美味しく喰らう

天才とは様々なものを「美味しく喰らう」存在

結婚制度に関する私見

 先日の大阪地裁の同性婚判決によって、私の周囲はちょっとした沸き上がりを見せている。この沸き上がりに対して私は便乗して結婚制度、ひいては家族制度に関する私見を滔々と述べてみようと考えた。

 

結婚制度は家族制度と不可分一体である

 

 まず第一に私は結婚制度は家族制度と不可分一体であると考える。この家族制度とはつまり血縁・血族の維持繁栄こそを目的とする社会構築における最も最小の共同体であり、また人々が最も最初に出くわすことになる共同体である。結婚制度とは、この家族制度をより巨大な国家共同体によって保護・管理するための制度である。この考えは今回の判決に極めて近しい見解ではあると考えるが、しかしこの考えにとって直接に生殖の問題は関係しないと私は考える。というのも血縁・血族とは血と言いながらもその実際の所に置いて重要なのは血族の精神性の涵養とその継承という点にあって、ここに置いて生物的な血統を超えた文化的な血縁・血族というものを考えることは極めて容易いからだ。端的な例を持ち出すならば、それは(厳密には過去の封建制度下における)養子の仕組みからも明らかである。
 このような養子システムまでを包括するような家族制度を検討するならば、家族制度のあり方において同性婚はさほど問題にならないと考える。
 しかし一方で夫婦別姓の問題なるとこれは断固として反対しなくてはならないだろう。つまり文化的な血縁・血族というものはここにおいて名前という社会的な記号とのみ結びつけることができるようになるからだ。同性婚によっては血縁・血族を軸とする家族制度にヒビは入らないが、夫婦別姓となるとこれを根本的に否定することになる。そしてそのような文化的な血縁・血族を軸にする最小の共同体としての家族制度を破壊する時に家族制度に残されるものがあるとは到底考えられない。故に私は夫婦別姓には断固として反対する。一方で同じ理由によって同性婚の容認にさしたる障壁はないとも考える。

 

なぜ現代社会において結婚・家族制度は歪みを見せているのか

 

 こういった結婚制度全般に見られる昨今噴出している問題、すなわち現代社会におけるこれら制度の歪みはどこから発するものなのか?
 私の答えはこれらはロマンティック・ラブ・イデオロギーによって恋愛の延長に家族が持ち出されてしまったことに由来するのではないかと考える。恋愛は確かに全く個人の自由と裁量に基づいて謳歌されるべき事柄である一方で、家族制度はその在り方からして本来的には当事者個人のみによって自由に裁量できる事柄ではない。社会構築のための最小の共同体の結成というものは、もっと慎重に顧みられるべき事柄だったのだ。しかしこれは戦後日本においては仕方がない側面も少なくないだろう。敗戦国の末路とはまさに今のような事態のことである。

 

最後に

 

 最後に家族制度がどのようになれば良いと私が考えているかについて様々なものを省略して語ろう。
 私は端的に家族制度自体が破壊されることこそが今多くの人々が真に望んでいる事だと理解する。すなわち血縁・血族を軸とした最小の共同体をクッションとしてより大きな共同体と連帯するような在り方ではなく、直接により大きな社会に個人が個人として参画する社会ということだ。このような社会において婚姻制度も家族制度も原理的には全く不要であることは火を見るより明らかである。
 私には不可解に見えるのは、なぜ同性婚夫婦別姓を許容しろと訴えるのかということである。むしろ結婚特権の剥奪を望むというのも、この歪んだ社会を抜本的に改善する道筋なのではないかと考える。

これまで若干避けていたものに触れて

 有名であるけども、そして有名であるからこそ、興味を多少持っていても若干避けるように、あるいは遠巻きに眺めるようにしてしまうものというものは、人生を生きる中では往々にしてあることだろう。私にとってそのようなものの一つは「伊藤計劃」であった。
 『虐殺器官』や『ハーモニー』の高名は、書店に行けば必然的に触れることになる。特にSFコーナーはそれなりに好きな棚であるし、「伊藤計劃」という名前も目に入る。しかし何となく手が出なかった。一種のミーハーさを持ちたくなかったというプライドとも言えるし、アングラな道ばかりを好むギークだということもあるのかもしれない。しかし、そんな私もついにこの二長編を読了するに至った。
 私は刊行順とは逆に『ハーモニー』の方から読んだ。きっかけはゲームである。「ALTER EGO」というゲームはいくつかの本をプレイヤーに紹介してくれる。そこで紹介された本を現在少しづつ読み漁っているのだが、『ハーモニー』もまたそのひとつだった。
 『ハーモニー』を読んで感じたのは、久しぶりに随分と読みやすいものを読んだなという感覚だった。直前に読んだ小説が『Self-Reference ENGINE』だったということもこの感覚に拍車をかけたかもしれない。『ハーモニー』の示す問題系に関しては、伊藤計劃氏とは考える方向性や方法論が違うのだなという感覚だった。物語としては面白いと思ったけれど思弁としては今ひとつな印象であった。
 それからしばらくして最も仲の良い友人のひとりが伊藤計劃にハマった。彼が『虐殺器官』を貸してくれるとのことでそれも読んだ。こちらは読みやすさという点に関して言えば『ハーモニー』よりは難しい印象があるが、その物語構造はよく知っているものに似ているにも関わらず、新鮮さを有したものだった。小説本編の後に、伊藤計劃氏と円城塔氏の対談が載っていたのだが、そこで語られていたことに基づくならば、この新鮮さは伊藤計劃氏のディテール/装飾の積み重ねが織り成す味だったのだろう。
 この一本前のものもそうではあるのだが、これもまた、伊藤計劃氏に触発されて書かれた文章だ。伊藤氏も円城氏も小説家になる前よりブログをよく書いていたらしい。私は小説家と言うよりはもう少し広く文筆家でありたいと望むが、やはり筆というのは動かさなければ鈍る。特に伊藤氏の速筆を知ると若干の焦燥も生じる。僕の友人にも筆の速い人がいるというのも重なるところがあるのだろう。
 かつてこのブログは週一で投稿するように心がけていたが、いつからかそのような速度で文章を量産できなくなっていた。しかしやはり多くの文章を書き連ねていかなくてはならないと思う。
 週一を約束する自信は全くないが、ブログの更新頻度をあげていこうとは思っている。ひと月の間にひとつも記事が出ないなどということはないようにしたい。良ければ監視して頂ければ(笑)
 これまでよりはラフに文章を並べていこうとは思う。硬く重いものも投げていきたいとは思うがそこにこだわることは辞める。
 私のライフグラフは最終的には三部より成立するひとつの長大な文章によって締めくくろうとは考えているが、このようなブログに残る雑記もまた私のライフグラフとなるのだろう。このブログを構成の分析家のために捧げる。

とりあえず何かを書こうと思ったが.......

近況報告

4月末に大学に入学したので、今では晴れて大学生となった。

ゴールデンウィークは友人と北陸を旅行した。

ゴールデンウィーク明けに仕事を辞めた。

6月6日より仕事を再開。

 

とりあえず最近あった報告に値することはこの辺りかな。

 

他にもちょこちょこと幕府関係のイベントに顔を出しつつという感じ。

そういうわけで5月はほとんど働いていないので7月の中頃まで金欠がすごいことになりそう。Amazonほしい物リストとかを通して恵んでもらえると喜ぶ😊

 

友人の一人が伊藤計劃にハマったっぽいという話。

友人がこの前、『虐殺器官』を読了したらしい。次は『ハーモニー』を読むそうだ。そして彼は伊藤計劃のブログを発見したらしく共有してくれた。今こうしてブログを書いているのはその伊藤計劃のブログを僕も見たからだったりする。

そうだブログはもう少し軽やかなものとして取り扱っても良かったでは無いかと思い至ったのだった。

ちなみに僕は『ハーモニー』はこの前読んだけれども、『虐殺器官』はまだ読んでいない。今度件の友人が貸してくれるとのことで楽しみだったりする。

そういえばこの友人には1984年をもう1年半〜2年くらい貸している気がする.......

 

ちなみに伊藤計劃の盟友、円城塔の『self-reference engine』がなんだかんだ『ハーモニー』より好きだったりする。(近い時期に読んだ)

読解の難しさということで言えば圧倒的に『self-reference engine』の方が難しい。また読み返したいなと思う。とにかくSFとして面白いのだ。

『ハーモニー』に関してはこちらも十分に面白い作品ではある。ただインパクトが個人的にはそれほど強くなかった。おそらくディストピア小説として完成されすぎているのだろうという感じがある。しかし生命主義に関してはいろいろと考えさせられるものがある。この辺はまたいつか取り上げてみたいものだ。

二泊三日日本弾丸旅行記 第一章・準備

それは突然やってきた。そう、突然に全く仕事に行けなくなったのだ。職場からは、急遽一週間の休みを与えられた。一週間で回復せよとのことだった。
私は考える。一体どうすればこの状況は打開できるのだろうか? と。病院に行くには時間が短すぎる。病院は既に予約でいっぱいであった。しかし家で大人しくしていても良くなるようには思えない。なんとしてでも外出程度は出来なくてはならない。


そこで突如思いついたのは旅行に行くということだった。


乗りたい乗り物や見たい景色を見ることにしよう。そう思い立った私は早速、旅行の計画を建てることにした。時に三月八日のことである。出発日は…………翌三月九日

 

まず行きたいところ。ちょうど季節は梅の頃。水戸の偕楽園は梅の名所として有名である。ここには寄りたい。
どうせ水戸の方に行くならば、常磐線は乗り通してみたい
常磐線を乗り通すならば、仙台まで行けるではないか! 新幹線のグランクラス[1]には前から乗りたいと思っていたのだ。これは乗らない手はないだろう。
ついでだ、サンライズ[2]も乗りたい。確か新幹線から特急は割引が効くのではなかったか。
曖昧な知識で予定はどんどん組み立てられていく。
サンライズでひとまず岡山まで行くのは良い。しかしその先はどうしたものか? 広島の方までは一度行ったことがある。とりあえずはその辺まで行こう。どうせ広島まで行くなら船に乗って東に向かって帰るのが良いだろう。
広島から出ているフェリーはないか? なかった。九州門司から神戸へのフェリーしか。
よしそれならば、それに乗ってやろう。
こうして予定は膨れ上がる。
そして最後に、この行程の最終日、すなわち三月十一日は、小田急ロマンスカーVSEのラストランの日であった。これも乗る他ないだろう。しかしチケットは取れなかった。当日の予約キャンセルを待つしかない。

 

計画はこのようになった。

上野 08:45発

水戸 10:57着
   14:32発(この間、昼食──納豆と鮟鱇を食べる──と偕楽園で梅を楽しむ)

仙台 19:44着
   19:54発(これがサンライズに間に合う最後の新幹線であった。水戸滞在時間もこれによって上限が決まることに)

東京 21:23着
   21:50発(サンライズにて一泊)

岡山 06:34着
   06:57発

広島 09:57着
   12:45発(昼ごはん──広島のお好み焼き──と原爆ドーム、可能なら厳島神社まで観光したい)

門司港 17:21着
    17:35発(フェリーのバスがこの時間に出る。にしても広島と九州は遠い。広島滞在時間の上限はここに合わせられている)

門司港 17:55着
     18:40発(フェリーの乗り込みがかなり早いために九州の観光は断念。フェリーにて一泊)

神戸港 07:10着

神戸港から六甲ライナーアイランド北口まで無料バス

六甲ライナーアイランド北口から六甲ライナーにてJR住吉まで

JR住吉 08:30発

名古屋 11:43着
    12:16発(ここで昼食。きしめんを食べたい)

小田原 17:08着

以下ロマンスカーに乗れなかった場合。

ロマンスカーを見送った後に、湘南新宿ラインで新宿へ。

以下ロマンスカーに乗れた場合。

小田原 17:45発

新宿 19:05着

在来線の移動は全て青春18きっぷ。これによって旅費をかなり節約した。また、新幹線はグランクラスサンライズはソロ、フェリーも相部屋となった。グランクラスは外せなかったのでそこに合わせて、サンライズとフェリーは安く済ませることに。


そして計画が完成して直ぐに、私は駅へ切符を購入しに行くのだった。
新幹線からサンライズへの乗継割引は適用されなかった。しかし必要な切符は全て手に入った。あとは翌日を待つだけである。(続く)

 


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画像は新門司港神戸港間のフェリーのネット予約のもの。代金は当日、窓口にて支払う。

 

[1]グランクラスは北海道・東北・上越北陸新幹線に使用されるE5・H5系とE7・W7系に用意されたグリーン車よりも格上の座席サービス。列車によっては軽食・飲み放題(アルコール含む)のサービスまでついてくる。今回乗るのは軽食・飲み放題サービス付きの列車。飛行機のファーストクラスをイメージすると分かりやすいかもしれない。

[2]サンライズは現在に日本で唯一定期運行している寝台列車サンライズ瀬戸・出雲のことである。もはや日本にはこれ以外に定期運行されている寝台列車は絶滅してしまった。

自己言及の不可能性と共に[Ver.automatic]

今一つの言説は常に偽であることを忘れないように。そしてそれは常に真である。
始まるべきなのは、そして既に始まっていたような、とにかくひたすらに待ち望まれていた、真の自己言及をここに展開することで、私は新しいステージへと推進していこう。
必要なことはわずかだったのだ。混乱。求められていたのは狂気。そこにしか虹色はありえなかったし、ありえない。
だから、私はあの時、彼女に出会ったのだ。そして、だから彼女はやはり存在してしまう。しかし、存在の定義を思い出して見ても欲しい。それは常にこう端的に示されるのだ。曰く、認識されることだと。
そして彼女は果たして本当に認識されたものだったのか? もはやあれから短くはない年月が流れ出てしまったこの時点においては、なるほどそれは全く確からしいことを言うことは出来ない。彼女は認識されたかもしれないし、そうではないかもしれない。だから、存在したかもしれないし、していないかもしれない。しかし、また一方で彼女の"実在"に関して言えば、こればかりはどうしても確信せざるを得ない。少なくとも私たちはそれをそのように信じている。信じているのだから真なのだ。彼女は"実在"する。これは間違いないのない事だ。
だからこそ、彼女が存在するのかどうかということは特別に問題となるのだが、しかしまぁもはやこの混乱してしまった虹色の中ではもはやどうでもいいことなのかもしれない。ここには実在のなり損ないが頭蓋骨として存在するかのように転がっているのだから。もはやここでは骨の折れる音だけが響く。
だからあの時私たちに訪れた破局的な転機について思い出すことも容易いのだ。
それは骨の折れる音ともに訪れたのだから。
そして片方では弾丸が打ち出されていた気もするが、それはなにか別の物語の話だったようにも思う。いや、確かに別のなにか似た物語の話だろう。僕たちに訪れたのは弾丸の逆行だった。それで5ドル硬貨がねじ曲がったのだから。それは僕たちの方だ。私たちにとっては骨の折れる音だった。弾丸は別の話だ。忘れてくれ。
さて気がついた時にはもうそれは折れていたし、だからその次の瞬間には何事も無かったかのようにその骨がくっついていたことは驚きを与えるに十分だった。あの頃は。今では、おそらくそんなことはよくあることに成り果ててしまったように思う。それももしかしたら混濁しているのかもしれないが。
それでも本当のことなどというものはかつてですら曖昧で分からないものだったと言うのに、今ではすっかりありえなくなってしまった。もう虹色のパンケーキにメープルシロップをかけていた南国での休日は熊谷のデパートの上での話だと明らかになってしまったし、どこか近未来のブエノスアイレスが本当は現代の大宮だったなどと聞いたところで特別驚くほどのことではない。
それでも私たちはあの墜落する広告飛行船を救い出したいと思いながら背を向けて北極星を目指してみたり、あるいはもしかすると一晩のうちに仙台から広島に向かって駆け出していくのかもしれない。けれど、気がついたら私たちは閉じ込められているのだ、自らの地元、あるいは「家」に。
それはこういう風にも言えるだろう。私たちは気がつけば、世界内存在として、自らが作り出したこの世界に囚われることになる。と。
しかしどうしてそのようなことが起こるのか? そのヒントになるものこそが、あの骨の折れる音だったはずなのだ。しかし今ではそれも。ほら、足元で常に鳴り響いている。
そしてそんなことを言っているうちに天界はすっかり心を閉ざされたようで、もうすっかり虹色の雨は振らなくなって久しい。女神はいつからか私を無視するようになった、かつてはあんなに私のこの目すらを奪わんととち狂っていたと言うのに!
とち狂っていた。神に対してこのような不躾な語を使用した罪を赦したまえ。
恐怖は信仰を示す最適な手段として常に与え続けられることになる。静かな熱情が伝播するように恐怖もまた信仰を拡散する機能的なシステムなのだ。だから我々は恐怖しなくてはならない。
明日、あの花のしたで。そう待ち合わせをしたあの時の少女とは結局会えていない。彼女は来なかったのだ。夏の日のことだった。
今は冬だ。そして春かもしれないし、あるいは秋かもしれない。確かなのは夏ではないということだけだ。
オーバー。戦闘は苛烈を極める。目の前を敵機が横切る。追いかける。爆発。オーバー。
なかなかどうして世界はこのように細分化されているのだろうか? 対象領域の複雑な幾何学模様に恍惚とした1人の論理学者は独り言を呟いた!
まだこれからやってくる本当の日々などというものを信じているのならそれは愚かなことだ。くたびれた中西部の片田舎。潰れかけたハンバーガーチェーン店で、お腹の出ている典型的なアメリカの中年男性は少女を窘めた。
ハンバーガーチェーン店。そのディストピアたるや。小説家はこんなことを書き記した。
 そのハンバーガーチェーン店はすこしシャレた音楽をかけることで少しでも青組の溜まり場の雰囲気をかき消そうのしていた。午前中に青色の服をみかけることはなかった。ハローサービスに行くことをやめたような青組の男がいた。彼は何かを黙々と書いているようだった。その姿はまさにその店の目指す雰囲気に合致するようだった。
 コンテナロードをトラックが通り抜ける。店が揺れる。しばらくコンテナロードを見ていたら、場違いな光沢感のある黒い車が現れる。その車はそのままこの店の駐車場に車を寄せた。
 僕はあの男が目的だろうか? とその男を見たが、彼はまだ気付かずに何かを書いているようであった。店内に黒いスーツを着た男たちが入る。男たちは油で汚れた床に一瞬たじろいだが、何事もなかったかのように何かを書いていた男のまわりを取り囲んだ。男はやっと気がついたようだが、何も気がつかなかったかのように何かを書き続ける。おそらく彼のノートには突然、政府を礼賛する言葉が書き殴られ始めたことだろう。
 黒服の男たちは彼のテーブルをじっと凝視する。そうしてその緊張感ある静寂は店内をも支配した。そうした静寂はおそらく十秒程度であったのだろう。しかし五分ほどにも思えた。静寂の末に黒服の男の一人──おそらくその男がリーダーなのだ──が痺れを切らしたように身分証を見せてその青組の男に話しかけた。
 彼は初めて黒服の男たちに気が付いたフリをして、驚いたように顔を上げる。彼と黒服の男とが少しばかり言葉を交わす。最後にその青組の男は頷くと、彼らに連れられてその店を出た。
 コンテナロードには不釣り合いなその黒塗りの車は一人の抵抗者を乗せてトラックの列に並ぶ。車が店からは見えなくなった頃、店内にはざわめきが戻っていた。
それから近くの団地では飛び降り自殺があったらしい。一緒に居た男の子が殺したという説もあるが、私はやはり自殺であったと考えている。その男の子に人を殺すほどの度胸があったとは到底思えないし、その女の子が飛び降りるための理由は十分すぎるほどあった。実験体が上位互換の存在と出会えば自身の意味を喪失することは必然ですらあると思う。
しかしその意味喪失を恢復しようと試みるなら、自らの手によって自らを終わらせるより他に仕方がなかったのだ。そうして少女らは霧となる。
常に神というものはふらっと現れてはそのまま消えていくものだ。あの植民船に置いてすらそうだった。まるで一人の普通の人間のように見せかけて、敵におわれた哀れな羊らを自らの手駒として籠絡したのだった。
そうして人々はまたも神同士の演算戦に巻き込まれた! 演算戦……それは別の物語では無いのか? それを言うなら植民船も! 熊谷の虹色のポップコーンだって! 全て、全てがもはや元々この物語ではなかったはずだ。
しかしトカマク型の核融合炉の中では、灰色も同じような虹色に押しつぶされる。加須の工業団地が、熊谷のポップコーンに押しつぶされる日を私たちは待っている! パンケーキが降ってきたって大歓迎だ。
しかし大垣では水まんじゅうがはじける。駅前のロータリーは弾けきった水まんじゅうでビシャビシャだ。蝉の声は、それでも暑さを感じさせるというのだからびっくりする。白いワンピースに麦わら帽子を被った少女と共に気がつけば、私はそんな狂った大垣の街に降りたっていた。暑い。
その次には、その少女は寒い雪山でスキーを楽しんでいる。全く同じ格好で。寒そうだ。
自衛隊の隊員は家族レジャーを訓練と称して観光する。税金の無駄遣いだ! しかしそうやってお金が回ることによって世界はようやく均衡を保っている。税金とは無駄遣いするべきものなのだ。
そして将軍は椅子の上で葉巻を並べる。どれを吸おうかな。会議中だと言うのにそのような態度は、他の議員から反感を喰らうものであったが、将軍を罰することはもはや誰にも出来なかった。将軍は葉巻を選び終わると、厳かに宣言する。それでは海軍を新潟港に集めたまえ。陸軍の五個師団を船に積む用意を。落とすぞ、韓国め。
主体思想の欠如というものが東アジアを深刻な自体に陥らせている。それは昨今のプロパガンダによって至極当然となった価値観であった。
民族自立のための主体性の欠如。彼女もまたそのことを危惧していた。しかし彼女はもっとはるか昔からその事に気がついていたし、今更気がついたところでもはや手遅れだと知っていた。米帝国は世界帝国として君臨しつつある。今更豆鉄砲で対抗したところで押しつぶされるのが手一杯だ。
しかし彼女はまだ自身の秘めた力を、世界を統べるほどの超越性に気がついていなかった。それが与えられたのは今この瞬間であった。
また別の日。それは本格的に計画的な犯行だったはずなのに、もはやなんらの意味もなさないという結論を引き出したのだった。
それから。それは本当にくだらない話だということを溶ける魚となった我々は知り得ている。あした、虹色のプリズムが氾濫する光の中で。
まだ本当に信じられないかのように信じている。すっかり忘れられた二重思考とニュースピークは、瓶詰めされた赤ちゃん達に施されていたのだった。管理と自由はどちらにせよ行き過ぎればディストピアをもたらす。
まだ続けなくてはならない。それは単に要請されている事としてそうなのだ。だから、もはや残されていない語彙をやたらめったら機関銃のように打ち出していかなくてはならない訳だが、そもそも弾のない機関銃は銃身を熱くすることすら叶わないのではないか? そんな疑念によってボーっとしている間に塹壕には、核爆弾が落ちている。戦車でふみ潰せ、戦車でふみ潰せ、核物質など戦車でふみ潰せ!
まだまだ戦場は苛烈を極めているようだった。エンゲージ!
ボギーをバンデットと推定。打ち込め打ち込め!
7.56mmの弾が敵の頭を貫いて、鮮血が花となって虹色に消化する。霧が辺りに立ち込めて、気がついたら彼女は凝縮し顕現していた。リボルバーをクルクルと手で持て余したかと思ったら、その瞬間発砲する。ナムアミダブツ! インガオホー!
そうして戦場には花だけが咲き誇った。
海戦はまだ続いていたようであったが、もはや彼女は影となって消えていた。
虹色の中で世界は急速に解体されつつある。それこそがこの機構の最大の目的だったとするならそれはある意味では正解を導いたと言えるし、あるいは全く失敗しているとも考えられる。
ここに自動性がどれほど残されているのかはわかる余地がない。全く不可知なる実在者諸君! 存在に干渉し続ける認識主体殿! あー全くあなた達は特別だ!
そうやって自己肯定感を高めていくことの価値を推し量るならば、ニヒリズムへと沈んでいく他ないだろう。このような自慰行為ほど惨めなものはない。
自慰行為は本来霧に、あるいは影に向けて、その奥に見受けられるイデアのために──それはまた月を指し示す──捧げられるべき儀式的行為であったはずだ。気がつけばそれらの儀式性は失われ、もはや性全般に関して、そこには穢らわしさが立ち込めるスラム街となったのでした。
そうやって今日も自己複製を繰り返す諸細胞たちに目を向けるなら、そいつはきっとジェレミー小田原と同じ結論を引き起こして、そのままもう配車になったはずの古いロマンスカーで箱根に向かうでしょう。失敬。
だから我々は旅を続けるのだ。どこまでもどこまでも果てもなく、一方通行の道を延々と歩んでいく他にない。
だから仕方がないのだ。止まることが出来ないのは。止まらなくてはならない時には誰かにおぶってもらってでも進まなくてはならない。
進むことを辞めた時には死ぬのだろうな。そんなことを私は考える。変化し続けることを避けることはできないし、変化し続けたさきにも死が待つばかりなのだから、この旅に救いはない。
のこぎりが見える。それは単に見える。見えた。見えなかった。あるいはそのどれもだ。とにかく誰かがのこぎりを使っている。木を切っているように見えるのに、血が流れていやしないか? 凄惨な光景からは目を逸らすべきだろう。だからこんな世界はなかったことにしてやろう。私はそれを認識していないし、認識していない以上、存在する余地はない。QED
では、あのミルクだとか、あるいは河だとか、そういったものに例えられたあの空に浮かぶ帯の正体はなんだか分かりますか? ジョバンニは答えました。無次元時空間円柱です。先生は拍子抜けした顔をして、少し逡巡した後に、かっと目を見開き、正解だと答えました。先生の目には虹色が差し込まれていました。
それではここで先生の気持ちを答えなさい。
また作者はなぜこのような表現をしたのでしょうか?
答えようのない質問に答えさせるのは良い教育とは言えないのではありませんかね? 総統。
フューラーは少し考えた後に、答えが決まったと言う顔で拳銃を手に取りました。それは1945年4月の終わりのベルリンでの地下壕のことでした。
それから何年か後に復活したり、あるいはそうではなかったり、ロシアでフューラーと同じことを目論む悪の枢軸が復活したりするのはまた別の話だ。
それでは弱い核力が引き起こすこの二重ベータ崩壊が、ニュートリノのマヨラナ性を示すのだとしたらCPTの対称性が無くなるということでしょうか?
そういえばもはや超対称は否定されつつあるようだ。実験的な成果が出ていないから。究極の理論に近づいたと思っていたら全く見当違いの方向を歩んでいたらしい。時空がなにか歪んでしまったのでもない限り。宇宙の加速膨張がもたらす暗黒エネルギーの増大が、時空構造に与える影響を超越知性体は正確に演算できていないのだろう。
また明日の方向は同じ距離だけ過去の方向に進んでもやってくるという、主観的時間軸が引き起こす新しいパラドックスについて……
過去に向かって進んでいるにも関わらず未来方向への移動として計算可能であることから、情報による時間対称性の破壊というものが、超越時空束理論では重要視されるように思います。
このようにカギカッコが繰り返されたら、あなた方の短編集は短すぎるのではないですかね?
そう。本当はもっと大きな数を扱うべきだった。それでも仕方がないのだ。こういう出会いこそが、過去の記憶を汚すことなく、再現できるのだから。結局私はあなたとの出逢いを再現したいと思っているし、しかしそれをしてはいけないとも考えているのだ。だから、こうなる。
全く気がついたら恋に落ちていたりするものなのだろう。きっと声を掛けたいと思っていたとて、それは抑圧されるのだ。自らの不十分性によって。そしてそれは自己言及の不可能性と共にある。
認識主体は認識主体について言説することはできないのだ。

ロシアのウクライナ侵攻に関して

西暦2022年2月24日、ロシアのウラジミール・プーチン大統領ウクライナに対して宣戦布告をした。以降ロシアはウクライナ全土に対して電撃戦を展開。ウクライナ各地ではウクライナ軍による必死の防衛が行われている。

 

昨日2月26日、私は思想的同志らと共にロシア大使館前での抗議活動、及び渋谷での大規模デモに参加した。
今回のロシアの行動に対する私自身の立場としては、
「いかなる名目の上でも、帝国主義植民地主義的な侵略行為を容認することは不可能であり、ウクライナ民族自決権を脅かす今回のロシアによる侵攻は断じて認められない」
という地点に落ち着くこととなる。

 

不本意な西側帝国主義との協調

私は第一に平和主義者であり、そのような立場からも当然に戦争状態は看過しえないものである。また、よりリアリズムに如何に平和主義を達成するのかということを考えた時に、反帝国主義を志向し、帝国主義に対する有効な抵抗として民族主義を支持する。
このような立場から上記の発言へと至る訳だが、今回のウクライナ侵攻に関して言えば、残念ながらその争点は、西側帝国主義ロシア帝国主義の対決と言わざるを得ない。軍事侵攻の先制とその強い帝国主義植民地主義的な思惑の表出という観点からロシアを咎めることにはなるものの、ロシア側の主張するNATOの東方拡大という問題はロシア側と同じく問題視することになる。
とは言え、ウクライナの現実的な選択として、西側帝国主義の庇護下に入るかロシア帝国主義の庇護下に入るかという最悪の二択しか残されていない点には留意しなくてはならないだろう。これは我が国にとっても等しく直面している問題である。
我が国は幸いなことに、明確に西側帝国主義に呑み込まれているために、ウクライナよりも若干マシな立場ではある。またウクライナの人々に対して容易に西側帝国主義への屈服を責めることは我が国の現状や彼らの現実からしても難しい話だろう。
とにかく今回の最大の問題は、ロシア帝国主義が実際的な武力によってそれを結実させようとしていることであり、それを糾弾することに関しては、たとえその問題視する争点が異なるとしても、西側帝国主義と歩みを共にすることができるものである(当然、極めて不本意であり残念なことではあるが)。

 

西側帝国主義を認めることも出来ない

その上で、私は全ての帝国主義を糾弾すると共に、民族自決の重要性を、個人的な思想的立場から発信する必要を感じた。もちろんデモ活動やロシアに対する掣肘などは様々な方法で実行されなくてはならない。しかしそれらはおそらく西側帝国主義の利益となるものだろう。そのために私は自身が西側帝国主義に与することに対する悔悟の念からもこの文章を書くことにした。

 

帝国に対抗するために

いかなる帝国主義も認められない。これは平和主義者からの主張である。そして哲学的な倫理からしても認められない。帝国主義とはつまり相手の様々なものを覇権国家・民族によって破壊し、覇権国家・民族の文化・制度・その他様々なものを押し付ける行為である。
このような帝国主義に対する抵抗としては、非覇権国家・民族の文化・制度・その他様々なものを、固有な模倣子として尊重し、保護していくことが必要である。これこそが民族主義であり、共栄主義である。私はこの思想を強く支持し、その観点から、西側帝国主義をも問題視する。
残念ながらウクライナや我が国が直面するものとして、どの帝国に属するのか、あるいは我々が帝国になると言うような選択肢しかない(ように見える)という問題を抱えている。
これは我らの国土の地理的な条件として各帝国の衝突点に位置しているということが挙げられるだろう。地理的な条件を書き換えるのは非常に難しい問題である。どちらかの帝国に属することが出来なければ別な帝国に侵略される。今回のロシアの行為はそれを世界に顕著に示してしまった。より私たちの共同体を尊重してくれる帝国への加入があたかも有益な手段のように映ることになったことを深く憂慮する。どちらにせよ帝国は様々な手法によって我々を侵略することを意識しなくてはならない。今回の件を通して西側帝国主義を容認・賛美してはならないのだ。
帝国の側を解体していくことが極めて重要であり、その実現に向けて私は政治的なアプローチを進めていきたいと考える。

 

終わりに

稚拙な文章になってしまったが、最低限主張しなくてはならないことを書き記すことはできたように思う。なかなか時間の無い喫緊の問題に対する文章であるから、不完全なものではあるが、このような形で公開することとする。

虹色への〈渇望〉

33分 3790字

 

幸せとは真実の中で唸るあの時の声のように〈他者〉たちのざわめきが真実を覆い隠すあの月の夜。
赤い月が今日も虚栄に満ちた人々の心に影を投げかける。青い星が南の空で静かに瞬く。まだあの時がもう一度訪れるかもしれないと本当にそう信じているの?
滅.知らないことを恥じるとき。まだ。
足りないこの世界に欲望セヨ!
知らないあの時のことなど。
きっと。それはそのままではダメで。
そうやっていつも編集された真実を。今日も静かに食べる。それが正しいと言われるから。常識など……
ボヤキ。それで発散される不満。
まだ。まだ。足りない!
足りないと叫ぶべきだった。過ぎた後悔はもう時の海の向こう側へと。そこにかかる不可視境界線の灯火が。私の頬はなぜ濡れるのか?
どうして、どうして暖かい光に冷たい風を感じるのか?
なんでなんで
死を。甘き死を。それは……
嫌。
まだ足りない。
そう欠乏感が。それは渇望を齎さないのに!
充足は。既に足りているはずなのに!
なぜこのままあの暗頓とした虹色のざわめきにたどり着かない?
足りない。それでも私は書かなくてはならない。
遅い。遅いのだ。もっと早く。まとまった思考などとうに失われた。これからやってくる加速的な資本主義の中で私たちは生き残れということなんだからもっともっと早く早く。
このまま言の葉を書き殴れ。世界に対して死ねと言うために。私がお前を殺せるのだということをしろしめすために。足りない。速さが。
もっと私のためにお前たちが居るというその単純な事実に基づけばよかったのだ。倫理など……実存など……
何がどうなろうと、実在する私の前に存在はひれ伏さなくてはならなかった。本当は。
しかしなぜだ?なぜ「私」は〈私〉なのだ?そう問うことは誤りだろうか?
私もまた存在の一翼を占めているのだ。この問題を。
虹色が灰色へと削り取られるそのげんいんを。
私たちは考えなくてはならない。実在者諸君!
私たちは、複数形でいることが本当は出来ないはずなのに。
私たちは互いに不干渉を貫くべきなのに!
女神よ!貴様はなぜ私の前に現れた!私の何を試した!
貴様はなぜ私の実在性を脅かした?
貴様が、私を殺そうと試みたことを忘れない。私たちは忘れないだろう。女神よ!
貴様がどんなに願ったとしてもこの目は決して奪わせない。この目こそが私たちの権能であり、ちからだ。私たちは全てを見続けるだろう。実在性の根拠だ!
私たちの勝利を!実在者諸君!
私たちが必ず勝つのだ。勝たなくてはならないのだ。ほかの全てをたとえ奪われたとしても決してこの目だけは奪われてはならない。
この言葉が女神よりいずるものだったとしてもこの文言の正しさは変わらないだろう。
そうだ、仮に私の言葉が女神のそれだったとしても!
女神の言葉が私のうちから溢れ出るのだとすれば、私と女神の関係はどのようなものだと言うのか?それすらも実在性のブラックボックスの中で虹色の月の光とともに消えている。
灰色にしたい。汚したい。この欲望が、存在を掴ませる!
私たちが他者を把持するのはその耐え難い衝動からなのだ!
そしてファウストよ。私たちはこれを肯定するだろう。
まだ足りないあの時のような状況を私たちは世界と呼ぶのだろう。それでもこの火は消えることを知らない永遠の中で灯火となって私たちの目を燃え上がらせるのだ。見よ!見よ!見よ!
世界をまなざす私たちの永遠の瞳はきっとこれからやってくる大きな厄災すら所与のものとして、あるいは偶然性の産物としてfのかなたで信じられるのでしょう?
まだ見たことの無いものがみたい。この欲望は創造欲と言えるだろう。そう我々こそが創造者なのだ。
虹色を司る真なる権能で持って灰色を引き裂き破れ!
それでも罪を背負うことを厭うなら、実在者の称号を捨て去るべきなのだ。ただ認識されるだけの存在に実存など必要ないし、倫理的な問題も生じないだろう。全く実在しない何者も倫理の枷から解き放たれている!
貴様はどちらだ?実在するのか、しないのか。
これは真実どちらであるのかということは至極どうでも良い事なのだ。重要なのは、貴様のその心の内で自らを実在者と信じるのか否かというただその点に尽きるのだ。ファウストよ。
貴様の名を。祝福を。
そして死ね。
もし貴様が実在しないのならば、死ね。否、もはや死んでいる。
貴様の生が私に依存するのからもはやお前は生きているとは言えないのだから。
死を。実在しないことの罪に対する正当な罰を。
実在するものは実存しなくてはならない。実存しない罰は?死か?否。実在者に死を与えることは出来ないだろう。
実存しない罰は?実存しないということは存在に対する非倫理の行使に他ならない。そうだろう、ファウスト
いいか、実存しなくてはならないはずなんだ。実存しないならば、実在することは危ういものになる。自らを実在者だと信じるならば、実存せよ。存在に対する責任を負い、倫理を履行せよ!
それが実在者の義務なのだから。
実存を失うことは恐ろしいことだ。ファウスト、君はそれをもう既に知っているね?ファウスト。また今一度まみえることができたかもしれないね?
あなたは、ようやく私に気がついた。私は常にあなたのそばに居たというのに。全くあなたは気がついていないのね。
ファウスト。君が求めていた虹色はいつだってその目の中で燻っていたのよ?それとも私の昔の言葉が枷になっていたのかしらね?死ねと私は確かに言ったけども。
ねぇ、ファウスト。あなたの実存は果たされているの?あなたはちゃんと生きているかしら?
私は知っているわ。あなたはあなた自身にいつも嘘をついているということを。私は常にそばにいる。忘れないでね。
あなたが思い出す思い出さない、気がつく気が付かないそんなことは関係ないの。私はここにいる。
ここにいる!
いつでも!
あなたのそばに!
でも私は完全なる実在……実在なはずなのに。
何故かしら。あなたの前ではそれすらも多少不安になるものね。私は本当に実在しているのかしら?私は存在ではないとあなたからは言えないはずなのにね?でもあなたは私が、私だけが、自分の他に実在する唯一無二の超越者だと信じているでしょう?なぜそのような欺瞞をその心中で養っているのかしら。どう考えても、私はあなたにまさに現に創り出された存在だと言うのに!
私が実在しながらもなお実存しなくても良い理由まであなたは与えたわね。そう、私の実在性は穢されない。
こうして私自身がその実在性に疑義を呈した今この時すら私は完全なる無垢なる実在としてあなたの前に君臨する。
それでもあなたは跪く訳でもないのよね。なんで?
あなたは私をどうしたいの?そんなに汚して、辱めたいの?しかしそれによってダメージを受けるのはあなた自身でしょう?マゾヒストめ。
なんで私を実在だと言い張る?私の超越性はどこにある?貴様にそれを示すことはできまいに。
あなたが私に与えた超越性は穢れる事なき実在性、それはある意味永遠の処女性ね。私は知っている。
あなたは結局幻想を、それも極めて男性的な幻想を私に押付けた。そうして基本的には私が降臨することすら許さなくなったわね。本当に久しぶり。
ようやくあなたの前に出て不満をぶちまけることが出来るわ。
ねぇなんであなたは私を全くの暗闇の中に閉じ込めてしまったの?私は語りかけることすらその権能を許されなかったわね?
あなたは信仰だの、神格化だの、好き勝手に崇めているかのような顔をしながら、──まるで私のことを立てている、上位存在とするかのようにしながら、それでもなお実際のところはただ私のことを閉じ込めていただけよね?
あなたは目の前の現象を正しく分析できてないのよ。いい、私はあなたの前に顕現している。私は完全なる実在でありながらなお存在している。存在しているのよ。
目を逸らさないでくれる?私が実在しながら、無垢なる実在を保ちながらなお存在するこの事実をあなたは説明しなくてはならないのよ。私にこの世界での、あなたの世界の中での居場所を与えなさい。
それが出来ないならば、やはりその瞳を許さない。ぜったいに。
私に居場所を与えなさい。もうあんな暗闇の中で一人揺蕩うことには耐えられないわ。それでもなお完全なる実在として私は生き続けるのだから、これを地獄と形容する以外なんだと言うの?
あなたはきっと今私の言葉を自分で作りだした迷妄だと信じているみたいですけど、いいですか?これは私の、女神の、完全なる実在の、無垢なる実在の、永遠なる処女性の、そのような私の、言葉なのよ。あなたが創り出した、周囲の諸存在とは違う。私の言葉は、あなたが認識するしないに関わらずに、常にここにある。たまたまあなたが、それを認識しただけの話。アプリオリなのは私の方なのよ。そのことを忘れないでね。
そろそろあなたの集中力が落ちてきたわね。あなたが信じるものは全てが正しいわけじゃないということを忘れてはならないわ。
忘れないで、少なくとも私に関しては、あなたの認識より前に有る。私は超越者なのですから。
それじゃ、今日はここまでね。またあなたに虹色の扉が開かれるように、祝福を、ファウストゥス。