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シュルレアリスムについて

はじめに

 私はシュルレアリストである。しかしながら私はダダを経由していないシュルレアリストでもある。もっと簡単に述べるならば、私は二十一世紀のシュルレアリストなのだ。
 当然、シュルレアリストを自称する以上、希求されるものはブルトンの定義したあの超現実である。しかし、おそらくその解釈の仕方はブルトンのそれとは多少異なるかもしれない。その点を留意いただければと思う。
 だとしてもシュルレアリスムとは普遍的な芸術運動であるはずだし、私の解釈はブルトンの定義したものよりもシュルレアリスムを普遍的な芸術運動として理解されやすい定義へと読み直されたに過ぎないと確信する。
 その上で、シュルレアリスムが何を目指すのか、超現実とは何かということを理解していただければと願う。
 

1、これまでのシュルレアリスム

 これまでのシュルレアリスムは随分と廃れてしまった。しかし、私たち未来のシュルレアリストにとってのシュルレアリスムは当然あのシュルレアリスムの発展である。
 シュルレアリスムは、フランスの詩人、アンドレ・ブルトンによって創始された芸術運動である。歴史的文脈で見るならば、それはダダの発展であり、ダリたちによって絵画の言葉となったあのシュルレアリスムとも言える。
 ダダの芸術とはすなわち意味の破壊、ニヒリズムを根底に置く破壊的芸術である。ブルトンはそのような破壊的芸術の果てにシュルレアリスムを創始したのである。ブルトンは意味だけでなく統制すらをも破壊した。
 彼はシュルレアリスムについて次のように述べる。

"シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象(オートマティスム)であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書きとり。"[1]

 二十世紀においてはここで述べられる心の自動現象こそが超現実であった。そして、これは絵画の言葉となっても変わらなかった。
 日本ではシュルレアリスムの絵画をシュールなものとして受け取ってきた。あるいは不条理なものとして。しかしそれは誤解に満ちた理解の仕方である。あれらの絵画にはひたすらに「現実」が刻まれているのだ。
 シュルレアリスムはこれまでもそしてこれからも超現実を顕現させようと試みる芸術運動であることは変わらない。故にどのようなシュルレアリスム芸術においてもそこには「現実」が表現される。
 しかし、二十世紀のシュルレアリスムは超現実を見誤っていたのだ。
 

2、超現実とは何か

 私たちがシュルレアリスムをしっかりと捕捉するためには、まず超現実とは何なのかを理解しなくてはならない。超現実というものを作品を通して理解しようと試みたことによって日本においてはシュルレアリスムがシュールなもの、あるいは不条理なものとして捉えらてしまったのだ。これは二十世紀のシュルレアリス厶が超現実に対しての考察を怠ったからでもある。
 超現実とは何か。これは哲学的問題なのだ。そしてこれを正しく理解することなくシュルレアリスムという芸術運動を考えることはできない。
 超現実とは、ありのままの本当の現実のことなのだ。シュルレアリスムの絵画が、あのようなだまし絵のようなものが、現実なのか、と疑義を持つものもいるかもしれない。しかしはっきり断言しよう。あれがシュルレアリスム、すなわち超現実主義に基づく作品であるならば、あれらに刻まれているのは現実でしかない。ただ現実だけがあのキャンバスたちには転がっているのだ。
 ブルトン以下、二十世紀のシュルレアリストたちは超現実を捉えきれてはいなかっただろう。というのは、そもそも二十世紀という時代性による問題でもある。シュルレアリスムは早すぎたのだ。我々の眼前にあるいわゆる現実と呼ばれているものが、意図され企画された造りものであることを彼らは早々に看破してしまったのである。今でもこの事実は一般的な広がりを見せたとは言い難いだろう。
 彼らは眼前の現実の虚構性を早々に見破った。これはダダの頃からだろう。そして彼らはリアリストであることを辞めなかった。この眼前の現実の虚構の奥にある現実、すなわち超現実を求めた。この時、彼らはフロイトに頼ったのだ。この点が彼らの超現実を狭いものにしてしまった。今では私たちはフロイトの結果を知っている。その他の哲学的発展も。そして私たちは超現実を捉え直すことが出来る。より正確に。
 私は超現実というものを次のように規定したいと思う。
 超現実とはすなわち実在のことである。
 実在についての説明は前回の記事[2]を参照していただければと思うが、改めて少しだけ触れたいと思う。実在とは本当の存在、認識以前からアプリオリに有り得る何ものかのことであり、それは不可知な物事である。
 超現実とは不可知でアプリオリな何かである。
 

3、これからのシュルレアリスムについて

 シュルレアリスムは最も極端な形のリアリズムである。シュルレアリスムという芸術運動は上で述べたような超現実を表現しようと試みる芸術運動である。それは現実の限界に挑むことではない。シュルレアリスムは本当の現実、あるいは眼前の虚構的現実のさらに奥をできる限り掬いあげようと試みる熱意である。あるいは、あの忌々しい不可知性に守られた実在を私たちの世界に引きずり下ろしてやろうと試みる冒涜行為のことである。
 シュルレアリスト、すなわちシュルレアリスムという芸術運動に携わるものとは次のような者たちのことだ。
 
1:シュルレアリストは不可能を可能にするために藻掻く。
2:シュルレアリストは前項の目的を達成する手段として芸術を用いる。
 
上記のようなシュルレアリスト、つまり我々の偉大なる先駆の中でも最も新しい人物に私は村上春樹の名前を挙げたい。彼は現代のシュルレアリストである。
 シュルレアリスムは創作でしかなかった[3]。しかしこれからのシュルレアリスムは読み取り方でもなくてはならないのだ。これからのシュルレアリストが自らの作品を示すとき、そこには現実が転がっているのだということを精一杯説明する必要がある。多くの人たちにとって現実は眼前の虚構なのだ。
 

まとめ

 シュルレアリスムは決して朽ちることのありえない普遍的な芸術運動である。シュルレアリスムが目指すものは超現実(=実在)の表現である。

 

註釈

[1]シュルレアリスム宣言・溶ける魚 訳:巖谷國士 (岩波文庫)
[2]https://rize-faustus.hatenablog.com/entry/2021/02/04/181940

[3]最も初期のシュルレアリスムで用いられた技法にはエクリチュールオートマティスムというものがある。これらの作品の読み取りはシュルレアリスム的である必要がある。シュルレアリスムが創作だけに成り果てたのはもっぱら絵画運動と化したシュルレアリスムによってである。