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女性性一元論

 週一本。2000~3000字程のまとまった文章を書いていこうと考えたものの、毎週毎週テーマを見つけるというのはなかなか難しいものがある。そこで友人に相談をしたところ、「ジェンダー論というものがイマイチ分からん。教えて欲しいのでそれをテーマにしてみろ。」と言われた。私自身の中でもそれほどジェンダー論に関する世間一般の考えが定着していないこともあって、ここ数日その件について考えてみたところ、非常に興味深い思想が自身の根底にあることが判明した。それこそが題名、「女性性一元論」なのである。
 まぁまずピンと来ないだろう。そもそも一般的で素朴な、そして根源的な性理解というものは、肉体性(セックス)の差異として現れる男女を二元論的に理解することから始まる。それは様々なジェンダー論のほとんど全てにおいて通底した考え方であるように思う。それこそフェミニズムにしろ、LGBTのような考え方にせよ、そういった二元論的理解の適用範囲に対するアンチテーゼであったり、二元論から多元論へと展開していく発展系として理解される。しかしながらその根底には根強い男女二元論的思考法がある。
 結局のところLGBTのような性の多様性は、性自認・肉体性・性的対象の性、等といったようなものの複雑な掛け合わせでしかない。その根底にはただ男女という基本的な二性しかない。あるいはただ男女のみがあるとも言える。その要素の組み合わせが単純でないという事実を周知させたという点に置いてLGBTの運動というものは非常に意義深いものがあり、評価に値するが、その根底には男女二元論が依然として根強くあることを理解しておいて貰いたい。
 一方フェミニズムの本来的に主張するところとはつまりジェンダーロール(社会的性)に対して、セックス(肉体性)のアナロジーを持ち込むなという男女二元論の社会的性での適用の拒絶、社会的性における男女二元論の一種のアンチテーゼとして機能する。これもやはり男女二元論を信じていなければ出来ないことである。故にフェミニストの運動というものは様々な形で歪み、その本来形を容易に忘却せしめる。彼らのほとんどは元来、男女二元論者なのだ。
 こうしてみるとフェミニズムLGBTが運動として結び付きやすく、さらにその一般的理解がさらなる歪みをもたらすことが分かる。
 まず抑えておかなくてはならないのは誰も彼もが男女二元論者であるということである。男と女がまずある。
 LGBTはこの男女というものが一個人の中に複雑に分布することを主張する。そしてそれは現行社会の指定する社会的性としての男女とは決定的に噛み合わない。
 現行の社会的性としての男女というものは一個人の中に男女が複雑に分布することを想定していない。全ての個人は男であるか女であるかに分かれると考える。
 これは実は本来的なフェミニズムも了解していることである。現行の社会的性の理解とフェミニズムの社会的性の理解が決して和解出来ないのはそのような男女の差を社会的役割として持ち込むのか否かという点である。フェミニストはそれを認めない。そしてLGBTの主張するような事例は持ち込むべきでないことを援護する格好の材料となる。
 さて、そこで近年は新たな理解形式として、複雑化した性に対して、それをそのまま社会的性として理解しようとする動きがある。ほとんどの主流的なLGBTは自身の性に対する理解が得られるという点でそのことを拒否しない。しかし少数派となるようなLGBTは自身の性と社会的性の不一致から、そしてフェミニストは社会的性の導入が女性にとって不利であることから、反対する。
 しかしそれでも誰もがその根底に男女二元論を持っていることは変わらない。
 これが現在のジェンダーに関する整理された問題系である。これでおおよそ友人の聞きたいことには答えられただろう。多分。
 さて、ここからはこれらを調べていく過程の中で、自分の中に生じた違和感から分かった私の性理解について開示しようと思う。これは相当に私の思想に対して強い影響を与えていた。
 最も強い違和感は、既に散々に述べているように、男女二元論そのものにある。どのようなジェンダー論に関する主張も、その前提に男女というものが違うのだ、対等に違うのだということを述べる。
 私はこれに非常に強い違和感がある。果たして言うほど男女というものは違うのだろうか?と。脳科学的にはおおよそ男女の違いというものは依然として証明されていない。
 しかし男は理性的で女は感情的であると言ったような言説がまるで脳科学的な裏付けがあるかのようにまことしやかに流布している。少し周りを見渡せばその反例などいくらでも出てくるというのにだ。
 あるいはホルモンバランスが云々という説明の仕方で男女の違いがあるとする言説もある。ある程度の関連はあるのかもしれない。しかしそれが全てだとすると、性自認と肉体性の乖離は説明がつかないだろう。
 これらは男と女は違うのだということを主張するために使われているのだろう。そしてそれに関してはほとんど多くの人が同意している。私はとても同意できない。男女の違いなど、肉体、それも生殖器にしかない。それだけだと言うのが個人的な意見だ。
 そして私は本当の意味では男性というものを理解していない。すなわち女性に対して対等に並び立つものとして考えられるあの男性というものについて。
 私の性理解は文字通り、女性性一元論である。世界には、女性と劣女性がいるのだ。残念ながら、この理解では、LGBTの大部分に関して正しく理解することは不可能である。LGBTの大部分の理解は、それを集合的に理解しようとするならば、男女二元論的に扱わなくてはならない。最も最良なのは個人として理解することだと考えるが。
 多くの男女二元論とは、肉体性として対等に男女がいると考える。そしてあくまでも肉体性のアナロジーとして様々な性のあり方が考えられるのだ。
 私はそもそも肉体性としてのペニスを持つもの持たぬものの理解は、劣ったものと完成されたものという理解なのである。多くの人にとっての男性というものは、私にとってはどう足掻いても、劣女性でしかない。文字通り劣った女なのだ。
 結果として私の性自認は女性である。なぜならこの世の性にはそもそも女性しかなく、肉体性はその完成度の差であるからである。
 このような性理解というものが思想に対して相当に強い影響を保持するであろうことはなんとなく了解されるであろう。実際私の恋愛観というものは明らかにこの性理解の中で形作られているのだ。
 最後にあくまでもこの女性性一元論というものは私の性理解であるということに留意して貰えればと思う。そしてまた私が男性を女性と対等なものとして扱うことはなく、個人をそれぞれに対等に扱う時には一切性差を考慮に入れるべきでないと考えている。
 以上の主張をもって今週のノルマが達成されたことを宣言する。