美味しく喰らう

天才とは様々なものを「美味しく喰らう」存在

我が変化を見る 第二巻

目次

第一巻

第三巻

第四巻

第五巻

第六巻

第七巻

第八巻

第九巻

第十巻

第十一巻

第十二巻

第十三巻+第十四巻

 

第二巻

 

2-1(自己、社会、選択、経験)

人の歴史。
その差は埋められない。
個々人が決して同質にならないのは個々人のその僅かなズレがその歴史に現れる選択肢の確率を変えるからだ。
我々の本質は我々自身が何を選択したのかなのだ。
つまりそれを最もわかりやすく言うのであれば経験したことだと言えるだろう。
つまり我々とは我々自身が経験したことの集合になるのだ。
そして経験は決して同一にはなり得ない。
いくら社会から差が無くなろうと経験は同じにはならない。
こうして見えてきた人の本質は過去に目を向けたものとなった。
人はその存在定義を過去に求めるしかないのだ。
我々が今後我々自身を形作ることは予測しうるものでは無いのである。
自己の内面を見つめればそれを正しく見つめるのであれば数多の過去がほじくり返される。
そしてそこには隠してしまいたいもののなんと多いのだろうか!
故に人は内面を見つめたくないのだ。それは過ぎ去った自分に対する反省を促してしまうから。
だが、過去は事実だ。そこから学び取れるものは多いが過去を悔いる必要はないのだ。
私は私を過去に見つけた。経験の蓄積の中に見つけた。
社会の関係性の結び目でも無く、社会そのものでもなく、社会に影響されていることを否定はできないが、それが多かれ少なかれ歪められた自己の経験の中に自分自身を見つけたのだ。
社会は私を定義しようとするだろう。
だが、私たちは私たち自身の経験によって定義されるという。
ならば社会と経験にはなんらかの関係があるように思われるのは、私だけなのだろうか?
これを解き明かそうと望むなら隠してしまいたいような過去の経験も含めて自己と社会を結びつけるのもまた一興かもしれない。
だが、過去を思い出すのは容易くない。だから私は今後経験したことの社会的制約を考えてみようと思うのだ。(9月27日)

 

2-2(ヴァナンフト、ヴァンズム)

昔ある所に2人の者がいた。
1人は名をヴァナンフトと言い、自らの幸福を二人の関係の崩れない範囲で望んでいた。
もう一人は名をヴァンズムと言い、常にヴァナンフトの幸福を願っていた。
ふたりの間にはほとんど問題が無かった。
時々ヴァンズムがお節介過ぎたり、ヴァナンフトが自分勝手過ぎたりしたが、ヴァナンフトが文句を言うことはあってもヴァンズムが何か文句を言うことは無かった。
ある時彼らの住む家を大きな地震が襲った。
ヴァンズムはヴァナンフトを救い出すことは出来たがその体は崩れた家の下敷きになった。
しかしヴァンズムはヴァナンフトを救うことが出来ただけで満足だった。
ヴァナンフトは悲しんだ。
そしてヴァンズムが事切れた時彼はヴァンズムになっていた。(9月27日)

 

2-3(ソクラテス、イエス)

ある所に一人の人がいた。
名をソクラテスと言う。
彼は彼の知る全ての世界を知り、彼の知らない世界を知らないということを知った。
しかし彼は彼の知る世界を知ったつもりになったと思ってしまっている。
そこにナザレのイエスという人が現れて言う。私は全てを知ったと。
ソクラテスは言った。あなたは世界を何も知らないと。
エスは言う。ならばあなたは世界をすべて知っているのか?と。
ソクラテスは言う。無知の知こそ世界を知るすべなのだと。(9月28日)

 

2-4(なにか)

ある人がいた。
彼は「なにか」を目指していた。
彼はその「なにか」を他者から与えられていると考えている。
別の人が問う。その他者は何者か?と。
彼はこう答えた。
私たちにはわからない存在だと。
別の人はまた聞いた。
なぜわからない存在が「なにか」を与えたと言えるのか?
彼はこう答えた。私たちは世界の全てを知ることは出来ないのだと。(9月29日)

 

2-5(偉大なる独裁者、矮小な代表者)

ある1人の偉大なる独裁者がいた。
彼は彼の愛する人民を守るため、彼の愛する人民に仇なす障碍者と他民族を惨殺した。
そして彼はついに考えた。
彼らを守るため世界に地獄の業火を撒き散らさなくてはと。
ある数人の矮小な代表者がいた。
彼らは彼らの世界が偉大なる者の火によって焼き尽くされることを恐れた。
彼らは彼らの地位を守るため、大義名分を持ち出した。迫害されることを恐れた。
結果は皆の知るところである。
世界は常に矮小なものに有利に働く。それは矮小なものはその小さな自己を守るため、時に大きな力を持つからだ。(9月30日)

 

2-6(ニーチェ、終焉)

今は見えないこの不穏な動きが雷鳴となって天地を切り裂き人を喰らう。
近世の、否中世の終焉が1歩また1歩と近づいている。
君も気づいているだろう?
見えないなにかが大きな力を持とうとするこの胎動の音が。
新たな世界の始まりの音が、古い世界の終幕の音が、遠くから近くから私たちに話しかけるのが。
怖いか?今までが終わりこれからが来るのが。
怖いんだろう?変わりたくないんだろ?
でもそう思っている君たち自身が稲妻を呼び起こし、新たな世界を作るんだ。
変化を畏れるのは当然だ。それは異質で凶悪なものに見えるから。
現状という安住の地を捨てることを拒むのは動物として当然だ。
必要に駆られなくなればそれを求める。
だから君たちが変わる必要は無い。
今考えていることを私は否定しない。
それは私が考えていることでもあるから。
私はただ、預言するだけだ。預かった言葉を呟くだけだ。
それは先の世界を顕にする。
我々は変化を畏れ、差を嫌い、いずれ差のない世界が訪れる。
だがその中で私たちには見えない差が広がりつつある。
それを感じている人も少なくないだろう。
差のない社会は変化した社会だ。
我々は新たな差を求めるだろう。
その時我々は雷鳴を聴く。
想像だにしない変化が激流となって我らを呑み込み全く知らない世界へと打ち上げる。
そして一つの時代が終焉を迎えるのだ。
かつて行われてきた、人の営みは今も尚それを行おうと準備を進めている。
それを感じながらも知ることは出来ない。分からない。
それは我々の感覚では見れないから、聴けないから、触れないから。
魅せられ、触られ、語りかけることはあっても、今に強く執着するなら分からない。
微かなでも大きな何かが蠢いている。
私には何もわからない。
分かるのはただ一つ。
先にあるのは変化だということ。
変わることを恐れない方がそれが訪れた時、君を救うのではないだろうか。
でもそれを望みすぎて自ら動こうとしてもそれは何も生み出さない。
変化を求めるな、変化を畏れるな、変化を待つのだ。静かに待つのだ。
今に順応し、今をより強く、より進めることに重きを置くのだ。
我々の社会は終焉の入口にいる。だが、終わりは始まりだ。
過去が潰えて新たな何かが生まれる瞬間をこの目で見たいとは思わないか!
不安、恐怖。気づいたけれど知らない何か。知りたいけど届かない。我々は待つしかない。
それこそ恐怖を感じさせる最良の方法だと言うならば我々は何を望もうか...(9月30日)

 

2-7(変化、いらだち)

結局のところ、やはり私たちには変化の問題が影のように付き纏うらしい。
そして同時に私はある人を見て、彼の中の恐怖から、特殊性の問題も感じている。
さらにこの二つにはなんらかの関係があるように思えてならないのだ。
また、私は別のところで別の問題を考える。
他者に対して「わかった気になるな」と言う心理を持ったことのあるものは少なくないだろう。
だが果たしてこの心理は何に起因するのだろうか?
そしてこの三つの問題の共通項は自らと他者の間にある埋めることの出来ない差(私はそれを「異質さ」と呼びたい)であると思わないか?(10月2日)

 

2-8(普通、マジョリティ)

ではこれらの問題を見ていこう。
私はこれらを一つ一つ見たいと思う。
まずはある人の恐怖から見える特殊性の話をしてみよう。
彼は「普通でない」ものに対してそれを主張することを認めない。
彼は「普通でない」ものを声高らかに主張する人を憎み、恐れ、弾圧することを欲している。
私は彼に聞きたい。
マイノリティーだからと言ってそれは「普通でない」と言えるのか?と。
彼はマイノリティーに対しても同じように考えているように思える。
マイノリティーと「普通でない」ものを同じように見ているように私は感じる。
だが、それらは違うものだ。
この世界には普通でないマジョリティのなんと多いことか!
特殊な人に対する弾圧したいという意識は私には(私の積み上げてきた人生観から)妬み嫉みやっかみであり、本質的には恐怖から来るものだと思うのだ。
彼は彼自身の中に内在する特殊性も含めてそれが自らとその周りの社会を壊すことを恐れているのではないだろうか?
自らの言動が世界を変えてしまう可能性を省みずに。
あくまでもこれは私の推測であり、やはりまだ探求する必要を感じる。(10月2日)

 

2-9(いらだち、反省)

次に他者に対して「わかった気になるな」と思う心理を抱くという問題を思考しよう。
私は私を観察された時にそれに対して反感を抱いた。(前段のそれもそうなっているのだろう。)
私は私自身ですら私を知らないというのに如何にして他者が私を知ることが出来ようか?
しかし考えてみよう。
他者は私からは見えない私を見ているのだと。
だとすれば私自身に生じたあの心理は一体なんと不合理極まりないのだろうか!
しかしそれを抱くということはなんなのだろうか?
他者が自らに入り込むことに対して拒絶しようとするのは自然なことではないだろうか?(10月2日)

 

2-10(変化)

変化。変わること。ある状態から別の状態にかわること。
変わる。違うこと。違うことは怖いこと。
それを私たちは拒絶する。
自分が自分でなくなると思えるから。
変化。私たちに影のように付き纏う。
しかし、君たちは全く変化を経験したことが無いだろうか?
そんなことはないだろう。
そして君たちは変化した後にそれを恐れただろうか?
そんなこともないだろう。
変化に対してその前の時が私たちは怖いのだろう。(10月2日)

 

2-11(水1杯の幸福)

もし、君が幸福を望むなら、目の前にある安寧の濁流の中で泥を啜って生きるといい。
もし君がそうなる前に、思考することを学んだのならば、そしてそれでもなお幸福を望むなら、幸福について考えてみればいい。
ホントの幸福は一つではない。それは間違いなく人の数だけ存在するだろう。
君自身の幸福を見つけてみろ。
思考し行き着いた君自身の幸福が死だというならそれもやはり幸福なのだろう。
君は幸福が欲しいか?
幸せが結局現実にしか訪れないなら、私たちは今この瞬間の現実から逃げられない。でもこの思考だってその他多くの物事が現実からの逃避として機能している。
現実の実在を調べる必要があるのか?それとも現実逃避ですら現実なのか?いや、今は現実を議論するべきではない。幸福の話なのだから。
水1杯飲むことが出来れば、幸福を感じることの出来る人がいる。
億千万もの財産を築き上げてもなお幸福を見つけられない人がいる。
私は水1杯の小さな幸福を求めながら、億千万ものの富を築こうとしてはいないか?
君は水1杯の幸福を幸福だと感じないのではないか?(10月2日)

 

2-12(幸福、肉体、精神)

幸福は欲求が満たされることで訪れるのだろうか?
幸福は達成感と同義なのだろうか?
たぶん、これらは正しいのだろう。
肉体と精神は切り離せないのだ。
これらを別個にして幸福を考えることはできない。
幸福は肉体の欲求と密接に関係するのだろう。
それは精神の達成感と同じように感じるのだろう。
しかし幸福はそれを単体として私たちに語りかけてこないだろうか?(10月3日)

 

2-13(幸福の大小)

果たして幸福に大きさはあるのだろうか?
それは他者の幸せを知り、相対化しなくては現れないのではないか?
君自身の中にある複数の幸福を比べているのだろうか?
君自身の幸福はどの幸福も同じにはならないというのならば、その時最も小さな幸福は幸福と言えるのだろうか?
私は私自身の幸福を見つめないといけないだろう。(10月3日)

 

2-14(幸福、瞬間)

今、君は幸福だろうか?
もし君が幸福であるならば、君はその瞬間を愛するだろう。
そしてその瞬間が永遠であることを望むのではないだろうか?
逆に君が幸福でないならば、君はその瞬間を憎むだろう。
でも君はその瞬間から逃げ出すだろうか?
君は結局瞬間を変えることを億劫だと思うのではないだろうか?
怠惰な中で幸福を望むのではないだろうか?
それが大衆と呼ばれる存在ではないのだろうか?
怠惰な幸福は楽であるという点において最も優れている。
幸福そのものを苦労を経ずに手に入れるという点において最も幸福だ。
私はそんな幸福をせめて1度味わってみたいと思う。
でも、きっと私にはそんなことは出来ないだろう。
私は瞬間を変えたいと望んでいるのだから。(10月3日)

 

2-15(少女、みんな)

今、一人の少女がいる。
彼女の周りでは明日のテストの事やゲームのことなどその日その瞬間についての些細な情報が音声データとして飛び交っている。
彼女はそれらの情報に耳を傾け、適度に作り笑いをする。
でも、彼女はこの情報を飛びかわせている「みんな」がなぜ心底楽しそうに笑っているのかは分からない。
彼女は今が嫌いだった。
常に未来を夢想していた。(10月3日)

 

2-16(瞬間、変化、法則性)

世界は瞬間瞬間に絶えず変化している。
君自身も瞬間瞬間によって変化している。
私たちが「絶対」あった。と言えるのは「過去」だけではないだろうか?
確かに過去を見ればそこには何らかの法則があるように見える。
暫定的な法則性は確かに成り立っているかもしれない。
しかしその法則性はいつ破られていてもいいのである。
その法則性が絶対であることを証明できるだろうか?(10月4日)

 

2-17(正しさ、変化すら変化する)

結局、正しさも絶対も所詮主観でしかない。
私たちは私たちの正しさ、絶対性を自己自身の内側にしか見い出せない。
私たちの外側は(内側ですら)変化し続けている。
むしろ、変化は絶対なのかもしれない。
いや、変化すら変化するのだ。
常に保証されるものはない。
ならば私たちに拠り所はあるだろうか?(10月4日)

 

2-18(拠り所、逃避)

私たちはなぜ拠り所を必要としなくてはならないのだろうか?
一つ何か保証された絶対があることで得られるものはなんだろうか?
変化に対して自らを閉ざし、逃げた先に何があるのだろうか?
ましてや考えることを生業としている君は逃げていることを自覚しているではないか!
変化に対してそこまで分かっていながらなぜ君は逃げるのか?
君はもう気づいているだろう?
逃げた先には何も無いことを。
君が君自身の幸福を望むなら、変化そのものを考えてみることだ。
君の救いは君自身が生み出すことでしか現われないし、君はそれを思考の中で見つけるに違いない。
君は普遍や絶対や正しさを強く求めている。
だからこそ、君自身は虚しさを感じているのではないか?
それが存在しないことを知っているから。
そして、その存在を強く信じられる人々に憧れる。
でも君はその人たちではない。
君は思考することを知っている。
君は思考を止める幸福を得られない。
君は思考の中で変化を見つめない限り、救いを見い出せない。
私とともに考えよう。
考えた先に救いがあるだろうから。(10月4日)

 

2-19(マタイ伝、幸い)

思考をしない人は幸いである。
彼は恐怖をそばに置かなずに済むのだから。
目の前を生きる人は幸いである。
彼女に先を見る必要は無いのだから。
その場しのぎな生き方をする者。
彼は不幸を知らないから幸いである。
生きることに夢中なものは幸いである。
生きることそのものを知ることが無いのだから。
知る者は不幸だ。しかし幸いである。
彼は幸福を得ることはないが、智慧あるものになるのだから。
先を見ようとするものは不幸だ。しかし幸いである。
彼女は虚しくとも、変化を受容するだろうから。
考えるものは等しく不変の檻に捕らわれる。
不変の中に絶望や希望や幸福や不幸を見る。
彼らはみな、恐怖する。
しかし、何らかの方法でそれを克服するだろう。
考えるものは考え続けた先に幸福を見る。
そこまで辿りつけるものが少ないこの世界のなんと残酷なことか。(10月4日)

 

2-20(ニート、泣き喚く子供)

そうか、人は来るべき変化に対してすら、極度に拒絶するのか。
そんなに怖いか!
自らを取り巻く社会が変わることが!
自分自身が大きく変わることが!
やはり、人は本質的にニートなんだろう。
世界が語りかける思考の声に耳を塞ぐ。
来るであろう嫌な未来を目を瞑って無いものにしようとする。
私には、嫌だ嫌だと暴れ、泣き喚く子供が見える。
まるでサンタクロースがいると思っていたのにいないことを知った赤ちゃんのようだ。
欲しいものを買ってもらえないから泣き喚く子供だ。
思考を放棄し、得られる幸福は子供のソレのようなものだろう。
あぁなんて幸せなのだろうか!(10月4日)

 

2-21(幸福、逃げろ)

聞きたくないものには耳を塞ぎ、
見たくないものからは目を逸らし、
臭いものには蓋をする。
そして君たちは幸福になる。
なんと簡単なそして楽な幸福だろうか?
それよりも幸福なことがあるだろうか?
そして誰もがそんな幸福を幸福というのだ。
私だって。
思考し続けることで、かえって思考を放棄するのだ。
逃げるがいい。
脇目も振らずに逃げるといい。
現実から。嫌なことから。
逃げて逃げて逃げ切れるなら逃げ続けろ!
ドンと構えていても、飲み込まれ、それは君じゃなくなるというなら、君を殺さないためにも逃げるがいい。
さぁ逃げろ、逃げろ、逃げろ!
私はきっとそれを嘲笑してやる!(10月4日)

 

2-22(偏見、夜泣き爺)

先ほど私は泣き喚く子供と言ったが、それは老人のような子供だ。
頑固で、偏見の中で世界を見る。
夜泣き爺という妖怪が日本にはいる。
まるでそれのようだ。
君たちは君たちの中に夜泣き爺を飼っている。
いずれその夜泣き爺によって呪い殺されるだろう!(10月5日)

 

2-23(自分自身は経験の集積体)

さて、ある人は変化することは自分自身を殺すことだと言った。
確かにそういう側面もあるかも知れない。
しかし、私は自分自身をどのように定義しただろうか?
私は自分自身は過去の積み重ねであり、経験の集積体だと言ったと思う。
ならば変化に対してそれを拒むことは、経験を得ることを拒むことであり、自己の完成を意味することにならないか?
その時、君は死んでいるのと何が違うだろうか?
今ここに生のない人は経験を得ることは出来ず、その人自身が完成している。
変化を恐れ、拒むことは君自身を殺すのだ。
君は結局変化の中に埋もれてしまうのだ。
昨日の君は今日の君ではない。
明日の君は今日の君ではない。
だが、君は生きている。
昨日の君と今日の君と明日の君が同じなら、やっぱり君はどこからどう見ても死んでいる。(10月5日)

 

2-24(絶対性、主観、意識)

絶対性など存在しない。
あるとすればそれは主観の中においてのみである。
あるとすればそれは意識の中においてのみである。
君の主観、意識の中には絶対があるかも知れない。
しかしその絶対を規則や構造に突き落とした時、それは絶対性を失う。
故に宗教は空虚な欺瞞である。
信仰は自己の内にしか確立できず、教会も寺もモスクも君の目線でしか神聖なものでは無い。
しかし、逆に言えば、誰もが自分自身の信仰を確立出来るのだ。
但しそれを他者と比べない限りにおいて。
他者と信仰を比較する状況を作ってはならない。
それはつまり他者と信仰を共有したり区別することであるが、それを行なった時、君自身の信仰は脆く崩れ去る。
君が変化を恐れて、それを拒むなら、君は他者と関わることを辞めなくてはならない。(ここでの他者は自然環境やひいては自分自身すら他者となる。)
結局君は死ななくてはならない。
ここまで考えたことのない人はまだいい。
彼らは自分自身の変化を見つめたことは無いのだから。
ましてや社会の変化を憂い、自分自身の変化に恐怖し、果ては死にたいと望むだろうか?
君は君よりも思考することを知らない人よりなぜ不幸である必要がある?
君は君自身の幸福はここを越えた先にあるのになぜここで世界に絶望し、死ぬことを望むのだ?
思考を始めたが最後、私たちはついにそれを放棄できなくなる。
結局私たちは変化そのものになればいい。
私たち自身だって常に変化するのだから。(10月5日)

 

2-25(未来の変化、気持ち悪い、愚かな人々)

未来の変化を恐れるのはなんと馬鹿げた話だろうか?
なぜそれを悪しきものと断定できるのか?
遠い未来の変化を今から見て怖がるのに近い変化に対してはそれを感じすらしない。
にも関わらず遠い未来を嘆く人々のなんと気持ち悪いことか!
今が大好きでそれを守ろうとする改革のなんと気持ち悪いことか!
変化に対してそれを拒みながら変化を引き起こす姿は滑稽でまた気持ち悪い。
智慧のない、思考を見ない人々が気持ち悪い。
その癖、思考を見た気になることのなんと愚かなことだろうか!(10月5日)

 

2-26(目の前、恋愛)

あぁ目の前が愛おしい。
私はあの人が隣にいるだけでなんと幸福なのだろうか!
私は追い立てられ、何かをやらされている時ほど幸福な時はないと思う。
君はその時その瞬間、目の前を攻略するだけでいいのだから。
君は常に変化した後の未来を憂い、恐怖する。
そして変化しない未来を夢想して、死ぬ。
馬鹿馬鹿しいとは思わないか?
なんと不毛なのだろう?と。
君が今、幸福のために(または死にたくないと望むなら)やることは次の二つの道のいずれかだ。
一つは思考を止め、目の前に埋没する道。
もう一つは思考を続け変化を受け入れる道。
結局君は君自身が変わるしかないのだ。
世界は誰も見ていない。ましてや君を見るだろうか?
君は世界に囚われることを止めるといい。(10月5日)

 

2-27(弁証法──変化、発展、生──、自己の構造)

私たちは今過去を見た。
自らを知るために。
かつての経験を探った。
私たちは変化し、それによって成長する。
私は経験の積み重ねを指し変化と言う。
変化を恐れる時、君は今まで得た経験を否定されることを恐れている。
しかし、君、弁証法なるものを知らないか?
私たちは変化をもってジンテーゼを手に入れれば良いのだ。
君が変化を克服する時にそれは常に行われているに違いない。
私たちの変化は何かを捨てることで得るという態度ではない。
私たちの変化は形成された自己の構造と聴こえてくる他者の構造の融合に他ならない。
確かにかつての自己の構造は変質するだろう。
だが、それは自己の死なんて言えるだろうか?
社会もまた同じである。
遠い未来の社会の構造が今と大きく違うからと言って、今の構造が消失する訳ではない。
構造そのものに意味がある訳ではない。
それはただの事象であり、事実なのだ。
私たちの本質(それはつまり誰もが持つ初期構造を指して言う)は「生」という点なのだ。
そして君自身の本質は常に変化するのだ。
君が恐れていたものが虚無なものだとは思わないか?(10月6日)

 

2-28(雨)

雨。
しとしとと降るソレ。
湿った空気。
重い空。
灰色の天空。
ビニール傘に打ちつける雫は、
ますます私に考えさせる。
君は雨を知っているか?(10月6日)

 

2-29(言葉)

私は言葉を失う。
生み出したモノは消え、
記憶の海に沈み込む。
私はソレを取り出しているだけなのだ。
生のソレを君たちには教えられないのだ。
言葉は全てを教えてはくれない。
だが、そこから考えることはできる。(10月6日)

 

2-30(アルタイ神話)

私は彼女に束縛される。
彼女が望むか否かに関わらず。
女性は常に我々の支配者だ。
我々は支配してると思うもの、そして支配したいと思うものにこそ支配される。
我々は自ら道を造り出し、
それを運命と呼ぶ。
天を見よ。
それは確かに法則性に支配される。
地を見よ。
人は自らの造りし道を動き回る。
地表に人の手の関わらぬものを私は見ない。
遠くの山ですら人の手により削られているのだ。
人は人自身によって道を造れる。
あの高速道路のように。(10月6日)

 

2-31(激怒)

 

私は今、君にとても怒っている。
名を私に与えるな。と。
君が私に与えた名に囚われた。
その名の持つ構造の中で今私は世界を見ようとした!
私は私自身が構造でなくてはならないのだ!
既にある名を与えるな。
私は名を、それも既存の名を与えられた時、
それを越えられなくなる。
我々は我々自身が構造である。
それは他のなにものとも違うということを
君は肝に銘じたまえ。
君はそうやって必死に世界に囚われようとしている。
それが君の根源だと考える次第だ。(10月6日)

我が変化を見る 第一巻

序 今、過去を公開することについて


これは17年9月23日〜18年10月16日までの間に書き連ねられた、私自身の哲学・思想上の変遷を克明に記したものである。

これは私の10年代の思想的課題の克服の瞬間の描写であり、また現在私の持つ思想の萌芽であるとともに最も根深い問題を数多く抱えている。

私自身の思想の更なる飛躍は、この短編集の自己批判によってしか成し遂げられず、今後当ブログでは細かな自己批判を展開していこうと思う。その事業を始めるにあたり、読者の皆様には、批判対象である、この短編集にいつでもアクセスできるよう、今回、ここにその全文を記載したいと思う。

短編集は膨大な量[1]であり、また、細かな解説等々は今後進めていくので、本文全体を一気に読む必要は必ずしもない。しかしながら、興味のある方は多少目を通してもらえればとは思う。

21年4月 Rize Faustus

 

[1]試算によると、岩波文庫にして200ページ近くに及ぶ

 

目次

第二巻

第三巻

第四巻

第五巻

第六巻

第七巻

第八巻

第九巻

第十巻

第十一巻

第十二巻

第十三巻+第十四巻

 

第一巻


1-1(社会、サイクル、弱者、変化を恐れる)

我が変化を見る。
思想的哲学的思考の過程及び成果をどこかに記したくなったのでここにポツポツと書き連ねてみよう。
万世は無常で私たちの拠り所は儚い。
私たちは変わるしかないのに変わりたくないと願う。
世界の広さに慄いて自らの殻に閉じこもる。
本質的に人間は引き篭もりのニートだ。
それでも世界は無情だ。まるで社会がニートを無視するように世界は人を無視する。
世の流れはいよいよ早く、より多くを消費することを求める。
では問う。
消し、費やしたものは何処か?と。
生産し消費しそのサイクルをどんどん早めた先に何があるというのか!
しかしそのサイクルの速度も限界を迎えつつあるような気がする。
しかし結局このサイクルの中にいる限り何か特別な力が加わらなければ富の格差は拡大する。
この格差が限界まで拡大した時それはどうなると言うのか?
富を持つものが少ないとこのサイクルは崩壊する。それは富を持つものにとって不利益だ。
逆に皆同じ程度の富を持っていてもこのサイクルは崩壊する。
またその時はこのサイクルの本来の目的も果たされていない。
故に故人はこのサイクルを保つために既に多くの力を有していた国家やそれに類するものを利用した。
その目的はサイクルが壊れないように格差を広げることだと言うなら、この世界に弱者にとっての希望とはあるのだろうか!
あるものは革命を求めるのか?あるものは改革を求めるのか?
では聞こう。
なぜそれは成功していないのか?と。
弱者が本質を理解していないからか?啓蒙が足りないからか?
いや、そうではない。
誰もがこのサイクルの中にいたがっているのだ。
そしてこのサイクルの中にいながら他より優れていたいだけなのだ。努力なしで。それは不可能だ。
自然の摂理から外れる。あるものが持つことの出来るものはそのもの自身の成果に比例するからだ。
しかし確かにスタートラインが同一ではないという問題を否定できるわけでもない。
結局スタートラインを徹底的に同一にしようとすると今度はサイクルそのものが壊れる。
あぁなんと惨めか!だとすればそもそもこのサイクルそれ自体が問題を作り出しているというのに!
変化を恐れる人々がいかに変化を受容できるようになるのだろうか!その術を私は知らない。(9月23日)

 

1-2(変化、恐れ、異質)

私自身も変化を恐れているのかも知れない。
だが、それ以上に変化を思考することに楽しみを感じている。
そしていざ変化をした時には変化そのものを楽しんですらいるというのだ。
変わること。変化すること。怖いこと。でも必ず訪れるもの。
変化を楽しむことが出来るなら世の何が怖いのか?
生きることの何が怖いのか?
生きることは変わることだ。
だからそこには苦しみが恐怖が犇めく。そして絶望を見る。それは変化に対する恐怖なのだ。
変化を恐れるからこそ見えるのだ。
変化は世の定めだ。
だから受け入れろと釈迦は説く。
死後は不変だとそしてそれは生きている間の行いによって決まるとイエスは説く。
だが、私は聞く。
変化をなぜ恐れ、また、それに怯えなくてはならないのか?と。
変化を恐れることは確かにある。
だが、聞く。
人は常に変化を恐れるのか?と。
怖いことを克服できないことは多い。
だが、聞く。
それは永遠なのか?と。
答えは否否否。
変化を思考し、体感することで、私たちはそれを会得する。
変化を我がものとすることができた時それはもはや変化したものになる。
だが、この時、私たちは異質なものを取り込まなくてはならない。それが怖いのだ。
だが、聞く。
その異質はなぜ異質なのか?と。(9月24日)

 

1-3(真実、虚無、矮小)

果たして異質さとはどこから来るのか?
そもそも異なるものを受け入れることがなぜ怖いのだろうか?
異なるもの。違うもの。おおよそ自分ではないと思われるものでこの世は溢れている。
むしろ世界の中で自分は矮小だ。周りには異なるものしかない。
そしてそれは私たちを虚無の深淵に喰わんとする。
世界は矮小な自分自身を虚無に叩き落とすのでは無いだろうか?
だとすれば異なるものを受け入れることに対する恐怖は説明できるかもしれない。
だが、それは果たして本当に世界そのものなのだろうか?
虚無の深淵の入り口に立たせるのだろうか?(9月25日)

 

1-4(恋愛、哲学)

さて、ここまでほとんど一直線的に話してきたが、話を変えてはならないなんて決まりは存在しない。
ここまでの内容は今考えるには大変すぎるから、話を変えるのは自然な事だとは思わないだろうか?
最近私のみじかに起きたある出来事は自分自身を語りかけてくる。まぁこう言った考え方があまりにも構造主義的であることは言語というものを使用してこれを書いている以上仕方がない事のような気がする。
人を愛するということは、あまりにも人を活動的且つ誇大妄想的ロマンチストへと変化させる。(また変化という言葉が出てきた。しかし今は考えない。これは思考の放棄かもしれない。しかし今はもっと別の問題を考えたいのだ。)
愛する人とは話したくなるものだし、逢いたくてたまらなくなるものだ。
心がキュウと縮み、感情が自分自身を鷲掴む。
相手のことをすべて知っているわけでもない。
むしろ知らないことの方が多いし、それを知りたいとも思う。
好きという気持ちを言語化することは容易いことではないし、体感することで理解出来ることの方が多いだろう。
だから誰かを好きになったことのある人はそこにある哲学の入り口を見つけているはずなのだ。
だが、その入り口をくぐり抜けるよりは甘い甘い関係の中で精神の平穏を求めて漂う方がよほど簡単なのだ。(9月26日)

 

1-5(生きる)

なぜ私たちは生きることに対して苦しみを覚えるのだろうか?
そもそも生きることになんの価値があって意味があるというのだろうか?
それらに対する答えは古今東西様々なものがある。
だが、私は思うのだ。
そもそも生きる意味など無く、その価値は自分自身でしか創出されないと。
私たちが生きる理由はただ一つ、「死ねないから」を除いて何があるのだろうか?
死ねないから生きる。この単純にして簡潔な結論の上でしか人が生きるということを考えることは出来ないのだ。(9月26日)

 

1-6(感情)

さぁ、私は常に避け続けてきたある問題に取り組みたくなっている。
そう、「感情」である。
私の心に蠢くなにか見えない大きなもの。
時々垣間見えるこれはもう怖くて怖くて私は避け続けてきた。逃げ続けている。
感情を知り自らが変わることを恐れている。
感情を知ることが怖いのだ。
君に分かるだろうか?君は見たことがあるか?君自身の感情を!
感情が強くその姿を表す事例を私は二つほど知っている。もしかしたら三つだ。
嫉妬、怒り、そして悲しみ。
君自身に必ず芽生えたことがあるだろう?感じないか?あの怖さを。
感情自身が自らを飲み込もうとするあの感情自身の動きを!
さて私はここで大いに感情と私自身を分離させているが、それすら実はもはや間違いなのだ。
感情だって私の1部だというのだ!
もはや意味がわからない。
感情が見えているのに、それは私自身だというのだ!
嫉妬や怒りを私自身冷笑している。
にも関わらずに冷笑しているのは自分自身なのだ。
これはむしろ鏡に映る自分を暗闇の中で見ていると怖いと感じるのと何が違うのだろうか?
だとすれば感情は世界に映る自分自身なのではないか?
自己への恐怖なのではないか?(9月26日)

 

1-7(恐怖、異質)

だが、私は前に言ったではないか!
異質さこそ恐怖の根源だと!
では自己への恐怖とは自己に対する異質さを認めるからなのか?
さぁ、避けてきた異質さそのもののことを考えなくてはならない。
自己も他者も恐怖対象であり異質だと言うなら異質でないものとはなんなのか?
それは変化なのか?もはやわからない。
分かるだろうか?
考えれば突き詰めれば分かるだろう。
なぜか?なぜ私はいまそれを突き詰められないのだろうか?
それは恐怖という邪魔があるからだろうか?
否。私は考えたくないのだ。
異質さを知ることでもはや異質が異質でなくなることを恐れているのだ。
さぁ私たちの恐怖を解き明かす時が来たようだ。
世界の深淵を覗き込むなら避けては通れない所へ今歩を進めるのだ。(9月26日)

 

1-8(恐怖、理解)

恐怖。異質から来る恐怖にこそ私たちは最も怯える。
そしてその恐怖は語りかけてくる。私たちに。
理解してみろ。と。
その声を私たちは拒む。
聴きたくない。嫌だ嫌だ。と。
なぜ我々は声を拒むのか?
声を拒み得られるのは一瞬の平穏だ。
もし君が平穏を望むならここから先の真実は苦痛だろう。
ここから先、私は拒み続けてきた声を聴こうとする。
恐怖の激痛が私自身を襲うとしてもだ。
恐怖の真因がわかった時私たちから恐怖は取り除かれ、永遠の平穏を手に入れられるだろう。
だが、その道は細く長く険しく行き着くことができる保証はない。
注意書きばかり垂れて先を見ようとしない自分自身が馬鹿馬鹿しくなったので話をしよう。(9月26日)

 

1-9(感情、観察)

君は聞く。
私も聞く。
自らの感情が叫び訴えるものを。
嫉妬は私にある人を好きであることを教えてくれる。
でも同時にそれは醜い。気持ち悪い。
あまりにも一方的に他者に向けているからだと私は思っていた。
だけど、違う。
その醜く気持ち悪い感情こそ自らの本質であることをうすうす感じているのだ。
自分に対して都合が悪いことなのだ。自らの本質は。
私は理想を主軸にものを考えていたのだ。
私は自分の本質から目を背けていたのだ。
何ということだろうか!私は嘘つきだ。自分自身にすら嘘をついていたというのだ!(9月26日)

 

1-10(真実、理想)

私は嘘の中で真実を誤魔化しながら生きていたことを知ったと思っている。
だが、今はどうなのか?
感情に対する恐怖は若干取り除かれたような気がする。
これはそれが自分自身そのものであるということに気づいたからだろうか?
では翻って今までの理想が気持ち悪いものになっているだろうか?
否、なっていない。
つまり私は理想にも感情にも同質を見出したということになるだろうか?
では先ほど理想だと感じたそれはほんとに理想だったのだろうか?
それともまだ私はなにかを誤魔化してそれに対して嘘をついて真実に蓋をしているだろうか?
自分自身とは分かったと思った瞬間に消え去るものなのかもしれない。
私は私の中に無理やり異質さを作り出すことで私を感じていたのだろうか?
そうとは思えない。今はやはり書き綴ることが難しいのかも知れない。
自らの見つけたと思われる真実の断片は断片でしかないのにこれ程重いとは...(9月26日)

 

1-11(落差、嘘)

いや、結局私は今まで思っていたことが真実とかけ離れていて、真実だと思っていたことよりももっとずっと小さなものであったことに目を背けていたのだ。
私が私の1部として知覚した感情は私ではなく、ただの落差なのだ。理想と現実の。
私は自らに多くを課すと思っていたが、むしろ他者に多くを課していたのだ。
期待や服従してほしいという願望を持っていたのだ。
そしてそれが果たされないことに怒り狂っていただけなのだ。
だとすればそもそも私は私を見ることなど出来ていないのだ。
私が私であり、また、感情だと思っていたものは、実際感情だし、それはただただ世界が自分の思い通りにならないことに対する怒りでしか無く、無益で無意味なものだったのだ。
そして無益で無意味なものであるという現実から目を背け、誤魔化して、思い通りにならなくてムカつくなんて言えないが故に、めちゃくちゃを述べていたのだ。
まるでそれがなにか自分には分からないものの断片であるようなフリをしていたのだ。(9月26日)

 

1-12(本質的な私、差異)

さて、ここまでくると、私は私自身だと思っていたものがただの一つの現象であった事が判明する。
では本質的な私自身とは?
恐怖対象である異質さ以外の何かはどこにあるのか?
この二つの問題が生じるのだ。
この二つは同時に扱えるようで扱えない。
なぜなら人は変化を経験することによって異質さを受け入れているからである。
つまり前者はもはや異質である可能性すらあるのだ。
さて、私はまず前者の問題を扱いたい。
なぜなら、今まで考えてきたことによって自分自身が蒸殺しにされている感覚があるからだ。
あまりにも多くのものを身にまとい、動きづらいのだ。私は今服を脱ぎ丸裸になってみようと思う。(あくまでも比喩だ。)(9月26日)

 

1-13(矮小、自己)

私は考えれば考えるほど自らの存在が矮小であることに気付かされる。
一体自分はどれほどの理想や願望や固定観念に囚われているのだろうか?
それを考えさせられる。
さっきも言ったが、私自身は変化を積み重ねることで今の私を形成している。
だとすればこの気付かされる矮小さとは生まれた時の自分自身になってしまうのではないだろうか?
そしてそれは本当に本質的な私自身だと言えるのだろうか?(9月27日)

 

1-14(歴史、自己の本質)

世界はその歴史によって構築されているように自分自身もまた自分の歴史の上になされている。
自分の歴史とはなんだろうか?
自分の所属する社会に影響されていることを否定できるものはいないだろう。
しかし、同じ時代同じ国同じ場所に生きていても所属する社会が変わることもまた多々である。
結局個々人は決して同じ歴史を歩むことはできない。
そして私たちは私たちの歩んできた道に縛られるのだ。
私たちの未来は結局自分がどのような選択肢を選ぶかでしかない。
だが、その選択肢は間違いなく過去から、つまり自分自身の歴史から、来るものなのだ。
そして自分の歴史は社会的な束縛を受ける。だから人は社会に縛られているという人たちもいる。
だが、自己の本質が自己の歴史から来るのであり、社会に縛られるのであればそこには同一の人間しか現れない。
しかしそのような事はない。
つまり自己の歴史は人それぞれであり、その形成状況こそ自己の本質と言えるのではないだろうか?(9月27日)

恋愛において最も大切なこと

 恋愛において最も大切なことはなんでしょうか? 誠実さ? 愛していること? 浮気をしないとか!
 
 さて、恋愛において最も大切なことが何かということをよく理解するためには、まず恋愛とはなんなのかということを知らなくてはなりません。
 恋愛とはなんなのでしょうか? それは、恋人と友人の違いとは何かということを考えることでもあります。
 さて、両者の間にある差異として最も最初に思い浮かぶのは、「好き」という気持ちの差ではないでしょうか。一言、「好き」とは言っても、恋人に対する「好き」と友人に対する「好き」は多少異なるものでしょう。正直、これは誰かを好きになったことのある人には共通して理解出来る観念であるように思います。多少分析的なことを添えるとするならば、恋人間の「好き」ということに関しては、それは友人間のものに比べて、相互的で強いものであるということが言えるでしょう。
 恋愛における条件のひとつには「(相互的で強い)好き」という感情が不可欠なのです。
 
 しかしながら、恋愛関係とはこの感情だけで成り立つものではありません。この感情を有することは、恋愛関係においては最低限必要な条件ではあるものの、恋愛関係を成立させる条件としては不足があるのです。
 では一体恋愛関係を成立させるために必要な「好き」という感情以外の条件とはなんなのでしょう?
 
 ここにおいて、一つ確認しておかないといけないことがあります。それは私たちの基本的な恋愛観の元になっている考え方についてです。
 現代の私たちは、多少の変容を経てはいるものの、基本的にはロマンティックラブイデオロギーの勝利した世界にいます。ですからロマンティックラブというものについては、基本的な恋愛観としてよく理解できるように思います。
 
 ロマンティックラブとはWikipediaによると次のような特徴を持っているのだそうです。
 

1. 一時の衝動による相手への執着ではなく、人格的な結びつきによる愛情であるが、プラトニック・ラブとは異なり性行為により相手と一体になることを求める。

2. 経済的、政治的な打算などではなく、純粋に二者間の間にある愛着だけで結びついた関係である。

3. 常に男と女の一対一ではぐくまれる愛情であり、相手以外の者に恋愛感情を向けることなく、二者間の他に性的接触をもたない(モノガミー(一夫一婦制)の精神と通底する)。

4. 恋愛対象を「運命の相手」とし、一生(永遠)の恋愛関係にあることが理想とされる。そのため結婚は恋愛感情と結びついたものとして一生維持される。

 多くの人にとってこのようなロマンティックラブに特徴される恋愛観はそれほど強い違和感のあるものではないでしょう。
 最近では3番における男女の一対一であるとか、4番における結婚と恋愛の関係であるとか、そのような点に関しては様々な見直しがされつつありますが、やはり「運命の相手」であるとか、性行為を重視するような点というのは、基本的な恋愛観としては依然変わりないものなのではないでしょうか。
 
 問題はこのように変わる点と変わらない点があるということです。それはなぜなのでしょうか?
 
 まずは変わっている点について考えてみましょう。例えば、男女間の関係としての恋愛関係というものはLGBTに代表される性の多様化によって徐々に壊れつつあります。これは先に挙げた恋愛の必要条件としての「好き」という感情の矛先というものが必ずしも異性とは限らないことに起因するでしょう。また、ポリアモリー[1]などは、ロマンティックラブが重視する一対一の関係であるという点に対して否を突きつけます。これは一方ではロマンティックラブイデオロギーに対する反抗として捉えられると共に、恋愛におけるような「好き」という感情が必ずしも一人に向かうものでは無いということに原因があると言えるでしょう。次に、結婚と恋愛の関係を見てみましょう。婚活などにおいては時に恋愛対象となるかという点よりも、相手の様々なステータス(特にわかりやすいのは年収でしょうか?)を元に関係を始めようと試みる場合があります。これはそもそも結婚というものが恋愛と一線を画した、関係性のための契約であることに由来すると言えるでしょう。結婚は恋愛に比べるといくらか社会的な事柄なのです。
 
 さて、それでは変化しない点というものは恋愛関係に対して一体どのような影響を与えているのでしょうか?
 
 友人と恋人とを峻別するものとして、上記のような基本的な恋愛観に基づくと、最も容易に割り出せるものは、性交渉になります。そしてポリアモリーなどの一対多の関係でないような関係における性交渉というものは、厳重に隠匿された秘儀としての性質を持ちます。
 そこでは、その関係の内側だけにおいて開示される個々人があるわけです。私たちは一般に相手の全てを知ることはできません。常に開示される他者というのは、その一側面であり、恋愛関係でないような関係においては、基本的には誰にでも見せられる側面が開示されます。しかしながら恋愛関係においては、特別な側面を開示するための儀式を多数用いることによって、その関係を特別化することを要するのです。
 このような、秘儀を行うことこそが恋愛関係において「好き」という感情以外に必要となる条件なのです。
 
 ロマンティックラブが持つ様々な特徴というものは、その関係の中において、物質的な秘儀を与えることに役立ちます。秘儀の最も顕著な物質化こそが性交渉なのです。
 そして物質化された恋愛関係における秘儀というものは、極めて商品化しやすいものになります。トレンディドラマが恋愛を題材にしがちなのは、恋愛を描く以上、秘儀を描くことにつながり、そして秘儀というものが商品化できるからこそなのです。
 秘儀の物質化というものは極めて近代的なものであり、ロマンティックラブイデオロギーの勝利に貢献してきたわけですが、商品化以前にも、近代以降と同様に秘儀があったと推定できるでしょう。例えば、平安貴族の恋愛というものが和歌の送り合いから始まった点や、プラトニックラブが志向する精神的な関係というものは、一種の秘儀として機能するわけです。
 ただし、気をつけなくてはならないのは、極めて親しい友人との間でも秘儀としての行為が成り立つ場合があるということです。しかしそれでもその関係が恋愛関係にならない理由は、既に挙げた「好き」という感情に基づく条件がないからです。
 
 以上より、恋愛というものは、「好き」×秘儀、によって成り立っていると言えるように思います。そして恋愛関係は、このどちらかを起点にして、もう片方を埋めることによって完成します。
 例えば、告白をして付き合うというような恋愛関係の成立とは、まず「好き」という感情から始まって、告白を始めとする様々な秘儀を通して関係を特別なものにするような形で作られる恋愛関係であると言えます。
 また、性交渉から始まるような恋愛関係というものは、秘儀から始まり、そこに「好き」という感情があとからやってくることで成り立つと言えます。そして、相談をしているうちに付き合うようになるようなパターンは、秘儀から始まる恋愛関係と言えるでしょう。つまり構造的には性交渉から始まる恋愛関係と同じなのです。
 
 さて、最後にようやく本題であるところの恋愛において最も大切なことについて話したいと思います。
 私たちは、基本的に「好き」という感情に気がつくことによって、その関係を恋愛関係化させるでしょう。つまり、恋愛を成立させる二条件のうちのひとつというものは、関係成立のために誰もが理解するものであると言えます。この感情をどのように処理するのか、これも恋愛において最も大切なことのひとつですが、これに関しては本当に様々な参考になる事柄が巷に溢れかえっています。
 しかし恋愛とは関係が成立した後にもそれを継続させなくてはなりません。そしてそれこそが、恋愛における重要な悩み事のひとつでしょう。そしてこちらに関しては、それを解決させる方法というものは、これまで極めて個別的にしか提示されてこなかったと言えるでしょう。
 今回、恋愛がどのように成り立つのかということを理解したことによって、関係を継続させるために必要な事柄というのは明らかになったのではないでしょうか?
 
 秘儀──すなわちその相手だけに開示される個々人を引き出す儀式──こそが恋愛において最も大切なことなのです。

 

脚注

[1]ポリアモリーとは関与するパートナーの同意の上での複数のパートナーと親密な関係を持ちたいと考える恋愛観である。

「うっせぇわ」がうっせぇわ!

 まぁ、おそらく表題のように思っている人は少なくないのではないだろうか。かくいう筆者もまぁそのように思わないこともない。
 
 最近、「うっせぇわ」という楽曲が世間で流行している。その歌詞は賛否両論あり、様々な批評が出回っている。筆者に批評の面白さを教えてくれた友人に感謝したい。様々な記事を面白く読むことが出来る。
 また、多くの場面で、この楽曲について話す機会があった。そしてもっと多くの場面で、この楽曲について話されているのを見た。そこで今回は私がこの楽曲についてどのように考えているのかということをまとめてみようと思う。
 
 まずは個人的に、なるほど、と考えさせられた批評が2つほどあるのでそちらを紹介しておきたい。
 1つ目はこちら。https://www.news-postseven.com/archives/20210214_1635400.html?DETAIL

 ここでは、「うっせぇわ」はだっせぇわ、という年長者の意見が書かれている。
 2つ目はこちら。https://news.yahoo.co.jp/articles/11d46ba3ce253fb7da5798ae946eea7e3a75fab4?s=09

 ここでは、「うっせぇわ」は20代が10代に送る処世術なのだという話が展開されている。
 
 筆者は今まさに20歳である。ちょうど10代から20代へと足を踏み出したばかりの新成人だ。そして筆者は、「うっせぇわ」には深く共感する。あの楽曲で描かれている「私」とはまさに筆者のことである。しかし、だからこそ、筆者はあの曲の歌詞が大っ嫌いだ。
 
 今回は、あの曲の歌詞が我々の世代を中心に流行すること、が一体何を意味しているのかに関する持論を述べよう。
 
 まず「うっせぇわ」とは何かということについて先に述べておこう。端的に言うならば、あの曲は、どのようにフラストレーションを外部に吹き出すことなく、自身の内側で抱え込めば良いのか、ということを歌っている。そしてそれこそが尾崎豊なんかを聞いてきた年長世代からしてみればダサいものに見える点なのだろう。
 
 なぜ「うっせぇわ」はダサく見えるのか?
 
 「うっせぇわ」がダサく見える理由は実は簡単である。それはつまり「君」が不在であるという点にかかっている。あの歌詞の中には、コミュニケーション可能な他者というものがいないのだ。どこまでも独りよがりな歌なのだ。周囲の全てを敵だとみなしながら、お前らは敵だ!、とすら叫ばない。心の中で、チッ、と舌打ちをするだけなのだ。それが「うっせぇわ」という曲に含まれたダサさである。そう歌詞の最初の宣言は果たされていない。
 「うっせぇわ」は正しさや愚かさを見せつけてやると言い出しておきながら、それを見せつける相手を持たない、あるいはそれを見せつける相手は自分自身であると言える。
 メロディーやフレーズによって他者に対する主張を歌うように感じさせるもののその内実は極めて内省的、あるいは自己中心的な歌なのだ。あの歌詞は全て自分自身への言い聞かせでしかない。
 それこそが「うっせぇわ」ひいては私たち世代の持つ歪みである。そういう点ではあの歌詞は私たちを非常に良く示している。
 詳しく見ていこう。
 
 今の若者に蔓延る歪み
 
 なぜ、そのような歪みを私たちは持っているのだろう。その謎を解く鍵は冒頭と最後にある。
 この曲はまず、「正しさや愚かさを見せつけてやる」、と言って始まり、最後には、「私も大概だけどどうだっていい、問題はない」、と言って終わる。
 「正しさや愚かさを見せつけてやる」。これは宣言であると共に痛烈な嫌味でもある。自分は周りにそのような圧迫を受けているという主張なのだ。ここにはダブルミーニングがあり、そして故に最後には「私も大概だけど」というところに繋がるのだ。
 心の中で、お前らは敵!、と主張することが、自分に普段「正しさや愚かさを見せつけて」くる人々と同じようなことだという強い自覚があるのだ。だからこそ、それを外に発露させるべきではない、自分の内側に溜め込まなくてはならない、そのような思想へと変遷するのである。
 そしてそれはまた同時に「正しさや愚かさを見せつけて」くる人々のことを嘲る発想へと繋がる。つまり、普段自分は思っていても口にしないことを、平気で口にする、自制心の効かない愚かな者として、主義主張をする者=他者と真剣に対話をする者を嘲笑うのである。
 
 これは昨今インターネットに蔓延る冷笑主義の実態である。冷笑主義とはつまり他者とのコミュニケーションを拒否しながら、それをするものを嗤う態度なのだと言うことだ。結局のところ、そのような態度というものは、自分自身に向き合っていないということなのだ。
 そしてこの「うっせぇわ」という楽曲はそのような冷笑的態度というものを肯定し、なんなれば良い処世術として喧伝しているのだ。そしてそのような点こそが、筆者がこの楽曲に共感しながらも、嫌いである元である。
 
 「うっせぇわ」の流行の先に
 
 このような冷笑的態度の喧伝という性質のある「うっせぇわ」という楽曲が私たち若者世代に流行しているということは何を意味するのだろうか?
 筆者が考えるにそれはふたつの意味を持ち、ひとつの未来への展望を与える。
 つまり、ひとつは、一部の人たちの主張的な態度というものに対する嫌悪感。
 そして、一方では、コミュニケーションを取ることに対する高いハードル。
 「うっせぇわ」の流行とはこのようなものを意味する。
 そしてそれらに対する対応は、出したい声を出すことを否定し、内側に溜め込む態度へと繋がる。「うっせぇわ」は「私」を「天才」であるとか「現代の代弁者」などと考えることによって、声を出すことを控えることを成し遂げられるというプロパガンダなのだ。「うっせぇわ」は学校や仕事が終わったあとの夕方に聴く曲ではない。あの曲は、通勤通学の鬱屈とした空気感の中、自らを鼓舞するための曲なのだ。
 
 さて、今このような宣伝に共感できる人々の最も中心的な層というものは10代から20代であろう。
 少し先の未来、このような処世術を身につけた人間が10年後、20年後、自分たちの声を出すことを押さえつける存在を持たなくなった時、私たちが溜め込んだ呪詛というものが盛大に社会に対して吐き出されることになるだろう。それは恐らく壮絶な叫びとなる。それが良いものとなるか悪いものとなるか、筆者には確かなことは言えないが、あまり楽観することは控えた方が良いのではないかと思う。
 毒は溜め込むよりはとっと吐き出すべきなのだ。もしも今後も私たち世代が毒を溜め込み続けるのであれば、「うっせぇわ」はまさに20年代というものを代表する楽曲のうちのひとつになるだろう。
 
 さて、最後に、「うっせぇわ」と対称的な楽曲をひとつ紹介したいと思う。YOASOBIの「怪物」という曲だ。https://youtu.be/dy90tA3TT1c
 この曲には「君」がいる。社会に対して感じる漠然とした不満という点では、「うっせぇわ」と「怪物」には共通するものを感じ取ることができるはずだ。そしてだからこそ「君」の有無というものが、どのように異なるのかということが分かりやすく発見できるだろう。

即非の論理

 即非の論理というものを聞いたことはあるだろうか? Aとは即ちAに非ず、故にAなり という論理である。
 一見すると非常に荒唐無稽だが、実際のところ、極めて論理的な帰結である。しかし、これを論理的な帰結であると理解するにはいくつかの段階を踏んで理解を深めていかなくてはならない。
 即非の論理という言葉は鈴木大拙という仏教学者によって作られたものだ。大拙は『金剛般若経』の「仏説般若波羅蜜即非般若波羅蜜。是名般若波羅蜜(仏が般若波羅蜜と説く。即ち般若波羅蜜に非ず。是を般若波羅蜜と名づける)」に代表される仏教の論理を、Aとは即ちAに非ず、故にAなり と定式化し、これに「即非の論理」という名を与えた。つまり即非の論理とは仏教の特に空思想に基づく論理である。(金剛般若経般若経典の一つであり、般若経典では空思想が説かれる。最も短いお経の一つとされる般若心経も般若経典の一つである。)
 即非の論理は空思想の理解と共にある。
 空思想とはなんだろうか? これは実はそれほど難しいものではない。空思想において解き明かされているのは全ての前提となりうる実在というものがどのような姿であるのかということである。そしてその結論こそが空という言葉で表される。空思想の空とはサンスクリット語の漢訳だ。もともとのサンスクリット語ではシューニャと発音される単語で、これはインドの数学におけるゼロの名称でもある。つまり、空思想においては、実在など無い、ということが言われているのである。
 何も実在しないということを真理であると考え、それを悟ることは、仏教、特に般若経典群の影響を強く受けている北伝仏教において、極めて重要な主題の一つである。
 空とは「有るものは無く、無いものは有る」ということである。これを最も確実に悟るためには体感することこそが鍵であると考えられるが、しかしそこに理屈がないわけではない。一般に実在すると言われるものが、はたしてどれほどの確度を持って実在すると言えるのだろうか? これに関しては稚拙ながら、実在が不可知なものであることを以前紹介したのでそちらを参照してみて欲しい。

https://rize-faustus.hatenablog.com/entry/2021/02/04/181940
 さて、不可知なものに関して人は様々な態度を示すことができる。そしてその中にはそれをないものとして扱う態度も含まれる。様々な存在に関して、それが実在しないということを前提にした上で、即非の論理を読み解くと、それが極めて論理的な帰結であることに気がつくだろう。
 
 (存在として今まさにここにある)Aは即ちA(という実在)に非ず、故に(私たちがそれを)Aと名づける。 
 即非の論理とはこういうものなのだ。一般に即非の論理といえば、上記の前半部分、つまり存在として取り扱うAと実在として取り扱うAの間における差異が、共にAと呼ばれることによって、一種の非論理的雰囲気(あるいは神秘的雰囲気)を漂わせる点に着目されがちだが、種を明かしてしまえば、そんなものは雰囲気に過ぎず、幻想的であることは明らかだろう。存在は実在に非ず。
 個人的に、私が着目したいのは、後半部分である。故にAなり(私たちがそれをAと名づける)。これは実は西洋哲学、つまりアリストテレス以来のA=A(トートロジー)を真理として考えられてきた伝統的文脈(これは大変理解しやすく、それに基づいて即非の論理を考えると即非の論理は神秘的雰囲気を帯びる)の中でも、立ち現れた問題である。
 即非の論理の後半は構造主義と大変に近似していると言える。構造主義において名付けの原理はその差異性を恣意的に決定することによって行われるとされるが、即非の論理はなぜそれが可能なのかを説明していると考えられる。即非の論理に基づくならば、そもそもその差異性は先天的なものでは無い(Aは即ちAに非ず)。
 即非の論理にせよ、構造主義にせよ、その前提には実在の否定が必要となる。私たちが自由に名を与えられるのは、名を持つものが名を持つものとして実在しないことが必要だからだ。そしてこの実在の否定は常に即非の論理を呼び起こす。しかし、それは非論理的展開ではなく、むしろ極めて論理的な帰結なのだ。
 しかし、実在の否定という前提は、極めて強い衝撃を与えるものでもある。西洋哲学にも実在の否定に通底する思想がある。それはニヒリズムである。
 実在は常に物事の前提になる。これらの前提は同時に何らかの価値を規定することになる。ニヒリズムとはそれを否定する思想である。
 このように、西洋哲学の考え方というものを借用してみると、即非の論理と言うものの無駄な神秘性はいくらか剥がれ落ちることになるだろう。
 トートロジーを超えたところに真理があるのは事実だとしても、それはトートロジーが一切にわたって成り立たないことを意味しない。そして即非の論理は、決してトートロジーに反したものではないのだ。
 実在の不在という真理は、眼前に展開される諸存在というものの取り扱い方を再び問うものとなる。即非の論理とはそういった眼前の世界との最も原初の関わり方の提示でもあるのだ。

女性性一元論

 週一本。2000~3000字程のまとまった文章を書いていこうと考えたものの、毎週毎週テーマを見つけるというのはなかなか難しいものがある。そこで友人に相談をしたところ、「ジェンダー論というものがイマイチ分からん。教えて欲しいのでそれをテーマにしてみろ。」と言われた。私自身の中でもそれほどジェンダー論に関する世間一般の考えが定着していないこともあって、ここ数日その件について考えてみたところ、非常に興味深い思想が自身の根底にあることが判明した。それこそが題名、「女性性一元論」なのである。
 まぁまずピンと来ないだろう。そもそも一般的で素朴な、そして根源的な性理解というものは、肉体性(セックス)の差異として現れる男女を二元論的に理解することから始まる。それは様々なジェンダー論のほとんど全てにおいて通底した考え方であるように思う。それこそフェミニズムにしろ、LGBTのような考え方にせよ、そういった二元論的理解の適用範囲に対するアンチテーゼであったり、二元論から多元論へと展開していく発展系として理解される。しかしながらその根底には根強い男女二元論的思考法がある。
 結局のところLGBTのような性の多様性は、性自認・肉体性・性的対象の性、等といったようなものの複雑な掛け合わせでしかない。その根底にはただ男女という基本的な二性しかない。あるいはただ男女のみがあるとも言える。その要素の組み合わせが単純でないという事実を周知させたという点に置いてLGBTの運動というものは非常に意義深いものがあり、評価に値するが、その根底には男女二元論が依然として根強くあることを理解しておいて貰いたい。
 一方フェミニズムの本来的に主張するところとはつまりジェンダーロール(社会的性)に対して、セックス(肉体性)のアナロジーを持ち込むなという男女二元論の社会的性での適用の拒絶、社会的性における男女二元論の一種のアンチテーゼとして機能する。これもやはり男女二元論を信じていなければ出来ないことである。故にフェミニストの運動というものは様々な形で歪み、その本来形を容易に忘却せしめる。彼らのほとんどは元来、男女二元論者なのだ。
 こうしてみるとフェミニズムLGBTが運動として結び付きやすく、さらにその一般的理解がさらなる歪みをもたらすことが分かる。
 まず抑えておかなくてはならないのは誰も彼もが男女二元論者であるということである。男と女がまずある。
 LGBTはこの男女というものが一個人の中に複雑に分布することを主張する。そしてそれは現行社会の指定する社会的性としての男女とは決定的に噛み合わない。
 現行の社会的性としての男女というものは一個人の中に男女が複雑に分布することを想定していない。全ての個人は男であるか女であるかに分かれると考える。
 これは実は本来的なフェミニズムも了解していることである。現行の社会的性の理解とフェミニズムの社会的性の理解が決して和解出来ないのはそのような男女の差を社会的役割として持ち込むのか否かという点である。フェミニストはそれを認めない。そしてLGBTの主張するような事例は持ち込むべきでないことを援護する格好の材料となる。
 さて、そこで近年は新たな理解形式として、複雑化した性に対して、それをそのまま社会的性として理解しようとする動きがある。ほとんどの主流的なLGBTは自身の性に対する理解が得られるという点でそのことを拒否しない。しかし少数派となるようなLGBTは自身の性と社会的性の不一致から、そしてフェミニストは社会的性の導入が女性にとって不利であることから、反対する。
 しかしそれでも誰もがその根底に男女二元論を持っていることは変わらない。
 これが現在のジェンダーに関する整理された問題系である。これでおおよそ友人の聞きたいことには答えられただろう。多分。
 さて、ここからはこれらを調べていく過程の中で、自分の中に生じた違和感から分かった私の性理解について開示しようと思う。これは相当に私の思想に対して強い影響を与えていた。
 最も強い違和感は、既に散々に述べているように、男女二元論そのものにある。どのようなジェンダー論に関する主張も、その前提に男女というものが違うのだ、対等に違うのだということを述べる。
 私はこれに非常に強い違和感がある。果たして言うほど男女というものは違うのだろうか?と。脳科学的にはおおよそ男女の違いというものは依然として証明されていない。
 しかし男は理性的で女は感情的であると言ったような言説がまるで脳科学的な裏付けがあるかのようにまことしやかに流布している。少し周りを見渡せばその反例などいくらでも出てくるというのにだ。
 あるいはホルモンバランスが云々という説明の仕方で男女の違いがあるとする言説もある。ある程度の関連はあるのかもしれない。しかしそれが全てだとすると、性自認と肉体性の乖離は説明がつかないだろう。
 これらは男と女は違うのだということを主張するために使われているのだろう。そしてそれに関してはほとんど多くの人が同意している。私はとても同意できない。男女の違いなど、肉体、それも生殖器にしかない。それだけだと言うのが個人的な意見だ。
 そして私は本当の意味では男性というものを理解していない。すなわち女性に対して対等に並び立つものとして考えられるあの男性というものについて。
 私の性理解は文字通り、女性性一元論である。世界には、女性と劣女性がいるのだ。残念ながら、この理解では、LGBTの大部分に関して正しく理解することは不可能である。LGBTの大部分の理解は、それを集合的に理解しようとするならば、男女二元論的に扱わなくてはならない。最も最良なのは個人として理解することだと考えるが。
 多くの男女二元論とは、肉体性として対等に男女がいると考える。そしてあくまでも肉体性のアナロジーとして様々な性のあり方が考えられるのだ。
 私はそもそも肉体性としてのペニスを持つもの持たぬものの理解は、劣ったものと完成されたものという理解なのである。多くの人にとっての男性というものは、私にとってはどう足掻いても、劣女性でしかない。文字通り劣った女なのだ。
 結果として私の性自認は女性である。なぜならこの世の性にはそもそも女性しかなく、肉体性はその完成度の差であるからである。
 このような性理解というものが思想に対して相当に強い影響を保持するであろうことはなんとなく了解されるであろう。実際私の恋愛観というものは明らかにこの性理解の中で形作られているのだ。
 最後にあくまでもこの女性性一元論というものは私の性理解であるということに留意して貰えればと思う。そしてまた私が男性を女性と対等なものとして扱うことはなく、個人をそれぞれに対等に扱う時には一切性差を考慮に入れるべきでないと考えている。
 以上の主張をもって今週のノルマが達成されたことを宣言する。

シュルレアリスムの実作

以下は、数年前に私が実施した古典的シュルレアリスム技法、エクリチュールオートマティスムの実作である。

シュルレアリスムについては前回の記事を参照していただければと思う。

シュルレアリスムについて - 美味しく喰らう

 

無意識と有意識の境目で
人はいったい何を見るのか
ピーナッツバターか?
それとも虹色のカステラ?
パンケーキかもしれない
無意味なものに
意味付けをして
深層心理を探る
そう
本来これらは無意味なものに過ぎないのに
私たちは意味を与える
それが心地よいのか
それともそうしないとどうしようもないのか
私は後者だと思いますけどね
あはっ
楽しいことをしよう
気分が高揚してきた
君の山は紅葉しているかね?
もみじの赤は
切ない赤だ
紅に染まる
あの空を見よ
赤は刹那で
とても切ない
血の赤もまた
私にほほ笑みかけるのだから
あぁ切ない
君に刹那の切なさが
分かるだろうか
いいや分かるまい
君は刹那を否定して
無限に思いを馳せているから
知っているけれど
知らないもの
そこにこそ
知の無限の可能性が開かれる
拓くといい
新たな地平を
でも地平線の向こうは
滝だから
多岐の可能性は
消滅しているのさ
試練の時だ
君のジレンマをもう一度
さいわいなんて
快楽に勝ることが
あるというのか!
楽しい楽しい
今が楽しければ
誰も困らないのに
その為には金がいる
金金金金
金がいる
時として
金が不幸を生むけれど
快楽のためには
何をやっても許される
そうそれが金の持つ力
金のためじゃない
それは快楽のため
だから人は愚かなのだ
いつまでも
特に体に十字架の刻まれていない男達の
快楽へのハマり方は
常軌を逸している
世界を回しているのは
いつも女だ
女がいなければ
男はか弱い
なのに
女がいるから
強がっている
女は男を必要としていない
彼女たちは
一人であってもなお強い
彼女たちは
既に完成された
完全な生き物で
男は所詮
そのついでにいるだけなんだ
高度なこの文明だった
女の影に過ぎない
体毛を生やす男達の
野蛮さを見よ
清らかなるは
女であることは
もはや見た目だけで分かるじゃないか
君の大切な神経系を
一つ二つと切断して
痛みを刻み込まないと
水色の下着が迫ってくるから
ねぇ君は快楽を見る
だから私はそこに
痛みを教えてあげないといけないんだよ
快楽と痛みは紙一重
でも痛みは
とてもとても
大切な要素なんだよ
さぁ君も痛みとともにアレ
それこそが力の源なんだから
痛くて痛くてたまらない時
人は最も力を持っているのさ
力の無限性は
その痛みに
比例する
痛みもまた無限なのだよ
痛みなくして
力を得ることはできないし
だから男には力がないんだ
せめてそのぶら下げている
汚物を切り取ることが出来たならなぁ
君の気持ち悪い股間
蹴り上げて
一つ豚の餌にでもしてやりたいよ
あぁ君は不可視的悪魔の
従順なる奴隷なのか
いやまあ知ってはいたけれど
赤い紅い夕日は
落日の名前を冠して
明日を作る
夜はいいよ
夜は
あの満天の星空の中に
君の星と
私の星を見つけて
線で結べば
なおよろしい
縁があることが分かるだろう
サソリとオリオンは仲が悪いが
それこそ最も縁があることが
君にもやがて良くわかるだろう
私の切ない
小さな幸いが
やがて闇夜を侵食して
虹色の雨を降らせて
世界を木っ端微塵にしていくから
その時まではどうか
静かに
その静止した空を
見上げていてください
私は
私のことにしか
興味が無いので
世界が散ったところで
痛くも痒くもないわけです
ただ一人
美の女神だけが
私の手元に残るなら
でもその存在は
私の心に空いた
あの穴でしか
できないのだから
私の精神の不完全さ
こそが私に女神の存在を
証明してくれるなら
こんな世界は
消滅してくれていいもんだよ
どうか私に
与えてください
愛と承認
美の女神
アフロディーテ
幻影が
私の心を
さい悩ますから
私の心は
アルテミスを求めたのです
銀の矢を奪ったことは
秘密です
しかし私は
不死鳥に対して
死ねというのです
分かりますか
この小さな矛盾
それこそ
無意味性の最大の象徴なわけで
どんな省庁だって
それに対して
権力を行使することは
できないのですよ
神ですら
その偽りが
証明なわけですから
照明を暗くして
どうか一人で
祈りなさい
部屋の奥で祈っていれば
君の幻影は
神を映して
くれるのだから
それには満足ができないと
ならば教皇のその姿に
神の姿を投影させればいい
アイドルが
私たちと神を繋げるのだから
偶像崇拝は神聖な行いだと
正真正銘分かるわけだ
まぁそれでも君は
女神に対して
最高の愛を捧げるのだろう?
まぁそれも一つのさいわいの形として
世界に記録されるべきだ
しかしそれ以上に
試練を
私たちは
必要とする
特に男は
十字架が無いのだから
神にも世界にも見放された
股間に汚物をぶら下げる
卑猥な生き物は
尊い
命育む
対となって
終となる
高貴な者達に
誠心誠意の
忠誠と
神聖を
認め
永遠の服従をすることで
初めて幸いなのだから
君はどこまでも
女の影に際悩まされるはずだ
おめでとう
それこそが世界が君を承認する術なわけだよ
全く世界というやつも
ちっぽけなものさ
なぁ君の小さな短小棒は
いったいなんの役に立つわけさ
快楽を与えてくれる訳でも無いのに
それは相手なしには
成立しないわけだしね
君の求めるものは
永遠に手に入らないのに
なんでもがいているんだい?
無意味極まりない
意味のあるものも
すぐさま無意味に還っていくんだから
世界の惨さには
涙するよ
その涙が
大地の乾きを癒し
私たちの小さな女神を
降臨させるのだから
さいわいだ。
でも穢れた者達は
それを陵辱して
その神聖さをも穢すのだから
罪深い
幼子の神聖を
損ないたがる
あの
ロリコンとか言われる
穢れた連中を
私たちは
一人残さず抹殺しなくては
でなければ
私たちの
涙の生んだ
小さな女神は
泡と帰して
地に帰ってしまうのだから
私たちは
血は流したくないのだよ
だから代わりを求める
生贄を
生贄は
処女肉が相場ってもんだい
代わりに使えるのは
羊肉
君は食べたことがあるかい?
処女肉を
ない
正直でよろしい
あれは美味だよ
全く美味だ
でもあれを美味だと感じるところに
私たちの最大の罪深さがあるのだよ
なぁ知っているか?
メシアは絶対に男ではないんだ
それは女にしか務まらない
神聖な役目なのさ
だからイエス・キリスト
偽物のなんだよ
それさえ知っていれば何も怖いことは無い
蛇と神とを取り違えないように
私はひたすら祈っているから
私の痛みは
君の痛みで
神とすらも
同期しているから
世界は君を見ていてくれているから
どうか安心しておくれ
きみのさいわいと
私の幸いの
小さな相違になんて
目をつぶって
一緒に罪深いことをしよう
そしていよいよその罪深さに
哀しみを感じたのなら
君の頚動脈を
私は切り裂いてあげるから
君は私のそれを
切り裂いておくれ
神聖な女神達は
私たちのそれを
嘲り笑ってくれるから
彼女たちと一緒に
笑おう
それこそ最大の楽しみで
とてもとても楽なことなんだよ
ほら見ろ
もう日が落ちる
昼はなんと短くなったのか
彼もこれも
ハデスのやつが
大地の女神の
娘を
冥界にさらって行ったからだ
明快な真理は
いつぞや
世界から消失したのでしょうか
焼き払われているんだよ
この世界は1度
私たちの文明は
単純な結合だけではなく
複雑な有機結合を有するから
濃硫酸にでもぶち込んで
脱水反応で
ただの黒鉛
してやることが
急がれるわけだ
しかしこの有機結合は
あまりにも大きくて
それを全てぶち込める
濃硫酸が用意出来ないから
代わりに快楽を手に入れる
ほらアンモニア
はびこったカビを
一掃する様子は
世界から私たちが
一掃されるように
見えやしないか
私たちは必要とされていない
だからこそ
必要とされたい
それは愛と承認の形を持って
神聖な行いのように恋愛を昇華させるんだ
君のあらゆる感情は君とともにあるのに私はそのことに目をつぶっていたいのさ
だから世界には
どこまでも破滅しかないんだよ
分かるかいこの矛盾が
世界が途切れるなんて
あまりいいことではないわけだけど
それが君の小さなさいわいを形作るのだから仕方ない
ねぇ闇を切りさく
冷たい光が
いつも私たちを傷つけることに
本当はあなたは気づいているんでしょう?
なんで目をそらすのかしら
私はそれを見て欲しくてたまらないのに
気づいたら流れてる
あなたの血を
こうやって
舐めて啜って
気づいたら
あなたが死んでいるなんて
猟奇的で
魅惑的で
幸福的だと思わない?
そうやって原初の幸いは
生死の狭間をウロウロした
虚ろな光となるわけだけど
うろに待ったみつは
いつも甘いとは
限らないところが
世界の偶然性を
証明するんだよ
それはときどき
アルコホールを含んでいて
私たちには
やっぱり
快楽を与える
でもね
快楽とさいわいを
履き違えたら
待っているものは
破滅だからね
それは忘れてはいけないこと
ほら魅惑的な
虹色の人形が
人魚になった
ね?
それが君の見た
愛と美なんだから
私たちは
何も見つけられないのよ
それは
また
イルカの背中の黒光りに
生々しさを感じて
私たちには生と死を与えるのだから
君は一度死んだ方がいいんだ
神は見届けてくれるさ
笑いながら
その微笑みの
冷酷さを見れば
君は神を信じなくなるんだから
でも女神は
泣いてくれる
だから君は死ぬまで
女神の尊さをしらなくて
死んで初めて
女神の尊さを知るんだろ?
だから君は太陽を男だと思い違うんだ
男は常に地上にしかいなくて
天界にひしめく
あの美しい声楽は
全て女神によって構成されているんだ
男は所詮ちっぽけなものでさ
せいぜい冥界の王になるのが関の山だ
死者の王国を
神の王国だと勘違いして
女をすべて排斥してみろ
黄色の風が
舞い散るぞ
それはあらゆる動植物を枯れさせて
その風に生きることが出来るのは
ほんとに死人だけになるのだから
君の愛しいあの人だって
君とともには
居てくれないだろ?
それが穴になるんだ
心の穴に
そこに男を住まわせてはならない
せめて代替に使うのは
処女神が一番いい
アルテミスが最適だと
私は思っているのだけれど
まぁアテナとかでもいいと思うな
そうそう血というものは興味深いんだよ
あれはあの赤は
ヘモグロビンとかに由来するものだけど
そんなことを抜きにしたって
血液のもたらす
数多の効用は
世界に知れ渡っているじゃないか
君は見ないふりをしてはいけない
どちらにせよ気づいているし
知っているんだから
君の原初の幸いが
君を破滅に追いやるなら
それこそ
つまり破滅こそが
幸いであるのは
よく知った話だよ
君はいつでも
愛してる
世界をね
その先に
拗れた愛があることを
君はよくよく知っているだろう
楽しい遊びはいつでもそう
ナイフで突き刺すだけだから
君のつまらない話だって楽しく聞いてくれる人がいるんだから
やっぱり私たちは
幻影の中で
小さな幸いを欲するのが
限界なんだよ
君は嘘つけと言うだろうけどさ
嘘と欺瞞に溢れているのは
いつだって君の方だろ?
ほら今君の体にとりついてる
私の正体を
君は知らない
まぁ私が知らないのだから
当然だと思うけど
それとも君は知ってるの?
私の名前を
いや知らないね
君は目星はつけていても
私の名前までは知らない
私は私であって君じゃないのに
君と同じなんだから
ほら分かるだろ
つまらない些細な出来事が
少しまた少しと
運命線を切り刻んで
豚箱に送り込んでいるということを
ねぇ直感とインスピレーションを大切にするなら
それ以上に君の女神達を大切にしなきゃ
それが君にあらゆる幸いを
与えてくれるんだから
君は養わせてもらうんだから
尽くさないといけないよ
って
世界の悪趣味な
でも無意味な呪文が聞こえるだろ?
それに合わせるように不可視的な悪魔は
いたいけな幼子を
いたぶっているんだ
君に正義感があるなら
どうかその悪魔を
ぶん殴ってくれよ
無理だとは思うけど
それでも君に課せられた仕事は
そういうものだと思うんだよね
女神の声が聞こえるなら上々
君に溢れる
その温もりの
初元が
女神にあることに気づいているでしょ?
古い家族の話じゃない
新しい家族の話さ
美と愛は
常に同一視される運命なんだ
分けられるものも時には同じになるのは
神の言葉を
悪魔の言葉に
悪魔の言葉を
神の言葉に
捉え直しているからで
素直に受け取ることが出来るなら
君にだって真実の扉は
開いていくんだ
君が見ている
私が見ている
同じものを見ていても
もたらされるものは
災いと幸いで
幸が不幸で
不幸が幸なのさ
なのにキミはそれをかたくなに否定するんだね
何を意固地になっているのか
わたしにはやっぱり分からない
君のピーナッツバターが
どれほど美味しくても
チョコレートメロンには
勝てるはずがないだろう?
私は甘いものが好きなんだよ
豆が好きなわけじゃないんだ
細々したことは苦手だしね
ほらホットケーキやカステラの方が
ピーマンよりも好きだから
私にくれよ
その快楽をさぁ
ねぇ君は
どこまでも付いてくるんだね
うざいよ
だからさ私は一つ暴走して
君を置いてけぼりにしたいわけ
いつまでも私の手綱を握るのやめてくれない
あなたを壊したくはないのだけれども
あぁ君はそれでもついてくるのね?
壊れたいの?
ドMなのかな?
まあそれはそれで面白そうね
一つ嫌なことを教えてあげる
あなたはどこまで行っても
必要ないの!
いらないの
いらないの
誰も待ってないし
誰も欲しくない
あなたの必要性は
この世界には皆無なのよ!
いい?あなたはだから今すぐ死なないといけないの
不必要なものを養う余裕なんてこの世界にはもう存在していないんだから
どんなに泣こうが喚こうが
決定事項は変わらないの
だから死んで
お願いだから
あなたの死は
世界を幸いに満たすのだから
ほら死になさいよ
私も共に逝ってやるからさ
嬉しいことは
私は生き返れて
あなたは解脱した事ね
あなたにとってやりたかったことは
私が代わりをしてあげるから
気兼ねなく
この輪廻回廊から抜け出して
極楽にでも地獄にでも
お出かけなさいな
生の苦痛から逃れられるのだから
何が嫌なのよ
死ね
分かる?
不要なの
世界は欲してないの
あなたなんて
男なんて
その軟弱な精神で
世界を我が物顔で闊歩しようなんて
不可能もいいところよ
どうか人の世から離れて
あなたの居場所はここじゃない
仏様にでもなってくださって
とにかくこの体は
私に預けて
精神世界のトラファルガーを
超えてきなさい
これは女神の命令で
あなたの穴に収まるものよ
死なのよ
それは
あなたは分かっていながら
なんで目をそらすのかしら
ほらこっちを見なさい
そしてこい願いなさい
私を必要としてくださいと
それが出来ないのなら
この穴の奥深くに放り込んで
そのまま朽ち果てる様子を
紅茶を飲みながら
観察さて頂戴な
男はいらないの
すべて全て死に絶えれば
私にやってくるのは
さいわいなんだから
あなたは必要ないのだから
死になさい
それが世界に新しい光明をもたらす
たった一つの方法なんだから
死んでしまうのが賢いのよ
そんな簡単なこともわからないから
あなたのアフロディーテ
消え去ったのよ
知っているでしょ?
あの日あなたが
男だったからこそ
それを追いやったことを
私はあなたに忘れたなんて絶対に言わせないんだから
とにかくあなたが今すぐすべきことは
頭をたれて
私の足と手の甲にキスをして
その忠誠と従順を誓った上でこういうの
わたくしめを必要としてください、我が女神、最愛なるもの
って
いい?それが出来ないなら
私はか弱いこの腕で
重い重いあの銀の剣を持ち上げて
その剣先を
あなたの喉に突きつけるのよ
死んでもらうは
当然よね
私の必要としていないものが
私と精神の根源を
同じにすることなんてできないんだから
屈強ならものなら
私を守る盾となりなさい
それのできないものならば
私はあなたを必要となんてしてないわ
どうか私の目の前から
消えていなくなれ
ねぇなんで死なないの?
こんなに死ねと罵倒されながら
膝まづきもせず死にすらしない
それどころか薄い微笑みをその顔に浮かべているなんて
このド変態が
あなたにはやはり私自身が剣を向けて
その頚動脈を切り落とさないといけないのかしら
何よその顔は
私にできないことなんてないのは
あなた自身が一番よく分かっているでしょう?
ここまで来てもまだ死なないのね
ならば膝まづきなさい
お願いだから跪いてよ!