものではないのだ。
 実在の不在という真理は、眼前に展開される諸存在というものの取り扱い方を再び問うものとなる。即非の論理とはそういった眼前の世界との最も原初の関わり方の提示でもあるのだ。