美味しく喰らう

天才とは様々なものを「美味しく喰らう」存在

実在について、またその不可知の宣言

 実在は不可知である。今回はこのことを宣言したいと思う。まずはそもそも実在とは何であるかを説明したい。
 
 実在とは何か
 
 世の中では一般的に実在と実存の二語が混乱されているように見受けられる。はっきりと申し上げよう。この二語の差など、実存主義者達の文章を読めば簡単に理解出来る程度には、あまりにも明確なものである。なんなれば、実存は実存主義の文脈としての意味しか持っていないのだ。実存は一般に使うような言葉ではない。実存という語を使いたいのなら、実存主義者のテキストに当たるべきだ[1]。対して実在は極めて一般的な用語として捉えられる。そして厄介なことにこの語は場面によってその指し示す対象を大きく変えてしまうのだ。(あえて重ねて言うが、実存という後はこのような多様性を有していない。)
 もう少し踏み込んで実存について説明する。実存とは「実存する」という一語の動詞の名詞形である。まず先に動詞としての「実存する」がある。この語は「実存」+「する」というような形の二語の組み合わせでは決してないのである。それは、サルトルの「実存は本質に先立つ」がサルトル自身によって「主体性から出発せねばならぬ」とも言い換えられると主張されている点からも十分に読み取れるだろう。あるいは私ならこのように言い換える。すなわち「人は実存すること(=実存)によって初めて人となる」など。(なお、「実存すること」はつまり「実存」という語の指し示すことである。)
 さて、このように実存について理解できると、一般に用いられる実在というものとは全然等しい意味を有していないことは明白であろう。
 実在は実際、大変に難しい概念であるが、その難しさは存在という概念との関係によって生じる。時に存在と実在は全く同じ意味で用いられ、他方では存在と実在の間に区別が設けられる。特に存在と実在が同じ意味で用いることがあることより実在というものが存在と類似した対象を指し示す概念であることが推察される。そしてこの二つが区別される時には一体何によって区別されているのか。これこそが実在の難しさの原因であり、そしてその区別基準が分かれば、私たちは実在について正しく十分に理解できるだろう。
 ここで実在という語の英語訳を示したい。それはrealityである。realityの一般的な訳は現実となる。そう、まさに実在とは現実であると少なくとも英語圏では考えられている。そして度々問題となる命題、すなわち、一体何が現実であると言えるのか、は全く同じように実在にも当てはまるのだ。しかし、現実は存在という語においては問題とならない。それこそがつまり実在と存在とを引き裂く決定的な条件でもあるのだ。
 存在と実在を同義語として用いない場合、存在とはすなわち生じた対象の全てであると言えるだろう。それはつまり、考えられ得る全ての対象は存在している、と言われるような存在という語の使われ方である。この存在という語を以下、次のように定義したいと思う。すなわち、「存在するとは、認識されることである[2]」。
 さて、実在はこのような存在に対してさらなる限定性を要求するような概念である。通常、私たちはアトランティス大陸やメドゥーサやペガサスなどなどを存在しているなどとは言わない。ところが存在を上記のように取り扱うと、これらは存在していると言える。それでも私たちは(よほどの信仰者でもない限り)それらを実在しているなどと言うことはないだろう。見たことのないブラジルのキリスト像や地球の裏側の土地に生きる知らない人のことなどなどを実在すると言ったとしても!
 多くの場合、これらの差異の原因はまさに現実性に希求される。リアルあるいは本当とは何かということがとにかく問題となる。そして多くの場合、無条件にリアルあるいは本当はアプリオリだと考えられている。そしてアプリオリなもの、あるいはアプリオリなものに基づいて形成されるものと考えられた存在こそが実在として取り扱われることになるのだ。あるいは次のようにも考えられる。すなわち、一体何が本当の存在なのかという問題の答えこそが実在なのだと。
 本当の存在! それは一体何を意味するのだろうか?存在するとは、認識されることであった。そして、このままでは私たちはメドゥーサとブラジルのキリスト像を存在として区別することは出来ない。全ての存在は、認識主体に対してアポステリオリになってしまう。本当の存在! 実在はすなわち認識以前に有り得る何かに対して与えられる名だ。私たちに認識されることなく有り得ることのできる何ものかは実在していると言える。それはアプリオリなものだと考えられているし、おおよそ現実とは大抵そのような事柄によって生起していると無条件に考えられているのだ。
 しかし、よく考えられなくてはならない。検討されるべき事柄でもある。私たちの認識とは無関係に有り得ることの可能な実在なる何ものかは果たして、この世界に有り得るだろうか?
 
 不可知の宣言
 
 そもそも本来はこの「世界」というものがどのようなものかということが深く考えられなくてはならない。しかし、その議論は哲学者の先人たちが2000年以上の歳月を費やしてもなお、多くの意見が発表され続ける有り様[3]であり、私如きの一週間で書き上げていく文章の中で取り扱うには膨大で埒の明かない問題である。ただ次のことは端的に言うことが可能であるかと思う。すなわち、私たちはこの世界をどのように捉えるとしても、認識していない事柄は決してこの世界に出現させることが不可能であるということである。(このことは非常に簡単な思考実験によって容易に確認できるはずだ。)
 当然、考え方によっては、その認識している事柄が認識する以前から有り得たと考えることは出来るかもしれない。しかし、そのような考えはどのように考えても実際のところ仮説の域を出ることはない。私たちには、私たちの認識した事柄が認識したことを契機として出現したアポステリオリなものか、それとも認識する以前から有り得たアプリオリなものであるかを判別することは根本的に不可能である。なぜなら、私たちの知り得る事柄は全てが全てことごとく私たちの認識下に置かれた事柄でなくてはならないし、事実そのようなものであるからである。
 つまり、私たちが知り得る事柄というのは存在までが限界である。存在自体はなるほど様々に区分されるかもしれない。実際日常生活上においては区分されているだろう。(私たちはアトランティス大陸を存在しているとは通常言わないのだ!)
 しかしその区分はあくまでも私たち自身の価値に基づく区分である。この区分は決して対象の存在的な性質に由来するものではない。存在的な性質に由来する区分を私たちがすることは不可能である。
 私たちは決して、実在を知ることが出来ない。実在は不可知である

 

 
参考文献
 『実存主義とは何か』 著サルトル 訳伊吹武彦 (サルトル全集 第十三巻)
 

[1]実存主義者の名前をいくつか挙げておく。サルトルハイデッガーヤスパース、マルセル、メルロー=ポンティなど。先駆者としては、ニーチェキルケゴールなどが挙げられる。特に個人的にはサルトルの『実存主義とは何か』は実存主義自体を分かりやすく説明した優れた論文であると考える。
[2]バークリーの提唱した基本原理、「存在するとは知覚されることである」の影響を深く受けている。しかしながら、やはり知覚というものが大変に覚束無いものであることもまた事実である。私は私たちの外界との接点は認識するという行為であると考えているため、バークリーの基本原理に対して少しばかりの改変を加えた。
[3]最近の面白い主張には「世界」は存在しないということを基本原理に据えた哲学的主張もある。詳しくはマルクスガブリエルの著作、『なぜ世界は存在しないのか』(講談社選書メチエ 清水一浩訳)を参照して欲しい。他にも形而上学として考えられてきた世界の概念は多様にあるが、大別すると、イデア的なものか、アルケー的なものになるとも言われている。