目次
- 第二巻
- 2-1(自己、社会、選択、経験)
- 2-2(ヴァナンフト、ヴァンズム)
- 2-3(ソクラテス、イエス)
- 2-4(なにか)
- 2-5(偉大なる独裁者、矮小な代表者)
- 2-6(ニーチェ、終焉)
- 2-7(変化、いらだち)
- 2-8(普通、マジョリティ)
- 2-9(いらだち、反省)
- 2-10(変化)
- 2-11(水1杯の幸福)
- 2-12(幸福、肉体、精神)
- 2-13(幸福の大小)
- 2-14(幸福、瞬間)
- 2-15(少女、みんな)
- 2-16(瞬間、変化、法則性)
- 2-17(正しさ、変化すら変化する)
- 2-18(拠り所、逃避)
- 2-19(マタイ伝、幸い)
- 2-20(ニート、泣き喚く子供)
- 2-21(幸福、逃げろ)
- 2-22(偏見、夜泣き爺)
- 2-23(自分自身は経験の集積体)
- 2-24(絶対性、主観、意識)
- 2-25(未来の変化、気持ち悪い、愚かな人々)
- 2-26(目の前、恋愛)
- 2-27(弁証法──変化、発展、生──、自己の構造)
- 2-28(雨)
- 2-29(言葉)
- 2-30(アルタイ神話)
- 2-31(激怒)
第二巻
2-1(自己、社会、選択、経験)
人の歴史。
その差は埋められない。
個々人が決して同質にならないのは個々人のその僅かなズレがその歴史に現れる選択肢の確率を変えるからだ。
我々の本質は我々自身が何を選択したのかなのだ。
つまりそれを最もわかりやすく言うのであれば経験したことだと言えるだろう。
つまり我々とは我々自身が経験したことの集合になるのだ。
そして経験は決して同一にはなり得ない。
いくら社会から差が無くなろうと経験は同じにはならない。
こうして見えてきた人の本質は過去に目を向けたものとなった。
人はその存在定義を過去に求めるしかないのだ。
我々が今後我々自身を形作ることは予測しうるものでは無いのである。
自己の内面を見つめればそれを正しく見つめるのであれば数多の過去がほじくり返される。
そしてそこには隠してしまいたいもののなんと多いのだろうか!
故に人は内面を見つめたくないのだ。それは過ぎ去った自分に対する反省を促してしまうから。
だが、過去は事実だ。そこから学び取れるものは多いが過去を悔いる必要はないのだ。
私は私を過去に見つけた。経験の蓄積の中に見つけた。
社会の関係性の結び目でも無く、社会そのものでもなく、社会に影響されていることを否定はできないが、それが多かれ少なかれ歪められた自己の経験の中に自分自身を見つけたのだ。
社会は私を定義しようとするだろう。
だが、私たちは私たち自身の経験によって定義されるという。
ならば社会と経験にはなんらかの関係があるように思われるのは、私だけなのだろうか?
これを解き明かそうと望むなら隠してしまいたいような過去の経験も含めて自己と社会を結びつけるのもまた一興かもしれない。
だが、過去を思い出すのは容易くない。だから私は今後経験したことの社会的制約を考えてみようと思うのだ。(9月27日)
2-2(ヴァナンフト、ヴァンズム)
昔ある所に2人の者がいた。
1人は名をヴァナンフトと言い、自らの幸福を二人の関係の崩れない範囲で望んでいた。
もう一人は名をヴァンズムと言い、常にヴァナンフトの幸福を願っていた。
ふたりの間にはほとんど問題が無かった。
時々ヴァンズムがお節介過ぎたり、ヴァナンフトが自分勝手過ぎたりしたが、ヴァナンフトが文句を言うことはあってもヴァンズムが何か文句を言うことは無かった。
ある時彼らの住む家を大きな地震が襲った。
ヴァンズムはヴァナンフトを救い出すことは出来たがその体は崩れた家の下敷きになった。
しかしヴァンズムはヴァナンフトを救うことが出来ただけで満足だった。
ヴァナンフトは悲しんだ。
そしてヴァンズムが事切れた時彼はヴァンズムになっていた。(9月27日)
2-3(ソクラテス、イエス)
ある所に一人の人がいた。
名をソクラテスと言う。
彼は彼の知る全ての世界を知り、彼の知らない世界を知らないということを知った。
しかし彼は彼の知る世界を知ったつもりになったと思ってしまっている。
そこにナザレのイエスという人が現れて言う。私は全てを知ったと。
ソクラテスは言った。あなたは世界を何も知らないと。
イエスは言う。ならばあなたは世界をすべて知っているのか?と。
ソクラテスは言う。無知の知こそ世界を知るすべなのだと。(9月28日)
2-4(なにか)
ある人がいた。
彼は「なにか」を目指していた。
彼はその「なにか」を他者から与えられていると考えている。
別の人が問う。その他者は何者か?と。
彼はこう答えた。
私たちにはわからない存在だと。
別の人はまた聞いた。
なぜわからない存在が「なにか」を与えたと言えるのか?
彼はこう答えた。私たちは世界の全てを知ることは出来ないのだと。(9月29日)
2-5(偉大なる独裁者、矮小な代表者)
ある1人の偉大なる独裁者がいた。
彼は彼の愛する人民を守るため、彼の愛する人民に仇なす障碍者と他民族を惨殺した。
そして彼はついに考えた。
彼らを守るため世界に地獄の業火を撒き散らさなくてはと。
ある数人の矮小な代表者がいた。
彼らは彼らの世界が偉大なる者の火によって焼き尽くされることを恐れた。
彼らは彼らの地位を守るため、大義名分を持ち出した。迫害されることを恐れた。
結果は皆の知るところである。
世界は常に矮小なものに有利に働く。それは矮小なものはその小さな自己を守るため、時に大きな力を持つからだ。(9月30日)
2-6(ニーチェ、終焉)
今は見えないこの不穏な動きが雷鳴となって天地を切り裂き人を喰らう。
近世の、否中世の終焉が1歩また1歩と近づいている。
君も気づいているだろう?
見えないなにかが大きな力を持とうとするこの胎動の音が。
新たな世界の始まりの音が、古い世界の終幕の音が、遠くから近くから私たちに話しかけるのが。
怖いか?今までが終わりこれからが来るのが。
怖いんだろう?変わりたくないんだろ?
でもそう思っている君たち自身が稲妻を呼び起こし、新たな世界を作るんだ。
変化を畏れるのは当然だ。それは異質で凶悪なものに見えるから。
現状という安住の地を捨てることを拒むのは動物として当然だ。
必要に駆られなくなればそれを求める。
だから君たちが変わる必要は無い。
今考えていることを私は否定しない。
それは私が考えていることでもあるから。
私はただ、預言するだけだ。預かった言葉を呟くだけだ。
それは先の世界を顕にする。
我々は変化を畏れ、差を嫌い、いずれ差のない世界が訪れる。
だがその中で私たちには見えない差が広がりつつある。
それを感じている人も少なくないだろう。
差のない社会は変化した社会だ。
我々は新たな差を求めるだろう。
その時我々は雷鳴を聴く。
想像だにしない変化が激流となって我らを呑み込み全く知らない世界へと打ち上げる。
そして一つの時代が終焉を迎えるのだ。
かつて行われてきた、人の営みは今も尚それを行おうと準備を進めている。
それを感じながらも知ることは出来ない。分からない。
それは我々の感覚では見れないから、聴けないから、触れないから。
魅せられ、触られ、語りかけることはあっても、今に強く執着するなら分からない。
微かなでも大きな何かが蠢いている。
私には何もわからない。
分かるのはただ一つ。
先にあるのは変化だということ。
変わることを恐れない方がそれが訪れた時、君を救うのではないだろうか。
でもそれを望みすぎて自ら動こうとしてもそれは何も生み出さない。
変化を求めるな、変化を畏れるな、変化を待つのだ。静かに待つのだ。
今に順応し、今をより強く、より進めることに重きを置くのだ。
我々の社会は終焉の入口にいる。だが、終わりは始まりだ。
過去が潰えて新たな何かが生まれる瞬間をこの目で見たいとは思わないか!
不安、恐怖。気づいたけれど知らない何か。知りたいけど届かない。我々は待つしかない。
それこそ恐怖を感じさせる最良の方法だと言うならば我々は何を望もうか...(9月30日)
2-7(変化、いらだち)
結局のところ、やはり私たちには変化の問題が影のように付き纏うらしい。
そして同時に私はある人を見て、彼の中の恐怖から、特殊性の問題も感じている。
さらにこの二つにはなんらかの関係があるように思えてならないのだ。
また、私は別のところで別の問題を考える。
他者に対して「わかった気になるな」と言う心理を持ったことのあるものは少なくないだろう。
だが果たしてこの心理は何に起因するのだろうか?
そしてこの三つの問題の共通項は自らと他者の間にある埋めることの出来ない差(私はそれを「異質さ」と呼びたい)であると思わないか?(10月2日)
2-8(普通、マジョリティ)
ではこれらの問題を見ていこう。
私はこれらを一つ一つ見たいと思う。
まずはある人の恐怖から見える特殊性の話をしてみよう。
彼は「普通でない」ものに対してそれを主張することを認めない。
彼は「普通でない」ものを声高らかに主張する人を憎み、恐れ、弾圧することを欲している。
私は彼に聞きたい。
マイノリティーだからと言ってそれは「普通でない」と言えるのか?と。
彼はマイノリティーに対しても同じように考えているように思える。
マイノリティーと「普通でない」ものを同じように見ているように私は感じる。
だが、それらは違うものだ。
この世界には普通でないマジョリティのなんと多いことか!
特殊な人に対する弾圧したいという意識は私には(私の積み上げてきた人生観から)妬み嫉みやっかみであり、本質的には恐怖から来るものだと思うのだ。
彼は彼自身の中に内在する特殊性も含めてそれが自らとその周りの社会を壊すことを恐れているのではないだろうか?
自らの言動が世界を変えてしまう可能性を省みずに。
あくまでもこれは私の推測であり、やはりまだ探求する必要を感じる。(10月2日)
2-9(いらだち、反省)
次に他者に対して「わかった気になるな」と思う心理を抱くという問題を思考しよう。
私は私を観察された時にそれに対して反感を抱いた。(前段のそれもそうなっているのだろう。)
私は私自身ですら私を知らないというのに如何にして他者が私を知ることが出来ようか?
しかし考えてみよう。
他者は私からは見えない私を見ているのだと。
だとすれば私自身に生じたあの心理は一体なんと不合理極まりないのだろうか!
しかしそれを抱くということはなんなのだろうか?
他者が自らに入り込むことに対して拒絶しようとするのは自然なことではないだろうか?(10月2日)
2-10(変化)
変化。変わること。ある状態から別の状態にかわること。
変わる。違うこと。違うことは怖いこと。
それを私たちは拒絶する。
自分が自分でなくなると思えるから。
変化。私たちに影のように付き纏う。
しかし、君たちは全く変化を経験したことが無いだろうか?
そんなことはないだろう。
そして君たちは変化した後にそれを恐れただろうか?
そんなこともないだろう。
変化に対してその前の時が私たちは怖いのだろう。(10月2日)
2-11(水1杯の幸福)
もし、君が幸福を望むなら、目の前にある安寧の濁流の中で泥を啜って生きるといい。
もし君がそうなる前に、思考することを学んだのならば、そしてそれでもなお幸福を望むなら、幸福について考えてみればいい。
ホントの幸福は一つではない。それは間違いなく人の数だけ存在するだろう。
君自身の幸福を見つけてみろ。
思考し行き着いた君自身の幸福が死だというならそれもやはり幸福なのだろう。
君は幸福が欲しいか?
幸せが結局現実にしか訪れないなら、私たちは今この瞬間の現実から逃げられない。でもこの思考だってその他多くの物事が現実からの逃避として機能している。
現実の実在を調べる必要があるのか?それとも現実逃避ですら現実なのか?いや、今は現実を議論するべきではない。幸福の話なのだから。
水1杯飲むことが出来れば、幸福を感じることの出来る人がいる。
億千万もの財産を築き上げてもなお幸福を見つけられない人がいる。
私は水1杯の小さな幸福を求めながら、億千万ものの富を築こうとしてはいないか?
君は水1杯の幸福を幸福だと感じないのではないか?(10月2日)
2-12(幸福、肉体、精神)
幸福は欲求が満たされることで訪れるのだろうか?
幸福は達成感と同義なのだろうか?
たぶん、これらは正しいのだろう。
肉体と精神は切り離せないのだ。
これらを別個にして幸福を考えることはできない。
幸福は肉体の欲求と密接に関係するのだろう。
それは精神の達成感と同じように感じるのだろう。
しかし幸福はそれを単体として私たちに語りかけてこないだろうか?(10月3日)
2-13(幸福の大小)
果たして幸福に大きさはあるのだろうか?
それは他者の幸せを知り、相対化しなくては現れないのではないか?
君自身の中にある複数の幸福を比べているのだろうか?
君自身の幸福はどの幸福も同じにはならないというのならば、その時最も小さな幸福は幸福と言えるのだろうか?
私は私自身の幸福を見つめないといけないだろう。(10月3日)
2-14(幸福、瞬間)
今、君は幸福だろうか?
もし君が幸福であるならば、君はその瞬間を愛するだろう。
そしてその瞬間が永遠であることを望むのではないだろうか?
逆に君が幸福でないならば、君はその瞬間を憎むだろう。
でも君はその瞬間から逃げ出すだろうか?
君は結局瞬間を変えることを億劫だと思うのではないだろうか?
怠惰な中で幸福を望むのではないだろうか?
それが大衆と呼ばれる存在ではないのだろうか?
怠惰な幸福は楽であるという点において最も優れている。
幸福そのものを苦労を経ずに手に入れるという点において最も幸福だ。
私はそんな幸福をせめて1度味わってみたいと思う。
でも、きっと私にはそんなことは出来ないだろう。
私は瞬間を変えたいと望んでいるのだから。(10月3日)
2-15(少女、みんな)
今、一人の少女がいる。
彼女の周りでは明日のテストの事やゲームのことなどその日その瞬間についての些細な情報が音声データとして飛び交っている。
彼女はそれらの情報に耳を傾け、適度に作り笑いをする。
でも、彼女はこの情報を飛びかわせている「みんな」がなぜ心底楽しそうに笑っているのかは分からない。
彼女は今が嫌いだった。
常に未来を夢想していた。(10月3日)
2-16(瞬間、変化、法則性)
世界は瞬間瞬間に絶えず変化している。
君自身も瞬間瞬間によって変化している。
私たちが「絶対」あった。と言えるのは「過去」だけではないだろうか?
確かに過去を見ればそこには何らかの法則があるように見える。
暫定的な法則性は確かに成り立っているかもしれない。
しかしその法則性はいつ破られていてもいいのである。
その法則性が絶対であることを証明できるだろうか?(10月4日)
2-17(正しさ、変化すら変化する)
結局、正しさも絶対も所詮主観でしかない。
私たちは私たちの正しさ、絶対性を自己自身の内側にしか見い出せない。
私たちの外側は(内側ですら)変化し続けている。
むしろ、変化は絶対なのかもしれない。
いや、変化すら変化するのだ。
常に保証されるものはない。
ならば私たちに拠り所はあるだろうか?(10月4日)
2-18(拠り所、逃避)
私たちはなぜ拠り所を必要としなくてはならないのだろうか?
一つ何か保証された絶対があることで得られるものはなんだろうか?
変化に対して自らを閉ざし、逃げた先に何があるのだろうか?
ましてや考えることを生業としている君は逃げていることを自覚しているではないか!
変化に対してそこまで分かっていながらなぜ君は逃げるのか?
君はもう気づいているだろう?
逃げた先には何も無いことを。
君が君自身の幸福を望むなら、変化そのものを考えてみることだ。
君の救いは君自身が生み出すことでしか現われないし、君はそれを思考の中で見つけるに違いない。
君は普遍や絶対や正しさを強く求めている。
だからこそ、君自身は虚しさを感じているのではないか?
それが存在しないことを知っているから。
そして、その存在を強く信じられる人々に憧れる。
でも君はその人たちではない。
君は思考することを知っている。
君は思考を止める幸福を得られない。
君は思考の中で変化を見つめない限り、救いを見い出せない。
私とともに考えよう。
考えた先に救いがあるだろうから。(10月4日)
2-19(マタイ伝、幸い)
思考をしない人は幸いである。
彼は恐怖をそばに置かなずに済むのだから。
目の前を生きる人は幸いである。
彼女に先を見る必要は無いのだから。
その場しのぎな生き方をする者。
彼は不幸を知らないから幸いである。
生きることに夢中なものは幸いである。
生きることそのものを知ることが無いのだから。
知る者は不幸だ。しかし幸いである。
彼は幸福を得ることはないが、智慧あるものになるのだから。
先を見ようとするものは不幸だ。しかし幸いである。
彼女は虚しくとも、変化を受容するだろうから。
考えるものは等しく不変の檻に捕らわれる。
不変の中に絶望や希望や幸福や不幸を見る。
彼らはみな、恐怖する。
しかし、何らかの方法でそれを克服するだろう。
考えるものは考え続けた先に幸福を見る。
そこまで辿りつけるものが少ないこの世界のなんと残酷なことか。(10月4日)
2-20(ニート、泣き喚く子供)
そうか、人は来るべき変化に対してすら、極度に拒絶するのか。
そんなに怖いか!
自らを取り巻く社会が変わることが!
自分自身が大きく変わることが!
やはり、人は本質的にニートなんだろう。
世界が語りかける思考の声に耳を塞ぐ。
来るであろう嫌な未来を目を瞑って無いものにしようとする。
私には、嫌だ嫌だと暴れ、泣き喚く子供が見える。
まるでサンタクロースがいると思っていたのにいないことを知った赤ちゃんのようだ。
欲しいものを買ってもらえないから泣き喚く子供だ。
思考を放棄し、得られる幸福は子供のソレのようなものだろう。
あぁなんて幸せなのだろうか!(10月4日)
2-21(幸福、逃げろ)
聞きたくないものには耳を塞ぎ、
見たくないものからは目を逸らし、
臭いものには蓋をする。
そして君たちは幸福になる。
なんと簡単なそして楽な幸福だろうか?
それよりも幸福なことがあるだろうか?
そして誰もがそんな幸福を幸福というのだ。
私だって。
思考し続けることで、かえって思考を放棄するのだ。
逃げるがいい。
脇目も振らずに逃げるといい。
現実から。嫌なことから。
逃げて逃げて逃げ切れるなら逃げ続けろ!
ドンと構えていても、飲み込まれ、それは君じゃなくなるというなら、君を殺さないためにも逃げるがいい。
さぁ逃げろ、逃げろ、逃げろ!
私はきっとそれを嘲笑してやる!(10月4日)
2-22(偏見、夜泣き爺)
先ほど私は泣き喚く子供と言ったが、それは老人のような子供だ。
頑固で、偏見の中で世界を見る。
夜泣き爺という妖怪が日本にはいる。
まるでそれのようだ。
君たちは君たちの中に夜泣き爺を飼っている。
いずれその夜泣き爺によって呪い殺されるだろう!(10月5日)
2-23(自分自身は経験の集積体)
さて、ある人は変化することは自分自身を殺すことだと言った。
確かにそういう側面もあるかも知れない。
しかし、私は自分自身をどのように定義しただろうか?
私は自分自身は過去の積み重ねであり、経験の集積体だと言ったと思う。
ならば変化に対してそれを拒むことは、経験を得ることを拒むことであり、自己の完成を意味することにならないか?
その時、君は死んでいるのと何が違うだろうか?
今ここに生のない人は経験を得ることは出来ず、その人自身が完成している。
変化を恐れ、拒むことは君自身を殺すのだ。
君は結局変化の中に埋もれてしまうのだ。
昨日の君は今日の君ではない。
明日の君は今日の君ではない。
だが、君は生きている。
昨日の君と今日の君と明日の君が同じなら、やっぱり君はどこからどう見ても死んでいる。(10月5日)
2-24(絶対性、主観、意識)
絶対性など存在しない。
あるとすればそれは主観の中においてのみである。
あるとすればそれは意識の中においてのみである。
君の主観、意識の中には絶対があるかも知れない。
しかしその絶対を規則や構造に突き落とした時、それは絶対性を失う。
故に宗教は空虚な欺瞞である。
信仰は自己の内にしか確立できず、教会も寺もモスクも君の目線でしか神聖なものでは無い。
しかし、逆に言えば、誰もが自分自身の信仰を確立出来るのだ。
但しそれを他者と比べない限りにおいて。
他者と信仰を比較する状況を作ってはならない。
それはつまり他者と信仰を共有したり区別することであるが、それを行なった時、君自身の信仰は脆く崩れ去る。
君が変化を恐れて、それを拒むなら、君は他者と関わることを辞めなくてはならない。(ここでの他者は自然環境やひいては自分自身すら他者となる。)
結局君は死ななくてはならない。
ここまで考えたことのない人はまだいい。
彼らは自分自身の変化を見つめたことは無いのだから。
ましてや社会の変化を憂い、自分自身の変化に恐怖し、果ては死にたいと望むだろうか?
君は君よりも思考することを知らない人よりなぜ不幸である必要がある?
君は君自身の幸福はここを越えた先にあるのになぜここで世界に絶望し、死ぬことを望むのだ?
思考を始めたが最後、私たちはついにそれを放棄できなくなる。
結局私たちは変化そのものになればいい。
私たち自身だって常に変化するのだから。(10月5日)
2-25(未来の変化、気持ち悪い、愚かな人々)
未来の変化を恐れるのはなんと馬鹿げた話だろうか?
なぜそれを悪しきものと断定できるのか?
遠い未来の変化を今から見て怖がるのに近い変化に対してはそれを感じすらしない。
にも関わらず遠い未来を嘆く人々のなんと気持ち悪いことか!
今が大好きでそれを守ろうとする改革のなんと気持ち悪いことか!
変化に対してそれを拒みながら変化を引き起こす姿は滑稽でまた気持ち悪い。
智慧のない、思考を見ない人々が気持ち悪い。
その癖、思考を見た気になることのなんと愚かなことだろうか!(10月5日)
2-26(目の前、恋愛)
あぁ目の前が愛おしい。
私はあの人が隣にいるだけでなんと幸福なのだろうか!
私は追い立てられ、何かをやらされている時ほど幸福な時はないと思う。
君はその時その瞬間、目の前を攻略するだけでいいのだから。
君は常に変化した後の未来を憂い、恐怖する。
そして変化しない未来を夢想して、死ぬ。
馬鹿馬鹿しいとは思わないか?
なんと不毛なのだろう?と。
君が今、幸福のために(または死にたくないと望むなら)やることは次の二つの道のいずれかだ。
一つは思考を止め、目の前に埋没する道。
もう一つは思考を続け変化を受け入れる道。
結局君は君自身が変わるしかないのだ。
世界は誰も見ていない。ましてや君を見るだろうか?
君は世界に囚われることを止めるといい。(10月5日)
2-27(弁証法──変化、発展、生──、自己の構造)
私たちは今過去を見た。
自らを知るために。
かつての経験を探った。
私たちは変化し、それによって成長する。
私は経験の積み重ねを指し変化と言う。
変化を恐れる時、君は今まで得た経験を否定されることを恐れている。
しかし、君、弁証法なるものを知らないか?
私たちは変化をもってジンテーゼを手に入れれば良いのだ。
君が変化を克服する時にそれは常に行われているに違いない。
私たちの変化は何かを捨てることで得るという態度ではない。
私たちの変化は形成された自己の構造と聴こえてくる他者の構造の融合に他ならない。
確かにかつての自己の構造は変質するだろう。
だが、それは自己の死なんて言えるだろうか?
社会もまた同じである。
遠い未来の社会の構造が今と大きく違うからと言って、今の構造が消失する訳ではない。
構造そのものに意味がある訳ではない。
それはただの事象であり、事実なのだ。
私たちの本質(それはつまり誰もが持つ初期構造を指して言う)は「生」という点なのだ。
そして君自身の本質は常に変化するのだ。
君が恐れていたものが虚無なものだとは思わないか?(10月6日)
2-28(雨)
雨。
しとしとと降るソレ。
湿った空気。
重い空。
灰色の天空。
ビニール傘に打ちつける雫は、
ますます私に考えさせる。
君は雨を知っているか?(10月6日)
2-29(言葉)
私は言葉を失う。
生み出したモノは消え、
記憶の海に沈み込む。
私はソレを取り出しているだけなのだ。
生のソレを君たちには教えられないのだ。
言葉は全てを教えてはくれない。
だが、そこから考えることはできる。(10月6日)
2-30(アルタイ神話)
私は彼女に束縛される。
彼女が望むか否かに関わらず。
女性は常に我々の支配者だ。
我々は支配してると思うもの、そして支配したいと思うものにこそ支配される。
我々は自ら道を造り出し、
それを運命と呼ぶ。
天を見よ。
それは確かに法則性に支配される。
地を見よ。
人は自らの造りし道を動き回る。
地表に人の手の関わらぬものを私は見ない。
遠くの山ですら人の手により削られているのだ。
人は人自身によって道を造れる。
あの高速道路のように。(10月6日)
2-31(激怒)
私は今、君にとても怒っている。
名を私に与えるな。と。
君が私に与えた名に囚われた。
その名の持つ構造の中で今私は世界を見ようとした!
私は私自身が構造でなくてはならないのだ!
既にある名を与えるな。
私は名を、それも既存の名を与えられた時、
それを越えられなくなる。
我々は我々自身が構造である。
それは他のなにものとも違うということを
君は肝に銘じたまえ。
君はそうやって必死に世界に囚われようとしている。
それが君の根源だと考える次第だ。(10月6日)