美味しく喰らう

天才とは様々なものを「美味しく喰らう」存在

過去未来現在と現実

 なかなか文章を書くということはサボりがちになる。人が横で書いていると、ようやく慌てて書かなくてはと思い出す。今日もそうして筆を取ったわけだが、はてさて何を綴るべきかということでは迷うところだ。
 それなりにまとまった量ということを気にしないのであれば、Twitterでかけることは少なくない。しかしそこをあえてブログという形式で綴るということの意味とはなんだろうか(ここで使われる語が意味と意義どちらの方が相応しいのかは私がフレーゲを読んでいないのでなんとも言い難いところがある。この点におけるウィトゲンシュタインフレーゲの考え方を多少異なるらしい)。
 さて、Twitterであっても、ツリーと呼ばれるものを使えば、140字に限らず文章を綴ることはできる。読み返しの機能に関しても面倒くさいという点を除けば検索によって過去のTwitterを読み直すことが不可能な訳では無い。しかしおそらくブログとTwitterの最大の差はこの過去の文章の検索が容易であるか煩わしいものであるのかというところなのだろう。
 Twitterはやはりあまりにも現在的な表現形式である。今何してる、ということが問題だ。対してブログは今は問題ではない。しかし今から逃れられる訳でもないだろう。ブログを見返した時、あの時の考えが描かれているということになるのだから。
 しかしこの"あの時の考え"なるものは果たして本当にあの時のものなのか? この点には実は疑義が挟める。結局読み返された文章が何を考えているのかは今の私の読み方に左右されてしまうのだ。
 多くの場合、過去を定まった何かと捉えることは少なくないが、常に過去に関しても未来に関しても、それが今から見られるものであるという点において、今の影響を受けざるを得ないものである。故に存在様態として過去と未来は厳密には区別できない。もっと言えば、今厳然の風景と過去や未来の風景とされるものとが、本当に区別できるものなのかということも怪しいものなのだ。
 時間というのは我々によって整理されたものだと考えられる。ランダムな出来事が表象として現前に現れたとしても我々はそれを即座に時間軸順に並べ替えられるだろう。そしてなんなれば、その並べ替えが正しいかどうかなどということはどうでも良いことなのだ。
 ではこの時間軸上での並べ替えとかはなんなのか。まさにこの並べ替えの手続きこそが「現実性」であると言える。羅列された事実群を体系的に並べ直す時、この体系こそが現実であると言える。そして諸事実は、彼らが整理される体系における現実性を帯びるのだ。このように考えると、現実というものは、無数に無限にあるものである訳だが、我々の日常生活においては〈この現実〉だけが不当にも特権化されている。
 私は未だになぜ〈この現実〉が特権化されるのかということが分からない。

私の当面の投票方針について

さて、本日は第26回参議院議員通常選挙の投開票日であった。

しばらくの間国政選挙が無いそうなので、備忘録も兼ねて、私の今後の投票方針を書き残しておこうと思う。
そこでまず第一に現状の国会の状況を論じることにする。続いて、理想的な国会状況について述べ、このふたつの軸を架橋するための投票方針を述べてまとめることとする。

まず現状の国会状況であるが、これは端的に自由民主党一強体制であると言える。衆議院では定数465議席に対して第一党は自由民主党261議席、続く第二党は立憲民主党で95議席、第三党に日本維新の会41議席、以下公明党32議席、国民民主党11議席日本共産党10議席となっている。また今回の改選前の参議院勢力(定数245議席)においても第一党は自由民主党で110議席、続く第二党は立憲民主党が44議席、第三党に公明党28議席、以下日本維新の会15議席日本共産党13議席、国民民主党12議席と続く。
こうして見てもらえれば分かるように衆参共に自民党は第二党にダブルスコア以上の大差をつけて大勝している。
このような自民党一強体制下において、国民が選挙を通した政策策定に関与することは事実上不可能であると断言して良いだろう。また特に衆議院選挙が小選挙区制になって以来、自民党の派閥政治は機能を失っていると言える。党内民主主義を整備することで五十五年体制における自民党一強は多様な意見の元に動くことが出来ていたが、安倍政権下の自民党を見ても分かる通り、そのような多様な意見を自民党に求めることはもはや難しいだろう。また、現状の選挙システム上で自民党内で派閥政治が行われるようになれば、今度は短命政権の乱立という小泉政権以降の動きとなってしまう。もはや自民党に党内民主主義を求めることは出来ないのだ。であるからこそ、国会における民主主義の機能回復が求められる。これは国政選挙において国民が政策の方向決定に対して今以上に強い力を持つことが出来るようにしなくてはならないということでもある。
現在の日本の選挙制度上、そのような国会における民主主義、国民の投票行為の政治的意味の強化に資するのは二大政党制の確立をおいて他にないだろう。つまり、乱立した野党こそが自民党一強を利しているということだ。
自民党立憲民主党が極めて近い議席数を互いに保持するようになれば、国会政治はより高い緊張感のもと、より国民の声を広あげるための努力を重ねることは明白である。また国民にとっても国政選挙、特に衆議院選挙において、常に政権選択選挙となることは、一人一人の一票が実際政治を動かすものとしてより理解しやすく、主権者としての自覚もより増すこととなるだろう。
私はこれこそが来るべき日本の民主主義政治の姿であると考える。
故に私が為すべきことは、徹底して野党の合流を促進することであり、第二党の成長ということになる。また一方で私は民主政というものはポピュリズムを通して衆愚政へと堕するものであるから、これを徹底して排除しようと民衆一人一人が意識しなくてはならないと考える。しかしこれは多少高望みな面があるだろう。維新やれいわ、そしてNHK党と今回の参院選で一議席当確と言われている参政党など、昨今の日本にはポピュリズム政党が増えている。私はこれらは断固として国政から排除するよう務めなくてはならないと思う。
さて、多少脱線気味ではあったが、そろそろまとめるとしよう。とにかく第二党であるところの立憲民主党の成長とそれに伴う二大政党制及び衆議院選挙の常時政権選択選挙化という点に日本の現代民主主義の目標を定める以上、私の投票方針は立憲民主党一択となる。

これこそが民主主義の帰結に他ならない 

おおよそ全ての民主主義は今回の帰結を待っている。至らざるを得ないものとして、安倍元首相暗殺はあった。

帝国時代、大正デモクラシー五・一五事件によって終わった。しかし、では大正デモクラシーは暴力によって消えたということになるのか。ならない。大正デモクラシーもまた暴力と共にあった。それは民衆による暴力も政府による暴力も共に。
米騒動はまさに大正デモクラシーの最中に行われた。人々の怒りが破壊的な力、すなわち暴力となった時、民主主義は最も美しい花弁を開かせる。近代民主主義の祖はフランス革命であり、清教徒革命であり、そして独立戦争なのだ。流血と無縁な民主主義などありはしない。
おそらくこれから我が国は凄惨なる時代を迎える。暗く暗黒に包まれた時代を。我々は歴史的事実として知っている多くの事柄を、今まさに起こるものとしてこの瞳で見ることになる。我々は歴史の終わった時代を通り去り、まさに歴史が作られる瞬間を生きることとなった。我々は今後生き証人となるだろう。我々は語らなくてはならないのだ。この時代を。
どうやって?

この30余年、自民党政権による政治が我が国をズダボロに破壊したことはいよいよ各種統計をもって明白な事実として明らかになりつつある。この30余年の中で最も長くこの国の行政府の長として君臨した男は、民主主義の終末を到来させることとなった。凶弾が彼の身体を貫いたために。
これが「アベ政治を許さない」という極めて民主主義的なスローガンの帰結に他ならない。これは、これこそが民主主義の達しうる終着点に他ならない。
今後我々はさらなる管理社会化の前で、抗いし人々の発砲をもっともっと聞くことになるだろう。それはまだ民主主義の蕾であるということを忘れてはならない。
国家権力による暴力は格段に強くなる。国家はもはや国民を守るべき民から排除すべき非国民の隠れ家とみなすだろう。
我々は知っている、この歴史を。我々はもはや抗いがたい歴史の渦に巻き込まれつつある。一体これは避けることの出来ない破滅であるか? 私は否であると言いたい。否であるとするためにこの渦から抜け出すための実存を要請する。諸国民よ。もはや階級闘争も何も無いのだ。あるのは実存をするか否か。我々が我々自身の運命を手網をつけて飼い慣らせるか否かということである。
この実存は時に暴力という選択によってしかありえないかもしれない。しかしそれは否定されてはならないだろう。我々が否定するのは非実存的な事柄全般である。もはや受動的に歴史に乗ってはならないのだ。悲劇を繰り返さないために。
今一人の男が死にかけている。その姿は最後まで議会制民主主義と不可分となっただろう。
我々は繰り返すべきでない。歴史的な愚行を。今我々は実存をするべきなのだ。そしてこの暴力こそが、これこそが民主主義の帰結に他ならない。

健康か病んでいるか

健康であったり病んでいたりすると何かといろいろ変わる。なんなれば、そのような変化に基づいて自らを健康であるとか病んでいると判定できたりしそうである。友人は健康であればヘーゲル儒教の間の子を信仰するし、病んでいる時にはキリスト教の異端者になるが、私はこのように病んでいる時について語れることがあるのはすごいなぁと思うのである。
私が病んでいる時というものはもう本当に全く一切の実存が喪失しているような感覚にとらわれる。そこではもはやなんらの生産性を私は有していないように思う(健康な時に生産性があるのかと問われてもそれは知らない。少なくとも自分自身にとって有益なことは遂行できると思う)。とはいえ実際のところなんらかを認識し続けているし、このこと自体を最も根源的な実存として理解できる面もある。となると病んでいる時のあの独特な実存の無さとはなんなのだろうか?
また、健康である時が果たして本当に健康であると言えるかは怪しい。例えば私にとっては健康か病んでいるかの基準は、独特な実存の有無にある訳だが、先に例にあげた友人なんかは、むしろこの独特な実存に近いものは病んでいる時にこそ発揮されるという。この点で考えるとそもそも健康か病んでいるかの基準が違うこともある訳だが、私が自身を健康であると規定している時に、傍から見たらそれは全く病んでいると言えるような状態であることは有り得るわけだ。
さて、一体健康であるとか病んでいるであるとかというのはどういうことなのか。おそらく問題となるのはこれは主観性の中で規定されるものなのか、それとも客観的に測定可能な社会的なものなのか、という点にあるだろう。
医師による判断を伴うような病気の認定というものはこのうち後者に属されるもののように思われる。しかしこのような認定というものが果たして健康であるとか病んでいるであるとかの個人的な感覚とどれくらい結びつくというのだろうか?
私の友人には、全く日常健康に見える奴がいるが、彼は実際のところ自律神経系に問題を抱えて医者に罹っていたりする。とはいえおそらく私から見て健康そうであるとか、あるいは医者からの診断であるとか、ということは、彼自身が自己規定として健康かどうかということとは少しズレるのではないだろうか。むしろ彼にとっては性的な事柄への関心度かはたまた食欲の問題とかが、そういった規定と密接に関係するのではないだろうかと思われる。
しかし社会生活上で問題が生じるようになってくるとなると、これは客観的に規定されるような病んでいるという事態であろう。これはもちろん社会的なものである。だって社会生活上で問題なんだから。これは循環論法である。
つまり、健康か病んでいるかということは社会的なシグナルとしての側面もあることにはあるのだということを抑えておきたかったのである。この社会的なシグナルとして規定される自分の有り様と、自分自身の自覚によって規定されるような自分の有り様と言うものがズレるということは相応にして有り得るのだろう。とはいえ一部の言語論的に考えるのなら、おそらく自分自身の自覚としての規定もまた社会的なシグナルの需要と無関係ではいられないかもしれない。
さて、私が健康であると社会的なシグナルとして健康であることはどれほど一致するだろうか? あまり私は一致しないようにも思われるが、労働状況と勘案して考えてみると案外一致しているのかもしれない。どこまでいっても世界内存在というものは社会から抜け出せないのだ。

ちゃんとしたものを書くためには

ちゃんとしたものを書くのは骨が折れる。本当にちゃんとしたもの.......おそらく私はそのようなものを書いたことがないし、世の大半の人がちゃんとした文章群などの執筆とは無縁な生を送っていることだろう。一方、ちゃんとしたものを読む方はこれは書く方と比べればかなり多いと思われる。しかしそれも人類全体の中ではせいぜい4割に満たないことだろう。まぁ人類全体の4割となると30億人強ということになるだろうし、ちょっと多めに見積もりすぎたかもしれない。一応はまだ先進国であるところの日本の1億2000万のうち4800万がちゃんとした文章群を読んでいるということも私には些か信じ難いので、ここの見積もりはもう少し少なくても良いのをかもしれないが、多ければこの程度だろうとも思えるのでひとまずこれはこれで良いだろう。そもそもこの数字というものは、"ちゃんとした文章群"をどこまで含めて考えるのかということに依存することになる。しかしこの辺りは全く本題ではないのでもう切り上げよう。
とにかくちゃんとした文章群を記述するためには、その10倍近いインプットが不可欠であることは、そのようなものの紛い物に手をつけたことのある勉強を怠った怠け者諸君にはよく理解できる話だろう。本当にちゃんと精密に議論を重ねようとすれば、調べなくてはならないことは多すぎるし、とにかく今こうして私がブログの更新に勤しんでいるのもそのような調べ物をどこから手をつけようかなどと考えて気が遠くなっているからに他ならない。しかしなんなれば今私が調べ物の手のつけ所が分からなくて気が遠くなっている事柄など、私が論じたい問題の最初の一歩に過ぎないのだ。となると全くこの先はもっと思いやられることになるが、しかしちゃんとした文章群に必ず先行研究の引用があるとは限らない。それでもそれらに先行研究の調査や勉強が無いなどということは到底信じられない。
どのレベルのもので満足できるのかということがここで問われることになるのだろうか? 否、もはや次元はそのようなところにはないだろう。ある文章をあたかも見た目ちゃんとした文章群に見せかけることは容易いものだ。実際この前そのような紛い物を作ったが、そこで仕組まれた紛い物ゆえの贋作たるは、少なくともその文章を見せた人には見抜かれていない。結局私はそれに関して自分から種明かしをした。とは言え、それは専門領域の問題も含まれることになるだろう。では同じものをちゃんとした勉強をした人に見せたら? おそらく紛い物であることは容易に見抜かれるのではないか?
果たしてブログ等々でこのような紛い物を量産することは、"ちゃんとした文章群"に含まれうるような大作を記述するための訓練として有効なのか? 一方では是でありもう一方では否であろう。つまり私はこの問いに対して答えを出せない。または二通りの方法によって全く真逆の結論を出せる。
このように問に対する答えが一意に定まらないことは、世の中生きていく上では多くないわけだが、一方でそれがあたかも一意に定まるかのように語る言説というものは途絶えることを知らない。知的誠実さのようなものに基づくならばこれは定まらないことをはっきり示すべきなのだろうが、一方、よりよく生きるということを問題にするならば、時に応じてはあたかも一意に定まるのだと信仰させることは善では無いのだろうか。私はそれが善であるとは一応信じることにする。
とにかく我々は何かにつけて最終信仰と共に生きることなしには常になんらの根拠も与えられていない無規定な現実を無制限に揺蕩う他に全くなんらの方法もなくなってしまうだろうし、それは実存的生の遂行にとっては不都合な事態なのだ。
この後に続く言葉もおそらく作り出すことはできる。ここで語られていることはレトリカルなくせに抽象的すぎる──もはや衒学的とすら呼べない!──のだから。詳細に分けいって、それこそ先程棚上げした"ちゃんとした文章群"とは何なのかを規定しようと試みたりすれば、なるほど確かにもっと文章は続く。しかしそれをちゃんと考えようとすればこの記事は完成しないだろうし、逆にちゃんと考えずにあーだこーだ言っても、それは信仰の問題になってしまうことだろう。だから、無理に書き続ける理由が私にはないのだ。
しかしとは言え、現時点で文字数が1795字(5の時点)になっているのだから、いっその事2000字を越えるまでは何か意味の無いことを垂れ流したい心持ちも少なからずある。というよりそのようなことを望むなら、レトリックを増やしてみてもいいのかもしれないが、しかし一度書いた文を書き直すことはこの記事に置いてはあまりしたくない。ところで、そういえば全く表題の問に対しては答えていないような気がするが、答えているような気もするので改めてこれに答えてこの記事を終わらせることにしよう。

Q.ちゃんとしたものを書くためには
A.とにかくちゃんと勉強をしなくてはならない

個別具体的な話はどうでもいい!

表題は議論中における私の口癖である。
そう個別具体的な話はどうでもいいのだ。個別具体的な話は議論に耐えない。その問題点はあまりにも多くの地点に拡散していく。というかもっと言えば個別具体的な話というものには問題点が遍在しているのだから、もはやその問題について語ることは出来ない。個別具体的な話は示されるしかない。だから例示は例"示"なのだ。議論に耐えうるような問題点の抽出は抽象化・普遍化においてはじめてなされる。構造そのものに焦点を当てることの重要性を知る人はもしかすると少ないのかもしれない。
抽象化・普遍化においてなされることは要するに一般式の提出である。その変数に対して適切な値を代入すれば個別具体的な話に転じる訳だが、では大事なのはその変数かと問われれば断じて否であろう。重要視されるべきなのはここの変数のあり方の一様態などではなく、式に普遍する式構造そのものなわけである。
結局このように考えていくと案外抽象化には数学的能力を要するのかもしれない。これは計算云々とは異なるもので、要するに一般式というものを理解する程度の──つまり中学一年生の一学期程度の!──数学的能力が、議論全般にあまねく応用可能であることを理解する能力のことである。
とはいえ、数学の話はアナロジーであると言えば全くその通りではある。つまり数学自体がはじめから抽象化された言語としての数式を駆使して語られるものであるから、その抽象化は容易いということだ。実際にこれを現実的な個別具体的な話から行なうためには、いくらかの哲学的な視野[1]が必要なのかもしれない。
構造の問題を論じている時ですら、その構造の適用できる個別具体的な話を引き出して、問題の論点をずらす──それも全くそのような意図を持たずに!──論者というものは少なくない。おそらくかの有名なひろゆきもこの手法は多用しているように思う(とはいえ彼の場合は意図的にそのようなことをしているようにも思われるが。そしてそのようなことを行われた相手の側があまり気が付かないのだ)。
私は圧倒的に抽象化された話の方が好きだ。というのはそちらの方が実り深い話が出来ると考えているというのもある。ここで「実り深い」などと述べたが私はあれもこれも利得に基づいて物事を考えるのはあまりにも資本主義地味ていて好きでは無い。しかしとはいえ、どうせ物事を論じると言うのなら、そのような語りがより多くの射程を捉える方が楽しいものになるというのは理解されるだろうか? 理解されて欲しいと思う。
とにかく個別具体的な話はつまらないのだ。そう面白みに欠けるのだ。そのような話をいくらしたところで、実存的生の得られるものは一体なんだと言うのだ! 実存的生を穢す悪行だと罵ってみてもいいかもしれない。それが言い過ぎなのは否定しない。これは極めて感情的な発言であろう。
とにかく抽象化されていなければそれはもはや議論とは呼びがたいし、それをあたかも議論であるかのように語るというのは全く解せないことである。

 

[1]ここで哲学的な視野と言ったが、果たしてこのような事柄が哲学の特権的な事項として述べられるものであるかという点はやや疑問が残る。とはいえ、私の狭い見識からするとこのような能力は極めて哲学に資するようなものと写る。

今しかない今を生きるということ

時間の捻出を頑張らないと行けなくなる程度にはタスクを積みまくっているのだが、にも関わらず今この瞬間において夕飯を食べるという一事を億劫に感じ、仕方なくブログを書いている。
時間を捻出しなくてはならないのは何故なのかという根本的なことを問うことは案外少ないのではないか。そしてそのような問いを立ててみたところで、その原因は時間の本質的在り方の方に対する答えではなく、常にタスクの量であるとか管理の仕方、あるいはそれらを実行に移すプログラムの方に向けられる。
しかしよくよく考えてみれば、ここで時間の本質的在り方の方に対して文句をたれてみても良いのではないだろうか? つまりなぜ我々は一時に一事を為すことしか許されていないのか? あるいはなぜこの時間というのはあたかも直線的に展開しているのかということを。
しかし重要なのは、直線的時間というものは「現在」に対してのみ与えられる特権的な時間の様態であるという点だろう。それは反対に「過去」や「未来」に関してはその直線的な時間様態は必ずしも適用されないということだ。「現在」中心的な時間観は直線時間と切り離すことは出来ないだろう。しかし実際のところ「過去」や「未来」という認識の対象としての時間上に現れるものは空間的な広がりを持っている。これは実存的生の様態と認識対象との乖離としても考えられそうだ。
つまり実存とは主体の主体的行為に関わる以上、時間的には「現在」との折り合いをつける必要に迫られることとなるわけだ。これは一時に一事しか為せないことと重なる。となるとこれは時間の性質なのか実存の性質なのかは甚だ怪しい。もしかすると実存の方の問題かもしれない。だとすると実存の仕方こそが時間のあり方を決定づけるというようなことも言えるかもしれない。
永井均は「〈私〉と〈現在〉」[1]を同構造のものであると喝破したが、私はこの意見には賛同しがたい。認識主体の実在性が根源的であるのと異なり、時間の方はやはりどこまでも認識対象でしか有り得ないのではないかという疑念が拭えない。とはいえ確かにその構造的に相似な地点もあることは理解できるが、やはり時間の構造に関しても認識主体の原理的要請の側から由来しそうに思えてくる。しかし認識主体単体の様相から時間の性質が導出できるのかは怪しい気もしてくる。つまり時間の問題は実存の問題とセットではないかと考えているということだ。実存の問題はどうしたって世界内存在の想定なしには考えられないし、今度世界内存在の側から考えていくとそこでは世界の空間性と時間性はあたかもアプリオリなものとなる訳だが、時間の性質が実存と関わるとなると話はややこしくなるばかりだろう。世界の構造はもう少しシンプルであったとしても怒る神はいないと思われる。
この辺り面白い考察のタネばかりを散らかしたが、現状何としても時間を捻出しなくてはならない私はいい加減夕飯を食う決心をしたのでブログの執筆はこの辺りにしたい。

[1]このカギカッコ内の山カッコの使われ方は永井均の使われ方であって、普段私が使っている山カッコとは全く意味合いが異なる点は断りを入れておかなければ無用な混乱を招くと思うので今ここで断りを入れた。