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シュルレアリスムについて

はじめに

 私はシュルレアリストである。しかしながら私はダダを経由していないシュルレアリストでもある。もっと簡単に述べるならば、私は二十一世紀のシュルレアリストなのだ。
 当然、シュルレアリストを自称する以上、希求されるものはブルトンの定義したあの超現実である。しかし、おそらくその解釈の仕方はブルトンのそれとは多少異なるかもしれない。その点を留意いただければと思う。
 だとしてもシュルレアリスムとは普遍的な芸術運動であるはずだし、私の解釈はブルトンの定義したものよりもシュルレアリスムを普遍的な芸術運動として理解されやすい定義へと読み直されたに過ぎないと確信する。
 その上で、シュルレアリスムが何を目指すのか、超現実とは何かということを理解していただければと願う。
 

1、これまでのシュルレアリスム

 これまでのシュルレアリスムは随分と廃れてしまった。しかし、私たち未来のシュルレアリストにとってのシュルレアリスムは当然あのシュルレアリスムの発展である。
 シュルレアリスムは、フランスの詩人、アンドレ・ブルトンによって創始された芸術運動である。歴史的文脈で見るならば、それはダダの発展であり、ダリたちによって絵画の言葉となったあのシュルレアリスムとも言える。
 ダダの芸術とはすなわち意味の破壊、ニヒリズムを根底に置く破壊的芸術である。ブルトンはそのような破壊的芸術の果てにシュルレアリスムを創始したのである。ブルトンは意味だけでなく統制すらをも破壊した。
 彼はシュルレアリスムについて次のように述べる。

"シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象(オートマティスム)であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書きとり。"[1]

 二十世紀においてはここで述べられる心の自動現象こそが超現実であった。そして、これは絵画の言葉となっても変わらなかった。
 日本ではシュルレアリスムの絵画をシュールなものとして受け取ってきた。あるいは不条理なものとして。しかしそれは誤解に満ちた理解の仕方である。あれらの絵画にはひたすらに「現実」が刻まれているのだ。
 シュルレアリスムはこれまでもそしてこれからも超現実を顕現させようと試みる芸術運動であることは変わらない。故にどのようなシュルレアリスム芸術においてもそこには「現実」が表現される。
 しかし、二十世紀のシュルレアリスムは超現実を見誤っていたのだ。
 

2、超現実とは何か

 私たちがシュルレアリスムをしっかりと捕捉するためには、まず超現実とは何なのかを理解しなくてはならない。超現実というものを作品を通して理解しようと試みたことによって日本においてはシュルレアリスムがシュールなもの、あるいは不条理なものとして捉えらてしまったのだ。これは二十世紀のシュルレアリス厶が超現実に対しての考察を怠ったからでもある。
 超現実とは何か。これは哲学的問題なのだ。そしてこれを正しく理解することなくシュルレアリスムという芸術運動を考えることはできない。
 超現実とは、ありのままの本当の現実のことなのだ。シュルレアリスムの絵画が、あのようなだまし絵のようなものが、現実なのか、と疑義を持つものもいるかもしれない。しかしはっきり断言しよう。あれがシュルレアリスム、すなわち超現実主義に基づく作品であるならば、あれらに刻まれているのは現実でしかない。ただ現実だけがあのキャンバスたちには転がっているのだ。
 ブルトン以下、二十世紀のシュルレアリストたちは超現実を捉えきれてはいなかっただろう。というのは、そもそも二十世紀という時代性による問題でもある。シュルレアリスムは早すぎたのだ。我々の眼前にあるいわゆる現実と呼ばれているものが、意図され企画された造りものであることを彼らは早々に看破してしまったのである。今でもこの事実は一般的な広がりを見せたとは言い難いだろう。
 彼らは眼前の現実の虚構性を早々に見破った。これはダダの頃からだろう。そして彼らはリアリストであることを辞めなかった。この眼前の現実の虚構の奥にある現実、すなわち超現実を求めた。この時、彼らはフロイトに頼ったのだ。この点が彼らの超現実を狭いものにしてしまった。今では私たちはフロイトの結果を知っている。その他の哲学的発展も。そして私たちは超現実を捉え直すことが出来る。より正確に。
 私は超現実というものを次のように規定したいと思う。
 超現実とはすなわち実在のことである。
 実在についての説明は前回の記事[2]を参照していただければと思うが、改めて少しだけ触れたいと思う。実在とは本当の存在、認識以前からアプリオリに有り得る何ものかのことであり、それは不可知な物事である。
 超現実とは不可知でアプリオリな何かである。
 

3、これからのシュルレアリスムについて

 シュルレアリスムは最も極端な形のリアリズムである。シュルレアリスムという芸術運動は上で述べたような超現実を表現しようと試みる芸術運動である。それは現実の限界に挑むことではない。シュルレアリスムは本当の現実、あるいは眼前の虚構的現実のさらに奥をできる限り掬いあげようと試みる熱意である。あるいは、あの忌々しい不可知性に守られた実在を私たちの世界に引きずり下ろしてやろうと試みる冒涜行為のことである。
 シュルレアリスト、すなわちシュルレアリスムという芸術運動に携わるものとは次のような者たちのことだ。
 
1:シュルレアリストは不可能を可能にするために藻掻く。
2:シュルレアリストは前項の目的を達成する手段として芸術を用いる。
 
上記のようなシュルレアリスト、つまり我々の偉大なる先駆の中でも最も新しい人物に私は村上春樹の名前を挙げたい。彼は現代のシュルレアリストである。
 シュルレアリスムは創作でしかなかった[3]。しかしこれからのシュルレアリスムは読み取り方でもなくてはならないのだ。これからのシュルレアリストが自らの作品を示すとき、そこには現実が転がっているのだということを精一杯説明する必要がある。多くの人たちにとって現実は眼前の虚構なのだ。
 

まとめ

 シュルレアリスムは決して朽ちることのありえない普遍的な芸術運動である。シュルレアリスムが目指すものは超現実(=実在)の表現である。

 

註釈

[1]シュルレアリスム宣言・溶ける魚 訳:巖谷國士 (岩波文庫)
[2]https://rize-faustus.hatenablog.com/entry/2021/02/04/181940

[3]最も初期のシュルレアリスムで用いられた技法にはエクリチュールオートマティスムというものがある。これらの作品の読み取りはシュルレアリスム的である必要がある。シュルレアリスムが創作だけに成り果てたのはもっぱら絵画運動と化したシュルレアリスムによってである。

実在について、またその不可知の宣言

 実在は不可知である。今回はこのことを宣言したいと思う。まずはそもそも実在とは何であるかを説明したい。
 
 実在とは何か
 
 世の中では一般的に実在と実存の二語が混乱されているように見受けられる。はっきりと申し上げよう。この二語の差など、実存主義者達の文章を読めば簡単に理解出来る程度には、あまりにも明確なものである。なんなれば、実存は実存主義の文脈としての意味しか持っていないのだ。実存は一般に使うような言葉ではない。実存という語を使いたいのなら、実存主義者のテキストに当たるべきだ[1]。対して実在は極めて一般的な用語として捉えられる。そして厄介なことにこの語は場面によってその指し示す対象を大きく変えてしまうのだ。(あえて重ねて言うが、実存という後はこのような多様性を有していない。)
 もう少し踏み込んで実存について説明する。実存とは「実存する」という一語の動詞の名詞形である。まず先に動詞としての「実存する」がある。この語は「実存」+「する」というような形の二語の組み合わせでは決してないのである。それは、サルトルの「実存は本質に先立つ」がサルトル自身によって「主体性から出発せねばならぬ」とも言い換えられると主張されている点からも十分に読み取れるだろう。あるいは私ならこのように言い換える。すなわち「人は実存すること(=実存)によって初めて人となる」など。(なお、「実存すること」はつまり「実存」という語の指し示すことである。)
 さて、このように実存について理解できると、一般に用いられる実在というものとは全然等しい意味を有していないことは明白であろう。
 実在は実際、大変に難しい概念であるが、その難しさは存在という概念との関係によって生じる。時に存在と実在は全く同じ意味で用いられ、他方では存在と実在の間に区別が設けられる。特に存在と実在が同じ意味で用いることがあることより実在というものが存在と類似した対象を指し示す概念であることが推察される。そしてこの二つが区別される時には一体何によって区別されているのか。これこそが実在の難しさの原因であり、そしてその区別基準が分かれば、私たちは実在について正しく十分に理解できるだろう。
 ここで実在という語の英語訳を示したい。それはrealityである。realityの一般的な訳は現実となる。そう、まさに実在とは現実であると少なくとも英語圏では考えられている。そして度々問題となる命題、すなわち、一体何が現実であると言えるのか、は全く同じように実在にも当てはまるのだ。しかし、現実は存在という語においては問題とならない。それこそがつまり実在と存在とを引き裂く決定的な条件でもあるのだ。
 存在と実在を同義語として用いない場合、存在とはすなわち生じた対象の全てであると言えるだろう。それはつまり、考えられ得る全ての対象は存在している、と言われるような存在という語の使われ方である。この存在という語を以下、次のように定義したいと思う。すなわち、「存在するとは、認識されることである[2]」。
 さて、実在はこのような存在に対してさらなる限定性を要求するような概念である。通常、私たちはアトランティス大陸やメドゥーサやペガサスなどなどを存在しているなどとは言わない。ところが存在を上記のように取り扱うと、これらは存在していると言える。それでも私たちは(よほどの信仰者でもない限り)それらを実在しているなどと言うことはないだろう。見たことのないブラジルのキリスト像や地球の裏側の土地に生きる知らない人のことなどなどを実在すると言ったとしても!
 多くの場合、これらの差異の原因はまさに現実性に希求される。リアルあるいは本当とは何かということがとにかく問題となる。そして多くの場合、無条件にリアルあるいは本当はアプリオリだと考えられている。そしてアプリオリなもの、あるいはアプリオリなものに基づいて形成されるものと考えられた存在こそが実在として取り扱われることになるのだ。あるいは次のようにも考えられる。すなわち、一体何が本当の存在なのかという問題の答えこそが実在なのだと。
 本当の存在! それは一体何を意味するのだろうか?存在するとは、認識されることであった。そして、このままでは私たちはメドゥーサとブラジルのキリスト像を存在として区別することは出来ない。全ての存在は、認識主体に対してアポステリオリになってしまう。本当の存在! 実在はすなわち認識以前に有り得る何かに対して与えられる名だ。私たちに認識されることなく有り得ることのできる何ものかは実在していると言える。それはアプリオリなものだと考えられているし、おおよそ現実とは大抵そのような事柄によって生起していると無条件に考えられているのだ。
 しかし、よく考えられなくてはならない。検討されるべき事柄でもある。私たちの認識とは無関係に有り得ることの可能な実在なる何ものかは果たして、この世界に有り得るだろうか?
 
 不可知の宣言
 
 そもそも本来はこの「世界」というものがどのようなものかということが深く考えられなくてはならない。しかし、その議論は哲学者の先人たちが2000年以上の歳月を費やしてもなお、多くの意見が発表され続ける有り様[3]であり、私如きの一週間で書き上げていく文章の中で取り扱うには膨大で埒の明かない問題である。ただ次のことは端的に言うことが可能であるかと思う。すなわち、私たちはこの世界をどのように捉えるとしても、認識していない事柄は決してこの世界に出現させることが不可能であるということである。(このことは非常に簡単な思考実験によって容易に確認できるはずだ。)
 当然、考え方によっては、その認識している事柄が認識する以前から有り得たと考えることは出来るかもしれない。しかし、そのような考えはどのように考えても実際のところ仮説の域を出ることはない。私たちには、私たちの認識した事柄が認識したことを契機として出現したアポステリオリなものか、それとも認識する以前から有り得たアプリオリなものであるかを判別することは根本的に不可能である。なぜなら、私たちの知り得る事柄は全てが全てことごとく私たちの認識下に置かれた事柄でなくてはならないし、事実そのようなものであるからである。
 つまり、私たちが知り得る事柄というのは存在までが限界である。存在自体はなるほど様々に区分されるかもしれない。実際日常生活上においては区分されているだろう。(私たちはアトランティス大陸を存在しているとは通常言わないのだ!)
 しかしその区分はあくまでも私たち自身の価値に基づく区分である。この区分は決して対象の存在的な性質に由来するものではない。存在的な性質に由来する区分を私たちがすることは不可能である。
 私たちは決して、実在を知ることが出来ない。実在は不可知である

 

 
参考文献
 『実存主義とは何か』 著サルトル 訳伊吹武彦 (サルトル全集 第十三巻)
 

[1]実存主義者の名前をいくつか挙げておく。サルトルハイデッガーヤスパース、マルセル、メルロー=ポンティなど。先駆者としては、ニーチェキルケゴールなどが挙げられる。特に個人的にはサルトルの『実存主義とは何か』は実存主義自体を分かりやすく説明した優れた論文であると考える。
[2]バークリーの提唱した基本原理、「存在するとは知覚されることである」の影響を深く受けている。しかしながら、やはり知覚というものが大変に覚束無いものであることもまた事実である。私は私たちの外界との接点は認識するという行為であると考えているため、バークリーの基本原理に対して少しばかりの改変を加えた。
[3]最近の面白い主張には「世界」は存在しないということを基本原理に据えた哲学的主張もある。詳しくはマルクスガブリエルの著作、『なぜ世界は存在しないのか』(講談社選書メチエ 清水一浩訳)を参照して欲しい。他にも形而上学として考えられてきた世界の概念は多様にあるが、大別すると、イデア的なものか、アルケー的なものになるとも言われている。

価値と意味の違いについて

 価値と意味。この二つの言葉は非常に隣接した領域をそれぞれ支配する。通常においてはこの二語が混用されることは少ないかもしれない。しかしある問題に直面するとき、この二つの語はその領域を重ね合わせることになる。今回はなぜそのようことが生じるのかについて考えたことを吐き出そうと思う。
 さてまず私たちはいかなる場面において価値と意味が混同されるのかを知らなくてはならない。
 私たちは特に意味というものが何であるのかと考える時に、意味と価値を混同するように思う。(逆は少ないのではないだろうか?) 特に無意味な事柄について語ろうと試みる時には価値についての話を避けることは出来ない。何故だろうか?

 ひとまず、価値と意味について辞書[1]を用いて調べてみた。

【意味】

①言葉で表される内容。わけ。意義。

②理由。

③価値。

 

【価値】

①ねだん。

②値打ち

③〔経〕財貨が欲望を満たす性質(=使用価値)。または、財の一定量とかえられる度合い(=交換価値)

④〔哲〕対象が主観の要求を満たす性質。また、精神行為の目標とみなされるもの。

 

ここから分かるのはおおよそ無意味ということを考える際には、上記の二語の主たる支配領域はそれぞれ③と④であろうということである。

 価値と説明されるような意味──それは無意味について考える上で問題となる意味のことである──とは何なのだろうか? これを考えるに当たっては、実際に無意味について考えてみるのがいいかもしれない。
 無意味というものが特に問題となる場面を考えてみよう。おそらくそれは自分にとって意味があると考える事柄について、他者から無意味だという評価を得るときなどであろう。(もちろん、無意味だという評価を自分が他者に与えることもあるだろう。)
 なぜ、自分にとって有意味な事が他の誰かにとっては無意味であるという事態が生じるのだろうか?
 この事態を解明するためには、まず、自分にとってある事柄が意味のあるものになる仕組みを理解しなくてはならない。すなわち我々は如何にして世界に意味を与えるのか、という問題である。
 私はここで構造主義の祖、ソシュールの議論を紹介したいと思う[2]。ソシュールは言語活動を「すでに分節されたもの」に名前を与えることではなく、世界を分節することそのものなのだと断じた。

 

 言語活動とは(中略)もともとは切れ目の入っていない世界に人為的に切れ目を入れて、まとまりをつけることだ[3]

 

そして、そのような分節することによって保持することになる単語の意味の幅を語義(signification)と区別し、価値(valeur)と呼んだのである。
 これは今回の問題において極めて重大な示唆を与えてくれるように思う。ここでは語義(signification)は【意味】①と同じことを表していると考えて差し支えないだろう。ソシュールは言語について述べる中でこれらの概念を示したが、これは私たちが意味を与える時全般に適用できるのではないだろうか。
 すなわち私たちが何かに意味を与えることがどのようになされているのかということが、ソシュールの議論を援用することで分かるのだ。
 私たちが世界に対して意味を与える時には、世界を分節することによってそれを行なうのだ。それはつまり、私たちは特別切り取らない事柄に対して何らかの意味を見出すことが出来ないということも意味する。ここに無意味が問題になる場面が説明される。自分が意味があると考える事柄は、自分の目線からは特別に切り取られた事柄だということである。そして同じ事柄について、他者が同じように切り取るとは限らないのだ。そして、有意味が無意味と評されることになる。
 さて、ではこの切り取りについて考えてみようではないか。無意味が問題になるような場面における切り取りははたして言語活動における切り取りと同じなのか。私の意見を述べるのならそれは多少異なるのではないかと思う。
 言語活動においては、切り取りによって価値が作られ、そしてその中から文脈によって意味(=語義)が確定する。しかし今回問題にした事柄においては、切り取りによって意味が生じているのだ。これは無意味ということが言語活動においてはありえないためである。
 そこで切り取りが何に基づいて行われるのかということが問題になってくる。これを見極めるにあたり、我々はソシュールから学んだ価値と意味の関係を考えるべきだろう。
 言語活動においては、世界の文節によって価値が作られ、それを象徴する単語が生み出される。そしてその単語はある価値を保ったまま様々な文脈の中で意味を確定させている。つまり、価値に基づいて意味が作られる。
 切り取りによって生じる意味も同じなのではないだろうか。それは価値に基づいて生じるのだ。
 ソシュールは言語によって世界が分節されることによって価値の発生を説いた。だが、私たちはこのようにも考えられるのではないか。
 すなわち、価値に基づいて世界は分節されている。
 詳しく考えてみよう。例えば、同じ船(水に浮かび人や荷物を運ぶことの出来るもの)であっても、その種類によって私たちはそういったものを様々な呼び方で呼ぶ。帆船であるとか、客船であるとか、タンカーであるとか、etc etc……。なぜこのような呼び方の違いが生じるのか。一般的な解説においてはその差異によってであるということになるかと思う。確かにそれもある面においては正しいのだろう。しかしこれらの違う名前の船はそれぞれに異なる価値を持つということはそれほど違和感のある話ではないのではないかと思う。そしてその異なる価値によって名前が異なる(=分節されている)のだとすると、分節以前に価値があると言えるのではないかということである。
 さて、このように考えた時、価値と意味の違いは極めて明瞭になる。つまり、価値というのは意味に先行してあると言えるのだ。そしてそのように考えた時、それは極めて高い整合性を持つのではないかと思う。
 つまり、意味というものが価値に基づいてある以上、意味設定に関わる問題において意味と価値が混用されることがすんなりと理解できる。あるいは、辞書の解説において、意味の側には価値についての言及があるものの価値の側には意味への言及がないなどである。
 価値と意味の違いは何か。私は次のように結論する。
 価値は意味に先行してある。意味とは価値によって決定されるものである。
 
 
感謝の意
 この問題について、その発見とそれに対して私がどのように考えているのかということの確認に当たっては、哲学カフェ QUALIA[4]での対話が非常に参考になった。対話において私に知見を与えてくださった皆さんにここで感謝を述べておく。
 
[1]今回用いた辞書は『角川国語辞典 新版』である。
[2]特に参考にしたのは『寝ながら学べる構造主義』(著 内田樹)の第二章である。
[3]前述p66
[4]https://philo-qualia.hateblo.jp/

悪の断罪

 五本の短編。四本の夢と一篇の悪態。
 私はこれらの主題には断罪されるべき悪が含まれていると考える。そこで、ここに断罪のために開示する。
 
 
 
 「無理をする必要は無いよ。」
そのように彼女は僕に囁く。
 僕は彼女の手を取ると、当然のように彼女も応じた。何の変哲もない通学路。電線の奥に青い空が広がる。僕らを追い抜く同級生達。なんというか、その景色は懐かしさを感じさせるものだった。
 「つまり、やりたいことをやればよい。そういうこと?」
僕は彼女にそう聞き返した。
「うーんとね……、それは違うかな。」
 彼女はそういうと手を解いて、小走りに駆けると先に信号を渡ってしまった。信号の向こうで友達と話しながら、あれは待っていてくれているのだろうか?
 押しボタン式信号。黄色の顔の赤い鼻を押して待つ。車が全然やってこないうちに信号が変わる。彼女とその友人達は信号が変わると同時に先へ進んでしまった。走って追いかけるのも憚られた僕は少し後ろを一人で歩く。僕は彼女が違うと言ったことがあまり腑に落ちていなかった。やりたいことをやるのでないならばどういうことなのだろうか?
 彼女はいつの間にか友達と別れたらしい。こちらに駆け寄ってくる。彼女が手を差し伸べる。僕はそれに応じると、また二人は一緒に歩く。今度はさっきよりももっと身体を近づけて。
「さっきのはどういうこと?」
僕の質問に彼女は
「えー」とだけ言うと地面に目を落とす。僕もつられて下を見る。路には都道府県の形をしたタイルが並べられていた。彼女は覚え歌を口ずさみながら、タイルを踏んでいく。僕は彼女と一緒に駆けていく、少し後ろを。どこへ行くのかも分からないままに。
 
 
 
 親の古いアルバムの整理を手伝っていたら、エコー写真が出てきた。そこには確かに二人の赤ちゃんが写っていた。私は一人っ子なはずなのに。母に聞いてみると、一人は死産だったのだと聞いた。性別は女の子だったらしい。僕は驚いたが、同時に少し納得した。なるほど、自分の中にあるもう一つの人格、女性性のあの人格は彼女なのか、と。
 
 
 
 「閣下、ですから第九陸海統合師団の設立を米政府に認めさせなくてはならないのです。日本海に大陸攻撃能力を持つ自国軍を有さないことは本国の国防上重大な脅威となるでしょう。」
 閣下は首を縦に振らない。
 見晴らしの良い高層ビルのベランダ。そこに座す我らが閣下は強力な攻撃能力を有する新部隊を認めてくれない。
 地平線の向こうには富士山がそびえ立つ。青い空の下に我らが領土が広がる。この国を守るためには、強力な新部隊が必要なのだ。
 キッチンでは鍋が沸騰している。中に入っているペットボトルがブクブクとあぶく。
 「どうかご決断を。」
閣下はようやく肯定的な発言をする。
「よく協議してみよう。」
 ペットボトルが弾け飛んだ。
 
 
 
 くたびれたスーツにはやけ酒が良く似合う。金曜日だ。明日は休みなのだから少しくらいハメを外したって構わない。
 自由! あぁこのクソッタレめ。今日はお前に乾杯してやろう。
 このハイボールはレモンが効いて本当に美味しいのだ。狂気。そう、あの自由など狂気以外の何ものでもないのだ。自由! 今、俺がこうしてやけ酒を浴びるのは俺の自由だというのだ。冗談じゃない。別にこの酒は俺が呑みたくて呑んでいる訳じゃない。馬鹿で無能なアイツの尻拭いをさせられたというその現象こそが、俺に酒を呑ませているのだ。
 無責任な啓蒙思想家共め! そしてナポレオン! 彼の名を冠した多少高い酒を彼を罵倒しながら呑む。これほど痛快なこともない。なによりも俺にとって最も幸いなことはその酒に金を払える程度には有能だということだ。だが忌々しいのは、俺が手にしたこの有能さは自由になるためのものであって、無能の尻拭いをするためのものでは無いということだ。
 俺は今、俺に自由をエサにケツをひっぱたいてきたこの社会に対する怨みによって酒を呑むのだ。断じて自由によってなどではないのだ。なんなれば、そこら辺の無能共の方がよっぽど自由な日々を過ごしているじゃないか。俺の自由は何十年後に天から降って来るんだ?
 自由! あぁこのクソッタレめ。今日はお前に乾杯してやろう。
 
 
 
 私たちは失業した。リストラを宣告された。
何故か我が社のエントランスにはハローワークがあり、私たちはそこに行かされた。
 同僚の一人がハローワークの意義を語っている。しかし、彼女は生き残りだ。彼女はリストラされてない。それでも私たちは仕事を探さなくては生きていけない。
 同じくリストラされた仲間が言う。
だから社会保障基本的人権の範疇外だ。と。
 やがて私はハローワークで紹介された場所へ向かった。
 そこは閑散としたところでしかし、神聖な所のようだった。木枯らしが吹き、木の葉が舞う。風に飛ばされる木の葉の動きを目で追うと、一人の巫女のような女性と、馬と鳥とを掛け合わせたような姿で鮮やかな毛に包まれた不思議な生き物がいた。
 巫女のような女性が私の名前を呼んだ。私が返事をすると
 お待ちしておりました。と言う。
不思議な生き物でしょう?でも人を襲うことはないので安心してください。
 私が巫女たちを不思議そうに見ていたからだろうか……? 彼女は不思議な生き物の話をしてきた。
 しかし、私はその生き物なんかよりも巫女の顔に驚いていた。その顔は私が今まで好きになった人の誰にも見えたし、それ以上に美しく見えた。
 私は彼女の名前を聞こうと試みたが、彼女の声は木枯らしの音に掻き消された。
 彼女たちは私を奥の方に案内すると言う。
 馬と鳥とを掛け合わせたような生き物の歩き方は本当に不思議であった。ダイナミックな動きにも関わらず、一切物音を立てない。
 途中、手水舎のようなところがあって、そこで私は身体を清めるようにと言われた。
 冬空の下で、水が体を冷やす。穢れが祓われるとはこういうことだろうか……。そしてさらに歩くこと長く、ついに目的地に着いたと言われた。
 そして刹那、私の意識が消える。暗闇の中、私は彼女の名前を聞こうとした。
 そして、私はもとの会社の高層階で髪を溶かされていた。素晴らしいスーツに身を包んだ私は自分がどうしてここにいて、このような待遇を受けているのか分からない。
 私がその部屋から出て、階下に降りると、そこは吹き抜けで、リストラされなかったあの同僚がいた。彼女は後ろのみすぼらしい社員達にハローワークの意義を語っている。ふと、彼女と目が合った。
彼女は私を見ると深々とお辞儀をした。後ろの人達からは刺すような目で見られる。
 ますます不思議であった。同じくリストラされたはずの同僚もきっちりとスーツを身につけていて、私と共にどこかへ向かうようだった。
 彼は言った。
だから社会保障基本的人権の範疇外だって。と。
 私はどこへ向かうか知らないがどこかへ向かうようだった。そしてエントランスを出る時、どこかで見たような人を見た。
 同僚がどうした。と聞く。
 私は何でもないと言って会社を去った。
 いったいあの巫女は何者なのだろう、そしてあそこには何があったのだろうと思いながら。

「私」とはなにか

 「私」。これは私の思想の前提を成す非常に重要な概念である。今回はこの概念を説明していこうと思う。
 この概念は経験的でかつ主観的にしかありえないとしても認識方法の原理的仕組みから画一的に証言できる概念である。すなわち、その視野は常に同じ視点によって切り取られる。
 まずは認識方法の原理的仕組みを確認しよう。認識とは、認識する―されるという関係によって成り立つことは自明な事柄として一定の理解を得られるだろう。そして一般に認識する側は主体、される側は客体と呼ばれることが多い。ただし主体という語は扱う分野が異なる場合その意味するところが変わることが多い。そこでここでは特に認識主体と呼ぶことにする。また客体とはすなわち認識対象のことである。
 実はこの世界全体において認識主体の視点はたった一点しか存在しない。そしてそのような認識主体の視点たる一点、これを「私」という。
 私たちの認識システムは常に認識対象しか捉えることが出来ない。それは私たちの世界(そしてそれはこの世界全体でもある)には「私」(=「認識主体」)を除いては、〈認識対象〉しか存在できないということである。またそれは、常にいかなる瞬間においても客観的視野を持ち合わせないことも意味する。いつでも私たちは自己視点を絶対化する。否、絶対化せざるを得ないのである。それは意識するしない以前の認識主体としての原理なのだ。認識をするという我々が常に行っている行為こそが、常に我々が自己視点を絶対化していることを示している。なんらかを認識する際にそれがあなたの視点でないことなどありえないのだ。今この瞬間もあなたはあなたの視点においてのみ世界を認識する。そしてまた我々が認識外のことを認識することも決してありえないのである。
 「私」とはなにか。その答えは「認識主体」である。しかし、大抵の場合、「私」とは〈認識主体〉である、と受け止められるように思う。しかしそれは明らかに誤りだ。仮に〈認識主体〉であるのだとすれば、そこで語られているのは〈私〉であろう。「私」たちがどのようなモノであるかを語ろうと試みるならば、なるほど「私」たちは「私」を〈私〉に変えて、それを〈認識主体〉と考えるしかない。それはすなわち、非客体を客体化して、それを普遍化するということなのだ。
 厄介なことに我々は主体として「主体のままの私」を見ることは出来ない。「主体のままの私」を知る術として有効なのは、ソレが「何をしたのか」ということだけであろう。これは現象として現れる。観察される現象は客体だが、それは私たちの起こしたことであるから、間接的に私たちを示しうる。そして「私」は常に「認識をしている」のだ。
 「私」たちを「私」たち足らしめているのは、このような認識行為の主体者としての機能を生きている限り常時実行している(しなくてはならない)ことだろう。
 さて、ここまで「私」=「認識主体」がどのようなものかを見てきた中で明るみになったのは、それが"生きている限り"において"認識"を常に行なうということであった。
 そもそも"認識"とは何であろうか。それは"無"を"有"にする能力である。
 しかしながら、多くの場合、"認識"という行為は「既にある何か」の"(再)発見"として捉えられている。しかし"認識以前"にその認識対象(客体)が明確にあったと言えるだろうか。(あなたの)世界に溢れる数多の事象は、全て明確にあなたの認識下にあると言えるはずだ。(その)世界にはあなた(認識主体)が全く認識しないもの(あるいは出来ないもの)は一切存在していないに違いない。(この文章を読んだあなたがそのようなものを想起したその瞬間あなたの認識下にそれらの存在が顕現し、それらの存在はそれらの要件を満たさないものとなる。)
 あなたが何かを新しく認識したとしたら、その認識対象はその瞬間に初めて忽然と世界に現れる。その様はまるでその認識対象がアプリオリに世界にあって、認識主体の側が(再)発見したように見える。しかし問題はその認識対象が果たして本当にアプリオリなものなのかということだ。多くの人は当然アプリオリなものだろうと考えるだろう。しかしよく考えて見てほしい。認識対象が指し示す範囲の広さを。つまり「アトランティス大陸」があるという認識と「ユーラシア大陸」があるという認識の間に差はあるのかということである。現実を認識することと幻想を認識することの間に何らかの差があるとするならば、認識対象がアプリオリにあることを確実に証明することが出来るだろう。また、それらを区別することなく認識対象のアプリオリな実在を証明することが出来るのならば私の述べる認識原理は完全に崩壊するだろう。
 ところが残念ながらそれは不可能である。なぜならばこれまで述べてきたように認識対象は必ず認識主体によって認識されるまで世界に存在すらしていないからである。それはつまり認識対象が認識主体によって存在を確立するということなのだ。あるいは「存在することは認識されることである(注1)」。(認識主体は認識対象に先立つ。)
 例えば中には認識した時には過去にその認識対象があるのだから認識対象は認識主体以前にあるのではないか、というような反論も考えられる。しかし過去の認識対象を認識したのは今の認識主体なのである。そして過去の認識対象を認識することと今の認識対象を認識することとの間にどのような差が認められるだろうか。認識上、過去と現在と未来のそれぞれにある認識対象は区別可能なのか。つまりそれは幻想と現実は区別可能なのかという問題と同じなのだ(注2)。それは時間の流れもまた認識対象であるからである。空間時間の別なく、認識対象全体を指し示す世界そのものが認識対象なのだ。すなわち、「私」は〈世界〉に先立つ。
 認識という行為は世界(あらゆる認識対象)を存在させるということなのである。その主体たる「私」とは(生きてる限り)において常に創造主なのだ。

 

 (注1):バークリーはTo be is to be perceivedと述べたが、私はむしろTo be is to be recognizedと述べたい。

 (注2):これらを実際的な可変性によって判別可能だとする意見が考えられるが、それが可変したのか否かという判断もまた認識主体に委ねられている。可変性によってそれらを区別したところでそれは認識主体の仕事とすることが可能であり、可変であるか不可変であるかが認識対象の先天性に還元されるとは限らない。それは結局認識上においてそれぞれの認識対象の差異を示すことにはならないということを示している。

はじめまして

皆様、はじめまして。

新年明けましておめでとうございます。

Rize Faustusと言います。

ブログ「美味しく喰らう」へようこそ。

 

とにかく自分の考えていることを世に公開していかなくてはならない

 

私がそのように考えたのは突然ですが、それは必然でした。そして決心が着いたのがこの記事を書いている今まさにこの瞬間でした。

(後押しをしてくれた様々な方に感謝します。)

 

自身の考えを人に伝えるということはとても難しいことです。まして今回私は、私の考えを不特定多数の人々に伝えようと試みようと考えています。

考えを共有させるためには、そもそもその考えをしなくてはならないということを了解させるための、共通の問題を提起しなくては行けません。それは今回の記事では考えを世に発信しなくてはならないということになるかと思います。

 

なぜ、自身の考えを世に発信しなくてはならないのか

 

さて、多くの人が多くの考えを自分なりの考えとして持っていると思います。しかしながらそれを不特定多数の人々に発信しようと試みるものは少ないでしょう。

 

それはわざわざ誰かに言うほどのことではない。誰でも思いつくことだ。

 

このように考えている人は少なくないのではないでしょうか?

しかし共通の問題を共に話し合う場にいざ出てみると、他の人の考えというものは全く自分とは異なるということも少なくありません。それは前提から違う時もあれば、考えの組み上げ方が違うこともありますし、問題の捉え方の違いが浮き彫りになることもあります。

これらは自身の考えを外に発信することではじめて知ることが出来るわけです。

自身の考えを外に発信をすることで、批判を受けることがようやく出来ます。その批判を受けるということが自身の考えをよりよいものにするためには不可欠です。

しかしその批判を受けるためにはやはりまず自身の考えというものを外部に発信しなくてはならない。私はようやくその事に気が付き、ならば何らかの方法で自身の考えというものを発信していかなくてはならないと考えました。

そこで今回、次のような形で、私は自身の思想を皆様に開示したく思います。

 

 

1.ブログ名の由来について

天才というものは様々なものを「美味しく喰らう」存在であると信じます。

そして私はそのような天才になりたいと心から願い、まさにその咀嚼物をこのブログに載せていきたいと考えた次第であります。

 

2.本ブログの方針等について

基本的に上記に則り、美味しく喰らったものを血肉としたもの、すなわち私自身の思想の開陳の場となることを期待しています。

投稿頻度は週一回。月曜始まりの世界暦[1]で日曜日に投稿していきたいと思います。一般的に使われる西暦においてそれは2021年中は木曜日になるかと思います。

 

このような形で皆さまと関わらせていただきたいと思います。

以後お見知りおきを。

 

注釈

[1]世界暦について

詳しくはこちらを参照していただけると良いかと思います。

世界暦 - Wikipedia

また、私の暦に関する考えについて現時点で詳しく知りたいという方は以下の動画をご覧下さい。そのうち文章化するつもりではあります。

【新コーナー!!!】第1回 リゼ雑っ! - YouTube

動画の方は正直聞き苦しい点、分かりにくい点、少なくないかと思います。そのような箇所、ブログや動画のコメントに質問等寄せていただけましたら、文章化しやすいです。興味のある方はぜひ教えてください。

また私自身の暦に関する考え方はこの方から大変に影響を受けております。もしよろしければ参考にしてみてください。

民族暦やってます ░▒▓ファシスト・共栄主義者トモサカアキノリの国粋発展論 ソノ〇五▓▒░ - YouTube

ディストピアは幸福である

 題名は多くの方々に対して衝撃と反感を与えることであろう。
 
 ディストピアとはつまりユートピア・理想郷の対義語であって、そこに描かれるのは自由のない息苦しい社会ではないか。それのどこが幸福だというのだ。不幸に決まっているではないか。
 
 そのような声が多いように思う。
 なぜ私たちはディストピアを不幸なものだと考えるのだろうか?まずはそのことを掘り下げてみる。
 そもそもディストピアとは何であろうか。興味深い研究〔1〕では、ディストピアの要素というものをディストピア作品の分析から探っている。それによると、あくまでも"現在からの観点"ではあるが、そのディストピア要素は「管理」であると考えられるそうだ。そして次のようにも述べられている。
 

 ―ディストピアとは、反理想という意味であり、反理想の基準とは反理想を考えるその時なのである―

 
 ここで言われている「反理想を考えるその時」とは、読み手の現在のことである。
 以上のことから分かるのは、現在、私たちの多くにとって、「管理」されるということが「反理想」であるということである。これはディストピアを自由のない息苦しい社会だと考える説明にもなっている。
 現在の私たちにとってのディストピアとは、「管理」される社会のことである。
 さて、ここで私の主張を言い換えてみよう。
 
 「管理」される社会は幸福である。
 
 一番最初に感じた違和感が緩和された方も少なくはないだろう。しかし現在の理想・反理想の基準を信じる者は、なお強い違和感を覚えるかもしれない。なぜだろうか?答えは明らかである。すなわち現在の理想・反理想の基準がそのまま幸福の基準となっているからである。そして、多くの人々はそれを絶対的、普遍的なものと考えている節があるのではないだろうか?
 先ほど紹介した研究には次のような重大な示唆がある。
 

 ―読み手の置かれる時代・状況が変わった時に、今回提示した要素がディストピア要素であるとは限らない―

 
 ここで一つの有名なディストピア小説であるオーウェルの「一九八四年」について考えてみたい。
 その世界では既に党の価値観は言語を改造してまで徹底的に普及している。私はあの社会はほとんどの人々にとっては既に幸福な社会として十分に機能していると考える。ではなぜ、あの作品世界はディストピアに見えるのだろうか?
 私の回答は簡潔である。主人公スミスが私たちと同じ価値観の元で行動を開始するからだ。ここで主人公を私たちにとっての一般的価値観ではなく、あの作品世界における一般的価値観で見るのならば、彼は単なる一人の社会不適合者としてその姿を浮かび上がらせる(事実、彼は党による矯正を受ける)。多くのディストピア作品の本当のからくりはここにある。
 さて、改めて問う。「管理」される社会は本当に幸福ではないと言えるだろうか?
 このことを考えるためには、私たちは幸福の基準を知らなくてはならない。今、何が幸福のために必要だとされているのか?そして幸福はどうすれば掴み取れるのか?
 まずは現状の幸福のために必要とされているものが何かを考える必要がある。「管理」される社会をディストピア、つまり反理想社会と考える私たちの理想社会とは何であろうか?それはすなわち「管理」されない社会である。つまり「自由」な社会のことである。
 現在の私たちは「自由」な社会こそを幸福だと考えているのである。そのように考えるのは私は単に歴史的経緯によるものであって偶然的で散発的なものであって、幸福についての思考に基づくものではないと考えている。この意見に関しては様々な批判が向けられるだろうが、真に幸福について考えるならば、自由はさほど重要な事柄にはならない。自由と幸福に相関がないとまでは言わないが、自由と幸福が一致するというのもまた偽である。
 なぜここまで「自由」というものが重要視されているのか。その歴史的経緯を考えるに、それは現在の市民社会の発生に起因する。市民社会は「自由」がないことで生命が脅かされたことが成立の決定的要因となった。逆に言えば生命さえ脅かされないのであれば「自由」は幸福にとってはさほど重要な事柄ではない。
 さて、これではっきりしたのは、今の私たちは幸福のために「自由」こそが必要であると考えているということだ。
 そして私の主張は
 
 「自由」は幸福のために必要とは限らない、むしろ「管理」の方こそ幸福のためには必要である
 
 ということである。
 
 ここで重要になってくるのはどうすれば幸福を掴み取れるのか?ということである。
 この問題は非常に多岐にわたり、また先人たちが様々に論を述べており、私は現在それらを充分に参照したと言える状況ではないことを留意していただきたい。その上で私の一個人としての意見を下に記すこととする。
 
 幸福とは状態である。それは「今、ここ、私」から見える様々な要件によって定められる。それを大雑把に分析し、モデル化するならば、
 
 幸福状態=精神的状況/環境的制約
 
 であると考える。幸福状態の値が、より大きくなればなるほど幸福であり、逆に小さければ小さいほど不幸である。環境的制約が負になることはない。肉体という最大の制約を私たちの精神は逸脱できないためである。精神的状況の正負こそが幸不幸を規定する。そして環境的制約はその大きさを制御する。精神的状況が負であるときには人は環境的制約を拡大することによって不幸感を小さいものにする(ex.失恋時に仕事等を増やす)。精神的状況が正であるときには環境的制約が少ない方が幸福感を大きくできる。
 しかしながら、こういった環境的制約がない方がいい状況というのはすなわち精神的状況が正であるときこそなのである。そして自由はこの精神的状況を著しく損なうものである可能性がある。そしてまた、不幸感を得たものに対してはそれをひたすらに拡大させてしまう。
 管理は、精神的状況の安定に貢献し、不幸感の縮小に貢献する。総合的な幸福度は適切な管理下に置かれた人間の方が高いだろう。自由人ほど自殺するものだ。世界への絶望から。
 またこちらも精神的状況に関わると推察されるものだが、これは比較による左右を強く受ける。私たちは互いに比較しあう。誰より私は優れているのかを知り喜び、あの人より劣っていると考え不幸になる。こちらは自由ー管理の軸の問題とは多少離れてしまうが、不幸にならないためにはこういった比較行為をしないことが一番である。しかし我々の承認欲求が満たされるのはまさにこの比較によってであるから、私たちは不幸になるリスクを常に背負い込みながら、承認を満たすしかない。そうなるとやはり環境的制約を事前に用意することは不幸感の減少、リスクヘッジとして機能するのだ。
 最後に、私たちは適切な比較を行うことが出来さえすれば、どのような状況になろうとも幸福でいられる。
 
 私個人としてもこの意見は不完全で吟味不足な点が少なくない。また必要な説明が十全には為されていないため不満足なものである。しかしそれでも現状の私の幸福についての考え方はなんとなく理解されると信じる。
 私は「自由」であることがあまりにも個人の幸福を辛いものにしているという事実から決して目を逸らしてはならないと考える。この国の年間の自殺者数を忘れてはならない。彼らはまさに自由の犠牲者なのだ。

 

参考文献
〔1〕何をもってディストピアとするのか ―ディストピア作品を用いたディストピア要素の分析― 群馬大学2010年 新田