美味しく喰らう

天才とは様々なものを「美味しく喰らう」存在

個別具体的な話はどうでもいい!

表題は議論中における私の口癖である。
そう個別具体的な話はどうでもいいのだ。個別具体的な話は議論に耐えない。その問題点はあまりにも多くの地点に拡散していく。というかもっと言えば個別具体的な話というものには問題点が遍在しているのだから、もはやその問題について語ることは出来ない。個別具体的な話は示されるしかない。だから例示は例"示"なのだ。議論に耐えうるような問題点の抽出は抽象化・普遍化においてはじめてなされる。構造そのものに焦点を当てることの重要性を知る人はもしかすると少ないのかもしれない。
抽象化・普遍化においてなされることは要するに一般式の提出である。その変数に対して適切な値を代入すれば個別具体的な話に転じる訳だが、では大事なのはその変数かと問われれば断じて否であろう。重要視されるべきなのはここの変数のあり方の一様態などではなく、式に普遍する式構造そのものなわけである。
結局このように考えていくと案外抽象化には数学的能力を要するのかもしれない。これは計算云々とは異なるもので、要するに一般式というものを理解する程度の──つまり中学一年生の一学期程度の!──数学的能力が、議論全般にあまねく応用可能であることを理解する能力のことである。
とはいえ、数学の話はアナロジーであると言えば全くその通りではある。つまり数学自体がはじめから抽象化された言語としての数式を駆使して語られるものであるから、その抽象化は容易いということだ。実際にこれを現実的な個別具体的な話から行なうためには、いくらかの哲学的な視野[1]が必要なのかもしれない。
構造の問題を論じている時ですら、その構造の適用できる個別具体的な話を引き出して、問題の論点をずらす──それも全くそのような意図を持たずに!──論者というものは少なくない。おそらくかの有名なひろゆきもこの手法は多用しているように思う(とはいえ彼の場合は意図的にそのようなことをしているようにも思われるが。そしてそのようなことを行われた相手の側があまり気が付かないのだ)。
私は圧倒的に抽象化された話の方が好きだ。というのはそちらの方が実り深い話が出来ると考えているというのもある。ここで「実り深い」などと述べたが私はあれもこれも利得に基づいて物事を考えるのはあまりにも資本主義地味ていて好きでは無い。しかしとはいえ、どうせ物事を論じると言うのなら、そのような語りがより多くの射程を捉える方が楽しいものになるというのは理解されるだろうか? 理解されて欲しいと思う。
とにかく個別具体的な話はつまらないのだ。そう面白みに欠けるのだ。そのような話をいくらしたところで、実存的生の得られるものは一体なんだと言うのだ! 実存的生を穢す悪行だと罵ってみてもいいかもしれない。それが言い過ぎなのは否定しない。これは極めて感情的な発言であろう。
とにかく抽象化されていなければそれはもはや議論とは呼びがたいし、それをあたかも議論であるかのように語るというのは全く解せないことである。

 

[1]ここで哲学的な視野と言ったが、果たしてこのような事柄が哲学の特権的な事項として述べられるものであるかという点はやや疑問が残る。とはいえ、私の狭い見識からするとこのような能力は極めて哲学に資するようなものと写る。