続・我が変化を見る/今を量る審級
暮れ泥む空を見上げると、雲の高いところが西陽に照らされ夏のような白色を鮮やかにする。ふと、ある小説の一説を思い出す。
「きっと十年後、この毎日のことを惜しまない」
果たして、私はこの毎日を十年後にどのような思い出として蘇らせるのだろうか? 今の私はこの毎日を十年後も惜しまないものとして生きているとは思えない。とはいえ、これまで歩んできた全ての日々の中で十年後も惜しまないと胸を張れた日々があったかは怪しいところではある。それでも今から振り返れば人生のいくつかの時期は、惜しむことない日々であったなと思う。
さて、いくら過去が惜しむことのない日々であったとしても、それは結局のところ美化された思い出に過ぎない。問題は今がどのような日々なのかということなのだ。
今日この日が良き一日であるか否かということを量る審級として、十年後、この毎日を惜しまないと言えるのかどうかというのはひとつの良い判断基準になるように思う。未来に恥じない日々を今進むこと。一方で、この同じ問題に関して、次のような見方もある。
我々には、高校時代で縁が切れてしまった仲の良い友人であるところのKくんがいるのだが、高校時代から付き合いのある小説家の卵先生に先日、今の君をそのKくんが見た時なんというだろうかという苦言(?)を呈された。これもまた今日この日が良き一日であるか否かを量るもう一つの審級であろう。過去から指さされない日々を今進むこと。
今という時が、時間軸上の両端で未来と過去に繋がっているというのは、ひとつの幻想に過ぎないのかもしれない。しかしこの幻想を受け入れるならば、未来と過去はそれぞれに今日この日を律するひとつの審級として機能し始める。この機能のために幻想を信じるならば、その態度はプラグマティックなものであるという批判こそあれど、悪いことは無いのかもしれない。あるいは仮に時間軸上の両端に未来と過去がなかったとしても、今日この日を対象として断じる視点は何時でも我々の審級として、我々の今日を実りあるものにすることを期待しているのだろう。
良き日々を過ごせるように、少なくないできることを、一つだけでも積み重ねることが出来るのなら、我々の生は多少なりとも救われるのかもしれない。