美味しく喰らう

天才とは様々なものを「美味しく喰らう」存在

休日を無為に過ごしたことに関する反省

今年の私は書くことをこそ使命とし、それに従事しようと言うのが、もっぱらの目標である。そのついでに、人に対しても文章を書けとせっつく心づもりがあるとなると、自分が人に書けとせっつかれた時には、これに応えないということは、筋が通らないだろう。
というわけで、今回の記事が執筆されているわけであるが、特段書こうと思えるような特筆すべき主題がある訳でもない。書けとせっつかれたのも、日記的なものを書けとの事であったから、なおのこと主題を見つけられない。
ここで主題を見つけられないという事態は、私の生活が散漫としたものであることを示している。だいたい仕事が休みだということで、わーい夜更かしできるぅ! と喜び勇んで夜更かしを楽しむのは良いのだが、いよいよ寝るタイミングを失っている。
さて、深刻な問題もある。仕事が休みであるということと合わせて特段のやる気もなかったので、本当に無為に一日を過ごしたのだ。最近私は、一日事にいくつかのタスクを設定し、これをこなすことで、一日を有意義なものとすることにしていた訳だが、つまるところ、昨日は、まったくそのタスクをこなしていない。果たして、これからそれらのタスクを巻くことはできるだろうか? 正直そんなことが可能な未来を思い浮かべることは困難である。
一日たりとも、自ら従事すべき仕事から逃げ出すべきではないのだという反省がこの文章を覆っていく。
信仰を証することこそが、私のある種の固有な実存であって、幸福に資するものな訳だが、自ら自らのことを幸福から遠ざけているのは愚かであるとしか形容出来なかろう。
せめて明日こそは自らにとって十分に納得のいく一日にしたいものだ。

存在するとはどういうことかに関する報告

アブストラク

前段で報告したような実在論的唯我論はいかにして諸存在を説明するのか、形而上学的に正当な唯一の存在理解の仕方について報告します。

 

二      存在するとは認識されることである。
二・0一   存在するという事態は、実在するものから説明される必要がある。
二・0二   実在するものとは、前節までで見てきたように、「認識主体」である。
二・0三   「認識主体」から説明される存在の最も基本的な様態は、認識されるという事である。
二・一    あらゆるものは認識される限りにおいて存在する。
二・一一   全てのものが存在する。但し、「認識主体」を除いて。
二・一一一  「認識主体」は「認識主体」としては認識されないのであるから、存在はしない。
二・一二   全ての存在するものは、<認識対象>である。
二・一三   我々が、日常的な言葉の使い方として、存在しないと述べるようなものも、そのように述べられる対象を認識せずには述べ得ない以上、<認識対象>であり、存在する。
二・一四   存在しないということは、認識されないということである。
二・一五   存在しないという事態は、存在しないから存在しない、つまり、ないものはないというトートロジーに過ぎない。
二・一五一  存在しないという事態は、立証出来ないということによって、そのように主張されるわけではない。
二・一五二  立証不可能性から主張されるのは、"「認識主体」以外が実在しない"ということである。
二・二    存在するものが現象的に生起する場として対象領域がある。
二・二一   対象領域とは、マルクスガブリエルの提唱した概念である。
二・二一一  曰く、「特定の諸対象を包摂する領域であり、それらの諸対象を関係付ける規則が定まっていなければならない」
二・二一二  全ての存在するものが一度に対象領域に生起する訳ではない。
二・二二   我々の実際的な対象の把握は、この対象領域に強く依存する。
二・二三   ある存在が、対象領域に現れる時、これを「顕在する」と言い、日常的な言われ方として存在すると言われる事態と一致する。
二・二四   ある存在が、対象領域に現れていない時、これを「潜在する」と言い、日常的な言われ方として存在しないと言われる事態と一致する。
二・二五   <認識対象>は対象領域に先立つ。
二・二五一  いくつかの<認識対象>を特別な規則に基づいて把握することで、対象領域が成立する。
二・二五二  対象領域とは、つまり世界構造上のひとつの区切られた領域をある特殊なパースペクティブから眺めやることで生じる、存在論的な限定領域である。
二・二五二一 <認識対象>が、あるひとつの<認識対象>として屹立するのは、それが他の<認識対象>とは異なるということに由来する。これによって、あるひとつの<認識対象>は、差異による分節によって、他の<認識対象>と区別されるということが分かる。
二・二五二二 ここから、我々は、このような諸分節の成立する以前の(仮想的な)単一の<認識対象>としての世界を理解する。この世界なるものは、その特有な構造、すなわち世界構造を有し、我々が実際的に把握する諸<認識対象>はここから分節されたものとして理解される。
       構造主義を存じ上げる読者諸賢には馴染みのある考え方であろう。これはつまり形而上学的な構造主義理解である。構造主義の言うように、我々の思考内容は言語構造に依存する。これは<認識対象>にとっても共通するところのあるものである。しかしながら、<認識対象>は必ず言語的である訳では無い。それでも、諸<認識対象>がそれぞれに固有の<認識対象>であるとき、そこにはその<認識対象>をその<認識対象>足らしめる他の<認識対象>との差異が求められなくてはならない。そしてこのような差異の成立は、構造主義的な理解における分節と一致する。
二・二五二三 このようにして成立する複数の<認識対象>は、ある特定の地点から覗き見られる時、独特な関係によって規則的に配置されているように見えうる。この時、ある特定の地点から眺めやることで開かれるパースペクティブこそが諸<認識対象>を規則づけ、関係させているのである。
二・二五二四 眺めやることで開かれるパースペクティブによって、諸<認識対象>が規則的に関係することで、その規則に基づく特殊な領域が形成されることとなる。この特殊な領域は、存在論的な領域として機能し、また規則によって限定された領域である。これこそが対象領域である。
二・二五二五 ここまでで対象領域(及び形而上学的な構造主義理解)について最低限の了解は出来るだろう。ここからはさらに理解を深めるために、いくつかの喩えと具体例を通して上述した事柄が示そうとしているものに迫っていく。
       さて、<認識対象>の成立における差異による分節という事態は、夜空に星座を描く様に喩えられる。つまり、満点の星空を見上げた時に、そこには黒い背景に無数の光る点が散りばめられているわけであるが、このような状況は未分節な単一の<認識対象>としての世界として理解される。星空を世界と見なした時に、いくつかの恒星によって、星空から切り分けられる、すなわち分節されるものとして、星座が現れる。このような星座こそがこの喩えの中では、諸<認識対象>として振る舞う。このような星座たちのうち、例えば天球上の太陽通過軌道、すなわち黄道によって規則づけられるものは、黄道十二星座といい、星占いなどで用いられるわけであるが、これが対象領域に位置づけられる。この他にも、季節ごとの夜空に浮かぶ星座たちであるとか、北の空の星々であるとか、南半球の星座であるとか、こういったものが対象領域として理解出来る。
       次に具体例をいくつか挙げてみよう。生物分類における哺乳類という概念は対象領域である。我々は哺乳類について、哺乳類そのものを形象する像を描くことは出来ない。我々が哺乳類と聞いて実際に思い浮かべるのは、馬や牛やネズミや人間などの具体的な哺乳動物であって、これらの分類されるカテゴリーとしての哺乳類を描く像は思い浮かべられない。ここで馬や牛やネズミや人間などの具体的な哺乳動物が<認識対象>として理解出来る(実際にはこれらの種も具体的な個体、つまりキタサンブラックドナルド・トランプなどを<認識対象>として形成される対象領域としての側面があるわけだが)。これらの具体的な哺乳動物としての<認識対象>が、その生態的特徴によって規則的に配置された時、ようやく哺乳類という対象領域が成立するのである。
       別の例を見てみよう。諸学問は対象領域を形成する。例えば、ここで<この文章>という<認識対象>について、考えてみる。例えば、物理学が成立するような対象領域の中では<この文章>は、(ブログ記事であるから)電子機器上の表示として理解されることになる。あるいは修辞学が成立するような対象領域の中では<この文章>は、ある文法構造上に配置される。そして、哲学が成立するような対象領域の中では、<この文章>は実在論的唯我論や形而上学構造主義理解について解説する文章である。このように、ひとつの<認識対象>は様々な対象領域上に配置される事があるが、どのような対象領域に配置されるのかによって、その<認識対象>の理解は大きく異なることとなる。とは言え、ある<認識対象>がその<認識対象>である固有性が発揮される対象領域において理解されるべきである。つまり、<この文章>の場合、物理学や修辞学の成立する対象領域で見られるとき、<この文章>でなくても、同じように見ることが出来るだろう。<この文章>にとって適切な対象領域のひとつは哲学が成立するような対象領域である。
二・二五三  対象領域を限定する諸規則は様々な仕方で変更される。
二・二五三一 この変更の仕方の類型を列記することは、現時点の筆者の浅学により困難を極める。しかしながら、このような事態についての思案を以下に記しておく。
二・二五三二 諸規則の変更という事態について。この事態について考える時、筆者はクリプキの規則=共同体論であるとか、東浩紀の訂正可能性の概念を想起する。これらの諸論は、厳密にはより社会的な事柄を扱うものであり、その全てをこの対象領域における諸規則の変更という問題に適用できる訳では無い。しかし、この適用が困難となったのは、おそらく筆者による対象領域の位置づけに拠るところが大きいように思われる。おそらく元来のマルクスガブリエルの考えるところの対象領域と、上記したような分析哲学ポストモダンの考え方は、筆者の手による対象領域の位置づけよりは余程接近しやすいものである(そのことについてマルクスガブリエル当人がどのように考えるのかは筆者には分かり兼ねるが、嫌がるようには思われる)。というのも、全てに共通して言えることは、これらが語りの場の強い影響を受けるものであって、<他者>の存在を前提しているものであるからだ(なんなればこれは構造主義に関してすら同じ事情を有しているだろう)。もちろん、筆者も諸規則の変更という事態に関して<他者>の影響の大きさは尋常なるものでは無いと考えるが、この事態の成立は、<他者>の到来以前から有り得る、可能な事態として考えられなくてはならないと考える。というのも、本当に確かな事柄、すなわち「明らかにすることの出来る唯一の実在は「私」であるところの「認識主体」だけである」という頑強な足場から考えるならば、明らかに<他者>の存在はアポステリオリであり、そして世界の存在無しにはその到来は説明されないものであるからである。故に、元来<他者>ありきであった幾つかの概念に関して、これを前<他者>的な、世界の形而上学的理解のために供するのである。ここで提供される哲学的概念の多くが言語論的転回の影響を受けたものであるが、というのも、<認識対象>とは認識されるものであって、これこそが存在するものであるのだから、存在について考えることは、それがどのように認識されるかの問題であるからだ。そして、このような問題について考えるときに、果たして誰が言語論的転回の示唆を無視出来るものだろうか? 言語論的転回の唯一の問題点は、それが言語論的であるが故に、世界理解について無根拠に<他者>を前提してしまっている事に尽きるだろう。確かに、構造主義の主張するように、我々の認識にとって、言語が果たす役割は非常に大きい。それがさまざまな差異を作り出し、我々の現実世界を実際的に豊かなものにしていることは疑いようがない事実だと言って構わないだろう。しかし、それは我々が前言語的には差異を認識出来ないということを意味するものでは無い。これらは前言語的にも同じように成立する事柄だと考えられる。そして、このような前言語的成立は、諸規則の変更という事態についても生じうるものであろう。もちろん、<認識対象>の成立、対象領域の形成、その諸規則の変更は、それぞれ言語的にも成立するものである。
二・三    世界は、あらゆる認識されるものの総体である。
二・三0一  すべての<認識対象>は世界より分節されたものである。
二・三0一一 世界は、差異によって分節されることで、諸<認識対象>を成立させる。
二・三0一二 つまり、世界はその一部を切り取って、我々の目の前に現象する諸<認識対象>として現れる。
二・三0一三 全ての<認識対象>は、世界の一部である。
二・三0二  世界は始源的な<認識対象>である。
二・三0二一 「認識主体」は、すべての<認識対象>のうち、世界を最も原初的に看取している。
二・三0二二 「認識主体」に対して、世界が<認識対象>として現象する時、我々は仏教が示す空概念を会得する(厳密にはこの空概念の会得は、より神秘的な事態への入口として機能する。そのために必要な材料はここまでの議論では揃っておらず、またそのような話に関連する諸事情を勘案すると、空概念を入口とするより神秘的な事態に関してはここでは深く立ち入れない)。空概念の体得において重要な点は、無と有の同一という事態を把握することである。ここで、世界という<認識対象>の把握から空概念の会得が出来るということは、我々の日常的な存在理解を示している。つまり、世界が<認識対象>として現象している以上、有である世界の存在は看取される訳だが、これが無、すなわち存在しないことだと解されているのである。
二・三0二三 つまり、我々の通俗的な存在理解は、分節された諸<認識対象>に依存している。看取されることとなる、<認識対象>としての世界は、論理的には確かに存在するものであるのだが、その未分節な様に、日常的な現象に最適化されたいくつかの思考の癖、すなわち臆見は付いて来れないのである。臆見は未分節な<認識対象>の存在をとらえ損ね、存在しないものとして取り扱う傾向がある。その中で、仏教の空概念は、臆見によって構成される考え方の中では、存在する世界に最も差し迫ったものとなっている。というのも、空概念において有であるところの諸<認識対象>についてその起源を正しく、世界から供出されるものとして理解しているのである。
二・三0二四 一方で、世界について、それを対象領域でしかないと考えるならば、なるほどこのような対象領域はありえないものとして理解されるだろう。このような考え方に至るのも臆見の成す成果である。すなわち、対象領域は諸<認識対象>無しには成立しえないものであるから、全ての対象領域に対して諸<認識対象>は先立つ。これが先立つのであるから、対象領域は<認識対象>から構築されるものとして理解されるわけであるが、すると世界という対象領域の成立は認められず、世界は存在しないというテーゼが成立するのである。このような考え方の根本的な原因は、諸<認識対象>がそれぞれ別個にあらゆるものに先立って存在していると考えることに由来する。
二・三一   存在するものは、全て世界の内部に位置づけられる。これは我々の一般的で通俗的な世界に対する観念と一致する。
二・三二   「認識主体」は世界の内部に位置づけられない。なぜならば、「認識主体」そのものは認識されないからである。
二・三三   故に「認識主体」と世界は対置される関係にある。
二・三三一  この関係の中で誤解してはならないのは「認識主体」と世界は存在論的には対等ではないという点である。世界に対して常に「認識主体」はアプリオリである。「認識主体」は世界の開闢点として理解される。
二・三三二  一方で、認識論的には対等である。その基調は、視るー視られるの関係にある。奇っ怪な想像(つまり、まさにこの想像をする者を完全なる非存在として取り扱うような想像)で考えるならば、無なる場に浮かぶふたつの対象としての「認識主体」と世界を想像出来る。この無なる場にはこのふたつの対象しかない。──当然、この想像自体は大きな誤りに満ち満ちている。このような想像の実際は、無なる場なる物こそが世界の役割を演じ、「認識主体」は<認識主体>と化しているのだから。とはいえ、このような想像を通して、「認識主体」と世界の持つ認識論的対等性が明らかになるだろう。このような対等性について上記のような奇っ怪な想像が可能なのは、ここまでの「認識主体」と世界についての論理的整備があるからこそであり、実際的な経験としてはこの対等性を感受することは難しいものである。
二・三三三  全ての<認識対象>が世界に内包されるのであるから、我々のある種の理解として世界を基準とする区分けが成立する。このような区分けに従って「認識主体」は外世界的な点として理解され、我々の実際的な諸問題が内世界的なものであることが理解される。そして、素朴な観点からは全てが内世界的であるが故に、多くの過去の哲学者は自らというものについてもその内世界性を疑わなかった。それが世界は存在しないという誤った結論や、有益であるが不完全な世界=内=存在として現存在なる観念を成立させてきた(この点に関する過去の哲学者の誤謬を列記しようとすればキリがないだろう。それだけで哲学史が紡げる)。
二・三四   世界は始源的には確かに単一の<認識対象>であるが、現象している実際的な世界について考えてみると、対象領域としての形相を帯びる。
二・三四一  世界という対象領域は他の大小の対象領域と異なり、全ての対象領域を包含する。
二・三四一一 それ故に、世界が存在しないなどと言われることもあるが、このような言説は世界という対象領域の特殊さを見落とすことで生じる。
二・三四一二 世界という対象領域の特殊性は、世界が、対象領域であることに先立って、<認識対象>であることに起因する。
二・三四一三 通常の対象領域の成立は、その対象領域を形成することになる諸<認識対象>の把握から始まる。いくつかの<認識対象>の把握から、それらを貫くことの出来る規則が発見されることで、通常の対象領域は存在できる。諸<認識対象>を貫く規則なしに、通常の対象領域が存在することは無い。
二・三四一四 一方で、世界が対象領域として機能し始めるのは、諸<認識対象>がそれ単体では存在できないことに由来する。諸<認識対象>は経験的に常に他の存在するものから浮かび上がるものであり、これらが浮び上がる場として、対象領域が指定される訳であるが、対象領域もまた<認識対象>となる。この時、世界を除くすべての認識対象が共通して浮かび上がる場として、世界は対象領域として機能することを余儀なくされる。ここで、世界が対象領域として機能できるのは、これが諸<認識対象>の母であるからである。世界はその部分を諸<認識対象>に明け渡すことで、諸<認識対象>を成立させる、大いなる母体であるのだから。
二・三四二  我々の関心が諸<認識対象>へと向けられることにより、世界は背景化されることとなる。
二・三四二一 我々の関心が諸<認識対象>へ向けられると、我々の焦点は諸<認識対象>へと釘付けられることとなる。そのように釘付ける当の<認識対象>以外は、その<認識対象>を引き立てる背景と化す。
二・三四二二 分節化は、<認識対象>をそれ以外から引き出す作用がある。世界は<認識対象>が成立する度に、それ以外として背景化されるのである。
二・三四二三 背景化されたものも存在はしている。世界は背景化されることで視野そのものと同義になる。この事態を持って、視野を視野として捉えることはできないからと言って世界は存在しないと結論を出すのは、全く早急であると言わざるを得ない。視野に写るすべてのものは認識されており、存在するものである。視野そのものは対象領域である。それゆえに始源的には<認識対象>であるところの世界は、分節化を通してその一部を諸<認識対象>に明け渡すことで、視野として機能する対象領域として理解されることになる。
二・四    <私>は<認識対象>である。
二・四0一  臆見に基づいて、自分自身として規定される多くのものが、<認識対象>である。そのようなものについて考える時には、明らかにすることが出来る唯一の実在である「認識主体」としての「私」と区別して、<私>と表記される。もちろん、<私>として理解される全ての対象は<認識対象>であるから、その存在は「認識主体」に認識されることで成立し、世界から分節されたものである。
二・四一   これまで哲学が取り扱ってきた、自我や自己に纏わる諸問題において検討されてきたのは、<私>に属するものであった。しかし多くの哲学者が「認識主体」の特性を<私>に属する問題と取り違えてきた。身体のみならず、心や精神、意思などと言った諸問題の主題はすべて認識される対象であって、内世界的なものである。これらの内世界的な対象は「認識主体」の特性を有することは無い。
二・四二   身体と精神をふたつの実体として捉える心身二元論は、近代哲学の方向性を決定したと言えるが、もちろん、実在論的唯我論においては、両者ともに実在性は認められず、<認識対象>である。これらの自我論上、「認識主体」の特性を誤って付与されてきた<認識対象>は次のような特徴を持つ。
二・四三   身体は<認識対象>である。であるからして、これは自分自身そのものとは言い難い。身体は道具的存在として「認識主体」に指向性を与える。
二・四四   精神や心と言われるものも<認識対象>である。これらは意志に関係する機構として理解されるだろう。ここからよくあるひとつの誤解が生じる。曰く、「「認識主体」は精神や心のようなものである」。これは全くの誤りだと言って良い。何故ならば、精神や心という対象は<認識対象>であるから、その内的構造を問うことが出来るものであるが、「認識主体」に関してはそのような取り扱いは出来ないのだから。精神や心は意志と分かちがたく関係するが、意志も<認識対象>である。そして意志もまた道具的存在として「認識主体」に指向性を与える。
二・四五   <私>は他の<認識対象>に対して特筆すべき特徴を有する。すなわち、<私>は主体性を有する。身体や意志のような<認識対象>が道具的存在として生起することで、指向性を持ち合わせることが、このような事態を提供する。しかしながら、そのような特徴を持つこの<認識対象>が、なぜ特別に<私>と名指されることになるかの解説は次節にて明らかになるだろう。

 

続き→鋭意執筆中

続・我が変化を見る/メルクマール

 今回の記事は、『我が変化を見る』の続編であって蛇足であろう。数年ぶりに『我が変化を見る』には不要な一節が追加されることとなる。それに伴って、『少なくとも時間だけは進んでいる』『青春への未練』の二つの記事も遡及的に『我が変化を見る』の続編に登録される事となる。もしかすると今後もこのような不要な追加があるのかもしれない。とは言え、しかしこれはどうやっても『我が変化を見る』本編には接続出来ない。今後付け加えることになるであろう、不要な追加にとっても事態は同様であろう。
 それでもこれを『我が変化を見る』の続編として位置づけたくなるのは、この記事が、私の人生におけるある種のメルクマールとして、記録に残されていて欲しいと、未来の私に対して思うからである。今の私にとって、『我が変化を見る』は、ある一時代を示す重要なメルクマールであるし、これからもその役割を果たし続けるだろう。
 
 私は今、おそらく人生にとって青春時代と呼ばれるに相応しい何かを過ごしているはずだ。あるいはそれはモラトリアムの延長である。私のおそらく同世代の一般的な青春よりも随分長い(長くなる予定の)この青春は、さしあたって19年11月をもって二分される。ここには明らかに断絶がある。
 この断絶は、人間関係の断絶とも実のところ異なるように思われる。全くそれを含まない訳では無いが、人間関係の変化はこの断絶を致命的なものにするわけではないのだ。つまり、青春を分断する何かとは異なる、乗り越え可能ではあるが、遠くに離れてしまうものとして、友人らとの関係性の変化は少なくないものがある。
 よくよく考えてみてら、もっぱら人との繋がりに関して、私はあまりにもコミュニティ基軸で動いてきたのだろう。それらのコミュニティは当然徐々に様々に変化をし、それはそのコミュニティの崩壊へと繋がるわけだが、そうやってコミュニティが崩壊してしまえば、コミュニティを介して人との繋がりを作る私は、友達を減らすことになる。そうやって様々なコミュニティをいろいろと渡り歩いてきた訳だが、既に失われた様々なコミュニティを思い出すことは少なくない。
 この前見た夢は、このことを強く印象付ける。高校時代から昨年に至るまでの種々のコミュニティのメンバーたちが一堂に会して、宴会を模様していたのだ。この夢を見た時、私はこれらが過去となってしまったことを強く意識した。失われたコミュニティは戻ってこないのだ。一方でその夢に出てこなかった何人かの友人は、未だに関わりのある友人で、その夢で見なかったものから、かえって現在の私の居る場所をはっきりとさせるものであった。
 ひとつの区切りがはっきりついたに違いない。これは青春を二分するような区切りとは別個の区切りではある。あるいは、このような区切りは元来日々更新されるべきものなのかもしれない。しかしあるまとまった期間が、そっくりそのまま過去として登録されたことが感慨深いのである。
 それらが過去として登録され、現在と一線を画するものとなったことで、そこへのアクセス権は制限されることとなるのだから。もはやそれらは全て思い出として語られる以外の接続を受け付けない。現在は、それらの過去の延長ではなくなったのだ。
 我々の素朴な時間観に基づくならば、全ての過去は現在に延長しているように思えるかもしれない。しかしよくよく考えてみれば、定期的な隔絶をもって、延長を寸断することで、我々は現在を現在として生きていくことが出来るのだろう。このような隔絶の契機は様々に有り得るし、そこで隔絶される過去の幅あるいは量も、様々であるし、あるいは、一度ならず隔絶された過去を、再度隔絶するなどということも有り得るだろう。これは、人生をどのような問題系によって切り分けるかの作業とも言える。
 現在進行形で、私は自らの集大成を表現しようと努めている。このような大きな脱皮を前にして、過去との決別をする契機が訪れたことを喜ばしく思う。今、新しい風が吹き荒れる。ここまでの道程が、かき消され、ただ前方へと脱出するほかなくなった。全ては荒涼とした未来に向けて投げ出せるのだ。まだ見ぬ景色を求めて。

何が実在するのか、唯一実在すると明らかにできる「認識主体」に関する報告

アブストラク

前段の報告結果を前提に、何が実在するのかという、存在基盤の根拠となる問題に対して、「認識主体」という解答を提供します。また、この「認識主体」の性質に関する分析を報告します。

 

一      明らかにすることが出来る唯一の実在は「私」であるところの「認識主体」だけである。
一・0一   このような立場を我々は実在論的唯我論と呼ぶ。
一・0二   この立場だけが厳密に物事の存在基盤を提供することの出来る唯一の形而上学的立場である。
一・0二一  形而上学を軽視するどのような思想も物事の存在基盤を提供しない。
一・0二二  また多くの既存の形而上学的立場もその厳密さは怪しい。厳密さを維持しようと努めるならば、パルメニデスの提示した論理的に真である存在理解を無視することは許されない。
一・一    つまり、「私」であるところの「認識主体」は、実体性と現実性を有している。
一・二    これが実体性を有していることは、認識の根源的システムから導かれる。
一・二一   認識の根源的システムの最も基本な構造は、視るー視られる(認識するー認識される)という関係によって成り立つ。
一・二一一  視る側は主体、視られる側は客体である。
一・二一二  客体は認識される対象であるから<認識対象>と言える。
一・二一二一 <認識対象>は存在者であるとは限らない。
一・二一三  視るという行為は視点によって支えられる。
一・二一三一 行為にはその行為を実施する存在者を必要とする。
一・二一三二 この存在者こそが主体であり、認識する主体であるから「認識主体」と言える。
一・二一三三 「認識主体」は視点と一致する。
一・二二   「認識主体」は視界を成立させる。
一・二二一  視界では諸現象が生起する。
一・二二二  全ての諸現象は視界の内側でのみ成立する。
一・二二二一 なぜならば、視界の外で生起する現象について考えようとする時には、その現象は視界の外にあるという初期設定に反して、視界の中に写り込むことになるためである。
一・二二二二 視界の外にあることに関して、我々は考えることすら出来ない。
一・二二三  この事実を示す思考実験は、方法的懐疑と呼ばれるものである。
一・二二三一 方法的懐疑はデカルトによって提唱された。
一・二二三二 その結論は、「我思う、ゆえに我あり(コギトエルゴスム)」である。
一・二三   「認識主体」は常に在り続ける。
一・二三一  このことは方法的懐疑から帰納的に証明される。
一・二三一一 方法的懐疑から、視界に写り込むものは在り続けるとは言い難く、生成変化の影響を被ることが分かる。
一・二三一二 しかし、方法的懐疑を実行する間も、常に視界は成立することとなる。
一・二三一三 ここから、視点としての「認識主体」が常に在り続けることが分かる。
一・二四   「認識主体」は実体性があるとはっきり断言することの出来る唯一の存在者である。
一・三    これが現実性を有していることは、自らの視点が絶対化されることに由来する。
一・三一   視界は常に同じ視点によって開かれる。
一・三一一  視界に描像されるものが異なるとしても、どのような時もそれを支える視点は同じであることは、経験的に明らかである。
一・三一二  我々は自分のものではない他の視点から世界を覗き見ることは出来ない。
一・三一三  自分のものではない他の視点を想定し、そこから物事を覗くことを考えていくと、実際に成立していることは、あくまでもある種の空間的位置取りを変えることに留まり、認識システムの根幹としての自らの視点を手放すことでは無い。
一・三二   このような事態を、視点の絶対化と言う。
一・三二一  絶対化される視点は、常に自らの視点だけである。
一・三二一一 これは自らの視点が他の視点になることは絶対にできないということ意味する。
一・三二一二 仮に他の視点であるつもりであっても、目の前に見えているものを誰が見ているのかと言うことを問い詰めるならば、それは常に「私」であるとしか形容出来ない。
一・三二二  絶対化されていないどのような視点、すなわち他者も視点としての機能を備えていることは確定的な事項としては取り扱えない。
一・三二二一 そのように取り扱うためには、いくつかの類推と信仰を必要とする。
一・三二二二 必要な類推は、自らと同じように他者もまた視点と視界を有していると考えること、つまり自らと他者を同様な存在であると考える事である。このような類推の為には、もう少し議論を待つ必要がある。
一・三二二三 必要な信仰は、他者と私が同じ世界を見ていると考えること、すなわち外界実在の信仰である。このような信仰は、存在一般の基礎を確立するためには、不用意に持ち込まれてはならない。
一・三三   自らの視点が絶対化されることによって、それは代替不可能性を獲得する。
一・三三一  「認識主体」は「私」でしかありえない。
一・三三二  故に「認識主体」=「私」と言える。
一・三四   自らの視点は、内世界的な事象に影響する。
一・三四一  なぜならば、全ての内世界的な事象は、自らの視点によって成立する視界の内に収められるからである。
一・三四二  これこそが、「認識主体」が「私」であると目される最大の理由である。
一・三五    唯一実体性を持つと言える「認識主体」は「私」と等しく、それ故に現実性をも持つ。すなわち、「認識主体」のみが実在すると言える。
一・四    「認識主体」は内的構造を有するとは言えない。

一・四0一  「認識主体」はゼロ次元的な点として理解される。
一・四一   内的構造を有すると言うためには「認識主体」は「認識主体」を覗き見なくてはならない。
一・四一一  しかしながら、そのような事態が生じることは、極めて不可解なことが成立することを意味する。
一・四一二  つまり、「認識主体」によって「認識主体」が見られている時、見ている「認識主体」と見られている「認識主体」は異なるものとなる。
一・四一二一 この時、見ている「認識主体」は誰であるか、これは「私」である。
一・四一二二 この時、見られている「認識主体」は誰であるか、これは「私」ではない。また、そもそも「認識主体」としての要件すら満たさなくなるので、これは「認識主体」ですらない。
一・四一二三 この事態を、無理やり成立するものとして理解しようと試みるならば、それは次のように記述されなくてはならない。
一・四一二四 曰く、「「認識主体」が<認識主体>を覗き見る」
一・四一三  よって、「認識主体」は「認識主体」を覗き見ることが出来ず、内的構造を有するとは言えない。
一・四二   「認識主体」は視界の内側に写り込まない。
一・四二一  瞳が視野に属することは無いように。
一・四三   「認識主体」は外世界的である。
一・四三一  「認識主体」は視界の内側では成立しないのであるから、これは内世界的な事象では無い。
一・四三二  全ての内世界的な事象は視界の内側で生起するのだから、視界は内世界と等しい。
一・四三三  瞳が視野に属さないように、「認識主体」は視界の内側に写り込まないのであるから、「認識主体」は内世界に対して外部に位置づけられる。この様相は、外世界的と形容される。
一・四四   我々が「認識主体」についてはっきりと言えることは、それが実在するということと、認識という行為をしたということである。
一・四四一  これが実在することは前述した通りである。
一・四四二  認識(recognize)は(再)発見("re"cognize)では無い。
一・四四二一 recognizeという語にも表れているように、我々の素朴な認識行為の理解は、「既にある何か」の(再)発見として理解される。
一・四四二二 しかし、このような理解は、他者も視点を有すると考えた時と同じような信仰、すなわち外界実在信仰に基づいて、初めて言い及ぶことの出来るものである。
一・四四二三 このような信仰を排し、存在一般の基礎を確立しようと試みるならば、認識行為は、"無"を"有"にする能力のことであると言える。
一・四四二四 「認識主体」が何かを新しく認識した時には、その<認識対象>は、その瞬間に初めて忽然と視界に現れたのだとしか言えない。
一・四四二五 すなわち、「認識主体」は<認識対象>に先立つ。

 

続き→存在するとはどういうことかに関する報告 - 美味しく喰らう

実在とはどういうことであるのかに関する報告

アブストラク

実在とは何かという、存在基盤の根拠となる問題を考えるための、ダス・エアフラークテ(問い求められるもの)としての実在がどのようなものかということに関する分析を、前期ウィトゲンシュタイン的な形式で報告します。

 

0      実在とは、実体性と現実性を有した存在者のことである。

0・0一   実在は、認識から独立した存在者である。
0・0一一  実在のこのような性質は、実体性に由来する。
0・0二   実在は、それ故に確からしいものとして、物事の理解の根幹において、物事の成立を根拠づける作用の開始点として理解される。
0・0二一  このような実在に対する理解を正当なものとするためには、実在は現実性を有さなくてはならない。
0・一    実体性とは、生成変化の影響を被らない存在者が有する性質のことである。
0・一0一  実体性の問題について取り扱う哲学史的な系譜を辿っていくとパルメニデスに行き着く。
0・一0一一 曰く、「在るものは在り、在らぬものは在らぬ」
0・一一   生成変化の影響を被らないということは、すなわち在り続けるということである。
0・一一一  在り続けるという事態は、有は有であるという恒真命題を主張する。
0・一二   実体性は、恒真命題を形成するものであり、その論理的真性は、実在が認識から独立することを要求し、またすべての現象することの根拠として機能することを許可する。
0・一三   存在者のみが、実体性を有しうる。
0・一三一  一見すると実体性があるように思われるもの、すなわち生成変化の影響を被らないものとしては、カントが述べたような認識のアプリオリな形式としての時間や空間のようなものが挙げられる。
0・一三二  しかしこのようなものは、認識という行為こそが開始点となって理解されるものであり、認識のアプリオリな形式が認識を成立させる訳では無い。
0・一三三  これは認識のアプリオリな形式が存在者ではないために生じることである。
0・一三四  存在者以外のものは、有は有であるという恒真命題を引き受けられない。
0・二    現実性とは、現象学の対象となるような内世界的な事象に対して影響を持つ代替不可能な固有の存在者が有する性質のことである。
0・二一   現象学の対象となるようなものは、内世界的である。
0・二一一  もちろん自然学(及びそこから派生する自然科学)は現象学の範疇に含まれる。
0・二一二  同じように人間の活動に関する諸学(所謂人文系学問)も現象学の範疇に含まれる。
0・二一三  形而上学を除く全ての学問は、内世界的な諸現象を探求するものであるから、全て現象学的要素を含む。
0・二二   内世界的な事象とは、実際的に生起している諸現象とそれに関わる存在者のことである。
0・二二一  このような事象について取り扱う哲学史的な系譜を辿っていくとヘラクレイトスに行き着く。
0・二二一一 曰く、「万物は流転する」
0・二二一二 存在論の歴史は、パルメニデスの存在理解とヘラクレイトスの存在理解をどのように両立させるかを試みる歴史であったと言える。
0・二二二  内世界的な事象は、我々の現前に実際的に生起する物事と等しい。
0・二二三  それらは、生じ失われるものであり、在り続けない。
0・二二四  故に、内世界的な事象を取り扱う命題は真偽が問われることになる。
0・二三   内世界的な事象に対して影響することが出来るもののうち、固有性によって特定されることが出来る、代替不可能な存在者のみが現実性を有する。
0・二三一  もちろん内世界的な代替不可能な存在者は、現実性を有するが、内世界的な事象に影響することが出来るのであれば、外世界的な存在者も現実性を有しうる。
0・二三二  現実性の要件である代替不可能性は、現実性を有するものが存在者に限定されることを規定する。
0・二三二一 存在者でないものとは、つまり存在者に対して働きかける動きそのものであり、これは当然に代替可能なものである。
0・二三二二 何らかの動作、例えば書くという行為について想像してみると分かりやすいだろう。これは、話すという行為に代替可能であり、書くという行為そのものは固有でない。

 

続き→何が実在するのか、唯一実在すると明らかにできる「認識主体」に関する報告 - 美味しく喰らう

続・我が変化を見る/青春への未練

 友人が最近ラノベを読んで青春への未練を引きずり創作意欲を燃え立たせている。私はそういう熱気には全く弱く、すぐに感化されてしまうところがある。おかげで最近は動画を投稿してみたり、あるいはこうしてブログを書いたりしているわけだ。では果たして青春に未練があるかと言えば、これに関してはほとんどないと言っていい。ひとつには私が現在進行形でモラトリアムの渦中にいて、青春そのものを過ごしているということが挙げられる。もうひとつは、高校時代にモデルケースのような青春イベントを受験以外は攻略済みであるというのも大きい。
 私の青春はおおよそ19年11月をもって区分されている。以前を青春1.0、以降を青春2.0としている。まさに私は現在進行形で青春2.0を謳歌しているわけである。
 青春1.0と2.0の大きな違いとしては、煙草を嗜むようになったか否かということがある。煙草を吸う青春というのは、ライトノベル的高校生活にはない要素だ。高校までの青春と大学からの青春。その僅かな違いがライフステージの色合いを変えているのだろう。
 特に青春1.0は『我が変化を見る』なんてものを書き上げたりしていたわけで、大変な自己変革の時期であった。ある意味では青春1.0において、自己存在の核は構築されきったように思われる。何が私の中心教義を完成させたのか? やはり殺されかけたことが大きいのだろう。より正確には、その瞬間死ぬことに躊躇いがなかったことが大きい。いつ死んでも良くなった時に、人はある種の核を完成させるのかもしれない。少し極端かもしれないが。
 では青春2.0とは何なのか。実際その答えが出るのはおそらく数年後であろう。今まさにそれを過ごしている時にそれが何かは分からない。とはいえ、青春2.0に区分される時期に起きたことで、思い出となったことも少なくない。人生で二度目の恋は今のところ、青春2.0の強烈な思い出となって、私の脳裏に焼き付いている。好きな人と食べる食事が結局のところいちばん美味しいのだ。素晴らしい景色と素晴らしい食事であった。夏だ。夏がやってきた。
 人生は円環を拒絶する。我々の歩みは、ただただ前方へと駆け抜ける他ない。この人生の様相を歴史に(誤って)投影してしまったものこそが進歩史観なのだろう。歴史は螺旋を描くことが許される。しかし人生の長さは、時の歩みの曲率を曲線と感じられるようには出来ていないらしい。あまりにも短いのだ。いや、もしかすると、時の歩みの曲率を感じ取ることが出来ないのは、単に私が若すぎるが故なのかもしれないが。少なくとも20余年では感じられない。もしかすれば60も生きれば感じ取ることが出来るのかもしれない。干支も一回りするのだから。
 前へ。前に進む他ないのだ。我々がその全てを完成した時に死ぬための前進が。

続・我が変化を見る/少なくとも時間だけは進んでいる

 すっかり周りの人間も大人になった……のだろう。その内実として実際大人になったのかどうかは知る由もないが、少なくとも世間体としては十分に大人である。
 周りの同学年の親しい友達は四人ほどいる訳だが、彼らはそれぞれ東証プライム企業に勤めたり、公務員として働いていたり、オーストラリアで一攫千金を狙いに行ったり、小説で新人賞の最終候補になったりしている。硬い人生を歩む奴が二人と、夢追い人が二人ということで、友人関係のバランスとしてはこれは悪くないように思う。かく言う私は、そんな彼らと異なり、無様にモラトリアムを延長し、気ままな大学生活を送っている。とはいえ、一応新聞奨学生として毎日深夜に町をバイクで駆けずり回っているのは、いろいろと堪えるものがあるが。
 大人になるということがどういうことなのかというのは難しい話だ。しかしひとつ思い当たることとしては、現実への妥協によって人は大人になるのでは無いかと言ったものだ。そういうと、夢追い人というのは大人では無いのかという話になりそうだが、彼らもまた大人であろうと言うのが私の見解になる。現実と妥協するということが出来なければ、実際に夢を追う成果を現象させることは出来まい。上記に取り上げた友人らはどいつもこいつも何らかの形である種の現実に対する従順さを、よく言えば現実を超克する術を身につけ、前に進んでいるのだろう。現実から逃げて逃げて逃げ続け、何とかモラトリアムを延長させている私とは異なる。
 しかしそれでも私は大人になりたくないと思っている。やがては否が応でも現実に呑み込まれるのだ。醜くても足掻いていたいと思っている。そしてそのような足掻きの中に虹色の欠片を拾えることを期待してもいるのだろう。おそらくそのような虹色は本当に求めているあの虹色とは異なる。しかしそれでも、その影を背負った何かを掴んでいたくてしょうがないのだ。
 如何にして、灰色の中で虹色と戯れるのかということは、おそらく高校の頃からの私の生き方に関する課題だったと言えるだろう。そしてあの頃から今に至るまでの中で、最も虹色に近づいたのは、19年の4月から20年の3月に至るまでのあの時期なのだと思う。この一年だけは、あまりにも特別が過ぎる。生と死、愛と憎、そういったものが犇めいている。この時代の記憶が脳裏に固着して、イデアとして現在を照射している。この時代を象徴するのは結局のところ、次の動画なのだ。
 
 https://youtu.be/94VfwQqmlH8
 
 だから、私はなんだかんだで、ずっとこいつを求めているのだ。この空気を。あの空気を。
 しかし当然の事ながら一方で理性は告げている。過去は手に入らないものなのだ、と。あるいは、あれは過去であるから美しいのだ、と。分かりきったことではあるが、それでも手に入らないものほど手にしたいのだ。そしてそのためには足掻くしかない。どこまでもどこまでも、灰色に埋もれないように、現実に呑み込まれないように。
 現実を乗り越えることすら生ぬるいのだ。現実を破壊しなくてはいけないのだ。
 これはもはやひとつの強迫観念となって、私の人生を規定するだろう。あの夏の暑さを残した夕方の農道をいつまでも求めるのだ。