美味しく喰らう

天才とは様々なものを「美味しく喰らう」存在

今しかない今を生きるということ

時間の捻出を頑張らないと行けなくなる程度にはタスクを積みまくっているのだが、にも関わらず今この瞬間において夕飯を食べるという一事を億劫に感じ、仕方なくブログを書いている。
時間を捻出しなくてはならないのは何故なのかという根本的なことを問うことは案外少ないのではないか。そしてそのような問いを立ててみたところで、その原因は時間の本質的在り方の方に対する答えではなく、常にタスクの量であるとか管理の仕方、あるいはそれらを実行に移すプログラムの方に向けられる。
しかしよくよく考えてみれば、ここで時間の本質的在り方の方に対して文句をたれてみても良いのではないだろうか? つまりなぜ我々は一時に一事を為すことしか許されていないのか? あるいはなぜこの時間というのはあたかも直線的に展開しているのかということを。
しかし重要なのは、直線的時間というものは「現在」に対してのみ与えられる特権的な時間の様態であるという点だろう。それは反対に「過去」や「未来」に関してはその直線的な時間様態は必ずしも適用されないということだ。「現在」中心的な時間観は直線時間と切り離すことは出来ないだろう。しかし実際のところ「過去」や「未来」という認識の対象としての時間上に現れるものは空間的な広がりを持っている。これは実存的生の様態と認識対象との乖離としても考えられそうだ。
つまり実存とは主体の主体的行為に関わる以上、時間的には「現在」との折り合いをつける必要に迫られることとなるわけだ。これは一時に一事しか為せないことと重なる。となるとこれは時間の性質なのか実存の性質なのかは甚だ怪しい。もしかすると実存の方の問題かもしれない。だとすると実存の仕方こそが時間のあり方を決定づけるというようなことも言えるかもしれない。
永井均は「〈私〉と〈現在〉」[1]を同構造のものであると喝破したが、私はこの意見には賛同しがたい。認識主体の実在性が根源的であるのと異なり、時間の方はやはりどこまでも認識対象でしか有り得ないのではないかという疑念が拭えない。とはいえ確かにその構造的に相似な地点もあることは理解できるが、やはり時間の構造に関しても認識主体の原理的要請の側から由来しそうに思えてくる。しかし認識主体単体の様相から時間の性質が導出できるのかは怪しい気もしてくる。つまり時間の問題は実存の問題とセットではないかと考えているということだ。実存の問題はどうしたって世界内存在の想定なしには考えられないし、今度世界内存在の側から考えていくとそこでは世界の空間性と時間性はあたかもアプリオリなものとなる訳だが、時間の性質が実存と関わるとなると話はややこしくなるばかりだろう。世界の構造はもう少しシンプルであったとしても怒る神はいないと思われる。
この辺り面白い考察のタネばかりを散らかしたが、現状何としても時間を捻出しなくてはならない私はいい加減夕飯を食う決心をしたのでブログの執筆はこの辺りにしたい。

[1]このカギカッコ内の山カッコの使われ方は永井均の使われ方であって、普段私が使っている山カッコとは全く意味合いが異なる点は断りを入れておかなければ無用な混乱を招くと思うので今ここで断りを入れた。