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ディストピアは幸福である

 題名は多くの方々に対して衝撃と反感を与えることであろう。
 
 ディストピアとはつまりユートピア・理想郷の対義語であって、そこに描かれるのは自由のない息苦しい社会ではないか。それのどこが幸福だというのだ。不幸に決まっているではないか。
 
 そのような声が多いように思う。
 なぜ私たちはディストピアを不幸なものだと考えるのだろうか?まずはそのことを掘り下げてみる。
 そもそもディストピアとは何であろうか。興味深い研究〔1〕では、ディストピアの要素というものをディストピア作品の分析から探っている。それによると、あくまでも"現在からの観点"ではあるが、そのディストピア要素は「管理」であると考えられるそうだ。そして次のようにも述べられている。
 

 ―ディストピアとは、反理想という意味であり、反理想の基準とは反理想を考えるその時なのである―

 
 ここで言われている「反理想を考えるその時」とは、読み手の現在のことである。
 以上のことから分かるのは、現在、私たちの多くにとって、「管理」されるということが「反理想」であるということである。これはディストピアを自由のない息苦しい社会だと考える説明にもなっている。
 現在の私たちにとってのディストピアとは、「管理」される社会のことである。
 さて、ここで私の主張を言い換えてみよう。
 
 「管理」される社会は幸福である。
 
 一番最初に感じた違和感が緩和された方も少なくはないだろう。しかし現在の理想・反理想の基準を信じる者は、なお強い違和感を覚えるかもしれない。なぜだろうか?答えは明らかである。すなわち現在の理想・反理想の基準がそのまま幸福の基準となっているからである。そして、多くの人々はそれを絶対的、普遍的なものと考えている節があるのではないだろうか?
 先ほど紹介した研究には次のような重大な示唆がある。
 

 ―読み手の置かれる時代・状況が変わった時に、今回提示した要素がディストピア要素であるとは限らない―

 
 ここで一つの有名なディストピア小説であるオーウェルの「一九八四年」について考えてみたい。
 その世界では既に党の価値観は言語を改造してまで徹底的に普及している。私はあの社会はほとんどの人々にとっては既に幸福な社会として十分に機能していると考える。ではなぜ、あの作品世界はディストピアに見えるのだろうか?
 私の回答は簡潔である。主人公スミスが私たちと同じ価値観の元で行動を開始するからだ。ここで主人公を私たちにとっての一般的価値観ではなく、あの作品世界における一般的価値観で見るのならば、彼は単なる一人の社会不適合者としてその姿を浮かび上がらせる(事実、彼は党による矯正を受ける)。多くのディストピア作品の本当のからくりはここにある。
 さて、改めて問う。「管理」される社会は本当に幸福ではないと言えるだろうか?
 このことを考えるためには、私たちは幸福の基準を知らなくてはならない。今、何が幸福のために必要だとされているのか?そして幸福はどうすれば掴み取れるのか?
 まずは現状の幸福のために必要とされているものが何かを考える必要がある。「管理」される社会をディストピア、つまり反理想社会と考える私たちの理想社会とは何であろうか?それはすなわち「管理」されない社会である。つまり「自由」な社会のことである。
 現在の私たちは「自由」な社会こそを幸福だと考えているのである。そのように考えるのは私は単に歴史的経緯によるものであって偶然的で散発的なものであって、幸福についての思考に基づくものではないと考えている。この意見に関しては様々な批判が向けられるだろうが、真に幸福について考えるならば、自由はさほど重要な事柄にはならない。自由と幸福に相関がないとまでは言わないが、自由と幸福が一致するというのもまた偽である。
 なぜここまで「自由」というものが重要視されているのか。その歴史的経緯を考えるに、それは現在の市民社会の発生に起因する。市民社会は「自由」がないことで生命が脅かされたことが成立の決定的要因となった。逆に言えば生命さえ脅かされないのであれば「自由」は幸福にとってはさほど重要な事柄ではない。
 さて、これではっきりしたのは、今の私たちは幸福のために「自由」こそが必要であると考えているということだ。
 そして私の主張は
 
 「自由」は幸福のために必要とは限らない、むしろ「管理」の方こそ幸福のためには必要である
 
 ということである。
 
 ここで重要になってくるのはどうすれば幸福を掴み取れるのか?ということである。
 この問題は非常に多岐にわたり、また先人たちが様々に論を述べており、私は現在それらを充分に参照したと言える状況ではないことを留意していただきたい。その上で私の一個人としての意見を下に記すこととする。
 
 幸福とは状態である。それは「今、ここ、私」から見える様々な要件によって定められる。それを大雑把に分析し、モデル化するならば、
 
 幸福状態=精神的状況/環境的制約
 
 であると考える。幸福状態の値が、より大きくなればなるほど幸福であり、逆に小さければ小さいほど不幸である。環境的制約が負になることはない。肉体という最大の制約を私たちの精神は逸脱できないためである。精神的状況の正負こそが幸不幸を規定する。そして環境的制約はその大きさを制御する。精神的状況が負であるときには人は環境的制約を拡大することによって不幸感を小さいものにする(ex.失恋時に仕事等を増やす)。精神的状況が正であるときには環境的制約が少ない方が幸福感を大きくできる。
 しかしながら、こういった環境的制約がない方がいい状況というのはすなわち精神的状況が正であるときこそなのである。そして自由はこの精神的状況を著しく損なうものである可能性がある。そしてまた、不幸感を得たものに対してはそれをひたすらに拡大させてしまう。
 管理は、精神的状況の安定に貢献し、不幸感の縮小に貢献する。総合的な幸福度は適切な管理下に置かれた人間の方が高いだろう。自由人ほど自殺するものだ。世界への絶望から。
 またこちらも精神的状況に関わると推察されるものだが、これは比較による左右を強く受ける。私たちは互いに比較しあう。誰より私は優れているのかを知り喜び、あの人より劣っていると考え不幸になる。こちらは自由ー管理の軸の問題とは多少離れてしまうが、不幸にならないためにはこういった比較行為をしないことが一番である。しかし我々の承認欲求が満たされるのはまさにこの比較によってであるから、私たちは不幸になるリスクを常に背負い込みながら、承認を満たすしかない。そうなるとやはり環境的制約を事前に用意することは不幸感の減少、リスクヘッジとして機能するのだ。
 最後に、私たちは適切な比較を行うことが出来さえすれば、どのような状況になろうとも幸福でいられる。
 
 私個人としてもこの意見は不完全で吟味不足な点が少なくない。また必要な説明が十全には為されていないため不満足なものである。しかしそれでも現状の私の幸福についての考え方はなんとなく理解されると信じる。
 私は「自由」であることがあまりにも個人の幸福を辛いものにしているという事実から決して目を逸らしてはならないと考える。この国の年間の自殺者数を忘れてはならない。彼らはまさに自由の犠牲者なのだ。

 

参考文献
〔1〕何をもってディストピアとするのか ―ディストピア作品を用いたディストピア要素の分析― 群馬大学2010年 新田