美味しく喰らう

天才とは様々なものを「美味しく喰らう」存在

「私」とはなにか

 「私」。これは私の思想の前提を成す非常に重要な概念である。今回はこの概念を説明していこうと思う。
 この概念は経験的でかつ主観的にしかありえないとしても認識方法の原理的仕組みから画一的に証言できる概念である。すなわち、その視野は常に同じ視点によって切り取られる。
 まずは認識方法の原理的仕組みを確認しよう。認識とは、認識する―されるという関係によって成り立つことは自明な事柄として一定の理解を得られるだろう。そして一般に認識する側は主体、される側は客体と呼ばれることが多い。ただし主体という語は扱う分野が異なる場合その意味するところが変わることが多い。そこでここでは特に認識主体と呼ぶことにする。また客体とはすなわち認識対象のことである。
 実はこの世界全体において認識主体の視点はたった一点しか存在しない。そしてそのような認識主体の視点たる一点、これを「私」という。
 私たちの認識システムは常に認識対象しか捉えることが出来ない。それは私たちの世界(そしてそれはこの世界全体でもある)には「私」(=「認識主体」)を除いては、〈認識対象〉しか存在できないということである。またそれは、常にいかなる瞬間においても客観的視野を持ち合わせないことも意味する。いつでも私たちは自己視点を絶対化する。否、絶対化せざるを得ないのである。それは意識するしない以前の認識主体としての原理なのだ。認識をするという我々が常に行っている行為こそが、常に我々が自己視点を絶対化していることを示している。なんらかを認識する際にそれがあなたの視点でないことなどありえないのだ。今この瞬間もあなたはあなたの視点においてのみ世界を認識する。そしてまた我々が認識外のことを認識することも決してありえないのである。
 「私」とはなにか。その答えは「認識主体」である。しかし、大抵の場合、「私」とは〈認識主体〉である、と受け止められるように思う。しかしそれは明らかに誤りだ。仮に〈認識主体〉であるのだとすれば、そこで語られているのは〈私〉であろう。「私」たちがどのようなモノであるかを語ろうと試みるならば、なるほど「私」たちは「私」を〈私〉に変えて、それを〈認識主体〉と考えるしかない。それはすなわち、非客体を客体化して、それを普遍化するということなのだ。
 厄介なことに我々は主体として「主体のままの私」を見ることは出来ない。「主体のままの私」を知る術として有効なのは、ソレが「何をしたのか」ということだけであろう。これは現象として現れる。観察される現象は客体だが、それは私たちの起こしたことであるから、間接的に私たちを示しうる。そして「私」は常に「認識をしている」のだ。
 「私」たちを「私」たち足らしめているのは、このような認識行為の主体者としての機能を生きている限り常時実行している(しなくてはならない)ことだろう。
 さて、ここまで「私」=「認識主体」がどのようなものかを見てきた中で明るみになったのは、それが"生きている限り"において"認識"を常に行なうということであった。
 そもそも"認識"とは何であろうか。それは"無"を"有"にする能力である。
 しかしながら、多くの場合、"認識"という行為は「既にある何か」の"(再)発見"として捉えられている。しかし"認識以前"にその認識対象(客体)が明確にあったと言えるだろうか。(あなたの)世界に溢れる数多の事象は、全て明確にあなたの認識下にあると言えるはずだ。(その)世界にはあなた(認識主体)が全く認識しないもの(あるいは出来ないもの)は一切存在していないに違いない。(この文章を読んだあなたがそのようなものを想起したその瞬間あなたの認識下にそれらの存在が顕現し、それらの存在はそれらの要件を満たさないものとなる。)
 あなたが何かを新しく認識したとしたら、その認識対象はその瞬間に初めて忽然と世界に現れる。その様はまるでその認識対象がアプリオリに世界にあって、認識主体の側が(再)発見したように見える。しかし問題はその認識対象が果たして本当にアプリオリなものなのかということだ。多くの人は当然アプリオリなものだろうと考えるだろう。しかしよく考えて見てほしい。認識対象が指し示す範囲の広さを。つまり「アトランティス大陸」があるという認識と「ユーラシア大陸」があるという認識の間に差はあるのかということである。現実を認識することと幻想を認識することの間に何らかの差があるとするならば、認識対象がアプリオリにあることを確実に証明することが出来るだろう。また、それらを区別することなく認識対象のアプリオリな実在を証明することが出来るのならば私の述べる認識原理は完全に崩壊するだろう。
 ところが残念ながらそれは不可能である。なぜならばこれまで述べてきたように認識対象は必ず認識主体によって認識されるまで世界に存在すらしていないからである。それはつまり認識対象が認識主体によって存在を確立するということなのだ。あるいは「存在することは認識されることである(注1)」。(認識主体は認識対象に先立つ。)
 例えば中には認識した時には過去にその認識対象があるのだから認識対象は認識主体以前にあるのではないか、というような反論も考えられる。しかし過去の認識対象を認識したのは今の認識主体なのである。そして過去の認識対象を認識することと今の認識対象を認識することとの間にどのような差が認められるだろうか。認識上、過去と現在と未来のそれぞれにある認識対象は区別可能なのか。つまりそれは幻想と現実は区別可能なのかという問題と同じなのだ(注2)。それは時間の流れもまた認識対象であるからである。空間時間の別なく、認識対象全体を指し示す世界そのものが認識対象なのだ。すなわち、「私」は〈世界〉に先立つ。
 認識という行為は世界(あらゆる認識対象)を存在させるということなのである。その主体たる「私」とは(生きてる限り)において常に創造主なのだ。

 

 (注1):バークリーはTo be is to be perceivedと述べたが、私はむしろTo be is to be recognizedと述べたい。

 (注2):これらを実際的な可変性によって判別可能だとする意見が考えられるが、それが可変したのか否かという判断もまた認識主体に委ねられている。可変性によってそれらを区別したところでそれは認識主体の仕事とすることが可能であり、可変であるか不可変であるかが認識対象の先天性に還元されるとは限らない。それは結局認識上においてそれぞれの認識対象の差異を示すことにはならないということを示している。