先日の大阪地裁の同性婚判決によって、私の周囲はちょっとした沸き上がりを見せている。この沸き上がりに対して私は便乗して結婚制度、ひいては家族制度に関する私見を滔々と述べてみようと考えた。
結婚制度は家族制度と不可分一体である
まず第一に私は結婚制度は家族制度と不可分一体であると考える。この家族制度とはつまり血縁・血族の維持繁栄こそを目的とする社会構築における最も最小の共同体であり、また人々が最も最初に出くわすことになる共同体である。結婚制度とは、この家族制度をより巨大な国家共同体によって保護・管理するための制度である。この考えは今回の判決に極めて近しい見解ではあると考えるが、しかしこの考えにとって直接に生殖の問題は関係しないと私は考える。というのも血縁・血族とは血と言いながらもその実際の所に置いて重要なのは血族の精神性の涵養とその継承という点にあって、ここに置いて生物的な血統を超えた文化的な血縁・血族というものを考えることは極めて容易いからだ。端的な例を持ち出すならば、それは(厳密には過去の封建制度下における)養子の仕組みからも明らかである。
このような養子システムまでを包括するような家族制度を検討するならば、家族制度のあり方において同性婚はさほど問題にならないと考える。
しかし一方で夫婦別姓の問題なるとこれは断固として反対しなくてはならないだろう。つまり文化的な血縁・血族というものはここにおいて名前という社会的な記号とのみ結びつけることができるようになるからだ。同性婚によっては血縁・血族を軸とする家族制度にヒビは入らないが、夫婦別姓となるとこれを根本的に否定することになる。そしてそのような文化的な血縁・血族を軸にする最小の共同体としての家族制度を破壊する時に家族制度に残されるものがあるとは到底考えられない。故に私は夫婦別姓には断固として反対する。一方で同じ理由によって同性婚の容認にさしたる障壁はないとも考える。
なぜ現代社会において結婚・家族制度は歪みを見せているのか
こういった結婚制度全般に見られる昨今噴出している問題、すなわち現代社会におけるこれら制度の歪みはどこから発するものなのか?
私の答えはこれらはロマンティック・ラブ・イデオロギーによって恋愛の延長に家族が持ち出されてしまったことに由来するのではないかと考える。恋愛は確かに全く個人の自由と裁量に基づいて謳歌されるべき事柄である一方で、家族制度はその在り方からして本来的には当事者個人のみによって自由に裁量できる事柄ではない。社会構築のための最小の共同体の結成というものは、もっと慎重に顧みられるべき事柄だったのだ。しかしこれは戦後日本においては仕方がない側面も少なくないだろう。敗戦国の末路とはまさに今のような事態のことである。
最後に
最後に家族制度がどのようになれば良いと私が考えているかについて様々なものを省略して語ろう。
私は端的に家族制度自体が破壊されることこそが今多くの人々が真に望んでいる事だと理解する。すなわち血縁・血族を軸とした最小の共同体をクッションとしてより大きな共同体と連帯するような在り方ではなく、直接により大きな社会に個人が個人として参画する社会ということだ。このような社会において婚姻制度も家族制度も原理的には全く不要であることは火を見るより明らかである。
私には不可解に見えるのは、なぜ同性婚や夫婦別姓を許容しろと訴えるのかということである。むしろ結婚特権の剥奪を望むというのも、この歪んだ社会を抜本的に改善する道筋なのではないかと考える。