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価値と意味の違いについて

 価値と意味。この二つの言葉は非常に隣接した領域をそれぞれ支配する。通常においてはこの二語が混用されることは少ないかもしれない。しかしある問題に直面するとき、この二つの語はその領域を重ね合わせることになる。今回はなぜそのようことが生じるのかについて考えたことを吐き出そうと思う。
 さてまず私たちはいかなる場面において価値と意味が混同されるのかを知らなくてはならない。
 私たちは特に意味というものが何であるのかと考える時に、意味と価値を混同するように思う。(逆は少ないのではないだろうか?) 特に無意味な事柄について語ろうと試みる時には価値についての話を避けることは出来ない。何故だろうか?

 ひとまず、価値と意味について辞書[1]を用いて調べてみた。

【意味】

①言葉で表される内容。わけ。意義。

②理由。

③価値。

 

【価値】

①ねだん。

②値打ち

③〔経〕財貨が欲望を満たす性質(=使用価値)。または、財の一定量とかえられる度合い(=交換価値)

④〔哲〕対象が主観の要求を満たす性質。また、精神行為の目標とみなされるもの。

 

ここから分かるのはおおよそ無意味ということを考える際には、上記の二語の主たる支配領域はそれぞれ③と④であろうということである。

 価値と説明されるような意味──それは無意味について考える上で問題となる意味のことである──とは何なのだろうか? これを考えるに当たっては、実際に無意味について考えてみるのがいいかもしれない。
 無意味というものが特に問題となる場面を考えてみよう。おそらくそれは自分にとって意味があると考える事柄について、他者から無意味だという評価を得るときなどであろう。(もちろん、無意味だという評価を自分が他者に与えることもあるだろう。)
 なぜ、自分にとって有意味な事が他の誰かにとっては無意味であるという事態が生じるのだろうか?
 この事態を解明するためには、まず、自分にとってある事柄が意味のあるものになる仕組みを理解しなくてはならない。すなわち我々は如何にして世界に意味を与えるのか、という問題である。
 私はここで構造主義の祖、ソシュールの議論を紹介したいと思う[2]。ソシュールは言語活動を「すでに分節されたもの」に名前を与えることではなく、世界を分節することそのものなのだと断じた。

 

 言語活動とは(中略)もともとは切れ目の入っていない世界に人為的に切れ目を入れて、まとまりをつけることだ[3]

 

そして、そのような分節することによって保持することになる単語の意味の幅を語義(signification)と区別し、価値(valeur)と呼んだのである。
 これは今回の問題において極めて重大な示唆を与えてくれるように思う。ここでは語義(signification)は【意味】①と同じことを表していると考えて差し支えないだろう。ソシュールは言語について述べる中でこれらの概念を示したが、これは私たちが意味を与える時全般に適用できるのではないだろうか。
 すなわち私たちが何かに意味を与えることがどのようになされているのかということが、ソシュールの議論を援用することで分かるのだ。
 私たちが世界に対して意味を与える時には、世界を分節することによってそれを行なうのだ。それはつまり、私たちは特別切り取らない事柄に対して何らかの意味を見出すことが出来ないということも意味する。ここに無意味が問題になる場面が説明される。自分が意味があると考える事柄は、自分の目線からは特別に切り取られた事柄だということである。そして同じ事柄について、他者が同じように切り取るとは限らないのだ。そして、有意味が無意味と評されることになる。
 さて、ではこの切り取りについて考えてみようではないか。無意味が問題になるような場面における切り取りははたして言語活動における切り取りと同じなのか。私の意見を述べるのならそれは多少異なるのではないかと思う。
 言語活動においては、切り取りによって価値が作られ、そしてその中から文脈によって意味(=語義)が確定する。しかし今回問題にした事柄においては、切り取りによって意味が生じているのだ。これは無意味ということが言語活動においてはありえないためである。
 そこで切り取りが何に基づいて行われるのかということが問題になってくる。これを見極めるにあたり、我々はソシュールから学んだ価値と意味の関係を考えるべきだろう。
 言語活動においては、世界の文節によって価値が作られ、それを象徴する単語が生み出される。そしてその単語はある価値を保ったまま様々な文脈の中で意味を確定させている。つまり、価値に基づいて意味が作られる。
 切り取りによって生じる意味も同じなのではないだろうか。それは価値に基づいて生じるのだ。
 ソシュールは言語によって世界が分節されることによって価値の発生を説いた。だが、私たちはこのようにも考えられるのではないか。
 すなわち、価値に基づいて世界は分節されている。
 詳しく考えてみよう。例えば、同じ船(水に浮かび人や荷物を運ぶことの出来るもの)であっても、その種類によって私たちはそういったものを様々な呼び方で呼ぶ。帆船であるとか、客船であるとか、タンカーであるとか、etc etc……。なぜこのような呼び方の違いが生じるのか。一般的な解説においてはその差異によってであるということになるかと思う。確かにそれもある面においては正しいのだろう。しかしこれらの違う名前の船はそれぞれに異なる価値を持つということはそれほど違和感のある話ではないのではないかと思う。そしてその異なる価値によって名前が異なる(=分節されている)のだとすると、分節以前に価値があると言えるのではないかということである。
 さて、このように考えた時、価値と意味の違いは極めて明瞭になる。つまり、価値というのは意味に先行してあると言えるのだ。そしてそのように考えた時、それは極めて高い整合性を持つのではないかと思う。
 つまり、意味というものが価値に基づいてある以上、意味設定に関わる問題において意味と価値が混用されることがすんなりと理解できる。あるいは、辞書の解説において、意味の側には価値についての言及があるものの価値の側には意味への言及がないなどである。
 価値と意味の違いは何か。私は次のように結論する。
 価値は意味に先行してある。意味とは価値によって決定されるものである。
 
 
感謝の意
 この問題について、その発見とそれに対して私がどのように考えているのかということの確認に当たっては、哲学カフェ QUALIA[4]での対話が非常に参考になった。対話において私に知見を与えてくださった皆さんにここで感謝を述べておく。
 
[1]今回用いた辞書は『角川国語辞典 新版』である。
[2]特に参考にしたのは『寝ながら学べる構造主義』(著 内田樹)の第二章である。
[3]前述p66
[4]https://philo-qualia.hateblo.jp/