美味しく喰らう

天才とは様々なものを「美味しく喰らう」存在

人間関係論

この人間関係論を書くことになったのには、私が属するふんわりとしたコミュニティにおいて人間関係に起因する問題が一時期に集中して多発したためである。そこで私の見解を明確にしようと試みたのが以下の文章である。

 

目次

 

本論

 

自分と相手

多少プラグマティックな人間関係論を展開してみよう。倫理規範全般はより適切な人間関係の構築とそこから展開される実存を通して、より善く生きるために必要であるのだから、倫理規範そのものを探るにあたってもプラグマティックな人間関係論が役に立つことだろう。
人間関係において重要となるのは、そこには常に"わたし"と"あなた"が居て、なおかつ相互に眼差しを与え合うということから始まり、関わり合っているという事実である。
"あなた"と関わり合うにあたって、人は"わたし"の全てを見せることは出来ない。そこで見せたいものだけを見せることが重要になる。しかし他方で、"あなた"は多くの場合、"わたし"のうちから"あなた"が見たいと思うものだけを読み込む。
ここで見せたい"わたし"と人が見たいと願う"わたし"の間に差異が生じる。多くの人間関係の失敗はこの需要と供給の不均衡に端を発することとなる。
自分の見せ方というのはひとつのトリックである。特にそれを上手く人に読み込ませるにあたっては、相手が見たいと思う自分を先んじて示しつつ、効果的に裏切り、自分が見せたい自分を提示するのかということが鍵になる。ここで裏切りが効果的に発揮できない場合、それは相手を自分から遠ざけることに繋がってしまう。重要なのは、自らをどのように見せたいのかということを十分に知ることと、自分のことを相手がどのように見たいのかということを知ることだ。これは一般に「自分を客観視する」というような言われ方によって示されているものの内実である。「自分を客観視する」ということは、ひとつには自分で自分をどのように見せたいのか、つまり自分がどのように人の目に映ることが好ましいのかという、自分の目から自分自身を眼差すことであり、またもう一方では相手がいかに自分を読み取りたいと願いまた読み取っているのかということを知る、つまり相手の目から自分自身を眼差すという、このふたつの事柄を同時に取り扱うことを意味する。このふたつのパースペクティブのどちらか一方でも欠けていれば、それは十分に「自分を客観視し」ていない、出来ていないことを意味するし、またそのような欠落した視座に基づく人間関係は脆く危ういものとなるだろう。多くの場合、「自分を客観視する」という行為は相手が読み取りたい自分の探索であるということが忘れられている。というのは、上で挙げたふたつのパースペクティブをひとつのパースペクティブとして考えてしまうためであろう。結果として、相手の目に立っているつもりになりつつも、単に自分が見せたい自分に想いを馳せることになってこの行為が終了してしまうのだ。相手からどのように見えるのかということを考える時に、あまりにも自分が見たいもの、つまり自分が見せたい自分(からの距離)を映し出してしまうのだ。これは多かれ少なかれ仕方の無いことだとしても、適切な人間関係の構築という側面においてはそのような「自分を客観視する」行為は百害あって一利なしである。
この話はまた次のようにも述べることが出来る。つまり、我々が相手のことを眼差し、読み込むにあたり、相手がどのように見られたいと思っているのかを把握しなくてはならない、ということだ。こちらは「自分を客観視する」ことに比べれば、本来格段に容易なことであるはずだが、現実に目を向けてみると、このことも多くの場合、非常に難しいものであることが見て取れる。それは多くの場合我々の「見たい」という欲望があまりにも強力であるということを示唆する。なるほど、ハリウッド映画が人気になるわけだ。ハリウッドの登場人物は、離散的なキャラクター像──それは多くの場合、私たちの「こう見たい」という欲望を満たしてくれる──を、そこから外れることなく演じてくれている。彼らには「こう見せたい」という"わたし"的な欲望がないために、そのようなことが可能なのだ。相手に対して自らの「こう見たい」という色眼鏡が顕著に生じる具体的な例としては、憐憫や冷笑なども上げられるだろう。特に憐憫については過去にその非倫理性を指摘したが、自らの「こう見たい」によって相手の「こう見せたい」から目を逸らすことは、単に相手を見つめないというだけでなく、ズケズケと相手の領域を侵食し、相手の〈他者〉性を奪い去っていくことにも直結するのだ。この侵食作用は、冷笑以上に憐憫においてより見受けられる。冷笑の場合においては、相手から目を逸らし、自分の内側に閉じこもる、すなわち人間関係を終了する可能性がまだ残されているが、憐憫に至っては相手を見つめ続けることが避けられないからだ。当然冷笑においても、相手から目を逸らし、なおも人間関係を取り結んでしまう場合には、自らが作り出した虚像を相手に押し付けるような形で、つまり憐憫と同じように、侵食を開始することになるだろう。相手が見せたいと思う相手を受け取ることは、その色眼鏡を外し、よりオブジェクトレベルで、または既に相手との間に十分に成立しているメタレベルまでに留まった読み込みで、相手と対峙することで容易く達成されるのだ。これすら出来ない者に「自分を客観視する」ことは到底可能な事態ではないだろう。

 

「空気を読む」ことについて

人間関係において常に重要となるのは、相手がどのように見たいと願い、どのように見られたいと願うのかということである。どうすればそのような相手の目線を獲得できるだろうか?
おそらくより簡単なのは、相手がどのように見られたいと願うのかを読み取ることである。多くの場合、これはあまりにも簡単すぎるがために人は自身の能力を過剰に設定してしまい、かえって相手がどのように見られたいと願うのかが分からなくなる。自身の能力を高く見積ってはならない。自分が思っているよりはむしろ表層的に受け取る方が正しいことの方が多いと思った方が良いだろう。表層的な相手の言動を超えた相手の「こう見られたい」という願望を捉えるのは難しいか、あるいは全く不可能なことだ。慮っているつもりになっている時ですら、自身が見たい相手像を投影していることの方が多い。理屈と膏薬はどこにでも付くように、相手の言動から自分が見たい相手像を引き出すことは容易く出来てしまう(し、なんならしてしまいがちだ)。ここで相手の言動を表層的に受け取るためには自身が見たい相手像を投影しないようにすることが重要になってくる。それには我々がどのようにして相手を見たいと願うのか、つまり相手が見たいと思うものを読み取る方法について知る必要がある。
我々が演じるべきキャラクターは相手との関係、あるいはどのような場に属するのかということによって絶えず変化するものだ。相手が何を見たいと願うかはこのような環境要因によって変化し、常に全ての相手が自分に対してひとつの像を求めることはない。全ての人があるその人に対して単一の像を求めるのは物語のキャラクターに対してくらいのものである。(そういった物語のキャラクターであったとしても二次創作等でまた異なる像が提示されれば人は喜ぶものである。) わたしたちは物語の登場人物では無い。わたしたちは現実存在し、その中で生活を営む、多くのわたしたちである。その環境に伴う様々な場において、わたしたちは、常に見せ方を変えなくてはならない。それはそのような様々な場において、相手が見たいと思う像が異なってくるからだ。このように明晰な言説となった時には、これが当然のことのように思えることだろう。そんなことはわざわざ言われなくても分かると思うかもしれない。しかし日常的な自身の言動を振り返ってみるといい。果たして相手が自分をどのように見ようとしているのかということを考えたことがどれほどあるというのだろうか。ここまで来たら次にいったいどのようにして、場の違いを理解するのかということが問われることになる。これはそのままに相手がどのように見たいと思うのかということを理解することに繋がるだろう。
日本語には「空気を読む」という慣用表現がある。場の違いを理解するにあたっては、この言葉が含む示唆は大きい。「空気を読む」ということは時に否定的に囁かれることになる。そんなもの知りようがないであるとか、そんなもの読む必要がないと考える人は少なくないだろう。「空気を読む」ということは確かに不可視的な悪魔への追従のようにも見えるかもしれない。しかしそれは多少幼さを持った考えと言える。どんなに「空気を読む」ということを否定しようともわたしたちは様々な仕方によって自身のうちに不可視的悪魔を飼い慣らしている。もしもわたしたちが不可視的悪魔を飼い慣らせていないのだとしたら、そのような個人は人間関係を取り結んだことがないのだろう。彼がいないのならば、人間関係を形成する契機は全く残されていない。より分かりやすく示すならば、「空気を読む」ことを軽視することすら「空気を読ん」で行われるのだ。「空気を読む」ということは軽視してはならない人間関係上の潤滑油に他ならない。場の空気は、個人が表現出来る幅を時に狭めるものですらある。このことからこの潤滑油的働きを否定するのだとしたらそれは愚かなことである。むしろこの働きこそ潤滑油的機能に他ならない。まさにそのような規制こそが、相手の欲望する眼差しを鮮明に映し出すのだ。「空気を読む」ということは場の把握に直結する。それはまた"わたし"に投げかけられる眼差しを捉えるということでもある。その結果が、多少の窮屈さを伴うとしても、まさにそれこそが人が見たいと思うわたしの像を示しているのだ。相手がどのように見たいと願うのか、これを知るためには「空気を読ま」なくてはならないのだ。
そして重要なのは、この不可視的悪魔は、どのように見たいのかという欲望により生起するが、どのように見られたいのかという欲望によって共有されるということだ(なお、正確には生起と共有とそれぞれの欲望の関係は十分に逆転しうるものではある)。上の段落ではあたかも不可視的悪魔を絶対的な存在のように書き記してみたが、実際のところ不可視的悪魔は常にその様態を変容させる。これはつまり場の空気というものは十分に書き換え可能であることを意味する。当然、全く異なる方向には書き換えられない。この書き換えは言語ゲーム的に行われる。そしてその書き換えにあたっては、どのように見られたいのかということが絡んでくるのだ。見られたい自分を見せるためには、どうしても他の人との関係性が重要になってくる。見られたい自分を効果的に演出するためには、その場の間隙を突かなくてはならないことが多いからだ。当然、演出にはモブに徹するという演出もあるのだから、不可視的悪魔を欺くような演出は常には行われない。場にいる多くの人が不可視的悪魔を欺くことを試みなければ(そして不可視的悪魔を欺くことを認めないことも重要であるが)、不可視的悪魔はあたかも絶対的なもののように君臨することになるだろう。しかしわたしたちが取り持つ広範な人間関係は絶えず不可視的悪魔を欺きながら、場の空気を書き換えていくようなものも少なくない。特に私的な交友関係はこのような傾向がより顕著なものとなるだろう。これは相手がどのように見られたいのかということを把握するに際しても「空気を読む」ことが重要となるということを意味する。「空気を読む」ことが出来ていなければ、相手の言動を表層的に把握することすら失敗し、共有されていない不可視的悪魔──それはつまり自身の持つ浅はかな偏見──に従って、相手に悪魔と共作した相手像を与えることになるのだ。
ここから「自分を客観視する」ことにおいてもその場をよく観察していることが必要になることがわかるだろう。独りよがりな客観視は到底客観視になり得ないのだ。場をよく観察することは常に相手が見せたい相手を把握することを当然に伴う。これを把握出来ないのなら、場を観察できているとは言えないし、翻って自己を適切に分析することも出来ない。当然、「では相手が見せたい相手を必ずしも尊重しなくてはならないのか」ということを問うならば、それは必ずしも必要なことでは無いにしろ、より円滑なコミュニケーションのためには、無碍にすることも許されない。そしてそのために、尊重の必要がないからと言って知らなくてもいいということにはならないのだ。これは「空気を読む」ということに関しても同様であろう。我々は人間関係を取り持つに当たって、相手を、そして場を、知らなくてはならない。これを十分に把握できなければ、見せたい相手を取りこぼすことになる。そうなれば、見たい相手と見られたい相手の不一致は避けがたく、まさにこの不一致において、人間関係は破綻する。人間関係の破綻に際して、その原因が自分にあると自負することは大切であるが、その原因を取り違えるならば、同じ過ちは何度でも繰り返されるだろう。相手が見たい自分を見せられないことに原因があることは少ない。見られたい相手を見ていないことの方が人間関係上の問題においてはより問題となるのだ。そしてそれが分からないならば、相手が見たい自分というものも取り違えている可能性が高いだろう。

 

「普通」と「特殊」

「空気を読む」ということと関連した問題として「普通」/「特殊」の二項対立があるが、特に私的な交友関係においては通常「普通」であることはさほど求められない。この「普通」の重要性は不可視的悪魔が絶対的君臨をみせるような公の場でこそ重要となる。私的な場に置いては不可視的悪魔は欺かれながら、ゲームのルールが変わっていく以上、誰もがトリックスターとしてその「特殊」性を発揮することが期待されるものである。しかしこれは私的な交友関係における形態であって、公の場におけるものでは無いのだから、例え私的な交友関係において一対一の対面で「特殊」な個人だからといって彼が「普通」でないということにはならないし、逆に例え公の場において「普通」であることが求められるからと言って一対一の対面の場において「特殊」であることが忌避される訳でもない。前者は社会を知らない子供じみた発想であるし、後者はあまりにも個々人間の人間関係の構築に欠如した発想であると言わざるを得ないだろう。「普通」にせよ「特殊」にせよ、それぞれに必要となる場はあるし、それはその場のゲームルールに依存するものだ。さらに言えば、これらは比較されて生じるような傾向性であるのだから、その点も無視しがたい。「普通」も「特殊」も「空気」と同じように変容していくものであることを忘れてはならない。「普通」な人が本来的には居ないなどというのはバカバカしい限りであるし、そう考えなくては自身の「特殊」性をも否定されると考えるならそれは呆れ返るしかない発想と言える。
結局、どこまでも人間関係とは見ることと見られることによって形作られる像を一致させる中でより円滑になる。一方的な像の指定は常に忌避されなくてはならない。像は相手との共作によって成長するものなのだ。であるから、相手が見たい像や相手が見せたい像というものを捉え、そこに自身が見られたい像や自身が見たい像を与えて、擦り合わせることが何よりも不可欠である。この作業が決裂を迎えた時には、もはやどちらかが相手から離れる他にもう解決の術はないのだ。そうならないようにすることが望ましいのは言うまでもないことだろう。

 

終わりに

おそらくここに記した私の人間関係論には受け入れ難い内容も多分に含まれていると思われる。しかしそのような点にこそ今後の人間関係をよりよくするために活かせる事柄が示唆されてはいないだろうか?

自身を見つめ直すきっかけとなれば幸いである。