美味しく喰らう

天才とは様々なものを「美味しく喰らう」存在

健康か病んでいるか

健康であったり病んでいたりすると何かといろいろ変わる。なんなれば、そのような変化に基づいて自らを健康であるとか病んでいると判定できたりしそうである。友人は健康であればヘーゲル儒教の間の子を信仰するし、病んでいる時にはキリスト教の異端者になるが、私はこのように病んでいる時について語れることがあるのはすごいなぁと思うのである。
私が病んでいる時というものはもう本当に全く一切の実存が喪失しているような感覚にとらわれる。そこではもはやなんらの生産性を私は有していないように思う(健康な時に生産性があるのかと問われてもそれは知らない。少なくとも自分自身にとって有益なことは遂行できると思う)。とはいえ実際のところなんらかを認識し続けているし、このこと自体を最も根源的な実存として理解できる面もある。となると病んでいる時のあの独特な実存の無さとはなんなのだろうか?
また、健康である時が果たして本当に健康であると言えるかは怪しい。例えば私にとっては健康か病んでいるかの基準は、独特な実存の有無にある訳だが、先に例にあげた友人なんかは、むしろこの独特な実存に近いものは病んでいる時にこそ発揮されるという。この点で考えるとそもそも健康か病んでいるかの基準が違うこともある訳だが、私が自身を健康であると規定している時に、傍から見たらそれは全く病んでいると言えるような状態であることは有り得るわけだ。
さて、一体健康であるとか病んでいるであるとかというのはどういうことなのか。おそらく問題となるのはこれは主観性の中で規定されるものなのか、それとも客観的に測定可能な社会的なものなのか、という点にあるだろう。
医師による判断を伴うような病気の認定というものはこのうち後者に属されるもののように思われる。しかしこのような認定というものが果たして健康であるとか病んでいるであるとかの個人的な感覚とどれくらい結びつくというのだろうか?
私の友人には、全く日常健康に見える奴がいるが、彼は実際のところ自律神経系に問題を抱えて医者に罹っていたりする。とはいえおそらく私から見て健康そうであるとか、あるいは医者からの診断であるとか、ということは、彼自身が自己規定として健康かどうかということとは少しズレるのではないだろうか。むしろ彼にとっては性的な事柄への関心度かはたまた食欲の問題とかが、そういった規定と密接に関係するのではないだろうかと思われる。
しかし社会生活上で問題が生じるようになってくるとなると、これは客観的に規定されるような病んでいるという事態であろう。これはもちろん社会的なものである。だって社会生活上で問題なんだから。これは循環論法である。
つまり、健康か病んでいるかということは社会的なシグナルとしての側面もあることにはあるのだということを抑えておきたかったのである。この社会的なシグナルとして規定される自分の有り様と、自分自身の自覚によって規定されるような自分の有り様と言うものがズレるということは相応にして有り得るのだろう。とはいえ一部の言語論的に考えるのなら、おそらく自分自身の自覚としての規定もまた社会的なシグナルの需要と無関係ではいられないかもしれない。
さて、私が健康であると社会的なシグナルとして健康であることはどれほど一致するだろうか? あまり私は一致しないようにも思われるが、労働状況と勘案して考えてみると案外一致しているのかもしれない。どこまでいっても世界内存在というものは社会から抜け出せないのだ。